計画外の幸せ「完」
第一章 幸福計画士と書店店主
佐倉茜の人生は、綿密な計画によって構築されていた。
起床は午前6時、朝ランは30分、執筆は午前8時から正午まで。すべてのタスクはカラフルなデジタルスケジュール帳に記され、完了するたびに満足げにチェックマークを入れる。彼女はフリーランスのライターとして、「幸福は設計できる」をテーマにしたコラムを連載し、一定の人気を博していた。「幸福計画士」——彼女自身が気に入っている肩書だ。
その日も、最新記事の校正を終えた茜は、新しいテーマを探すために街を歩いていた。効率化、合理化、そしてそれらがもたらす幸福感——そんな内容を考えながら、彼女はふと、喧騒から少し外れた路地にひっそりと佇む古びた書店を見つけた。
「栞文堂」。
看板の文字はかすれ、木造の建物は周りのモダンなビルに囲まれ、時代遅れのように見えた。しかし、何かしら懐かしい、落ち着く雰囲気を漂わせている。茜は興味本位でドアを押した。
チリンチリンと素朴な鈴の音が鳴り、店内には柔らかい紙の香りと、ほのかな黴臭さが広がっていた。天井は高く、所狭しと並ぶ本棚は床から天井まで届き、ところどころに積まれた本の山が、ある種の生活感を醸し出している。時間の流れが、外とは明らかに違う。
「いらっしゃいませ。」
低く落ち着いた声が、梯子の上から降りてきた。声の主は、年齢は二十代後半から三十歳前後だろうか、淡い色のシャツにジーンズという質素な格好をした男性だった。髪は少し長めで、耳にかけており、顔は整っているが、どこか物静かで、鋭さよりも穏やかさが際立つ印象だ。
「こ、こんにちは。」茜は少し戸惑いながらも、仕事モードに切り替えた。「佐倉茜と申します。ライターをしているのですが、伝統的な書店の持つ魅力や、現代人への幸福感について記事を書こうと思いまして……ご迷惑でなければ、少しお話を伺えませんでしょうか?」
男性は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに穏やかな笑顔を浮かべた。「高木岬と申します。この店の店主です。どうぞ、おかけください。」
彼は奥の小さなカウンターへ茜を招き入れ、やかんでお湯を沸かし、陶器のカップに茶葉を入れて丁寧に茶を淹れてくれた。湯気がゆっくりと立ち上る。
「幸福感、ですか。」岬はカップを前に、遠くを見つめるような目をした。「難しい質問ですね。うちの店は、あまり『効率的』ではないですから。」
彼の言葉に、茜の職業病が騒ぎ出した。確かに、照明は少し暗い。本の分類は、一般的な書店のように細かく分かれておらず、文学、歴史、哲学など大まかな区分で、しかも棚によっては雑然としている。ベストセラーコーナーもない。これでは、目的の本を探すのに時間がかかり、顧客のストレスになるかもしれない。
「例えば、照明をもう少し明るくするとか、分類を細かくしたり、人気のある本を目立つ場所に置いたりするだけで、お客様の回遊性や満足度が上がるかもしれませんよ?」彼女は思わず提案してしまった。
岬は少し困ったように笑った。「そうかもしれませんね。でも、時々、お客様が目的の本を探しているうちに、全然関係ない本に惹かれてしまうことがあるんです。そういう『偶然の出会い』も、本屋の楽しみの一つだと思うのですが。」
茜の頭の中では、効率性と非効率性がぶつかり合った。彼の意見にも一理あるが、現代の忙しい生活では、そんな余裕がある人は少ないのではないか?
結局、その日のインタビューは、穏やかだが、互いの価値観の違いを浮き彫りにするものとなった。茜はお礼を言って店を出た。後日、彼女は「効率と癒しの狭間で——古書店の挑戦」という少し批判的なニュアンスを含んだ記事を書いた。
ところが、記事が公開されると、予想外の反響が寄せられた。
「あの店、懐かしい!子供の時よく行ったなあ。」
「あのゆっくりした時間こそが、今の時代に必要なのに。」
「店主の高木さん、とっても優しいんですよ!」
茜はコメント欄を読み、複雑な気持ちになった。彼女が「非効率」と見なしたものが、多くの人にとって「心安らぐ場所」として評価されていたのだ。
さらに追い打ちをかけるように、大家から突然の連絡が入った。大家の急な都合で、彼女が住んでいるアパートが売却されることになり、一ヶ月以内に転居しなければならないという。慌てて物件を探し始めた茜は、なかなか良い物件が見つからず、途方に暮れていた。
そんな時、たまたま通りかかった「栞文堂」の前に張り紙があるのを見つけた。
「2階居室 貸します。条件:軽い店番手伝い可の方。」
茜は思わず足を止めた。これって、運命?それとも、単なる偶然?
内心では葛藤があった。あの効率の悪い空間に住めるのか?店主の高木さんとは、価値観が合わないのではないか?
しかし、締切に追われる仕事と引越しのストレス、そして期限が迫る中で、選択肢は限られていた。彼女は深く息を吸い、店のドアを押した。
「あの、張り紙の件ですが……詳しく聞いてもよろしいですか?」
数日後、茜は大量の段ボール箱とともに、「栞文堂」の2階に引っ越してきた。モダンなデスク、大きなモニター、最新のノートパソコン、そして「やる気」を出すためのカラフルなインテリア小物。これらは、古びた書店の2階の和室に、まるで異物のように存在感を放っていた。
彼女が階下に降りると、岬は相変わらず静かに本の整理をしていた。彼は彼女の荷物の多さに少し驚いたようだったが、温かい笑顔を向けた。
「お疲れ様です。何か困ったことがあれば、いつでも言ってください。」
「はい、よろしくお願いいます。」茜は笑顔を作ったが、内心では大きなため息をついていた。果たしてこの選択が正しかったのか、不安でならなかった。
その夜、資料整理で遅くなった茜が、そっと店のシャッターの隙間から外を覗いた時、彼は見た。岬が小さな器に水を入れ、もう一つの器には猫の餌らしきものを入れて、店の隅っこにそっと置く姿を。彼は誰にも見られていないと思い、無心でそれらを配置し、少し笑みを浮かべて店内に戻っていった。
その瞬間、茜の心に、ほんの少しだけ、この「非効率」な空間と、その静かな店主に対する興味が湧いたのだった。
第二章 スローな生活の意外な収穫
「栞文堂」の二階での生活が始まって一週間が過ぎた。
佐倉茜は、何とか自分のペースを作ろうと奮闘していた。午前中は二階の自室でコラムの執筆に集中し、午後は少しだけ店番を手伝う——これが高木岬との取り決めだった。しかし、この「少しだけ」が、彼女の想像以上に難しいことにすぐに気づいた。
最初の店番は、惨憺たる結果に終わった。彼女は明るく「いらっしゃいませ!」と叫びすぎて年配の客を驚かせ、客が探している本を効率的に見つけようと検索システム(実は岬が手書きで管理するノート)をいじり回し、かえって混乱を招いた。在庫管理をデジタル化しようとタブレットを持ち込んだが、岬の独特な分類法(「季節の感じる本」「心にしみる物語」など、主観的なカテゴリーが多く)に翻弄され、すぐに挫折した。
「すみません、高木さん、またご迷惑を……」彼女は落ち込んで謝るのが日常茶飯事になった。
岬はいつも、「大丈夫ですよ」と静かに笑い、彼女がやり残した仕事をそっと片付けた。「本屋さんは、急がなくていいんです。ゆっくりで。」
ある日、茜はSNSで書店の宣伝をしようと、店内の写真を何枚も撮った。彼女はライティングを調整し、フィルターをかけ、完璧に「インスタ映え」する画像を仕上げ、ささやかだがおしゃれなキャプションを付けて投稿した。
しかし、反応は芳しくなかった。フォロワーからは「なんか違和感」「本来の雰囲気が台無し」といったコメントがつき、かえって従来の読者を困惑させてしまったようだ。茜はがっかりしてスマホを置いた。
その時、岬がたまたま彼女の落ち込んだ様子を見て、声をかけた。「どうかしましたか?」
茜は照れくさそうに事情を話した。岬は彼女の投稿した写真を見て、少し考え込んだように言った。「綺麗に撮れてますね。でも……たぶん、うちの店の良さは、写真に写らない部分にあるのかもしれません。」
彼は一冊の古い絵本を手に取り、表紙の少し擦り切れた感触をそっと撫でながら、「この本も、写真で見るだけじゃ、どれだけ子どもたちに愛されてきたか伝わりませんよね。手に取って、ページをめくって初めてわかる温もりがある。」
茜ははっとした。彼女はいつも「見せること」「伝えること」ばかりを考えていた。でも、岬やこの店が大切にしているのは、「体験すること」「感じ取ること」なのかもしれない。
それからというもの、茜は少しずつ、無理に自分のスタイルを押し通すのをやめ、観察することを心がけるようになった。
彼女は、毎週水曜日の午後に必ず訪れる老紳士に気づいた。岬はその紳士が来ると、何も聞かずにカウンターの下から一冊の文庫本を取り出し、そっと差し出す。紳士はうなずき、静かにレジで精算し、ほとんど言葉を交わすことなく去っていく。
「あの方は?」後で茜が尋ねると、岬は優しく微笑んだ。「奥様が入院されているんです。お見舞いに読んで聞かせる本を、毎週一冊選んでいらっしゃる。奥様がお好きな作家の作品だけを、順不同で。」
また別の日、小学生くらいの男の子が、恐る恐る店に入ってきて、「宇宙の本……ありますか?」と聞いた。茜が検索しようとしたその時、岬は「こっちだよ」と男の子を一つの棚に案内した。そこには子供向けの天文図鑑が何冊か並んでいた。男の子が一冊を手に取ると、岬はさらに「待っててね」と言い、倉庫から少し古びた天体望遠鏡のキットを取り出した。「これはね、僕が子供の時に使ってたやつ。一緒に付いてる星座のパンフレット、面白いよ。」男の子の目が輝いた。
その様子を見て、茜の胸にじんわりと温かいものが広がった。彼女のコラムで説いていた「目標達成による幸福感」とは、また違う種類の満足感があった。それは、人と人とのささやかな繋がりや、思いがけない親切から生まれる、静かで確かな温もりだった。
彼女のコラムのテイストは、知らず知らずのうちに変化していった。「効率化」や「目標設定」といったキーワードは影を潜め、代わりに「栞文堂」で目撃した小さなエピソード——迷子の猫の世話をする店主、古本に挟まれた年代物の栞の話——などが綴られるようになった。読者からの反応は、「ほっこりする」「そんな場所に行ってみたい」といった共感の声が増え、これまでとは違う深い共鳴を生み出しているように感じられた。
そして、茜自身も気づかないうちに変化していた。朝一番に店のシャッターを開け、陽の光がほこりを舞い上がらせる瞬間が好きになった。岬が入れてくれる焙じ茶の、ほのかな苦味が心地よくなった。これまで「無駄な時間」と切り捨てていた、客のない午後の静かな時間に、ふと棚の本を手に取り、ぱらぱらとページをめくってみることもあった。
ある週末、茜が小さな親子向けのお話し会を企画した。彼女は綿密な計画を立て、導入の手遊び歌、絵本の朗読、関連する工作まで準備万端整えていた。
しかし、いざ始まると、子どもたちは予想通りに(というより彼女の計画を大きく超えて)自由奔放だった。手遊び歌はすぐに飽きられ、工作の時間はあっという間に混沌と化した。茜は汗をかきながら必死に進行しようとしたが、場の空気はどんどん落ち着きを失っていった。
その時、これまで静かに見守っていた岬が、そっと立ち上がった。彼は騒ぐ子どもたちの輪の中に静かに入り、一冊の絵本を手に取った。そして、彼の低くて優しい、しかしよく通る声で、読み始めたのだった。
「むかしむかし、あるところに……」
魔法のように、子どもたちの騒ぎ声が収まった。みんなの視線が岬とその絵本に集まる。彼の読み方は特別な抑揚があるわけではなかったが、一つ一つの言葉に誠実さが込められており、物語の世界に自然と引き込んでいく力があった。
お話し会は、茜の計画とは全く違う形で終わった。しかし、帰り際の子どもたちの笑顔と、保護者たちの温かい拍手は、計画通りのそれよりも、ずっと充実したものを感じさせた。
片付けを終え、ほっと一息ついた夜、岬が茜にコーヒーを一杯差し出した。
「今日はお疲れ様でした。ちょっとした騒動になりましたね。」茜は申し訳なさそうに言った。
岬はコーヒーカップを手に、窓の外の暗くなった街を見つめながら、静かに言った。「佐倉さんが来てから、この店も随分賑やかになりました。ときには、予定外のことも起こりますけど……それもまた、良かったりするんです。」
彼は茜を振り返り、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。「今日みたいな『ハプニング』も、子どもたちにとってはきっと楽しい思い出になりますよ。ありがとう。」
その言葉に、茜は胸が熱くなった。彼女の「計画」や「効率」がもたらすものとは違う価値——「偶然」や「予測不可能性」が生み出す喜び——を、岬は認め、さらね感謝してくれている。彼女がこれまで追い求めてきた「完璧な計画」が、もしかしたら人生の豊かさのほんの一部しか捉えられていなかったのではないか、という思いが、初めて彼女の心に強く迫ったのだった。
第三章 幸せの定義
春が深まり、桜の花びらが舞い散る季節となった。佐倉茜の心は、かつてないほど揺れ動いていた。
「栞文堂」での日々は、彼女の人生のリズムを確実に変えていた。朝、書店のシャッターを開ける時の木のきしむ音、昼下がりに差し込む柔らかな光の中を舞うほこり、夕方に訪れる常連客との何気ない会話——そういった一つ一つが、彼女の「幸せ」の定義を静かに塗り替えていった。
彼女の連載コラムは、以前のような「効率化による幸せ」から、「日常の中の小さな発見」をテーマにしたものへと自然にシフトしていた。読者からの反響はさらに温かいものになり、中には「佐倉さんの文章が、以前よりずっと生き生きしている」という声も寄せられるようになった。
しかし、そんな彼女の元に、一通のメールが届いた。これまで彼女のコラムを掲載してきた出版社の編集者からだった。メールの内容は、単行本の出版オファーという嬉しい知らせであった。しかし、条件として「これまでのスタイル、つまり『計画的な幸せ』をテーマにした実用書としてまとめてほしい」というものだった。
編集者は続けて書いていた。「佐倉さんは『幸せの計画士』として認知されています。ビジネス書として確実に売れるラインはそこです。最近のエッセイ調の記事も素敵ですが、商業的にはリスクが伴います」
茜はモニターに映ったメール文面を茫然と見つめた。これは彼女がかつて憧れていたチャンスだった。自分の名前が本の表紙に載る。それなのに、胸には複雑な思いが渦巻いていた。今の自分が書きたいのは、効率化のノウハウではない。岬や「栞文堂」で学んだ、計画できないものの尊さ、偶然の輝きについてだった。
その夜、なかなか眠れずに二階の窓辺に立つと、下の店舗から微かな灯りが漏れているのに気づいた。深夜のはずなのに。茜はそっと階下に降りた。
岬がカウンターで、一冊の古いアルバムを眺めていた。彼は茜の気配に気づき、少し驚いたように顔を上げた。
「まだ起きていたんですか?」茜が尋ねた。
「ええ、少し…思い出話に耽ってしまって。」岬は苦笑いし、アルバムのページを閉じた。表紙は革製で、長い年月による擦り切れが目立っていた。
「お邪魔でしたか?」
「いえ、とんでもない。」岬は隣の席を勧めた。「よかったら、お茶でもどうですか?」
お湯を沸かし、茶葉を量る岬の動作は、いつも通りゆったりとしていた。茜は思い切って、出版の話を切り出した。
岬は静かに耳を傾け、最後にゆっくりと頷いた。「それは…大きな決断ですね。」
「高木さんは、どう思いますか?」茜は思わず尋ねた。「私は…昔の自分に戻るような気がして、少し怖いんです。」
岬は湯気の立つ茶杯をじっと見つめ、しばらく沈黙した。そして、静かに語り始めた。
「祖父がこの店を始めたのは、戦後まもない頃でした。物のない時代で、本は貴重な窓口だった。でも、時代が変わり、大きな書店ができ、今ではネットで何でも買えるようになった。」
彼は茶杯を手に取り、その温もりを確かめるようにした。
「周りからは、店を畳んでマンションに建て替えたほうがいいとか、カフェを併設すればどうだとか、ずっと言われてきました。確かに、そちらの方が『効率的』で、『儲かる』のかもしれない。」
彼は顔を上げ、茜をまっすぐに見た。その目は澄んでいて、迷いがなかった。
「でも、祖父はよく言っていました。『本や書店は、問題を解決するためのものじゃない。心安らぐ場所であればそれでいい』と。ここには、効率では測れない価値がある。たとえそれが、時代遅れだと言われようとも。」
岬の言葉は、茜の心に深く染み入った。彼はプレッシャーに屈せず、自分が信じる価値を守り続けていた。それは、彼女がコラムで説いていたような「計画的な幸せ」の達成とは、全く異なる種類の強さと信念だった。
その数日後、街の大きな通りに、新しく巨大なチェーン書店がオープンした。明るく広々とした店内、デジタル化された検索システム、カフェとブックストアが融合したモダンな空間は、まさに茜が以前に理想としていた書店の形そのものだった。
「栞文堂」の客足は、明らかに以前より少なくなった。かつては午後に数人来ていた常連客も、ぱったりと来なくなった日があった。
茜は内心、焦りを感じた。彼女は持てる知識を総動員して、SNSでの宣伝を強化し、ポイントカード制度の導入を提案し、イベントの頻度を増やそうとした。しかし、どれもこれも小手先の対策に思え、根本的な解決にはならない気がした。
一方の岬は、相変わらず平静だった。客が少ない日は、むしろ丁寧に一冊一冊の本の手入れをし、店内の掃除に時間をかけた。彼の態度は、焦りではなく、一種の諦めとも違う、静かな覚悟のように見えた。
「高木さん、大丈夫ですか?」ある日、茜は心配して尋ねた。
岬は棚から一冊の本を取り出し、ほこりをそっと払いながら、静かに言った。「大丈夫かどうかは、わかりません。でも、できることをするだけです。たとえお客さんが少なくても、この店がここにある意味は変わらないはずですから。」
その言葉に、茜ははたと気づいた。彼女の焦りは、書店のためというより、自分がこの場所を失うことへの恐れから来ているのではないかと。この温もりと安らぎを、このゆったりとした時間を、そして――岬という存在を。
運命はさらに試練を与えるように、岬の元にも一本の電話がかかってきた。不動産会社からのもので、この一帯を再開発したいという投資家が現れ、「栞文堂」の土地と建物をかなり好条件で買い取りたいという申し出だった。
電話を切った後、岬はしばらく窓の外を見つめていた。その背中には、これまでに見たことのないほどの重荷がかかっているように感じられた。
茜は胸が痛んだ。彼女自身も、出版社からの執筆依頼への返事をまだ出していなかった。締切は明日までだ。
その夜、茜は二階の自室で、出版社要求通りの「幸せの計画士」としての原稿を書こうと試みた。しかし、キーボードを叩く指は重く、頭には「栞文堂」での日々が次々と浮かぶのだった――岬が淹れてくれたお茶の温もり、子どもたちの笑い声、古本からひらりと落ちた年代物の栞……
彼女は無理に書いた文章を読み返した。そこには熱意もなければ、真実もなかった。嘘で塗り固められた、空虚な言葉の羅列に過ぎない。
ため息をつき、茜はその原稿全体を削除した。画面上の文字が一瞬で消え、真っ白なキャンバスが現れた。
そして彼は、新しい文章を書き始めた。タイトルは――「効率化できない幸せについて」。
彼女の指は軽やかに動いた。計画やノウハウではなく、ある小さな書店で彼女が体験し、感じたこと――予期せぬ発見、人との触れ合い、そして静かなる覚悟――について、心のままに綴っていった。締切のことは頭から消えていた。今、彼女に必要なのは、嘘のない、等身大の自分の言葉だけだった。
第四章 幸せは、ここに
出版社への返信を送信ボタンをクリックした瞬間、佐倉茜の心中には、思いがけない静かな決意が満ちていた。巨大な商業出版の機会を辞退するという、かつての自分なら考えられない選択。しかし、今の彼女には、偽りの自分を演じ続けることの方が、よほど大きなリスクに感じられた。
数日後、返事が届いた。編集者は残念がりつつも、彼女の決断を理解し、今後の新たな形での連載の可能性に期待を寄せてくれた。肩の力がふっと抜けた。
一方、高木岬もまた、決断を下した。不動産会社からの好条件の買収オファーを、丁寧に断ったのだった。その夜、店を閉めた後、岬は茜を呼び止め、少し照れくさそうに伝えた。
「あの……実はね、店を売らないことにしたんだ。」
「本当ですか?」茜の顔がぱっと明るくなった。
「うん。」岬はうなずき、店内を見回した。「やっぱり、ここには譲れないものがあるって思ったんだ。祖父の思いもそうだし、長年通ってくれるお客さんたちの存在も……それに……」彼は少し間を置き、茜をまっすぐ見つめた。「ここで始まった、新しい可能性もね。」
彼の言葉に、茜の胸が熱くなった。彼女の存在も、彼の決断のほんの少しの理由になっているのだろうか。
「でも、何も変わらないわけじゃない。」岬は続けた。「佐倉さんが来てから、外の世界との接し方も、少し考え直さなきゃいけないなって思うようになった。頑固一徹じゃ、続けていくのは難しいかもしれないから。」
そして、岬は茜に提案した。「よかったら、一緒に、この店のこれからを考えてみないか? 君の知っている新しいやり方で、無理のない範囲で。」
茜は嬉しさでいっぱいだった。「はい!ぜひお手伝いさせてください!」
二人の共同作業が始まった。まずは、茜の提案で、ごくシンプルなウェブサイトとSNSアカウントを開設した。しかし、内容は従来の商業的なものとは一線を画した。岬が書く、一冊の本にまつわる短いエッセイや、店内の何気ないひとこまを写した茜の写真。派手さはないが、温もりと誠実さがにじみ出るものばかりだった。
反応はゆっくりではあったが、確実に広がっていった。遠方から「そんな書店にいつか行ってみたい」という声が寄せられたり、かつて通っていた懐かしむ人から連絡が来たりした。オンラインでの注文も、わずかながら増え始めた。
そして、茜はついに、出版社へのオファーを断ってまで書きたいと思った本の構想を、岬に打ち明けた。
「効率化できない幸せについて……か。」岬はそのタイトルを繰り返し、深くうなずいた。「いいタイトルだと思う。君にしか書けない本になるだろうね。」
執筆活動が本格化した。茜はこれまでのコラムの原稿を整理し、さらに「栞文堂」での日々を綴った新たな章を加え始めた。彼女の文章は、かつての「計画士」としての鋭さを失うことなく、しかしそこに、岬や書店、訪れる人々から学んだ優しさと深みが加わっていた。書くことが何よりも楽しく、充実していると感じた。
ある晴れた日、その本の原稿がほぼ完成した頃、茜は岬に誘われて少し離れた町の古本の市に出かけた。彼は時折、仕入れを兼ねて訪れるのだという。
市は思った以上に活気にあふれていた。所狭しと並ぶ古本の山。それぞれの店主の個性が光る品揃え。岬は楽しそうに棚を眺め、時折気になる本を手に取り、店主と楽しげに話し込んでいた。その姿は、店にいる時とはまた違った、生き生きとしたものだった。
帰り道、車窓から広がる田園風景を眺めながら、茜はふと尋ねた。
「高木さんは、大きな書店とか、もっとにぎやかな場所で働くのは考えなかったんですか?」
岬は少し考え、静かに答えた。「考えたことはあるよ。でも、やっぱり合わないなって。僕は、一冊一冊の本と向き合い、それを求める人とゆっくり話せる場所が性に合っているんだと思う。規模は小さくても、深くつながれる場所の方がいい。」
そして、彼は茜の方を見て、ほのかに微笑んだ。「でも、君と出会って、外の世界と全然つながらないわけじゃない、って気づかされた。ゆっくりしたペースを守りつつ、少しずつ扉を開けていくことだってできるんだね。」
茜は、岬が彼女との出会いを前向きに捉え、自身の世界をほんの少し広げようとしていることを感じ取り、胸がじんわりと温かくなった。
夏が過ぎ、秋の気配が深まってきたある夕方、茜の待ちに待った初めての単行本『効率化できない幸せについて』が、小さな出版社から刊行される運びとなった。校了の知らせを受けたその日、彼女は真っ先に岬に報告した。
「おめでとう、佐倉さん。」岬の祝福の言葉は、心から嬉しそうに響いた。「本当によかった。」
そして彼は、店の一番目立つ棚の中央に、彼女の本を一冊、表紙をきちんと見せるように丁寧に飾った。それは、何よりも心のこもった祝福のように感じられた。
出版の日が近づくある週末、二人は打ち合わせ兼ねて、近所の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。茜がこれからの執筆計画について話していると、岬が突然、真剣な表情で彼女を遮った。
「佐倉さん。一つ、お願いがあるんだけど。」
「何ですか?」
岬は少し緊張した様子でコーヒーカップを置き、ゆっくりと口を開いた。「君の本が出版されたら……もしよければ、この先も、『栞文堂』を拠点に書き続けていってくれないか? もちろん、無理にとは言わない。君の道はもっと広がっていくはずだから。でも、ここが、君にとってずっと、落ち着いて書ける場所であってほしいんだ。」
彼は照れくさそうにうつむき、加えた。「僕も……君がここにいてくれることが、とても心強くて。これからも、ずっと。」
茜はしばらく言葉が出なかった。岬の言葉は、仕事上のパートナーシップの延長以上の、はっきりとした個人的な願いのように響いた。彼の頬に浮かんだかすかな赤みが、それをさらに確かなものにした。
「高木さん……」茜は自身の高鳴る鼓動を感じながら、はっきりと答えた。「私こそ、お願いです。これからも、ここで書かせてください。ここが、私の場所ですから。」
彼女の言葉に、岬の表情がぱっと柔らかく輝いた。二人の間に流れた沈黙は、もはや気まずさではなく、互いの思いが通じ合った温かな安らぎに満ちていた。
やがて訪れた出版日。小さな出版記念会が「栞文堂」で開かれた。駆けつけてくれたのは、茜の読者、書店の常連客、そして地域の顔なじみの人たち。決して大勢ではないが、一人一人の祝福の言葉が、とても温かく、心に響いた。
岬は終始、控えめに振る舞いながらも、茜のそばに立ち、必要な時にさりげなくサポートしていた。彼が茜のために淹れてくれた一杯のコーヒーは、何よりも雄弁に、彼の気持ちを物語っているようだった。
記念会が終わり、客が帰った後、二人で片付けをした。静かになった店内に、夕日が斜めに差し込み、本の背表紙を黄金色に染めていた。
「今日は、ありがとうございました。」茜は感謝の気持ちを込めて言った。
「いえ、こちらこそ。」岬は微笑み、窓の外の景色を見た。「いい日だったね。」
ふと、岬がカウンターの下から小さな包みを取り出し、恥ずかしそうに茜に差し出した。
「えっ? これは……」
「出版祝い、ってほどじゃないんだけど。」岬は相変わらず、はにかむように言った。
茜が包みを開くと、中には一組の湯呑み茶碗が入っていた。シンプルだが、味わい深い形で、肌触りが優しかった。一つには繊細な桜の花びらが、もう一つには力強い竹の絵が描かれている。
「一つは僕用で、一つは君用だ。」岬の声は優しかった。「これからも、よろしく。」
茜は湯呑みをそっと握りしめ、その温もりを感じた。彼女は岬の目をまっすぐ見つめ、心からこみ上げてくる言葉を口にした。
「高木さん、私……この店に来て、本当の幸せとは何かを教えてもらった気がします。効率でも、計画でもなくて、こんな風に、誰かと……あなたと、同じ時間を、同じ場所を、大切に分かち合うことなんだって。」
岬の目がわずかに見開かれた。そして、ゆっくりと、深くうなずいた。
「僕もだよ、佐倉さん。君が来るまでは、この店はただ、静かに過去を守る場所だと思っていた。でも、君はここに、未来への可能性を持ち込んでくれた。ありがとう。」
もはや言葉は必要なかった。二人の間に流れる空気が、すべてを物語っていた。店の奥からは、岬が淹れたばかりの焙じ茶の良い香りが漂ってくる。風鈴がかすかに鳴り、秋の風が訪れを告げた。
茜は思った。幸せとは、決して遠くに到達すべき目標などではなく、ましてや他人が設計できるような代物でもない。それは、目の前の一杯のお茶の温もりであり、隣に立つ人の穏やかな笑顔であり、自分らしくいられるこの瞬間そのものなのだと。
そして、そんなささやかで、しかし確かな幸せが、これからもこの「栞文堂」で、静かに、ゆっくりと、積み重なっていくのだろう——彼女と、彼と、これから出会う無數の本と人々とともに。




