第60話 三色の腕輪
森は、静まり返っていた。
つい先ほどまで大地を震わせていた戦いが嘘のように、風が木々を揺らす音だけが静かに響いている。
ヴァイスも、ドロテアも消えた。森に危害を加えようとしていた者たちは、もうここにはいない。
それでも誰もすぐには言葉を発さなかった。
ラウルも、レグナスも、フィオナも、ロニーも。
ただそれぞれが、今日この森で起きた壮大な出来事を胸の中で反芻していた。
やがて、その沈黙を破ったのはラウルだった。
ゆっくりとロニーの方へ歩み寄る。
「……ロニー」
呼びかける声は、戦いの熱が消えたあとの落ち着きを帯びていた。
「これから、どうするんだ?」
ロニーは一瞬だけ視線を伏せ、それから腕に抱えていたものをそっと持ち上げた。
淡く光る水晶――「時の揺り籠」。そして古びた一冊の書物――「盟約の書」。
「……森を封印します」
静かな声だったが、そこには迷いがない。
「ヴァイスのような輩が、またこの森に現れるかもしれません。あの者も諦めないでしょう」
ロニーは水晶を見つめながら続けた。
「だから、この森全体を隠します。外の世界から簡単には辿り着けないように」
ラウルは黙って頷く。
それが必要なことだと、もう理解していた。その時、ロニーはふと顔を上げた。
そして、まっすぐラウルを見つめる。
「……ですが、その前に」
少しだけ声が柔らかくなる。
「ラウル様。あなたの覚悟を、改めて聞かせてください」
ラウルはわずかに眉を動かした。
「覚悟?」
「ええ」
ロニーは静かに言葉を続ける。
「レグナス様とフィオナ様と共に、人間の世界へ戻るのか」
ちらりと二人の方を見る。
「それとも、この森に残り、獣たちと共に生きるのか」
森の空気が、再び静まり返った。
ラウルは少しも迷わなかった。
「……俺は、ここに残る」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「父さん――カイレオン陛下に、次期国王として任命されたんだ」
ゆっくりと周囲の森を見渡す。
風に揺れる木々。静かにこちらを見守る獣たち。
「国も民も、もういない。でも、この森には、みんながいる」
ガルクやベアトリスの姿が目に入る。
「これからは俺が守る。獣たちの王として、この森で生きていく」
ロニーは静かに頷いた。
「……そうですか」
その表情には、どこか安堵の色が浮かんでいる。
「では」
ロニーはゆっくりと言った。
「仲間たちに、最後の挨拶をしてください」
ラウルの胸が、わずかに締めつけられる。それでも、彼はゆっくりと振り返った。
レグナスとフィオナが、少し離れた場所に立っている。ラウルは二人を見つめ、静かに息を吸った。
そして――
ラウルはゆっくりとレグナスとフィオナの前まで歩み寄った。
二人の顔を見た途端、胸の奥に溜め込んでいた感情が込み上げてくる。
「……ありがとう」
絞り出すような声だった。
「二人が仲間になってくれなかったら……俺、ここまで来られなかった」
言葉を続けようとしたが、胸が詰まる。
気づけば目が潤んでいた。
それを見たレグナスは、一瞬だけ顔をしかめた。だがすぐに、いつもの豪快な笑顔に戻る。
「おいおい、なんだよその顔。まるで死んだ人みたいな顔してるじゃねぇか」
ラウルは思わず瞬きをする。すると横からフィオナが、やわらかな声で言った。
「感謝するのは、私たちの方よ」
「え?」
戸惑うラウルに、フィオナは静かに続けた。
「ライアン……じゃなくて、ラウル、覚えてる?」
彼女の瞳が、どこか懐かしそうに細くなる。
「入学式の日。不良の男たちに絡まれていた私を助けてくれたのは、ラウルだった」
「今でも、はっきり覚えてるわ」
嬉しそうに微笑む。
ラウルは慌てて視線を逸らした。
「そ、そんなの……大したことじゃないよ」
「いや、大したことだろ」
レグナスがすぐに口を挟む。
「でもさ」
にやりと口角を上げた。
「ラウルのその可愛い顔、もう見られなくなるのは寂しいなぁ」
「なっ……!」
ラウルは一瞬で顔を赤く染めた。
「揶揄うなよ!」
「ハハハッ、悪い悪い」
レグナスは笑いながら、ラウルの背中をバシバシ叩いた。
「でもな、お前と一緒に冒険できて、マジで楽しかったぜ」
一拍置いて、真剣な目でラウルを見据える。
「短い間だったけどよ。お前は間違いなく俺の親友だ」
力強く言い切る。
「一生忘れねぇ」
その言葉を聞いた瞬間、ラウルの涙が溢れた。
「……レグナス……! 俺も……絶対忘れない!」
思わず抱き寄せた。
レグナスは困ったように笑った。
「おいおい、国王様だろ。泣くなって」
ぽん、と頭を軽く叩く。
そして小声で囁く。
「それより、フィオナに言うことあるだろ」
そう言うと、レグナスはラウルの背中をぐいっと押した。
「うわっ!」
突然押されて、ラウルは前につんのめる。
顔を上げると、すぐ目の前にフィオナの顔があった。
あまりにも近い距離に、ラウルは慌てて背筋を伸ばす。
「……あ、あのさ……ず、ずっと前から……フィオナを……」
震えながら、ラウルは言葉を紡ごうとする。
だが、視線が泳いでいて、顔がどんどん赤くなる。
フィオナはその様子を見て、くすっと笑った。
「ねえ……ラウル」
フィオナが、静かに名前を呼んだ。
「な、なに?」
ラウルはまだ顔を赤くしたまま答える。
フィオナは少しだけ視線を落とした。言葉を選ぶように、ゆっくりと息を吐く。
どうしても、聞かずにはいられなかった様子を見せた。
「……私達……、本当に、一緒に暮らせないの?」
その瞳には、わずかな希望が残っていた。
「ラウルと一緒なら……私、頑張る」
言葉を探しながら続ける。
「生肉でも、草でも食べるし……森の生活も覚える」
少しだけ笑う。
「だから――ダメ?」
フィオナの声が、かすかに震えた。
その言葉を聞いた瞬間、ラウルの胸が強く締め付けられた。
(……俺も一緒にいたいよ、フィオナ。でも、ごめん……)
「……ダメだ」
ラウルはフィオナをまっすぐ見つめる。
「二年間、人間の世界で暮らして分かったんだ。
人間と獣の文化は……想像してたより、ずっと違う」
ラウルは森の方へ視線を向ける。
「俺は平気でも、フィオナは絶対に苦労する」
もう一度フィオナを見る。
「そんな思いをさせたくない」
その言葉には、はっきりとした優しさが込められていた。
フィオナはその言葉を受け止めたかのように、しばらく黙っていた。
目を伏せ、小さく息を吐く。
「……そっか。うん、分かったよ、ラウル」
ほんの少しだけ寂しそうな声。
ラウルは何か言おうと口を開いた、その時だった。
フィオナは一歩近づく。
「フィ、フィオナ?」
ラウルが戸惑った声を上げる。だがフィオナは何も答えない。
ただ静かに手を伸ばし、ラウルの頬に触れた。指先が、ほんの少し震えている。
「……でもね」
小さな声で言う。
「これだけは、しておきたかった」
フィオナは背伸びをして、ラウルの頬にそっと唇を触れさせた。
「……!」
ラウルの体が固まる。
顔が一気に赤くなり、耳まで真っ赤になる。
「な、な、な……!」
言葉にならない声を上げて狼狽える。
フィオナはくすっと笑った。ほんの少しだけ、目が潤んでいる。
「これで、後悔しない」
「フィ、フィオナ!? 今何を……、ひゃっ!」
ラウルが狼狽えていると、突然誰かに背中を叩かれた。
思わず情けないうめき声を出して、ゆっくり背後を振り向いた。
「男ならしゃきっとせんかい! お前の根性を見せろ!」
育て父のガルクは鋭くラウルを見据えて、低く吠えた。
「こ、根性って……、俺は……」
「おいおい、お前ら。もう会えないのに、頬っぺただけでいいの?」
追い打ちをかけるように、レグナスはおどけた笑みで呟いた。
「ちょ、レグナス!」
ラウルは慌てて抗議を唱えたが、すぐにハッと気付いた。
(もう……会えないんだな……。だったら、……)
ラウルは拳を握りしめて、フィオナの前へ歩み出した。
「フィオナ……。初めて会った時から、フィオナのことが、ずっと気になってた。
笑うとさ、胸がぎゅってなるんだ。一緒に暮らせないのは残念だけど……、その……、
俺、うまく言えないけど…………っ!」
まだラウルの言葉が終わらないうちに、彼は唇に温かい感触を感じた。視界に映ったのは、
涙目のフィオナだった。彼女は何も言わずに、ただラウルの長い髪に指を滑らせて、唇を重ねた。
フィオナの柔らかな指先を感じたラウルは、静かに目を閉じて、フィオナの頭を抱き寄せた。
茜色に染まりつつある空の下で、本来出会うはずのない二人は、抱きしめ合っていた。
森の獣達も、ロニーとレグナスも、二人の永遠の絆を祝福するかのように、静かに見守っていた。
「ねぇ、ラウル。 一つ、お願いしてもいい?」
フィオナはラウルの長い横髪を手で梳きながら、尋ねた。
「お願いって?」
「ラウルの髪、ちょっとだけ分けてくれないかしら?」
「……えっと、ちょっとだけならいいけど、何に使うの?」
意図が分からず、ラウルは首を傾げた。
「思い出の品を作りたいの。 私たちの出会いは、奇跡だと思わない?
過去と現在、本当なら交わることのないものがこうやって、触れ合えるほど近く感じられて……」
フィオナはラウルの頬に指を滑らせて、続けた。
「だから、その奇跡を、私や私の子孫に語り継げたいの。
私は確かに、ラウルという勇敢で優しい獣たちの王に出会った。
いつまでも忘れないように、印を残したい」
フィオナの言葉を受け止めたラウルは、柔らかく頷いた。
「フィオナ……、そこまで俺の事を思ってくれているんだね。
俺も、フィオナのことを忘れないよ……」
「ゴホン! ゴホン!」
穏やかな空気を破るように、レグナスの咳払いが響いた。
「ちょっと待った。ラウルに出会ったのは、フィオナだけじゃないぞ。
俺ら三人の髪を編み込んで、腕輪にしたらどうだ?」
「それ、いいかも! レグナスってたまにいい事言うわね」
フィオナは目を輝かせて、悪戯っぽく笑った。
「たまにって、失礼だな、おい!」
レグナスのムッとした顔で、三人の笑い声が響き渡った。
穏やかな空気が流れている中、フィオナはラウルの黒髪一束を切り取った。
それを器用にレグナスの赤い髪と自分の茶色の髪と編み込んでいって、三つの腕輪を作り上げた。
「お……きれいな腕輪だ……。これで二人のことずっと覚えられるよ」
ラウルは出来上がった腕輪を受け取って、目を輝かせた。
「この色の組み合わせって、なんかかっこいいな。さすがフィオナだぜ」
レグナスも自分の腕に嵌めて、嬉しそうに眺めた。
「ふふふ、頑張った甲斐があったわ。ラウル、もし人間界に戻ることがあったら、
この腕輪を思い出してね。私たちの子孫に会えるかも」
「うん、必ずだ。改めて、ありがとう、二人とも」
ラウルは三色の腕輪を握りしめて、背中を向けた。
「さようなら、レグナス! フィオナ……! アガッ! 」
ラウルは走り去ろうとしたら、後頭部に鈍い衝撃を感じた。
振り返ると、レグナスが険しい表情で拳を振りかざした。
「違うだろう! 別れじゃないさ。きっと、俺らはまた会える。俺か、俺の子孫か、
必ずまたお前に会う。だから、また会おう、ラウル」
「レグナス……うん! また会いに行くからね」
夕焼けに照らされながら、三人の親友が抱きしめ合っていた。
生きる時代が違っていても、三人の絆は確かだった。お互いの体温を感じながら、
ラウルは共に旅した仲間を深く胸に刻んだ。
「ラウル様、そろそろ参りましょうか」
ロニーはそっと歩み寄って、声をかけた。
「うん。 じゃね、レグナス、フィオナ。 あ、アルヴィン校長にもよろしく伝えてね」
「あぁ。 風邪ひくなよ、ラウル」
「ラウル……、元気でね」
その短いやり取りを終えて、ラウルは再び背中を向けて、ロニー、そして獣達と共に
森の茂みへ歩き出した。レグナスとフィオナも、森の出口へ歩み出した。
(進む道が違っていても、きっとまた会えるよね……)
様々な感情を思い巡らせながら、ラウルはロニーに導かれて、森の北領域へ進んだ。
ラウルは振り返らなかった。
振り返れば、きっと足が止まってしまうから。
だが手首の腕輪が、静かに揺れていた。
三人の絆は、確かにそこにあった。




