第8話 首輪の裁き
翌日。
窓の外には朝の光が差し込み、鳥の声が遠くで響いていた。だが、ライアンの心は落ち着かなかった。昨日までの勉強で、彼は少しずつ人間の言葉を口にできるようになってきた。ロニーに向かって自己紹介
をした時の、あの不思議な温かさ――あれを思い出すと胸がざわつく。
それでも、森の記憶はまだ鮮やかに残っている。狼の父と駆けた道。ゴリラの母の大きな腕。
あの温もり。忘れるはずがなかった。ロニーに着替えを手伝われ、朝食を済ませると、今日も
勉強部屋へ連れて行かれる。机の上には、昨日と同じように厚い本や紙、羽ペンが置かれていた。
ドロテアが椅子に腰かけ、薄い唇を持ち上げる。
「さあ、今日も学びましょう。あなたの中に残る“獣”を一つずつ剥がすのよ」
意味は分からない。だが、その声音の奥に、いつもの冷たさを感じた。
ページがめくられる。そこに描かれていたのは――森。大木。川。そして、狼とゴリラの絵だった。
ドロテアの白い指先が、狼の絵を軽く叩く。
「父さん」
澄んだ声が響いた。
(……いまの音……“父さん”?)
首をかしげ、唇を動かす。
「……と……さん?」
ドロテアは頷き、今度はゴリラの絵に触れる。
「母さん」
音を区切るように、ゆっくりと。
(母さん……この音……あの大きな手の温もり……)
喉が震え、声がにじむ。
「……か……あ、さん」
白い手がぱちんと打ち鳴らされる。
「そう。あなたにも“父さん”と“母さん”がいたのね。ならば――」
彼女は胸に手を当て、微笑んだ。
『これからは、私を“母さん”と呼びなさい』
赤い瞳が一気に揺らいだ。
(……は? なんだって……?......母さんと呼べって?......)
胸の奥でざらついた感情が沸き立つ。
(俺の母さんは、母ゴリラだけだ。こいつじゃない……!)
唇は固く結ばれ、声は出ない。拒絶の意思を体全体で示す。
ドロテアの笑みがわずかに歪んだ。
「言いなさい。“母さん”と」
命令が鋭く突き刺さる。
だがライアンは首を振るだけだった。喉は塞がり、呼吸が荒くなる。
沈黙が数秒。
令嬢の眉がぴくりと動いた。やがて、冷たい吐息と共に立ち上がる。
「……そう。まだ獣の幻に縋るのね」
次の瞬間――紙が裂ける鋭い音。
狼の絵が、無惨に真っ二つに引き裂かれた。続いて、ゴリラの絵も破り捨てられる。
視界が赤く染まる。
「……ッ!!」
椅子を蹴るように立ち上がり、机を叩く。
(なにしてんだ! 父さんと母さんを……っ!)
怒りが喉を突き破り、獣の咆哮となって教室を震わせた。
令嬢の冷たい指が、首輪に触れる。
「反抗には、罰を」
――ビリッ!
「ぐっ……ああああっ!!」
雷のような痛みが全身を駆け抜けた。膝が砕け、床に叩きつけられる。
喉が裂けるほどの悲鳴。指先は痙攣し、視界が白く霞む。息ができない。胸が焼ける。
ロニーが思わず一歩踏み出した。
「令嬢様! おやめください!」
だがドロテアの鋭い視線が彼を射抜く。
「止まって、ロニー。これは教育です」
ロニーの拳が震える。それでも、命令には逆らえない。彼は唇を噛み、ただライアンを見つめる
ことしかできなかった。
令嬢はゆっくりと腰をかがめ、ライアンの髪を撫でた。
「獣の絵なんて、不要なの。あなたは人間になるの。私の息子として」
その声音は甘い。しかし氷より冷たい鎖だった。
涙と涎に濡れた頬に、さらに指先が這う。
「“母さん”と、言いなさい」
だが、声は出なかった。喉は焼け付き、ただ荒い呼吸がもれるだけ。
(言えるか……! 言ったら……母さんを捨てることになる!)
令嬢は苛立ちを隠しもせず、踵を返した。
「……まあいいわ。いずれ従わせる。今日はここまでよ」
重たい扉が閉じ、石造りの部屋に静寂が落ちた。
床にうずくまるライアンの肩が、小刻みに震えている。首輪の焼けるような痛みがまだ残り、
胸の奥では怒りと悔しさが渦を巻いていた。
(……なんで……! なんで、あんな……! 父さんも母さんも……)
視界がぼやける。唇を噛み、爪が掌に食い込む。その肩に、静かな声が落ちた。
「ライアン……」
ロニーだ。彼はゆっくりしゃがみこみ、優しく腕を取った。ライアンは震える膝で、
なんとか立ち上がる。
「……大丈夫。もう痛くない、大丈夫」
囁くような声とともに、温かい手が支えてくれる。足がふらつくたびに、しっかりと支えられ、
ライアンは寝室へと導かれていった。ベッドに腰を下ろすと、ロニーは「すぐ戻る」と言って
扉を閉めた。
ほどなくして、木の盆を抱えて戻ってきた。小さなポットからは湯気が立ち上り、甘い香りが
漂う。皿には小ぶりのケーキが並んでいた。
「ほら、ハーブティーと蜂蜜のケーキだよ。無理に食べなくてもいいから……
ちょっとでも落ち着けたら」
差し出されたカップを前に、ライアンはむすっと顔を背けた。
(……いらねぇ。腹なんか減ってねぇ……)
喉の奥が固まって、唇が動かない。けれど、ロニーの柔らかい声色が、少しずつ胸の棘を
和らげていく。
「一口だけでいい。温かいから……ほら」
震える手でカップを受け取り、唇を近づける。
ひと息。――花の香りがふわりと広がった。
(……なんだ……これ。あったかい……)
喉を通ると、胸の奥までじんわりと熱が広がる。固く縮こまっていた体が、ゆっくりと
解けていった。
次にケーキ。指でつまみ、口に運ぶ。
甘い。柔らかい。蜂蜜の香りが舌に絡みつき、喉を滑り落ちていく。
その瞬間、森の景色が胸の奥に流れ込んだ。
――木の実を分け合って食べる父。
――大きな掌で頭を撫でてくれた母。
――森に響く笑い声。
堪えきれず、頬を伝って涙が落ちた。
「ライアン……」
ロニーが隣に腰を下ろし、背中をそっとさすった。
「森が、好きか?」
ライアンはぐっと唇を噛み、絞り出すように言葉をつなげた。
「……すき……。森……すき。父さん……母さん……すき……」
震える声に、ロニーは深く頷いた。
「必ず帰れる。心配するな。必ず、だ」
意味は分からない。だが、その響きは不思議と安心を運んでくる。
(……なんだ……胸が楽になる。ロニーの声、帰れそうな気がする……)
ライアンは鼻をすすり、ケーキをもう一口かじった。甘さが涙に溶け、胸に染み込んでいく。
(……ロニー……この人、やっぱり……いいやつだ)
カップの底まで飲み干し、皿のケーキを平らげると、少しだけ表情が和らいだ。
ベッドに身を沈めながら、ライアンはそっと瞼を閉じた。
(……森に……帰る。絶対に……)
最後の意識が遠のくまで、背中にはロニーの温かな手の余韻が残っていた。




