桜、許しの絆「完」
京都の春は、いつもより音を立てずに訪れた。五条通りの老舗和菓子屋「京月堂」の暖簾が、細い風に揺れる。花びらが軒先をかすめ、茶色の板戸に薄い影を落とす。店先はいつもより静かだったが、厨房の中はどこか張り詰めていた。
律子が倒れてから一か月――。創業五十余年の店に、初めて暗い時間が差し込んだ。女将である母の病室と店を往復する日々が、あすかの体をじわりと蝕んでいた。二十三歳。京都の伝統工芸大学を出たばかりの彼女は、本当は織物のデザインに携わりたかった。だが母の不在が、冷えた仕事の手をあすかに押し付けた。
朝の仕込み場。粉の匂い、練り台の木の冷たさ、湯気に混ざる煎茶の香。指先は震えながらも、あすかは母の手つきを真似て練り切りを形作る。細い手指が餡を包むとき、記憶が肌に張り付く──律子の動き、律子の呼吸。思いがけず自分が母の影をなぞっていることに気付き、胸がぎゅっとなる。
「お姉さん、『月の露』の注文が三つ入ってます」
店員の声に、あすかははっとして顔を上げる。『月の露』は母が特別に愛した上生菓子だ。母の匂いを求めるように、彼女は慎重に手を動かす。完成した菓子を見て、ふとため息が漏れた。
「まだ、母のようにはできない…」
幼い頃から見てきたあの手には、及ばない。だが不器用にでも真似を続けることで、彼女は自分を保とうとしていた。
午後、陽菜が駆け込んで来た。大学で美術を学ぶ二十歳の妹は、店の手伝いをしてはいたが、最近どこか落ち着かない。顔には薄らと赤みが差し、言葉を選びながら口を開く。
「姉さん……私、彼氏ができたの」
嬉しさに頰が緩む陽菜を見て、あすかの胸も自然と軽くなる。暗い日々のなかで、久しぶりの光だ。
「どんな人?」とあすかが尋ねると、陽菜は携帯を取り出し、写真を差し出した。きちんとした服装、真面目そうな青年。東京の大学院生、高橋涼太という名だった。陽菜の目は春の水面のように輝いている。だが、声の節々に小さな曇りも混じっている。
「……でも、姉さん。こんな状況で私だけ幸せでいていいのかなって思うの」
陽菜は俯き、指先で袖を擦る。あすかはそっと妹の肩に手を置いた。
「そんなこと気にしないで。お母さんも、陽菜の幸せを一番に望んでいるはず」
その夜、店を閉めたあと、あすかは一人で母の病室に座っていた。律子の額には点滴の管が通り、呼吸はゆっくりと落ち着いている。あすかは呟いた。
「お母さん……私、店を継ごうと思う」
返事はない。ただ、白い天井と時計の針の音が微かにあるだけだった。
あすかは幼い頃の記憶を辿る。母と共にすり鉢のそばに座り、練り粉を手で触った日々。あのときの安心感が、今は重責になってのしかかる。妹が言った「姉さんはいつも完璧だね」という言葉が胸の奥で刺さる。完璧ではない。日々、必死にふるまっているだけだ。
運命の日は、春の柔らかな午後に訪れた。五条通りの小さな喫茶で打ち合わせを終え、窓越しに揺れる桜を見ていたあすかは、向かいの歩道にいる妹の姿を見つけた。陽菜は誰かの腕に寄り添い、笑っている。見覚えのあるはずの青年の隣に、別の男がいた。陽菜が突然その男に抱きつき、唇が触れ合う光景が視界に入る。信じられず、あすかはカップを手放した。コーヒーが白いテーブルクロスに一筋の染みを作る。
「ありえない……」
声にならない声を上げ、あすかは店を飛び出す。路上には三人が立ち尽くしていた。陽菜の頰が一瞬にして血の気を失い、涼太は言葉を失っている。三人の間に凍ったような沈黙が落ちた。
「説明して」あすかの声は震えていた。怒りではなく、裏切りに触れたときの、ぽっかりと空いた感覚。陽菜はうつむいて、言葉を探す。
「ここで話すのは……」陽菜は小さく首を振る。だがその夜、京月堂の二階で三人は向かい合うことになる。
「あの男は誰?」あすかは問いただす。陽菜は涙を零しながら、震える声で告白した。涼太の友人と関係を持ってしまった、と。言い訳はどこか幼く、ただ現実に押し流されているだけだった。
あすかの中に怒りが煮えたぎる。「バカなの?」と心の中で叫ぶと、拳が思わず机を押したくなる。だが彼女は止めた。代わりに膝の上で指を固く握りしめる。
「涼太さんは君を本気で思っていた。母が倒れて姉が店を継ぐと聞いたときだって、彼は一緒に歩こうとしてくれたのに」語る言葉が空回りする。陽菜は声を荒げた。
「だって、姉さんはいつだって完璧で、私はそれが辛かったの!姉さんが強すぎて……」
陽菜の叫びが、薄暗い座敷に吸い込まれた。あすかは何も言えなかった。妹の心の中にある穴を、あすかは知らなかったのだ。
夜、あすかは店に残り『月の露』を作り続けた。失敗して、作り直し、また失敗する。練り台に落ちた涙が餡に小さな斑点を作る。窓の外には桜の花びらが舞い、淡い月光が厨房を撫でる。あすかは小さく呟く。
「お母さん、私はどうすればいいの?」
その問いの答えはまだ遠い。だがこの晩の出来事は、やがて訪れるさらに大きな崩れの序章に過ぎないことを、彼女はまだ知らなかった。
あの衝撃的な夜から三日目、京月堂には重く沈んだ空気が漂っていた。陽菜は自室に閉じこもりがちで、あすかは彼女の顔を見るたびに、言いようのない罪悪感に胸を締めつけられていた。店の帳簿や注文書に目を通しても、心はどこか空白のまま、数字が頭に入ってこない。
午後のひととき、あすかは母・律子の病室で資料に目を落としていた。規則正しい呼吸をする母の横顔を見つめながら、声にならない呟きが漏れる。
「お母様…私、あの時もっと冷静に話せればよかったのでしょうか…」
その時、かすかな風鈴の音が店先から聞こえてきた。あすかが顔を上げると、入り口には涼太の姿があった。彼の様子は明らかに平常ではなく、春光を浴びる桜の街路にいても、その表情は深い陰に覆われていた。
「あすかさん…」
慌てて立ち上がるあすかに、涼太はゆっくりと近づき、頭を深く下げた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。陽菜さんから…別れを告げられました」
声がかすれ、震える。まるで灯火が消えそうなか弱い光のようだった。あすかの胸は、強く締めつけられる。
「理由は…私では満足できないから、だそうです」
涼太の虚ろな目は、遠くの景色を見つめている。あすかは思わず手を伸ばしかけたが、ぎゅっとこらえた。
「涼太さん…」
言葉が喉で止まる。真実を伝えるべきか、それとも陽菜の意思を尊重すべきか。心の中で激しい葛藤が渦巻く。
その瞬間、階段から駆け下りる足音。青白い顔の陽菜が現れた。
「姉さん、黙って!私から話すから!」
陽菜は涼太の前にひざまずき、畳に深く跪く。涙が頬を伝い、畳に小さな染みを作っていく。
「涼太さん…ごめんなさい。本当にごめんなさい。私…他の人と関係を持ってしまいました…あなたの友人と…」
一瞬、涼太の顔が変わる。川面のように穏やかだった瞳が、嵐に巻き込まれたように歪む。
「なぜ…なぜそんなことを…」
彼の声には、傷ついた獣のような痛みが混じる。
「私…自分が何をしたいのかわからなくなっていました。お母様が倒れ、姉さんが店を継ぐと言い出して…私は取り残されるようで…」
あすかは言葉を失う。妹の心の奥にある孤独や迷いを、まったく理解できていなかった。
「ばかな!」
思わず拳を上げそうになるが、ぎりぎりで止め、膝の上で握りしめる。
「涼太さんは、あなたを本気で愛しているのに。それに、お母様がこんな状態なのに、どうしてそんなことばかり考えられるの?」
「だって…姉さんはいつも完璧で…何でも一人でこなして…私にはどうすることもできないのに!」
陽菜の叫びが、静かな京の夜を切り裂く。
その夜、あすかは一人、京月堂の二階座敷に残り、母が最も得意とした「月の露」を作り続けた。失敗し、また作り直し、何度も練り直す。
窓の外では、桜の花びらが静かに舞い落ちる。まるで、崩れゆく三人の関係を哀れむかのように。
「お母様…私、どうすればいいの…」
涙が練り切りに落ち、しずくの跡を残していく。
あすかはまだ知らなかった。この夜の出来事が、これから訪れるさらなる悲劇の、ほんの序章に過ぎないことを。
陽菜が東京へ去ってから、一週間が過ぎた。京月堂の空気には、かつての活気が影も形もなく、静まり返っていた。朝の準備をしながら、あすかはつい二階に声をかけそうになる自分に気づく。陽菜のいない空間は、いつもよりも広く、冷たく、孤独がしみ込んでいた。
「陽菜さん…もう、連絡はないのかしら」
病床の母・律子がかすかに尋ねる。あすかは微笑もうとするが、無理に作ったその笑顔の不自然さが、胸を刺す。
「大丈夫。すぐに落ち着くと思いますよ」
嘘を口にした自分の声が、痛みを伴って響いた。
その午後、あすかは決意を胸に、涼太のアパートへ向かった。玄関のドアを開けた瞬間、そこにいた涼太は、以前の面影をほとんど失っていた。髪は乱れ、瞳は疲れで曇り、シャツには深いシワが寄っている。
「あ…あすかさん…」
息が詰まる。声にならない感情が胸を押し潰す。
「あすかさんか」
彼の声には冷たく、抑えきれない無機質さが漂っていた。まるで人形のように、感情の色を持たない。
部屋の中は荒れ放題だった。床には飲みかけのペットボトルが散乱し、テーブルには未提出の就職活動書類が山積みになっている。生活の痕跡が、静かに無力を語っていた。
「これは…京月堂の『月の露』です。少しでも食べてください」
差し出した小さな箱を、涼太はただ虚ろな目で見つめるだけだった。
「もういい。味なんて、どうでも…」
彼の声は、枯れ葉が地面に落ちる音のように乾いていた。
その瞬間、あすかの胸に決意が芽生えた。
「私が、面倒を見ます」
その夜、病院で母に報告すると、律子は悲しげに目を伏せた。
「あすか、それは…あなたの人生に影響が出るわよ。あなただって、織物デザイナーになる夢があったでしょうに」
「大丈夫です」
あすかは母の手を握り、覚悟を込めて答えた。
「陽菜の過ちは、私が償います。それが姉としての務めだと思うのです」
翌日から、あすかの新たな日課が始まった。朝六時、京月堂の厨房でお弁当を作り、涼太のアパートへ届ける生活。最初の一週間は、ほとんど反応が返ってこなかった。
「今日は春らしく、桜ご飯にしました」
声をかけても、涼太は窓の外を見つめるだけで、かすかにうなずくだけだった。
しかし、十日目、小さな変化が訪れた。あすかが片付けをしていると、涼太が小声で呟いた。
「…昨日の味噌汁、美味しかった」
その一言に、あすかの胸は熱くなった。
「良かったです。今日も頑張って作りましたから」
二週間が過ぎた頃、あすかはある提案を思い切って口にした。
「涼太さん、京月堂の新商品開発を手伝っていただけませんか?陽菜さんから、大学院で食品科学を専攻していたと聞いていて…」
涼太は少し驚いた顔を見せた。
「なぜ、私が?」
「涼太さんの知識が必要なんです。伝統を守りつつ、新しい価値を創造したいのです」
あすかの真剣な瞳に、彼はわずかにうなずいた。
最初は形だけの参加だった。しかし、次第に涼太の専門知識が生き始める。
「この配合なら、もっと食感が軽くなる」
久しぶりに熱のこもった声を聞いたあすかは、胸の奥が高鳴るのを感じた。
一ヶ月が過ぎたある日、涼太が珍しく口を開いた。
「あすかさんは、なぜこんなに親切にしてくれるのですか?陽菜さんの妹だからというだけではないでしょう」
あすかは手を止め、視線を伏せた。
「それは…」
言葉を選びながら続ける。
「陽菜の罪を償うためです。でも…それだけじゃない。涼太さんが、また生き生きとした姿を見せてくれるのが、私の喜びでもあるからです」
その言葉に、涼太は少し考え込むように目を伏せた。
ある雨の午後、二人は新商品「春の息吹」の試作に没頭していた。涼太が提案した寒天の配合がうまくいかず、あすかは額に汗を光らせて集中していた。
「もう一度、やり直しましょう」
必死に練る手元を見て、涼太は自然と手を差し伸べる。
「ここは、こうした方がいい」
彼の手があすかの手を包む。瞬間、時間が止まったかのような感覚が走る。
「すみません…」
慌てて手を離す涼太。空気が一瞬だけ、ぎこちなく変わった。
「いえ…ありがとうございます」
頬が、ほんのり赤く染まるあすか。胸の奥がじんわりと温かい。
その夜、店に一人残り、あすかは今日の出来事を振り返った。
「だめ…こんな風に思ってはいけない」
窓に映る自分に向かって呟く。陽菜の元婚約者に抱く、この不自然な感情。偽物であるべき気持ちだと、理性は叫ぶ。
だが、心の奥底で芽生えた温かさだけは、否定できない。彼と過ごす時間が、次第に楽しみになっている自分がいた。
月明かりが厨房の練り台を優しく照らす。あすかはそっと胸に手を当て、複雑に絡み合う想いと向き合った。
偽りから始まった関係は、いつしか本物の絆へと変わりつつある――その予感に、彼女は少しだけ身を震わせた。
夏の陽射しが日に日に濃くなる頃、京月堂には少しずつ活気が戻り始めていた。涼太が開発に携わった新商品「京涼」は予想以上の好評を博し、店先には連日客の列ができるほどだった。
ある蒸し暑い夕暮れ、あすかと涼太は店頭の飾り付けをしながら、和やかに談笑していた。
「涼太さんのアイデアが、本当に功を奏しましたね」
あすかの笑顔は以前より自然で柔らかく、心の奥まで温かさが届くようだった。
その時、店の風鈴が激しく鳴った。入り口に立っていたのは、見慣れたはずの陽菜だった。しかし、その姿は、以前の彼女からは想像もできないほど変わり果てていた。
青白い顔、目尻には疲労の刻み。膨らんだお腹は妊娠の証を明確に物語る。手にしたボストンバッグは、所々に擦り切れた跡があった。
「姉さん…」
かすれた声が、夏の蝉の抜け殻のように力なく響く。
あすかは言葉を失った。目の前の陽菜の姿があまりにも衝撃的で、胸の奥が締め付けられる。
「陽菜…どうして…」
涼太も固まっている。彼の表情には、怒りと哀れみと、複雑な感情が交錯していた。
しばらくの沈黙の後、陽菜はゆっくりひざまずく。
「姉さん、涼太さん…あの時は、本当にごめんなさい」
涙が頬を伝い落ちる。
「東京で…あの男性と暮らしていたけど、妊娠がわかったら、彼は逃げてしまって…」
涼太は拳を握りしめる。夏の夜の湿った空気のように、緊張と重みが空間を満たす。
「なぜ、帰ってきたんだ」
彼の声には抑えきれない怒りが滲む。
「お母様に…会いたくて。それに…姉さんにも、涼太さんにも、きちんと謝りたくて」
陽菜の肩が小刻みに震えている。
その夜、あすかは陽菜を自室に招き入れた。窓の外では、七夕祭りの提灯が揺れ、淡い光が部屋を彩る。
「全部、話してごらん」
あすかは静かに促した。
陽菜は俯き、東京での生活を語り始めた。
「あの男性は…私の寂しさに付け込んだだけでした。お金がなくなると、態度が変わり、私の心はいつも揺れて…」
彼女はお腹に手を当てる。
「この子ができた時、初めて自分がどれほど愚かだったか気づいたんです。涼太さんの真心も、姉さんの優しさも、全部踏みにじって…」
「涼太さんの求婚を受けたのも、『姉さんみたいな完璧な女性になりたい』という、浅はかな思いからだったのかもしれません」
目には深い後悔の色が浮かんでいる。
「母が倒れ、姉さんが店を継ぐと言い出した時、私は取り残されるような気がして…完璧な姉さんの影に、ずっと怯えていました」
あすかは深く息をつく。
「ばかな…あなたはあなたのままでいいのよ」
彼女は陽菜の手を握る。
「完璧な姉さんなんて幻想。私だって毎日失敗ばかり。お母様が倒れた時だって、どうしていいかわからなかった」
一方、涼太は自室で窓辺に立ち、星空を見つめていた。陽菜の姿を見た瞬間、胸に渦巻く複雑な感情に自分でも戸惑っている。
「まだ…許せない」
拳を窓枠に打ち付ける。しかし、憔悴した陽菜の姿が、頭から離れない。
翌朝、涼太は思い切って陽菜の部屋を訪ねた。
「どうするつもりだ」
陽菜は覚悟を決めて答える。
「この子を産みます。たとえ一人でも、責任を取ります」
三日後、あすかの提案で三人は鴨川の河原で話し合った。夏の川風が、ほてった頬を優しく冷ます。
「涼太さん、あの時は本当に申し訳ありませんでした」
陽菜は深々と頭を下げる。
涼太はしばらく沈黙した後、静かに言った。
「あなたが無事でよかった」
その一言に、陽菜の涙が止めどなく溢れた。
「これからは…しっかり生きます。姉さんにも、涼太さんにも、もう迷惑はかけません」
あすかは二人を見つめ、そっと微笑んだ。
「私たちは家族よ。困った時は支え合うのが当然でしょ」
その夜、京月堂の厨房では三人が久しぶりに揃った。陽菜は医師の指示で簡単な仕事だけ手伝い、あすかと涼太が支える。
「姉さん、この子が生まれたら…和菓子の作り方を教えてあげたい」
久しぶりに、陽菜の目に温かな光が宿る。
窓の外では、七夕の星がきらめく。流れる天の川のように、新たな絆が静かに紡がれ始めていた。
八月、京の街は灼熱の日々に包まれていた。陽菜の妊娠生活は順調とは言い難く、医師からは安静を厳命されていた。京月堂二階座敷は、臨時の病室のように整えられている。
「姉さん、すみません…また手伝えなくて」
額の汗をあすかが優しく拭う。
「気にしないで。今はあなたと赤ちゃんが第一よ」
あすかの微笑みの奥には、どこか寂しげな影が差していた。
涼太は驚くほどの適応力を見せる。検診の付き添い、重い物の運搬まで黙々とこなす。
「これ、新しい妊婦向け和菓子の試作です」
差し出されたのは、つわりでも食べやすい淡白な練り切り。
「涼太さん…そこまで」
陽菜の目に涙が光る。
「当たり前です」
涼太の表情は穏やかだが、目は一瞬あすかを見つめていた。
夜更け、あすかは一人帳簿と向き合う。売り上げは順調だが、胸には満たされない空虚が残る。
「お母様…私は」
机に突っ伏すと、抑えきれない感情が溢れる。
背後から優しい声。
「あすかさん、大丈夫ですか?」
振り向くと涼太が立っていた。手には温かい抹茶。
「ずっと無理しているの、わかります」
九月の嵐の夜、事態は急変。陽菜が突然腹痛を訴え、慌てて救急車を呼ぶあすか。
「姉さん…お腹が…」
顔は蒼白で、冷や汗が止まらない。
病院での診断は切迫早産。医師の顔は厳しい。
「安静を守らないと、赤ちゃんが危険です」
その夜、病室であすかは陽菜に問う。
「なぜ無理したの?」
「姉さんばかりに負担をかけるのが辛くて…私も何か役に立ちたくて」
翌朝、涼太が提案。
「陽菜さんが安静にできる環境を作ります。実家から資金を借りて、近くにアパートを借ります」
あすかは驚き反対。
「そんな…涼太さんに義務はありません」
「義務ではありません」
真っ直ぐな瞳。
「これは、私の選択です」
こうして、京月堂から徒歩五分の場所で、三人の奇妙な共同生活が始まった。毎朝、あすかが陽菜の様子を見に訪れ、涼太が家事と買い物を担う。
ある夕暮れ、陽菜がぽつりと呟く。
「涼太さん、姉さんのこと、好きなんじゃない?」
涼太ははっとした表情を見せるが、否定はしなかった。
十月、陽菜の体調が安定し始める頃、あすかに変化が訪れる。朝のめまいと吐き気が連日続いた。
「姉さん、それもしかして…」
陽菜の目が彼女のお腹を見つめる。
産婦人科で検査。結果にあすかは言葉を失った。
「妊娠、六週目です」
医師の言葉が、頭の中で響く。
その夜、あすかは涼太を鴨川に呼び出した。秋風が冷たくなり始める。
「私…妊娠しました」
震える声で告げる。
涼太は一瞬驚くが、ゆっくり笑みを浮かべる。
「それで?」
「あなたの…子どもです」
あすかは覚悟を決めて言い切った。
涼太は懐から小さな箱を取り出した。中には桜のデザインの指輪。
「実は私も、今日告白しようと思っていました」
十一月、京月堂では二人の妊婦を囲み、賑やかな日々が続く。陽菜のお腹は大きく膨らみ、あすかも少しずつ変化を感じ始める。
「姉さん、私たち、本当に不思議な縁ですね」
陽菜はお互いのお腹を見比べて笑う。
ある雪の降り始めた日、涼太が二人の前に立つ。
「あすかさん、陽菜さん、これからもよろしくお願いします。私たちの家族を、しっかり守ります」
窓の外、初雪が静かに舞う。新しい命を宿した二人の女性と、それを受け止める一人の男性。血縁を超えた、真実の家族の絆が静かに育ち始めていた。
十二月の京は、今年一番の寒波に包まれていた。陽菜の陣痛は、予定より三週間も早く、クリスマスイブの夜に訪れた。
「姉さん…痛い…」
手のひらは冷たく、汗で濡れている。
深夜の病院、あすかは陽菜の手をぎゅっと握りしめた。隣には蒼白な顔の涼太。
「大丈夫、陽菜。深呼吸して」
午前二時、産声が病室に響く。
「女の子です。2,800グラム、少し小さいですが、元気そうです」
看護師が赤ちゃんを抱き、汗だくの陽菜に見せた。
「桜子…」
涙ながらに赤ちゃんの名を呼ぶ陽菜。
「桜の季節に、新しい命が芽吹いたように」
あすかはその光景を見つめ、思わず自分のお腹に手を当てる。命の連鎖と、新しい希望が胸に満ちていった。
しかし、現実は甘くはなかった。退院した陽菜は、子育てと仕事の両立に苦戦する。睡眠不足が続き、ミルクの準備もままならない。
「姉さん、私…母親失格かもしれません」
ある朝、陽菜は泣き崩れた。
その時、涼太が静かに提案する。
「保育所を探しましょう。陽菜さんが働ける環境を整えるのが先です」
一月、陽菜は意を決して宣言した。
「私はこの子を一人で育てます。それが、私の償いです」
しかし現実は厳しかった。夜中の授乳、昼間の仕事、そして家事。陽菜の体力はみるみる消耗していく。
転機は、桜子が熱を出した夜に訪れた。陽菜はパニックになり、深夜にもかかわらずあすかに電話をかける。
「姉さん、どうしよう…」
その声は、かつてないほど弱々しかった。
あすかと涼太はすぐに駆けつけた。涼太は夜通し桜子の看病を、あすかは陽菜のサポートを担当した。
朝、熱が下がると、陽菜は涙ながらに感謝する。
「姉さん、涼太さん…ありがとう。私はなんて愚かだったのか、一人でできると思って」
あすかは優しく微笑む。
「いいえ、あなたは強いわ。でも、時には弱さを見せることも必要なの」
その翌週、涼太は二人の姉妹を呼び出した。京月堂の店内は、春の訪れを告げる桃の花で彩られている。
「陽菜さん、まずお詫びします」
涼太は深々と頭を下げる。
「これまで、あなたを一人の母親として認めようとしませんでした」
そして、あすかの方を向く。
「あすかさん、結婚してください。でも、これは陽菜さんと桜子ちゃんも含めた、新しい家族の始まりです」
三月の桜満開の日、京月堂で結婚式が執り行われた。陽菜は花嫁の介添え人を、桜子は小さな花嫁姿で花束を持って登場する。
「姉さん、お幸せに」
陽菜の目には、喜びの涙が光る。
神主の前で、涼太が誓いの言葉を述べる。
「私は、あすかを妻とし、陽菜と桜子を家族として、一生守り抜きます」
式の後、桜の木の下で陽菜がささやく。
「姉さん、あの時は本当にごめんね。そして…ありがとう」
あすかは陽菜の手を握り返す。
「ううん、私たちはこれからもずっと…家族よ」
桜吹雪が舞い散る中、三人の大人と一人の子どもからなる新たな家族の歴史が始まった。血の繋がりだけではなく、選択によって結ばれた絆が、京の地に根を下ろした。
涼太が桜子を肩車し、笑顔で声をかける。
「さあ、新しい家族の記念写真を撮ろう」
カメラの前に並ぶ四人。過ちと許し、挫折と再生を経て、強固になった家族の姿。桜の花びらが優しく舞い降り、彼らの新たな旅路を祝福しているようだった。
桜咲く頃、京月堂は新たな歴史の一頁を刻もうとしていた。創業六十周年を記念し、あすかと涼太が手がけた新ブランド「月暦」の発表の日を迎える。
「姉さん、緊張します」
陽菜はスーツ姿のあすかのネクタイを直しながら言った。保育士として働きつつ夜学で資格を取得した彼女は、地域でも評判の保育士になっている。
「大丈夫、あなたがいてくれるから」
あすかの微笑みには、深い信頼が込められていた。
発表会の舞台裏では、五歳になった桜子が涼太の手を引っ張る。
「パパ、早く!ママのすごいところ見たいの!」
涼太は桜子を抱き上げ、柔らかな微笑みを浮かべる。
「そうだね、ママの頑張りを見に行こう」
会場には、リハビリを重ね杖ながらも歩けるようになった律子の姿もあった。娘たちの成長を、涙ながらに見守る。
「月暦」は月の満ち欠けをモチーフにした十二種類の和菓子シリーズ。あすかがデザインを、涼太が科学的な品質管理を担当し、陽菜も子ども向け商品を提案している。
「この『三日月』は、困難な時期を支え合った私たち三人をイメージしています」
あすかの説明に、聴衆から感嘆の声が上がる。
陽菜は保育園で「和菓子づくり教室」を開き、失敗から学ぶ大切さを子どもたちに伝えていた。
「先生、私もきれいな和菓子作りたい!」
子どもの純粋な眼差しに、陽菜は自分の歩んできた道のりを噛みしめる。
涼太は京都の大学で非常勤講師として食品科学を教え始めた。研究室には、あすかが新しいアイデアを持ち込むことも多い。
「君の独創性と私の科学性で、最高のパートナーシップが築ける」
涼太の言葉に、あすかの頬がほんのり赤らむ。
発表会の夜、三人は久しぶりに鴨川の河原に集まった。満月が水面を照らす中、陽菜が静かに語り始める。
「あの時、姉さんと涼太さんが支えてくれなかったら、今の私はありません」
深い感謝の色が、瞳に浮かんでいる。
あすかは陽菜の肩を抱く。
「私たちも、あなたから多くを学んだわ。強さとは、弱さを認める勇気なのだと」
涼太が二人を見つめ、穏やかに言う。
「月が満ち欠けするように、人生にも光と影がある。大切なのは、どんな時も支え合うことだ」
その夜、あすかには朗報が届く。彼女のデザインした和菓子が国際的なデザイン賞を受賞したのだ。
「これは、私たち三人の勝利です」
握りしめた手に涙が溢れる。
同時に、涼太にも朗報。研究成果が認められ、来年から本格的な教授として迎えられることが決まった。
三年ぶりに揃った三人は、新たな目標を語り合う。
「私は、もっと多くの子どもたちに和菓子の素晴らしさを伝えたい」
陽菜の瞳は希望に輝く。
「私は、日本の和菓子文化を世界に発信していく」
あすかの言葉には揺るぎない決意が込められていた。
涼太が二人を見つめ微笑む。
「私は、あなたたちの夢を支えるためにここにいる」
月明かりの下、三人は固く手を握り合った。過去の過ちと許し、挫折と再生を経て、彼らは強い絆で結ばれている。
鴨川の流れは静かに、しかし確実に海へと向かっている。それは、彼らが歩んできた道のりそのもののようだった。
桜の花びらが舞い散る中、あすかがそっと呟く。
「これからも、ずっと家族でいよう」
三人の影は月明かりに一つに重なり、京の夜に溶けていく。彼らの物語は終わらない――新たな章へ、静かに続いていく。




