第55話 譲れぬ理想
骨がキメラに潰されたラウルは、母ゴリラの腕の中から懐かしい姿を捉えた。
「……レグナス……」
「……フィオナ……」
名を呼んだ瞬間、二人は同時に駆け出していた。
キメラと東の魔術師を警戒しながらも、迷いなく、ラウルのもとへ。
「……ほんっとに!」
ラウルの前にしゃがみ込み、レグナスが頬を膨らませる。
「急にいなくなるとか、ひどすぎるだろ! こっちは、どれだけ心配したと思って――」
「……ごめん……」
ラウルは、弱々しく笑った。
「あとで……ちゃんと、話すから……」
その言葉を、フィオナが遮った。
「話は後」
静かで、しかし有無を言わせない声。
フィオナは、そっとラウルの身体に手を伸ばす。
「……酷い怪我……。待ってて、治癒魔法をかけてあげるから」
彼女は目を伏せ、短く詠唱した。
次の瞬間。
ラウルの身体が、青白い光に包まれる。
温かい波が、内側から広がっていく。
「……っ」
痛みが、引いていく。
骨が、元に戻っていく感覚。
呼吸が、少しずつ楽になる。
やがて光が収まると――
ラウルは、ゆっくりと上半身を起こした。
目の前には、変わらない二人の顔。
それだけで、胸がいっぱいになった。
三人は、しばらく言葉を失ったまま、互いの顔を見つめ合っていた。
焚き火の爆ぜる音も、遠くの咆哮も、今はどこか遠い。
最初に口を開いたのは、やはりレグナスだった。
「……はは」
いつもの、少し照れたような笑顔。
「似合ってるじゃん、その髪」
ラウルの肩から背中へと流れる、長い黒髪を指差す。
「ほんとに……獣の子、なんだな」
感心したように、しかしどこか誇らしげに言ってから、首を傾げる。
「でさ、今は……ライアンって呼んだ方がいい? それとも――ラウル?」
その問いに、ラウルは一瞬だけ目を見開いた。
そして、少し恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……ラウル、がいい」
その答えに、レグナスはぱっと笑った。
「了解」
短く、しかし迷いのない声。
ラウルは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じながら、尋ねた。
「……二人とも、どうしてここに?」
レグナスは肩をすくめる。
「お前が残した手紙、読んだから」
その言葉に、ラウルの心臓が跳ねた。
「校長に問い詰めたらさ、全部、話してくれた」
フィオナも、静かに頷く。
「二人で、話し合ったの。 ラウルを、ひとりにしないって」
彼女の声は穏やかだったが、そこに迷いはなかった。
「あなたが選んだ道なら、私たちは、それを支える」
ラウルは、言葉を失った。
胸の奥が、いっぱいになって、息が詰まる。
「……ありがとう」
ラウルは絞り出すようにそう言って、ゆっくりとベアトリスの腕から降りた。
まだ少し痛みは残っている。
だが、足は――確かに、地を踏んでいた。
ラウルと仲間達との会話を見守っていたベアトリスは、大きな手のひらで優しく
ラウルの頭を撫でながら尋ねた。
「この子らはラウルの友達かい? 怪我はもう大丈夫?」
ラウルは誇らしげに二人を紹介した。
「もう大丈夫だ、母さん。この二人は俺の親友だよ。レグナスとフィオナっていうんだ」
突然獣と喋っているラウルを見て、レグナスは緊張した表情でラウルに耳打ちした。
「ら、ラウルよ、その大きなゴリラはお前の母さんか?
あ、もしかして、隣にいるその厳つい狼は父さんか? 嚙みついたりしないよな?」
ラウルはおどおどしているレグナスを見て、くすっと笑って、答えた。
「安心して。父さんと母さんは優しいよ。さっき二人の事を紹介した」
「へぇー、本当に獣と喋れるんだな。すげぇよ、お前」
レグナスは感心したように、ラウルの肩を叩いた。
その穏やかな時間を壊すように、冷たい声が響いた。
「――感動ごっこは終わりか?」
冷たい声が、空気を切り裂いた。
セリオス殿下が、剣を肩に乗せたまま、ラウルを見下ろしていた。
「虫が増えたところで、結果は変わらぬ」
青色の瞳が、嘲るように細められる。
「貴様らごときが束になっても……、この私に、勝てるはずがない」
温かかった空気が、一瞬で凍りついた。
戦いは、まだ終わっていない。森を覆う重苦しい空気は、少しも晴れていなかった。
剣を肩に担いだまま、セリオス殿下がゆっくりと一歩、前に出る。
刀身は淡く光を放ち、その輝きが木々の影を歪めていた。
「まだ立つ気か、ラウル」
低く、冷たい声。
「今なら命だけは拾わせてやる。跪け」
その言葉に、ラウルは歯を食いしばる。
体はまだ痛む。腕には、さきほどまで骨が砕かれていた感覚が残っている。
それでも、剣を握る手は離さなかった。
「……嫌だ」
震えを押し殺し、ラウルは真っ直ぐに殿下を見返す。
「兄さんは……こんな人じゃなかったはずだ。兄さんはあの男に騙されている!」
その呼びかけに、セリオス殿下の口元がわずかに歪んだ。
嘲りとも、怒りともつかない笑み。
「騙されている……だと?」
剣先が、ゆっくりとラウルを指す。
「私は、欲しいものを取り戻すだけだ」
その光景を少し後ろから見ていたレグナスは、喉を鳴らした。
額を伝う汗を拭いもせず、ラウルの背中に声を投げる。
「なあ……ラウル」
声が、わずかに揺れている。
「それ、本当に……あの伝承に出てくる、セリオス殿下なのか?」
目の前に立つ存在が、物語の中の“英雄”であり“反逆者”だという現実。
恐怖が、遅れて胸に押し寄せてきたのだろう。
ラウルは一瞬だけ振り返り、静かに頷いた。
「……ああ」
それから、少しだけ口角を上げる。
「でも、大丈夫だ。俺らは、ひとりじゃない」
レグナスはその言葉を聞いて、拳を強く握った。
震えは消えていない。それでも、笑顔でラウルに応えた。
「……だよな。ここまで来て、逃げるわけないだろ」
フィオナも、小さく息を吸い込み、杖を胸の前で握り直した。
「私も……怖い」
正直な言葉を漏らしながら、それでも、視線は逸らさない。
「でも、ラウルを一人で戦わせる方が、もっと嫌」
その覚悟を見て、ラウルの胸の奥が、じんと熱くなる。
だが、その空気を切り裂くように、セリオス殿下が鼻で笑った。
「……ならば提案だ、ラウル」
その声音は、どこか愉悦を含んでいた。
「エルデアの戦士らしく――獣武装で決着をつけよう」
森が、ざわりとざわめく。
「私が負けたなら、二度とお前の前には現れぬと誓おう。
だが――お前が負けたなら」
青色の瞳が、冷酷に細められた。
「お前をあの女、ドロテアに引き渡す。
そして、《時の揺り籠》は私のものだ」
ラウルは一瞬、言葉を失った。
「……獣武装?」
聞き返したその声には、戸惑いが混じっている。
そのとき、低く落ち着いた声が背後から響いた。
「獣武装とはな、ラウル」
ガルクだった。
「獣の力を借り、己の身体と魂を強化する術だ」
ラウルは振り返る。
「……獣の力を借りる……、あ、もしかして」
「そうだ。お前は、もう何度も使っている」
その言葉に、記憶が蘇った。
学院に入ってすぐのレース。六腕の巨人との死闘。
死を覚悟した瞬間、胸の奥から流れ込んできた――自分のものではない、確かな力。
「……あれは、本当に父さんが力を貸してくれたの?」
ガルクは、短く頷いた。
「俺だけではない」
隣で、ベアトリスが優しく微笑む。
「私も、ずっと一緒だったよ」
ガルクとベアトリスの言葉に、ラウルの胸がぎゅっと締めつけられた。
彼は深く息を吸い、二人の前で頭を下げる。
「……だったら、父さん、母さん、もう一度俺に……、力を貸してください」
一瞬の沈黙。
しばらくして、ガルクは鼻で笑った。
「何を今さら。最初から、そのつもりだ」
ベアトリスもそっとラウルの肩に手を置く。
「一緒に、止めよう。ラウルの兄を」
その時、ガルクは視線を横に流した。
「……ただしだ。俺らが力を流す間、身動きが取れぬ」
視線の先には、レグナスとフィオナ。
「その間――キメラを頼めるか」
ラウルはすぐに頷き、二人に振り向いた。
「レグナス、フィオナ、よく聞いてくれ。父さんたちは、俺に力を貸してくれるそうだ。
その間、二人は動けなくなる。だから……、キメラをお願いできるか?」
レグナスは一瞬だけ息を呑み、それから力強く笑った。
「分かった。キメラは俺たちに任せておけ!」
フィオナも、静かに杖を構える。
「私も、全力で援護する」
その光景を、セリオス殿下は冷ややかに眺めていた。
「……さあ、茶番は終わりか」
そして、東の魔術師に視線を投げる。
「おい、あのライオンを出せ!」
東の魔術師は、恭しく一礼し、空間を裂いた。
闇の裂け目から、一本の鎖。
続いて、ゆっくりと姿を現したのは――
金色の、大きなライオン。
その姿を見たガルクの喉から、低く、掠れた声が漏れた。
「……バルグラント……」
次の瞬間、その声は怒りと悔恨に震えながら、叫びに変わる。
「なんだ……その姿は……!
誇り高かった鬣を、そんな無惨に切り落され……」
「その体……骨ばかりじゃないか……!」
ガルクの牙が、ぎり、と噛み合わされる。
「かつて森を率いた王を……首輪で繋ぎ、鎖で引きずり……。
よくも……よくも、ここまで――!!」
震える吐息の奥に、抑えきれぬ殺意が滲んでいた。
「バルグラント……! すまなかった……!
こんな姿にされるまで……助けられなかった……!」
バルグラントは、かすかに顔を上げ、ガルクを見つめる。
「……ガルクか……。た、助けてくれ……」
その弱々しい声に、ガルクの怒りが爆発した。
「セリオス……! よくも、ここまで――!」
だが、セリオス殿下はガルクを無視するかのように笑って、命令を下した。
「力を貸せ、バルグラント。それが、お前の役目だ」
命令の言葉と同時に、首輪から稲妻が迸った。
「――あああああっ!!」
バルグラントの悲鳴と共に、金色の光がバルグラントの体から溢れ出し、セリオス殿下の体を
包み込んだ。
同時に、ガルクとベアトリスはラウルに叫んだ。
「ラウル、俺らの力を受け取れ!」
それを聞いたラウルは、すぐに目を閉じた。
父の強さ。母の温もり。
二人の姿を、はっきりと思い浮かべた。
すると、ラウルは何かが流れ込んでくるのを感じた。
熱く、優しく、誇り高い力。
全身が光に包まれ、鼓動が大きく響く。
「……すごい……。これが、獣武装……!」
思わずラウルの口から感動の言葉が漏れた。
やがて、二つの光が収まる。
向かい合う二人は同じ技を纏い、同じ血を引く兄弟。
森は、息を潜めていた。
次に剣を振るうのは――
どちらか一人。
静寂の中で、先に口を開いたのはラウルだった。
「兄さんは……何を守りたかったんだ?」
セリオス殿下は、薄く笑ったまま答える。
「守る? 違うな、ラウル」
光を帯びた剣を、前に構える。
「私は、民に選ばれた王子だ。なのに、獣に拒まれ、傷を負わされ、それでもなお――
王座は、私のものだったはずだ」
セリオス殿下は真剣な眼差しで続けた。
「弱さを抱えた理想など、国を滅ぼすだけだ。だから私は、力を選んだ。
永遠に、揺るがぬ支配をな」
それを聞いて、ラウルは一歩、前へ出た。
「……兄さんは間違っている」
両手剣を、静かに構える。
「誰かを踏みつけて立つ王なんて、何の意味があるというの?
獣も、人も、弱いままでも……、
一緒に生きられる道があるって、俺は信じている」
ガルクとベアトリスの力が、背中で脈打つ。
仲間の気配が、確かにそこにあった。
「それが、俺の選んだ理想だ」
セリオス殿下は、ふっと息を吐いた。
「……甘いな」
だが、その声には、かすかな苛立ちが混じっていた。
「ならば、証明してみせろ。その理想が――
剣よりも強いということを」
二人の剣が、わずかに軋む。
光と、獣の力が、森に満ちていく。
もう、言葉は不要だった。
兄と弟。
理想を巡る、最後の問い。
答えは――
刃で示される。




