桜音、君がくれた世界「完」
第一章:静寂の檻
世界は、あの日を境に色を失った。
母が倒れ、救急車のサイレンが響き渡る病院で、全ての音が遠のいていく。医師の診断は「心因性難聴」。過度のストレスが、私の聴覚を奪った。
「鈴菜、大丈夫か?」
父の唇が動く。妹の陽子が泣いている。でも、すべてが水中のように曖昧で、ガラス越しの世界のように感じる。
五条通りに佇む老舗和菓子屋「小倉堂」。創業百年の暖簾は、今や私の肩に重くのしかかる。
「お前が店を継げ」
父の筆談が胸を刺す。音の聞こえない私に、客の要望も、鍋の音もわからない。このままでは店が潰れる——そんな恐怖が、静寂よりも深い闇を作る。
第二章:蒼白の出会い
朝もやが立ち込めるある日、店先に倒れている青年を見つけた。顔は青白く、桜の花びらが彼の頬に舞い落ちている。
急いで助け起こし、温かい緑茶と小倉あんの和菓子を差し出した。彼はゆっくりと目を開け、私の筆談帳に言葉を綴った。
「調査中に貧血で...申し訳ありません」
高橋朔——東京から来た食品ロス問題の活動家。彼の名刺には、そう記されていた。
「音が聞こえないんですか?」
彼の文字は、どれもこれも丁寧で美しい。
うなずく私に、彼の目が細まった。そこには憐れみではなく、深い理解に似た光が宿っていた。
第三章:筆談の架け橋
朔はその後も毎日のように店を訪れるようになった。彼の筆談で学ぶ和菓子作りは、驚くほどわかりやすい。
「鈴菜さんは、味覚が非常に鋭い」
彼の文字が続く。
「音が聞こえないことで、他の感覚が研ぎ澄まされているのかもしれません」
その言葉に、初めて胸のつかえが軽くなるのを感じた。障害が個性として認められた瞬間だった。
ある夕暮れ、朔が無意識に声を出して「美味しい」と呟いているのに気づいた。なぜ声に出すのか——その疑問が、小さな希望の種となって心に根付いた。
第四章:囁きの影
夏休みで帰省した妹の陽子は、朔とすぐに打ち解けた。彼女の明るさは、静寂の世界に鮮やかな彩りをもたらす。
しかしある夜、二人が密かに話し合う姿を目撃する。陽子の表情は真剣で、朔は深くうなずいている。唇の動きだけでは読み取れない会話が、私の胸に不安を育てる。
「鈴菜さん、もう少し京都に滞在します」
翌日、朔が筆談で告げた。その理由が知りたくて、でも聞けなくて——静寂が、再び私を孤独に閉じ込める。
第五章:雷鳴の如く
運命の日、私は店先で激しく議論する二人を見た。
「お姉ちゃんを助けるためでしょう?」
陽子の唇が動く。
「違う」
朔の否定——その瞬間、頭の中で雷鳴のような轟音が炸裂した。
「ぎぃ―――」
耳に走る激痛。そして、陽子の叫び声が——はっきりと聞こえる。
「お姉ちゃん!大丈夫!?」
世界が、突然色彩を取り戻したように、音が戻ってきた。桜の揺れる音、遠くの自転車のベル、そして自分の鼓動までもが、鮮明に聞こえる。
第六章:真実の音色
すべての真実が明かされる。
朔は聴覚障害のリハビリ専門家。陽子が密かに依頼し、私のために来てくれたのだ。あの「貧血」も、すべては計算された出会いだった。
「鈴菜さん、ごめんなさい」
朔の声は、筆談の文字よりも優しく響いた。「でも、あなたの耳が治ると信じていました」
陽子の涙ながらの謝罪に、私は二人を抱きしめた。偽りでも、その根底には本物の優しさが流れていた。
第七章:新たな旋律
音が戻った世界は、時に騒がしくも感じた。しかし、最も大切なことに気づく。
「音が聞こえなくても、私はたくさんのことを感じ取れていました」
私は朔に伝えた。「あなたの優しさも、陽子の想いも、静寂の中でしっかりと受け止められていた」
朔の微笑みは、春の日差しのように温かかった。
「鈴菜さんは、音がなくても人を信じることを忘れなかった。その強さが、あなたの一番の魅力です」
第八章:調べの共演
私たちは新たな挑戦を始める。障害の有無にかかわらず、誰もが働ける和菓子店づくりだ。
筆談用タブレット、手話のできる店員、バリアフリーの店内——一つひとつの変化が、新たな調べを生む。
「あなたの優しさが、私の夢を変えました」
朔は京都にリハビリ施設を開くことを決意した。「ここで、多くの人に『聞こえる喜び』を伝えたい」
第九章:桜音の誓い
満開の桜の下、朔がプロポーズする。
「鈴菜さん、これからもずっと、あなたの『音』でいたい」
桜の花びらがはらりと舞い落ち、その音が優しく聞こえる。私は朔の手を握り、静かに答えた。
「いいえ、私たちは——お互いの音になりましょう」
桜の木々がそよぐ音、遠くで響く鐘の音、そして愛する人の鼓動——すべての音が、これからの人生を優しく彩っていく。




