第61話 獣たちの王(最終話)
親友のレグナスとフィオナと別れた後、ラウルはロニーと獣たちに導かれながら、森の奥へと
歩いていた。向かっているのは、森の北領域。幼い頃から、決して近づいてはならないと育て親に
言われてきた場所だった。
鬱蒼とした木々が、まるで道を閉ざすように枝を広げている。足元の土はひんやりとしていて、
森の空気もどこか重かった。
(ここが……森の北領域)
ラウルは無意識に拳を握りしめる。
(子供の頃、父さんも母さんも、絶対に近づくなって言っていた……)
胸の奥がざわついた。
(でも……森を封印するためには、行かなきゃいけないんだ)
不安を押し込めるように、ラウルは深く息を吸う。
そんなラウルの様子を見て、ロニーが静かに口を開いた。
「ラウル様、これから、あなたはある光景を見ることになります」
声にはわずかな重みがあった。
「……かなり、辛いものです」
ロニーは少しだけ視線を伏せる。
「心の準備は、できていますか」
ラウルは一瞬だけ言葉を失ったが、すぐに顔を上げる。
「……大丈夫だ」
強く頷いた。
その表情には、もう迷いはなかった。ロニーは小さく頷き、前方の茂みをかき分けた。
やがて茂みを抜けた瞬間、ラウルの目に壮絶な光景が飛び込んできた。
半壊した石造りの建物。
崩れ落ちた塔。
地面に散らばる瓦礫。その間には、白く風化した人間の骨が無数に転がっていた。
折れた剣。
ひしゃげた盾。
錆びついた鎧。
そこに広がっていたのは――
かつて栄えていた、エルデア王国の廃墟だった。
ラウルは言葉を失う。
「……」
ただ立ち尽くす。
伝承の本で読んだ光景が、そのまま目の前に広がっていた。
いや、それ以上だった。静まり返った廃墟の空気が、胸を締め付ける。
ふっと、頭の奥に光景がよみがえる。
――炎。
崩れ落ちる建物。
燃え盛る街。幼い自分が、誰かの腕の中に抱えられている。それは、ロニーだった。
必死の形相で瓦礫を避けながら、燃える街を駆け抜けている。
赤い炎が夜空を染めていた。
(……ここ……)
ラウルの呼吸が浅くなる。
(俺は……ここから逃げたんだ……)
赤ん坊だった頃の記憶が、断片的に蘇ってくる。
その場に立ち尽くしているラウルの肩に、そっと手が置かれた。ロニーだった。
「……大丈夫です」
静かな声だった。
ラウルははっとして、ロニーを見上げる。ロニーは、街の奥を指差した。
「見てください」
視線の先には、かろうじて原型をとどめている巨大な建物があった。
崩れかけてはいるが、それでも威厳を感じさせる石造りの建物。
「あれは宮殿……だった場所です。封印の儀式は、あそこで行います。一緒に来てください」
ラウルはゆっくりと頷く。
「……分かった」
もう一度廃墟の街を見渡して、ラウルは静かに歩き出す。
ロニー。父のガルク。母のベアトリス。
四人は並んで、かつて王国の中心だった宮殿へ向かって進み始めた。
***
宮殿の前に立ったラウルは、思わず足を止めた。
目の前に広がる光景は、街の廃墟とはまた違う重みを持っていた。
壁のあちこちには、激しく焼けた痕跡が刻まれている。
黒く焦げた石の壁。崩れ落ちた装飾。
それでも――
その場所には、確かに威厳の名残が残っていた。
石畳の床は、街の建物よりも丁寧に整えられている。高くそびえる壁には繊細な装飾が刻まれ、
天井には精巧な彫刻が広がっていた。
かつてここが、王族と貴族たちの暮らす場所だったことが一目で分かる。
だが――
ラウルは入口付近で、あるものに気付いた。古びた石の床を染める、黒ずんだ赤。
長い年月を経て色は変わっているが、それが何であるかはすぐに分かった。
大量の血の跡だった。
ラウルの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
(ここで……)
その瞬間、ロニーの話が頭に浮かんだ。
まだ赤ん坊だった自分を守るため、ロニーはここでセリオス殿下と戦った。
そして、命を落としかけるほどの重傷を負った。
ラウルはゆっくりロニーの方を見た。
「……ロニー、ここで……兄さんと戦ったの?」
ロニーはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと床の血痕を見つめる。まるで遠い記憶を辿るように。
「ええ、ここで、セリオス殿下に……殺されかけました」
その言葉には、恨みも怒りもなかった。
ただ、過ぎ去った出来事を語るような穏やかさがあった。
ラウルは拳を握って、声を震わせた。
「……ロニー、ありがとう。俺を……守ってくれて」
ロニーは一瞬驚いたように目を瞬かせた。
「お礼を言うのは、まだ早いですよ」
そう言ってラウルの肩に手を置いた。
「本当に守れたのかどうかは――これからです」
ロニーは宮殿の奥を指差した。
「こちらへ」
ラウルは頷き、ロニーの後を追う。
石畳の床を踏みしめながら、宮殿の奥へ進んでいく。
やがて、視界が大きく開けた。
そこは円形の広間だった。天井は、手の届かない程高くそびえ立っている。
周囲には巨大な石の柱が、規則正しく並んでいた。
その中心に――
一つの巨大な器が置かれている。
黄金で作られた、大きなお椀のような器だった。
ロニーはゆっくりとその前へ歩み寄って、胸に抱えていた水晶『時の揺り籠』を取り出した。
ラウルが静かに見守る中、ロニーはそれをそっと黄金の器の中央へ置いた。
水晶は静かに輝きを放つ。
その瞬間、ロニーの肩からふっと力が抜けて、長い旅路の終わりを迎えたような表情を浮かべた。
「……ああ」
小さく息を吐く。
そして水晶を見つめながら、静かに呟いた。
「やっと……帰ってきましたね」
目を細める。
「あなたは、本来いるべき場所へ戻ったんです」
長い時間をかけて守り続けてきた宝を見つめながら、ロニーは安堵の笑みを浮かべていた。
ロニーは、水晶の輝きをしばらく見つめたあと、ゆっくりと顔を上げた。
そしてラウルと、傍らに立つ狼のガルクへ視線を移す。
「……ラウル様、ガルク殿。これから、封印の儀式を始めます」
ロニーは黄金の器の前にある石の祭壇へ歩み寄る。
懐から取り出した一冊の古い書物――「盟約の書」を、丁寧にその上へ置いた。
ぱさり、と古い紙がかすかに音を立てる。
「こちらへ」
ロニーは二人を手招きした。ラウルとガルクは頷き、祭壇の前へ歩み寄る。
ロニーは盟約の書を開き、説明を始める。
「ここに書かれている文章を、交互に読み上げてください」
ラウルとガルクが顔を見合わせる。
「ラウル様から始めてください。その後、ガルク殿に続けてもらいます」
ロニーは祭壇の奥に置かれた水晶――時の揺り籠を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「これは、人と獣の盟約。互いを尊重し、共に歩むという誓いです。
その誓いが成された時、時の揺り籠が目覚めます」
ラウルは隣のガルクへ目を向けた。
「始めよう、父さん」
「ああ、よろしく」
ガルクは低く鼻を鳴らし、力強く頷いた。
二人は同時に、盟約の書へ視線を落とす。
ラウルは綴られている古びた文字をなぞるように、静かに読み上げる。
「求めるものは」
ガルクの低い声が続いた。
「悠久の安寧」
広間の空気がわずかに震える。
ラウルが再び言葉を紡ぐ。
「絶えない愛」
ガルクが続く。
「変わらない友情」
石の柱の奥で、かすかに風が動いた。
「互いに赦し合い」
「互いに支え合う」
二つの声が、静かな広間に響く。
「困難の中でも」
「闇の中でも」
ラウルは一度息を吸って、続ける。
「互いの絆を信じて」
ガルクが力強く応えた。
「光へ向かって、共に歩む」
祭壇の奥にある水晶が、かすかに輝きを強める。
ラウルは最後の行を読み上げた。
「時の箱舟よ」
ガルクが続く。
「民を乗せて……」
「「いざ、悠久の旅へ!!」」
二人の声が重なった瞬間。
黄金の器の中央に置かれた「時の揺り籠」が、脈を打つように虹色の光を放つ。
広間の空気が震えた。光は水面の波紋のように広がり、宮殿全体へ流れていく。
ゴゴゴ……と低い音が響いた。石の柱がかすかに揺れる。
天井の彫刻が微かに震え、床の石畳が軋んだ。
まるで長い眠りについていた王国が――
今、ゆっくりと目を覚まそうとしているかのようだった。
祭壇の中央に置かれた「時の揺り籠」から、眩い七色の光が溢れ出した。
水晶の内部で、光が渦を巻くように回転している。
ロニーは両手を広げ、声を張り上げた。
「――時の揺り籠、起動!」
その瞬間だった。
ドォン、と宮殿全体が大きく揺れる。
水晶から放たれた光は一気に膨れ上がり、太い光の柱となって天井へと突き上げた。
石の天井をすり抜け、そのまま上空へと突き抜ける。
轟音と共に、強烈な風が広間を吹き荒れた。
ラウルの長い黒髪が大きくなびく。
「うわっ!」
思わず足を取られ、飛ばされそうになった瞬間、背中にどんと力強い感触があった。
ガルクが鼻先で軽く押していた。
「大丈夫か」
低い声が響く。
ラウルは振り返り、冷ややかな笑みを浮かべた。
「うん……大丈夫」
だが建物の揺れはまだ止まらない。
ゴゴゴ、と重たい音が響く。
今度は壁の石が、ひとりでに動き始めた。
石同士が滑るように位置を変え、まるで誰かが道を開けるかのように穴を形作っていく。
しばらくして揺れが徐々に収まり、広間の壁にはいくつものアーチ形の窓が現れていた。
ラウルは思わずその一つに近づく。
窓の外に広がる空は、見たことのない光景だった。
空全体が、薄い膜に包まれたように七色に輝いている。
上空へ突き上げた光の柱は、そこからゆっくりと広がり――
巨大なドームのように、エルデアの森全体を覆い始めていた。
森の外に見えていた景色が、少しずつ霞んでいく。
まるで遠い霧の向こうへ消えていくかのようだった。ラウルは窓辺に立ち、息を呑んだ。
(ここ……こんなに高いのか)
宮殿は塔のように高く、森の全体を見渡せる場所だった。
ラウルはふと、森の入口の方へ視線を向ける。
遠くの地面に、二つの小さな影が見えた。
その影は、こちらに向かって大きく手を振っている。
風に乗って、かすかに声が届いた。
「ラウルーー!」
レグナスの声だとラウルは悟った。
「元気でなー! 風邪ひくなよー!」
その隣で、フィオナも叫んでいる。
「ラウルーー! 忘れないでねーー!」
遠く離れていても、二人の声ははっきりと分かった。
ラウルの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
目が熱くなる。ラウルは震えながら、大きく息を吸い込んだ。
胸いっぱいに空気を溜める。
そして――
「オオオオオオオオォォォォォ!!」
森を震わせるような咆哮が轟いた。
それはまるで、戦に勝利した獣の叫びのようだった。
逞しく、勇敢で、誇り高い声だった。
咆哮は森を駆け抜け、遠くの入口まで届く。
レグナスとフィオナが驚いたように笑いながら手を振っているのが見えた。
その様子を、少し離れた場所から三つの影が見守っていた。
ロニー。そして狼のガルクと、ゴリラのベアトリス。
ガルクが低く呟く。
「……立派になったな」
ベアトリスも穏やかに頷いた。
「ええ。本当に」
ロニーはその背中を見つめながら、静かに呟く。
「お二人がラウル様を育ててくださったおかげです」
ガルクは鼻を鳴らした。
「気にするな」
ベアトリスも満足そうに微笑む。
「私たちの息子だからね」
三人は、窓辺に立つラウルの背中を静かに見つめていた。
***
時の揺り籠が無事に起動してから、しばらく時間が経っていた。
ラウルはロニーとガルク、そしてベアトリスと共に、いつもの洞窟へ戻っていた。
洞窟の奥では、ぱちぱちと焚火が音を立てている。
その火の上で、ベアトリスが大量の鹿肉を豪快に焼いていた。
香ばしい匂いが、洞窟いっぱいに広がっている。
「今日はお祝いだからね」
ベアトリスは満足そうに言いながら、肉をひっくり返した。
ラウルは焚火の前に座り込み、その炎をぼんやりと見つめていた。
隣にはロニーが腰を下ろしている。
しばらくして、ラウルが口を開いた。
「なあ、ロニー」
「はい?」
「時の揺り籠……ちゃんと動いてるの?」
ロニーは軽く頷いた。
「問題ありません」
穏やかな声で答える。
「森の結界は完全に機能しています。外から誰かが入ることは、もうできません」
その言葉を聞いたラウルは、ほっと息を吐いた。
「そっか……」
焚火を見つめながら呟く。
「これで……東の魔術師とか、ドロテアとか……ああいう悪い連中に怯えなくて済むんだな」
ロニーは静かに頷いた。そして、そっとラウルの頭を撫でる。
「よく頑張りましたね、ラウル様」
ラウルは顔を赤く染めて、ロニーに向き直った。
「……ロニー、お願いがあるんだけど……」
ロニーは少し首を傾げる。
「なんでしょう」
「その……敬語……、やめてよ」
「え?」
「昔みたいにさ。兄みたいに話してほしいんだ」
ロニーは一瞬、目を丸くした。
沈黙の後、ロニーは表情を緩めて、くすっと笑った。
「……なんだよ、それ。まあ、分かったよ、ラウル。実は俺もこっちの方が楽」
ラウルは満足そうに頷いた。
「うん、それでいい」
そしてロニーの肩に軽く寄りかかる。
焚火の炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……二年間の体験、夢みたいだったな」
ロニーは静かに耳を傾ける。
「ドロテアに捕まって、髪も切られて、名前も変えられてさ」
ラウルは自分の長い黒髪を指でつまんだ。
「知らない言葉とか、文化とか、いっぱい教え込まれて……。
本当に、どうなることかと思った」
ラウルは拳を握りしめて、揺れる炎に視線を落とした。
「でもさ、レグナスとフィオナに会ってから……毎日が楽しくなったんだ」
静かに聞いていたロニーは、そっとラウルの髪に指を滑らせた。
「……よく耐えたな。お前は強いぞ、ラウル」
二人が顔を見合わせて笑った、その時だった。
「ラウル!」
ベアトリスが皿を抱えて歩いてきた。
その上には、焼き立ての鹿肉が山のように乗っている。
「ご飯できたよ」
香ばしい匂いが鼻を擽り、ラウルの目が一瞬で輝いた。
「うわっ!」
皿を受け取ると、さっそく肉にかぶりつく。
「うまっ! ありがとう、母さん!」
元気に肉を頬張っているラウルを見て、ガルクは低く笑った。
「ははっ、もっと食え、ラウル! 時間はたっぷりあるからな」
「うん! これからも俺たち、ずっと、ずっと一緒だな!」
洞窟には、高価な装飾品もない。
豪華な料理もない。だがそこには、確かな温もりがあった。
黒髪の少年は、仲間と家族に囲まれながら、太陽のように笑い、獣のように肉を頬張っている。
その笑い声は、洞窟の奥へ、そして森の中へと広がっていく。
どこまでも、いつまでも――
まるで、この森の未来を祝福するかのように。
こうして、黒髪少年は幾度の困難を乗り越えて、奪われた自分を取り戻した。
少年の名は、ラウル。
獣たちの王にして、森を守る者。
彼の物語は、ここで一度幕を閉じる。
だが――
その伝説は、これからも静かに語り継がれていくだろう。
ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございました!
初めて書いた小説なので、至らない部分はたくさんあると思います。
それでも、たくさんの方々から応援の言葉をもらえて、大変嬉しく思います。
ラウルの冒険はこれで終わりますが、いつか続編を書きたいです!
それでは皆さん、また次の作品でお会いしましょう!




