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第6話 小さな森

 昼の皿は光っていた。刃が肉を断ち、フォークが柔らかくすくい上げ、スプーンが湯気を

連れてくる。ライアンの指はもう迷わない。昨日のぎこちなさは、手のひらのどこかへ溶けた。

喉の奥が熱を覚え、腹が素直に喜ぶ。


 向かいでドロテアが笑った。高く、鈴のように。

「ご覧なさい、ロニー。ほら、もう手が食器を覚えたわ。可愛いでしょう? ――私の言ったとおり」

 意味は分からない。けれど、その笑みの勝ち誇りは分かる。

(自分のものだ、って顔)


 ライアンは皿を空にし、視線を落とした。喉の底で小さく唸り、すぐ飲み込む。

 昼食が片づくころ、青髪の使用人――ロニーが一歩前に出た。まっすぐの背、落ち着いた声。

「令嬢様。温室の実りがよい時期です。彼に収穫を手伝わせてはいかがでしょう。本物に触れた方が

 言葉も身につきますし、気分転換にも」

 

 ドロテアはわずかに眉を上げ、すぐに微笑を深める。

「よろしいわ。あなたに任せます。――連れていきなさい」

 


 白いエプロンが差し出された。ロニーはしゃがみ、背中の紐をきゅっと結ぶ。小さな籠も渡される。


「行こう」

 意味は分からない。けれど、掴まれた右手の温もりが、その音を運んでくる。

(……たぶん、“行く”ってことだろ……)  

 ライアンは小さく会釈する。頬が、ほんの少しだけ緩んだ。


 長い廊下。重い扉。

 扉が開いた瞬間、光が奔った。やわらかな陽。頬を撫でる風。

(……太陽。風) 胸がほどけ、同時に、きゅっと締まる。

(森とは違う。でも――ほっとする)


 ロニーが振り向き、指先で「おいで」と招く。

 身長の違う影が手をつないで伸びる。ライアンの胸に、妙な感覚がよぎった。

 (俺ら……兄と弟ってやつに見えるのかもな)


 やがて二人は光り輝く建物にたどり着いた。

扉が開いた瞬間、眩しい光が溢れ出した。

目を細めて踏み込むと、そこには透明な壁と天井に囲まれた不思議な空間が広がっていた。

規則正しく並んだ草木が鮮やかな実をつけ、陽の光がガラス越しに差し込んでいる。

……そこは屋敷の温室だった。


 湿った土と青く甘い匂いが、一気に鼻を満たす。整然と並ぶ畝。濃い緑の人参の葉、巻いたキャベツ、

背を伸ばすトウモロコシ。枝には赤と橙の小さな光――りんご、みかん。

 ライアンの赤い瞳が、ぱっと見開かれた。

(……森だ! 森の匂いがする!)

 胸が弾ける。籠を抱えた手が小さく震える。足が勝手に前に出る。


 「……っ!」

 声にならない声。指が、緑の畝を刺す。

 (触りてぇ。土に触りてぇ!)

 

 ロニーが隣で笑い、膝を落とした。土に指を入れ、人参の根を探り、ゆっくり引く。

ぶちぶちと細根が切れ、橙が姿を見せる。布で土をぬぐい、籠へ。


 「にんじん」

 はっきり、短く。

 橙の重みと匂いが目の奥で弾け、ライアンの唇が震えた。

(あ……これ、知ってる……! でも……音があるんだ。名前が……!)

 喉が勝手に動く。

「……に、ん……じん」


 腕をまくり、土に手を差し入れる。冷たさが掌に沁みる。指先で根を確かめ、ぐっと引く。

抜けた。ずっしりした重さ。柔らかな香り。

 「は、はっ……!」

 笑いがこぼれ、慌てて唇を噛む。(だめだ、油断するな。……でも、楽しい)

 

 ロニーが目で褒め、口角を優しく上げた。

 「じょうず」

 言葉は霧でも、意味は肌で分かる。

 次はキャベツ。外葉をめくって芯を指し示す。

「きゃべつ」

「……きゃ……べつ」

 丸い球を両腕で抱え、もぎ取る。重い。胸がいっぱいになり、唇が勝手に笑いの形をつくる。

 

 トウモロコシ。穂の下で茎を折る。

 「とうもろこし」

 「とう……も……ろ……こし」

 舌がもつれる。ロニーが喉の奥で笑い、もう一度ゆっくり言ってくれる。

 「とう・も・ろ・こ・し」

 今度は言えた。胸がじん、と熱い。

 

 枝の赤をひねる。

 「りんご」

 「り……んご」

 掌におさまる硬さ。甘い匂いが舌の奥をくすぐる。

 

 橙をもぐ。

 「みかん」

 「みかん」

 ぽん、と音がして、思わず微笑む。


 紫の艶。

 「なす」

 「なす」

 つやに映る自分の赤い瞳が、小さく揺れた。

 

 土を崩す。

 「じゃがいも」

 「じゃ……がいも」

 土の温度が掌に移る。(この匂い、好きだ。忘れたくない)

 復唱するたびに、息が弾む。指が勝手に次を指す。

(まだある? ほかにも? もっと知りたい! 全部言いたい!)

 

 ライアンはくるりと振り返り、ロニーの袖をぐいと引いた。

 「……!」

 ロニーが驚いて振り向くと、ライアンは子狼のように目を輝かせ、指さした先へ駆け出そうとする。

 (行きたい! 見たい! あっちだ、早く!)

 

 ロニーは抵抗せず、くすっと笑ってその手に引かれるまま歩いた。

 「分かった、分かった……」

 低く優しい声が聞こえる。意味は分からない。けれど、声色から“いいよ”と伝わってきた。

畝から畝へ、木から木へ。袖を引く小さな力。ロニーの足はそれに合わせて進む。

キャベツの葉に頬を寄せ、息を吹きかける。

(冷たい。いい匂い)

 

 りんごの枝を見上げ、背伸びして指先を伸ばす。

(届く……くそ、届かねぇ……でも、届きたい!)

 ロニーがそっと背に手を添える。指先が実に触れる。

「……っ」

 小さな歓声。


 温室に、拙い復唱と笑い声が満ちた。無機質なガラスの空間が、遊び場のように変わっていく。

ロニーの口元にも、いつしか柔らかい笑みが灯っていた。

どれほど走り回っただろう。

陽が斜めに差し、葉脈の影が長く伸びている。ロニーは空を仰ぎ、小さく頷いて、ライアンの手を

とった。


 「そろそろ、帰ろう」

 扉の方へ歩き出す。足が止まる。

 胸がきゅっと縮む。(また――屋敷へ戻る)

 喉の奥に熱が押し寄せ、視界が少し滲む。

 ロニーは気づき、しゃがんで目線を合わせた。指先で頬にそっと触れる。


 「また来よう。ね?」

 やわらかな調子。ゆっくり、繰り返す。

言葉の輪郭だけが、輪郭のまま届く。


 (また……来れる? 本当に……また?)

ライアンはまばたきをして、こくりと頷いた。呼吸が少し軽くなる。

 

 しばらく黙ったあと、胸の中で小さな決心が生まれた。

 (今日、習ったやつ……言ってみるか。――この人に、だけだ)  

 

 人差し指を伸ばし、しゃがむロニーの胸にそっと当てる。

 唇が乾く。喉が掠れる。

 「……な、まえ……っ」

 かすれた声が落ちる。

 (クソ……ちゃんと言えたか? ヘタすぎねぇか、俺……でも……伝わってほしい!)。

 

 ロニーの目がわずかに開く。驚き。

そして、すぐに笑み。からかいではない、ほっとさせる笑い。

ライアンは肩をすくめ、両手を胸の前で小さく握りしめた。

まるで叱られた子狼のように、視線を泳がせる。

 

 (だめだった? 間違えた? ……でも、言いたかったんだ)

 

 ロニーは首を横に振り、やさしく答えた。


 「ロニー」

 自分の胸を軽く叩いて、もう一度。


 「ロニー」


 音が、ライアンの中に落ちた。

 (ロニー)

 口の中で転がす。

 「……ロ、ニー」


 ロニーが嬉しそうに目を細め、親指を立てる。

胸の奥で、知らない灯がふっと灯った。

(……なんだこれ。変にあったかい……もっと、この人と――声、交わしたい)

 

 温室を出るころには、空は茜に染まり始めていた。屋敷へ戻る廊下は長いが、さっきより暗く

感じない。食堂では、いつもどおり晩餐が並ぶ。ドロテアの笑いが遠くで円を描く。ライアンは

器用に食器を使い、腹を満たす。視線は静かに落ちているが、時々ロニーを見る。

ロニーが目をやる。その瞬間、ライアンの顎がほんの少しだけ動く。


 (……へへっ)

 ふたりだけの合図みたいに。

 


 寝室。扉が閉まる音。

 ベッドに体を沈めると、昼の土の匂いが、まだ指先から薄く上がった。


 (今日の匂いだ)

 小袋の牙を掌で確かめ、胸の上で手を組む。


 (ロニーの声……もっと聞きたい。俺も……もっと、返したい。言葉で……)

 唇の端が、勝手にゆるむ。

 瞼が重くなる。

 赤い瞳は細く閉じられ、少年の口元には、微かな笑みが残った。

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