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ほんのり光る、この日常  作者: 朧月 華


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静かなノイズ「完」

第一章 耐えられない音


ブーン——


午後十一時、隣の部屋から、またあの音が響いてきた。低く、単調で、規則的な唸り。それを合図にするように、私の神経がぷつりと切れる音がした。


電車のレールの軋み、オフィスの絶え間ないキーボードの打音、壁越しの隣人のテレビの音——都会の騒音は、もとより脆かった私の神経を、鑢のように削っていく。医者は「神経衰弱」と言い、「静寂」を処方した。しかし、この街で本当の静寂は、最も手に入りにくい贅沢品だった。


私の最大の苦悩は、宮田悠人という隣人からやって来た。


毎晩十一時、正確に鳴り響くこの音。時折混じる「カチッ」というプリンターのような音とともに、それは薄い壁を易々と通り抜け、高価な遮音イヤホンを無視し、私のようやく積み重ねた僅かな睡気を粉々に打ち砕く。


ホワイトノイズ、壁を叩くこと——できることは全て試した。効果は一時的で、結局は音がより鮮明に返ってくるだけだった。無言の挑発のように。


「ブーン——カチッ——ブーン」


ベッドの上で天井を見つめながら、このリズムに合わせて自分の理性が少しずつ削れていくのを感じていた。昼間の校正の仕事は、一字一句の誤りが許されない。睡眠不足が続く私の集中力は、切れかけた糸のようだった。


彼を、冷たい人間か、危険なものを製作するオタクだと決めつけていた。恐怖と怒りは、眠れない夜の中で膨らんでいった。


ついに、大切な原稿の校正を控えた朝、あの音が響いた時、限界を超えた。


布団を蹴り、ドアまで歩き、深く息を吸って——勢いよくドアを開けた。廊下の冷気が肌を刺す。隣のドアの隙間から光が漏れている。手を上げ、一瞬ためらい、そして叩いた。


音が、ぱったりと止んだ。


代わりに、自分の鼓動が耳の中で轟いた。


ドアの向こうで足音がし、ドアノブが回った。少しだけ開いたドアの向こうに、若い男性の顔があった。二十代後半だろうか、整った顔立ちだが、疲労の色がにじみ、髪は少し乱れていた。グレーの部屋着の彼は、驚き、そして警戒した目をしていた。


「あの……ご用でしょうか?」声は低く、少し掠れていたが、落ち着いている。


用意していた抗議の言葉は、彼の風貌に阻まれて、喉元で止まった。想像していた「変人」ではなかった。


「隣の、佐倉です」声が震えないように必死にこらえた。「夜中の……お音、少し気になってしまいまして。お休みの支障になるほどで……」


彼は一瞬固まり、困惑、理解、そして後悔の表情が素早く走った。


「大変申し訳ございません」自然に軽く会釈した。「ご迷惑をおかけして、本当に」


あまりに潔い謝罪に、私は戸惑った。


「その……お音というのは?」聞かずにはいられなかった。「毎晩、遅くまで……」


彼は沈黙し、言葉を選んでいるようだった。そして、体を横にずらし、ドアを完全に開けた。


「よろしければ……中へ」彼の目は真摯だった。「ご説明すべきだと思います」


好奇心が怒りを凌駕した。私はうなずき、彼について部屋に入った。


彼の部屋は、私のと間取りは同じだが、物が少なく、几帳面に整理されていた。空気には薄い消毒液の匂い。そして、リビングの隅——そこには、少し年代物の器械があった。画面に緑の波形がゆらめき、横には電極線。あの「ブーン」という音の源だ。そして「カチッ」という音は、横の小型記録装置のものだ。


それは、心電図モニターだった。


私は呆然と立ち尽くした。


彼は器械に歩み寄り、目を哀しげに細めて言った。


「すみません、驚かせてしまって……これは、私の祖母のものでして。最近、心臓の調子が優れず、継続的なモニタリングが必要で。この音が……彼女が無事な証なんです」


その瞬間、私の怒りや猜疑心は、霧散した。代わりに、巨大な気まずさと羞恥心がこみ上げた。私は、祖母を案じる孫の前で、「騒音」を責め立てていたのだ。


「いえ……お詫びするのは私です」慌てて頭を下げた。「そんな事情とは……本当にすみませんでした。お邪魔しました」


逃げるように部屋を出た。自室のドアに背を預け、床に座り込む。窓の外のネオンが不気味な影を落とす。隣の心電図モニターの音は、もはや耳障りではなく、むしろ安定した鼓動のように、私の混乱した心を打つのだった。


第二章 音の奥にあるもの


あの気まずい訪問の後、私と宮田さんの間には、微妙な「休戦状態」が訪れた。


彼も何かを悟ったようだった。それ以来、あの心電図モニターの音は明らかに小さくなった。何らかの防音対策を講じたのだろう。かすかに聞こえるには聞こえるが、もはや眠りを妨げるほどではなかった。廊下ですれ違えば、互いに軽く会釈を交わすが、それ以上は言葉を挟まない。了解し合った沈黙が、私たちの間に横たわっていた。


それでも、私は彼に強い興味を抱かずにはいられなかった。なぜ若者が、祖母の心電図モニターと共に暮らすのか? 両親は? 仕事は? そんな疑問が、子猫の爪のように、そっと心を引っ掻く。


ある夜、遅くまで残業し、校正待ちの原稿の山を抱えてアパートに戻ると、エントランスでコンビニ袋を下げた彼と出くわした。


「佐倉さん、こんばんは」彼は声をかけ、私の胸の前で危なげに積まれた原稿の山を見て、「お重そうですね。少しお持ちしましょうか」と言った。


「いえ、大丈夫ですから……」私が断りきれないうちに、彼はさっと原稿の半分を受け取っていた。


私たちは無言で階段を上った。それぞれの部屋の前で立ち止まり、彼は一瞬躊躇い、袋からパックの牛乳を取り出して私に手渡した。


「おやすみ前に一本いかがですか。少しは眠りに繋がるかもしれません」


私は驚き、彼の手の温もりが残る牛乳パックを受け取った。「ありがとうございます……ご親切に」


「悠人で呼んでください」彼は疲れたような、それでいて優しい微笑みを浮かべた。「先日は、本当にすみませんでした」


こうして、私たちはゆっくりと、慎重な交流を始めた。スーパーの特売日に、ついでに果物やお菓子を多めに買い、彼のドアノブに掛けておく。私が遅く帰る日は、彼が意図してか、エントランスのセンサーライトをつけっぱなしにしてくれている。私たちは傷ついた二匹の小動物のように、互いの縄張りを慎重に探り合っていた。


彼が宮田悠人、二十七歳で、翻訳や文書処理のフローランスの仕事をしていることを知った。無口だが、話してみると気持ちのいい人だった。


しかし、「祖母」に関する核心的な疑問には、まだ触れることができなかった。それは、彼の中で触れられたくない敏感な点であるように思えた。


転機は、ある雷を伴う激しい雨の夜に訪れた。


激しい雨が窓を打ち付け、稲妻が時折部屋を青白く照らす。特に大きな雷鳴の後、隣の部屋から何かが割れる鋭い音が聞こえ、続いて、あの心電図モニターの音が、規則的な唸りから、甲高く、絶え間ない一本の長音へと変わった——


ピー——————————


それは、映画の中でしか聞いたことのない、心拍停止を示すフラットラインの音だった。


私ははっとし、不吉な予感に胸を締め付けられた。ほとんど無意識に、私はドアから飛び出し、彼のドアを激しくノックした。


「宮田さん! 悠人さん! 大丈夫ですか⁉」


ドアはすぐに開いた。宮田悠人が入り口に立っていた。稲妻の光に照らされた彼の顔は蒼白だった。しかし、その表情はどこかおかしい。恐怖でも慌ててもおらず、深く、底知れない悲しみと……諦観にも似た静けさが滲んでいた。


彼の目尻は、明らかに泣いたばかりのように赤かった。


「あの……音が聞こえてしまいまして」私は取り乱しながら言った。


彼は体を横にずらして私を中へ招き入れ、床に落ちて割れた茶碗を指した。「すみません、驚かせて。ただ、茶碗を落としてしまって」


それから、彼の視線は、なおも耳障りな音を発し続ける心電図モニターへと向かった。彼はそのそばへ歩み寄り、異常に慣れた、むしろ冷静すぎる動作で、スイッチを切った。


世界は瞬時に静寂に包まれ、残されたのは窓の外の雨音だけだった。


「お祖母様は……」私は胸が詰まる思いで問いかけた。


彼は私に背を向け、肩をわずかに落とした。長い、長い沈黙が流れた。もう答えないのかと思ったほどに。


そして、彼はゆっくりと振り返り、どこか安堵にも似た苦笑いを浮かべた。


「佐倉さん、僕は……嘘をついていました」


「え?」


「僕の祖母は……」彼の声は、かすかで息のようだった。「一年前に、亡くなっています」


私はぼう然と彼を見つめたまま、頭が真っ白になった。


彼はソファの方へ歩き、座るようにと軽く合図した。そして、語り始めた。その口調は、他人事のように淡々としていた。


宮田悠人は、かつて東京の有名病院の心臓外科医であり、期待の新星と呼ばれていた。祖母は彼の唯一の肉親で、幼い頃から彼を育て上げた。一年前、祖母は心臓病で入院し、執刀は彼の所属するチームが担当した。しかし、手術中に極めて稀な、予測不能な合併症が発生し、祖母は手術台の上で息を引き取った。


「メスを握ったこの手で、最も大切な人を救えなかった」彼は窓の外の大雨を見つめたまま、虚ろな目で言った。「あの気持ち……わかりますか? すべての知識も技術も、その瞬間には無力な嘲笑に思えました」


巨大なトラウマと自責の念が彼を打ちのめした。重度のPTSDを発症し、手術室はおろか、聴診器さえまともに握れなくなった。病院を辞め、自らを追放するように、この人目につかない古いアパートに引っ越してきた。


「あの心電図モニターは」彼は、しまわれた器械を見やった。「祖母とつながっているわけじゃない。ただの……彼女が生前、最後に健康診断を受けたときの、心拍が安定していたときの記録を、ループ再生しているだけなんです」


彼は、この偽物の「鼓動」なしでは眠れなかった。あの単調な唸りは、彼自身の崩壊に対抗し、贖罪し、自らを罰するための、唯一の方法だった。それは、彼の世界でかろうじて均衡を保つ「ノイズ」なのである。


私は彼を見つめ、言葉が出てこなかった。私がかつて忌み嫌い、追い払おうとしたあの騒音は、実は彼が生き延びるための、かけがえのない命綱だった。私が理解した「孝行」の背景には、これほどまでに深く、絶望的な悲しみが横たわっていた。


私の苦しみなど、彼のそれと比べれば取るに足らないものに思えた。鼻の奥に、強い酸っぱい感情がこみ上げてきた。


「ごめんなさい……」今の私の謝罪は、ずっと重かった。かつての非難に対してだけでなく、彼が背負ってきたすべてのものに対して。


彼は首を振った。「謝るのは僕の方です。そんな自己中心的な方法で、君の生活を乱して」


その夜、私たちはそれ以上何も語らなかった。雨は次第に小降りになり、夜明け前の微かな光が窓から差し込み始めた。私は彼の隣に座り、この息苦しいほどの静寂が、どんな騒音よりも耐え難いものであることを感じていた。


第三章 交差する音


真実を知ってから、私と悠人の関係は、微妙に変化した。あの小心翼翼とした距離は消え、言葉を必要としない深い理解に変わっていった。


私の中では、あの「音」はもはや「騒音」ではなかった。それは、孤独な魂が発する救難信号であり、私にだけ解読可能な、特殊なモールス信号のように感じられた。


私は積極的に彼のドアをノックするようになった。差し入れのケーキを半分こしたり、医学翻訳でわからない語句を教えてほしいと、少し無理めな頼み事をしたり。彼は最初、驚いた様子を見せたが、すぐに私の「お節介」を受け入れてくれた。


静かな午後には、お茶を飲みながら話した。彼は、病院での話、命の儚さと医療の限界について語った。私は、校正で出会った言葉の面白いエピソードや、文字の持つ繊細さについて話した。医師という肩書を外した彼が、実はとても優しく、教養豊かな人だと知った。彼は常人以上の生命への畏敬の念を持ち、細部にまで気を配る几帳面さを持っていた。


そして私も、彼の「薬」の一部になっているようだった。


彼は昼間、あの心拍記録を止めてみるようになった。最初はほんの数分だけ。すぐに不安そうな表情を浮かべる彼に、私は話題を提供したり、ただそばに座って本を読んだりした。少しずつ、止めていられる時間は長くなっていった。


ある夕暮れ時、彼の部屋を訪ねると、あの心電図モニターが隅に片付けられ、上から布がかけられているのに気づいた。


「今夜は……試しに、なしで過ごしてみようと思って」彼は少し不確かな口調で言った。


「あなたなら、きっと大丈夫」私は彼の目をまっすぐ見つめて、強く言い放った。


その夜、私はベッドに横たわり、初めてあの規則的な唸り音のない世界に身を置いた。周りは異常なほど静かで、かえって少し物足りないほどだった。耳を澄ますと、階下を時折通る車の音、隣の部屋で彼が寝返りを打つ時のベッドのきしむ音、そして自分自身の安定した呼吸音が聞こえてくる。


それらの音が絡み合い、一つの新しい背景音を形成していた。単調でも鋭くもなく、生活の実感に満ちている。私は気づいた。私が嫌っていたのは、音そのものではなく、孤立し、世界から切り離された、孤独な自分自身だったのだと。


今、私はもう孤独ではなかった。


それから数ヶ月後の、穏やかな陽射しが降り注ぐ午後。私たちは私の部屋のバルコニーで日向ぼっこをしていた。彼が突然、口を開いた。


「怜さん……もう一度、やってみようと思います」


私は彼を見た。陽射しが彼の横顔を優しく照らし、彼の瞳の奥にあった曇りが、いくらか晴れたように思えた。


「医学翻訳の資格を取って、いずれは……別の形で、あの世界に戻れないかと」


「それ、とても素敵だと思う」私は心からそう思った。


彼はしばし沈黙し、そして私を見つめて、言った。


「ありがとう」


「何に?」


「君の……この静かな時間に」彼は微笑んだ。「そして……君の『音』にも」


彼の言わんとすることがわかった。彼は、私が同情や憐れみではなく、静かな寄り添いで、彼自身が内なる静寂を見出す手助けをしたことに感謝していた。そして、その彼の感謝の言葉は、私自身にも気づかせてくれた。


私は笑った。遠くの街並みを眺めながら、そっと呟く。


「悠人くんの『音』にも、ありがとう」


かつて私を狂わせそうになったあの「ノイズ」に感謝。それは、錆びついた私の世界の扉をこじ開け、耳を傾けることを教えてくれた。外の世界の音にだけでなく、自分自身の内なる声に、そして、もう一人の傷ついた魂の囁きに。


かつて苦痛の源だったものが、今では互いを癒す交感となった。私たちは、都会という喧騒の海で道に迷った二つの音符のように、偶然にも互いの周波数に共振し合うものを見つけたのだ。


あの心電図モニターは、完全に片付けられた。ごく稀に、とても静かな深夜、記憶の中で「ブーン——カチッ」という音がかすかに蘇ることがある。しかし、それはもはや不安を呼び起こさず、遠くの友人からの安否を知らせるような、どこか懐かしい安心感をもたらすだけだ。


私の神経衰弱が完全に治ったわけではない。今でも、突然の大きな音には胸を掻き毟られるような感覚を覚える。それでも、わかっている。私のすぐ隣には、理解と寄り添い、そして、不完全な二人が互いのために、より良い小さな世界を作り出そうとする勇気を表す、独特の「静かなノイズ」があるということを。


窓の外から、子供の笑い声、自転車のベル、遠くの踏切の警報音——それらが重なり合い、ひとつのオーケストラを奏でている。それは完璧なハーモニーではない。時に不協和音も混じる。けれど、そこには確かな生命の鼓動がある。


そして、そのざわめきの向こうで、隣の部屋からは、ページをめくるかすかな音と、珈琲カップを置く優しい音が聞こえている。


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