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第7話 小さな成功

 翌朝。

 布団の上で丸くなっていたライアンの肩を、やわらかい手が揺すった。

 「ライアン」

 ぼんやりした赤い瞳が、青髪の男の顔を映した。ロニーだ。

目を擦る前に、床に散らばったシャツとズボンが視界に入る。昨夜、投げ散らしたまま

眠ってしまった。

 ロニーは溜息をつき、腕を組んで首を横に振った。

 「また散らかして……」

 

 言葉の細かい意味までは分からなくても、視線と声色で責められているのは理解できる。

ロニーは棚の脇から木の箱を引き出し、ぽん、と蓋を叩いた。

 

 「ここに入れる。分かるね?」

 ライアンはむっと眉をひそめ、視線をそらす。

(また人間のルールか……面倒くせぇ)

けれど、ロニーの表情は真剣で、どこか優しい。

しばし睨み合い、ライアンは渋々服を掴んで箱に放り込んだ。

ロニーの口元がわずかに緩む。

(……こいつ、今、喜んだ?)

その顔を見た瞬間、ライアンは頬を掻き、妙なむず痒さを覚えた。

 

 続いてロニーは棚から柔らかな布を取り出した。長袖とズボンが揃い、見慣れない色合い。

 「寝るときは、これを着るんだ」

ロニーはそう言って、眠る仕草をライアンに見せた。

ライアンは布を受け取り、鼻先でくんくんと嗅ぐ。汗や土の匂いはない。

(なんだ……寝るとき用? こんな布、着たら……息苦しくならねぇか? 眠れなくなるかも……)

 不安に眉を寄せつつ、袖を通してみる。

布は思ったより軽く、肌に柔らかい。動きを妨げない。胸がわずかに緩んだ。

 (……悪くない、かもな)

 ロニーはくすりと笑い、ライアンの肩をぽんと叩いた。


 着替えを終え、二人は長い廊下を歩いて食堂へ。

 扉を開けると、朝の光が差し込み、白いテーブルクロスの上に温かな料理が並んでいた。

「おはよう、ライアン」

 席に座るドロテアと名乗った令嬢が、いつもの笑みで声をかけた。


 ライアンは唇を結び、喉の奥から低い唸り声を返した。

 「ふふ……まだ挨拶ができないのね」

 ドロテアの目に新しい火が宿る。

 「今日は“挨拶”を教えましょう」

 

 ライアンは不満げに鼻を鳴らし、パンをかじる。だが視線は鋭くドロテアを追った。

朝食を終えて、また勉強部屋に案内された。ドロテアは本棚から分厚い本を引っ張り出して、

机に広げた。本のページがめくられた。


 そこには、朝日の差し込む森の絵。鳥が羽ばたき、草木が金色に染まっている。

 ドロテアは教鞭を軽く鳴らし、指で太陽を示した。

 「朝――太陽が昇った時、人はこう言葉を交わすの。“おはよう”」

 

 ライアンは眉をひそめる。

(……太陽? 見れば分かる。けど……なんで声を出すんだ?)

 

 彼女は自ら胸に手を当て、口元をゆっくり動かした。

 「お・は・よ・う」

 聞いた音が、耳にまとわりつく。ライアンは首を傾げ、絵と声を何度も見比べた。

(太陽……“おはよう”……? あの音は、太陽の名前か……?)

 ドロテアが視線で促す。

 「さあ、あなたも」

 

 唇をもごもご動かす。

 「……お……は……」

 声は掠れて途切れる。

 ドロテアは眉を吊り上げ、すぐに笑みに変えた。

 「弱々しいわね。人間は胸を張って言うの。もう一度」

 

 ライアンは歯を食いしばり、力を込める。

(……嫌だ。嫌だけど……ロニーと話すために……!)

 腹の底から声を突き上げた。

「――お、はよう!」

 教室に響く大声。

 

 ドロテアの肩がびくりと揺れ、目を見開いた。

 「っ……!」

 一瞬、狼狽が表情に滲む。だがすぐに扇を広げるように微笑んだ。

 「……げ、元気でよろしい。そうよ、その調子」


 ライアンは荒い息を吐き、赤い瞳を伏せた。

 (……くそ……人間の言葉なんて……。でも……ロニーと……“話せる”なら……)

 胸の奥が、悔しさとほんの少しの喜びで揺れた。


 ページがめくられる。

 真上に太陽が昇り、川面が白く光る絵。

 ドロテアが教鞭で水面を叩く。

 「昼――人はこう言うの。“こんにちは”」

 ライアンはじっと絵を見た。

(昼なんて……森じゃただ暑いだけだ。……でも、この音は……水と一緒にあるのか?)

 唇が動く。

 「……こ、ん……にち……は」

 今度は声が小さくなった。


 ドロテアは目を細め、軽くため息をつく。

 「さっきの勢いはどうしたの。人間の言葉は、弱々しく吐き出すものじゃないわ」

 ライアンは頬を赤くして拳を握る。

(……またかよ……! 言いたくない……でも……ロニーと……話したい……!)

 肩を震わせ、もう一度叫ぶ。

「――こんにちは!」

 教室に声が響く。

 またもやドロテアの指がわずかに止まる。だがすぐ、誇らしげな笑みに変えた。

 「……そ、そう。それでいいの」

 

 次のページ。

夜の森。星が瞬き、狼が遠吠えしている絵。

 「夜――人はこう挨拶するの。“こんばんは”」

 ライアンの喉がひくりと鳴る。

(夜は……父さんの声……。狼の遠吠え。……それに音をつけるのか?)

 手を強く握りしめ、声を絞り出す。

「……こん……ばん……は」


 ドロテアの瞳が細く揺れた。

「……ふふ、いい子ね。あなた、今日はどうしたのかしら。昨日までとはまるで別人」


 ライアンは眉を寄せ、唇を噛んだ。

(言えるのは……嬉しい。でも、違う……俺は……森の……)

 だが、胸に浮かぶのは青髪の使用人の姿。

(……ロニーと話すんだ。……そのためだ)

 

 ドロテアはしばらくライアンを見つめ、怪訝そうに首を傾げた。

 「一体なぜ、そんなに必死なのかしら。罠も、脅しも必要ないなんて……」

 喉の奥で笑みをもらす。

 「まあ、いいわ。次は“自己紹介”。人間が自分を示すための最も大切なものよ」

 

 勉強部屋の空気は、今日も冷たい。

ドロテアは絵本を閉じると、新しい紙を机に置いた。そこには、二人の少年の絵が描かれている。

ひとりは短髪、もうひとりも同じく短髪。ドロテアは前者を細い指で叩く。

「ぼく」

今度は後者を指す。

「あなた」

ライアンは眉を寄せた。

(……こいつ、何してんだ。こっちを“ぼく”、そっちは“あなた”。違いは……無ぇのに?)


もう一度、ドロテアは同じ動作を繰り返す。

「ぼく」――「あなた」。

「ぼく」――「あなた」。

交互に、何度も。

ライアンはじっと睨みつけるように見て、赤い瞳を揺らした。

(ふたりの“オス”。片方は“ぼく”。片方は“あなた”。……もしかして、呼び方の違いか?)

ドロテアはふと指を止め、自分の胸に手を当てた。

「ぼく」

次に、ライアンを指す。

「あなた」

その瞬間、心臓がどくりと跳ねた。

(……! “ぼく”は、自分を指す音……か? じゃあ、“あなた”は……相手を呼ぶ音?)

推測が脳裏で形を取る。

息が少し荒くなり、指先が机の上をとんとん叩く。


ドロテアは筆を走らせた。少年の絵の横に、黒い文字を刻む。

“ライアン”。

彼女はその文字を指でなぞりながら、短く告げる。

 「ぼくは、ライアン」

ライアンの胸が重く沈んだ。

 (またその音……“ライアン”。俺の音じゃねぇ。でも……)

彼は視線を落とし、パズルを繋げるみたいに頭の中で並べ替える。

 (“ぼく”――自分。“ライアン”――俺を示すための……名前。まってよ、これ、

 人間の自己紹介だったのか)

口の中が渋くなる。舌が震える。

けれど、青い髪の笑顔が浮かぶ。

 (……ロニーと話すなら……これを、言うしかねぇ)

歯を食いしばり、喉を鳴らす。

 「……ぼく、は……ライアン」


 音が空気に落ちた。

胸の奥にざらつく石が転がり、同時に、小さな火がちろりと灯る。

ドロテアは満足げに微笑んだ。

「ええ、そのとおりよ」

ライアンは拳をぎゅっと握り、赤い瞳を伏せた。

(嫌な音だ……けど……これで、あいつと……喋れる)


 机の上に、新しい紙が置かれた。

そこには、赤く輝くリンゴと、香ばしい湯気を立てるステーキの絵。

 (......あ、りんごと肉の絵だ!)

ドロテアの指先が、リンゴを示す。

 「好き」

にっこり笑みを浮かべ、今度はステーキを指す。

 「好き」

さらに、手を口に運ぶ仕草をして、ぱくりと食べる真似をする。

そのまま声を重ねる。

 「好き」

ライアンは赤い瞳を細めた。

 (……今の、“食べたい”って仕草……? リンゴ、肉。食べる。……で、“好き”。)

もう一度リンゴの絵を指さすドロテア。

 「好き」

ステーキを指す。

 「好き」

ライアンは小さく唸り、鼻を鳴らした。

 (同じ音……。“好き”ってのは……うまいとか、欲しいとか、そんな意味か?)

ドロテアは満足げに頷き、自分の胸に手を当て、今度はゆっくりと告げる。

 「……りんごが好きです」


 ライアンは眉をひそめる。

(また出た。“好き”。さっきと同じ……。今度は、“りんご”。……ああ、分かった。

 好みを言う言葉だ!)

 胸の奥がざわつく。

(森でも、俺は好きなもん嫌いなもん言ってた。ただ吠えるだけで通じた。でも……ここじゃ

 音にしなきゃ伝わんねぇのか)

 

 ドロテアが再び促す。

 「りんごが好きです」

 ライアンは喉を鳴らし、唇を開いた。

 「……りんご……が……すき、です」

 言葉が転がり出る。耳が熱くなる。

(やった……言えた……! でも、なんで……? 胸の奥が……少し、楽しい)


 ドロテアは嬉しげに拍手をし、今度はステーキを指す。

 「ステーキが好きです」

 ライアンは眉をしかめ、息を吸い込む。

 「す……てーき、が……すき、です」

 声が震え、すぐに下を向く。

(くそ……また人間の音を……。でも、ロニーに……これで伝えられるなら……)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 日が傾いた後、ライアンは夕食を終え、ロニーと廊下を抜けて寝室に戻る。扉が閉じられると、

屋敷の喧騒が遠のき、静寂が落ちた。ランプの灯が柔らかく揺れ、影が壁を伸び縮みさせる。

ロニーが寝支度を整えていると、ベッドに腰掛けたライアンの赤い瞳がちらちらと揺れているのに

気づいた。 何かを言いたい――けれど迷っている。そんな目だった。


 「……どうした?」

 ロニーはしゃがみ、視線を合わせた。

 ライアンの喉がごくりと動く。

拳を握り、唇をぎゅっと結ぶ。

 (言え……今日習ったやつ……! ロニーにだけ……!)

 しばらく震えていたが、やがて小さく息を吐き、ぽつりと声を落とした。


 「……ぼくは、ライアン……」

 途切れ途切れ、たどたどしい。

でも確かに人間の言葉だった。ロニーの目が大きく開かれる。

さらにライアンは胸の奥を叩くようにして、絵を思い出しながら続けた。


 「……りんごが……すき、です」

言い終えた瞬間、顔が一気に赤くなる。視線は床に釘付け。

耳まで真っ赤で、肩が小さく震えている。


 ロニーは数秒固まった後、堪えきれず――ぷっと吹き出した。

 「っ……ははっ……!」

 両手で腹を押さえ、声を殺しながら笑い転げる。

ライアンは目を吊り上げ、頬をふくらませた。

 「……っ!」

 (な、なんで笑うんだよ! 必死に言ったのに……!)

背を向け、毛布を頭から被ろうとする。 その腕をロニーがそっと止めた。

 

 「わ、悪い……! 本当に悪かった」

慌てて手を伸ばし、ライアンの頭をくしゃりと撫でた。

「……可愛すぎて、我慢できなかったんだ」

 優しい声。温かい手。

赤い瞳がきょとんと揺れ、次の瞬間、照れくさそうに逸らされた。


 「すごいな、ライアン。今日覚えたばかりなのに、ちゃんと話せた」

真剣な声でそう褒められると、胸の奥がじんわり熱くなる。

(……へへっ……意外と悪くねぇな、人間の言葉……。もっと覚えたら……ロニーと、

 いっぱい話せる……)


 毛布を引き寄せ、寝台に横たわる。指先が小袋の牙を確かめる。母のぬくもり。

(森に帰るための手がかりも……ロニーと話せば、きっと見つかる)


 満ち足りた熱を胸に抱いたまま、まぶたがゆっくり落ちていった。

最後にちらりとロニーを見やり、小さな笑みが浮かぶ。静かな寝息が部屋を満たした。

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