第53話 引き返せぬ刃
森の上空が、ふっと歪んだ。
重たい空気を裂くように、二つの異なる気配が降りてくる。
一つは黒い霧のように蠢き、形を定めないまま空を汚した。
もう一つは、まるで太陽そのものが降りてきたかのように、金色の光をまとっていた。
二つの影は、ゆっくりと地へ降り立つ。
土を踏みしめた瞬間、黒い霧と金色の輝きは静かに消え、そこに二人の人影が現れた。
深い沈黙が、森を包む。
最初に動いたのは、ドロテアだった。
「……あ……」
彼女は、黒い衣をまとった男の姿を見た瞬間、堪えていた感情が一気に溢れ出したように、
駆け寄った。
「お願い……! あの首輪を……あの黒い首輪を、もう一度……!」
涙を浮かべ、縋るようにその足元へ崩れ落ちる。
マントの裾を掴み、必死に顔を上げた。
黒い衣の男は、頭巾の奥から覗く歪んだ笑みを浮かべたまま、低く嗤う。
「そんなに――あの子が欲しいのか?」
その問いに、ドロテアは何度も頷いた。
「欲しい……! 必要なの……!
あの子は、私の息子なのよ……! 私の理想なの……!」
男は、楽しげに肩を揺らした。
「いいだろう。ならば、その願い……叶えてやろう」
彼は、指先で空をなぞる。
「終わるまで、どこかで大人しく待っていろ。“捕獲”は――私がやる」
ドロテアの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当……? ありがとう……ありがとう……!」
彼女は何度も礼を述べると、ふと振り返り、ラウルを睨みつける。
「待ってなさい、ライアン。また……可愛い息子に、してあげるから」
そう言い捨てて、森の入口へと走り去った。
「……絶対に、ならない。誰がお前のおもちゃになるもんか」
ラウルは低く呟き、拳を握り締めた。
そして視線を上げる。
黒い衣の男の隣に立つ、金髪の青年へ。
陽光を思わせるさらさらとした肩を過ぎる金髪。
澄んだ青空のような青い瞳。
そして――右目を縦に走る、深い引っ掻き傷。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
(……伝承の本が本当だったら、あの人は……)
ラウルは、確信した。
「……ロニー。あれは……セリオス殿下、なのか……?」
隣に立っているロニーに問いかけたが、返事がなかった。
ラウルがふとロニーを見ると、ロニーは顔面蒼白だった。
唇がわずかに震え、言葉を失っている。
酷く怯えているロニーを見て、ラウルは思わず唾を呑んだ。
その沈黙を破るように、金髪の青年が口元を歪めた。
「久しいな、ロニー」
その声は、どこまでも甘く、冷たい。
ロニーは、びくりと肩を震わせ、それでも深く一礼した。
「……ご無沙汰しております、セリオス殿下」
震える声で、丁寧に言葉を選ぶ。
「ご無事で……いらしたこと、何よりでございます」
建前だけの、祝いの言葉。
セリオス殿下は、その様子を見て、満足そうに微笑んだ。
「そう固くなるな。今日は……再会を祝う日だろう?」
森の空気が、さらに冷え込んだ。
嵐は、もう目の前まで迫っていた。
セリオス殿下の視線が、ロニーの腕の中へと滑った。
水晶玉と、古びた書。それを認めた瞬間、彼の口元がゆっくりと歪む。
「……なるほど」
低く、粘ついた声だった。
「時の揺り籠。そして、盟約の書……」
名を告げられたその瞬間、ロニーの肩がびくりと跳ねる。
「それを――こちらへ渡せ」
命令だった。
疑問も、選択肢もない。
ロニーは喉を鳴らし、震える腕で水晶玉と書を抱き締めた。
「……お断りいたします、殿下」
必死に言葉を絞り出す。
「これらは、王国と民を守るための神聖な魔道具です。
私利私欲のために使われることは、決して……!」
「まだ、そんな戯言を言うか」
セリオス殿下の表情が、一気に冷えた。
「私に逆らうつもりか、ロニー」
一歩、前に出る。
その足取りだけで、空気が軋んだ。
「また――思い出してもらおうか。
あの時の痛みを」
ロニーの呼吸が乱れる。
過去の記憶が、体を縛りつけるようだった。
「お、殿下……おやめください……!」
叫びながら、なおも宝を手放さない。
ロニーの前に、影が割り込んだ。
「――やめろ!!」
ラウルだった。
ロニーの前に立ち、両手剣を構える。
獣の子としての体が、自然と防御の姿勢を取っていた。
「それ以上、ロニーに近づくな!」
セリオス殿下の視線が、ゆっくりとラウルへ移る。
数秒の沈黙。
やがて、薄く笑った。
「……ほう」
じっと観察するように、頭から爪先まで見下ろす。
「大きくなったな、ラウル。
……いや、今は別の名だったか?」
次の瞬間、嘲るように鼻を鳴らした。
「しかし……なんだその姿は。獣の真似事か? 実に、無様だ」
ラウルの拳が、ぎゅっと握り締められる。
「……獣が、嫌いなのか」
問いは低く、しかし真っ直ぐだった。
セリオス殿下の笑みが消える。
鋭い刃のような視線で、言い放った。
「嫌いだ」
迷いはなかった。
「私を拒み、
この目に傷を残し、
そして――私の座を奪った」
唇が歪む。
「お前も、獣も。すべて、憎い」
ラウルは一瞬だけ目を伏せ、そして黒い衣の男へ視線を向けた。
「……お前が」
怒りを抑えた声で告げる。
「兄さんを唆した、東の魔術師か」
黒衣の男は、愉快そうに肩を揺らした。
「唆す? はは……違うな」
指を立て、軽く振る。
「私はただ、背中を押してやっただけだ。
選んだのは、殿下ご自身ですよ」
ラウルは再びセリオス殿下を見た。
胸の奥が、締め付けられる。
「……兄さん」
その呼び名が、空気を裂いた。
「もう、やめてくれ。
そいつから、離れてくれ……!」
次の瞬間。
「――その名で、呼ぶな!!」
咆哮と共に、剣が抜かれた。
鋭い金属音が、森に響く。
セリオス殿下の剣先が、真っ直ぐラウルを指した。
「お前に、兄と呼ばれたくない!」
ラウルも、静かに剣を抜く。
両手剣の重みが、腕に伝わった。
「……それでも」
剣を構え、正面から向き合う。
「俺は、兄さんを止める」
二振りの剣が、睨み合う。
その背後で、東の魔術師がくつくつと笑う。
「無駄ですよ、ラウル殿」
楽しげな声が、森に滲む。
「殿下は、もう“理解”されています。獣も、人も、すべて邪魔だとね」
ラウルは、その言葉で悟った。
――説得は、もう無理だ。
兄の瞳には、もはや迷いがない。
そこにあるのは、誰かに“作られた答え”だけだ。
その時、東の魔術師はゆっくりと手を上げた。
指先に黒い霧が集まり、ねじれるように形を変える。
やがて、それは一つの輪となって宙に浮かんだ。
――首輪。
ラウルの胸が、ぞくりと冷えた。
喉元に、はっきりとした幻痛が走る。
地下牢。
冷たい床。
無理やり切られた髪。
電撃と共に突き刺さった恐怖。
「……それ」
声が、わずかに震えた。
「その首輪……ドロテアに渡したのは、お前か」
東の魔術師は、隠すことなく頷いた。
「ええ。よくできた“贈り物”でしょう?」
愉快そうに、首輪を指で弾く。
「退いてくださらないなら――
もう一度、あなたの首に嵌めて差し上げますよ」
その視線が、ねっとりと絡みつく。
「そして、ドロテア嬢にお返しする。
今度こそ、理想の息子に仕上げてもらいましょう」
ラウルの中で、何かが切れた。
「ふざけるな……!」
怒りを抑えきれず、声が荒れる。
「俺はもう――
あの女のおもちゃじゃない!」
東の魔術師は、肩をすくめて笑った。
「怪我をする前に、素直に“お母さん”の所へ戻った方がいいですよ、ラウル殿」
嘲るように、ラウルの髪を見やる。
「あなたは人間です。その獣みたいに伸び放題の髪も、
さっぱり切った方が、ずっと“可愛らしい”ですよ?」
挑発。
完全な、侮辱。
だが――ラウルは、怯まなかった。
両手剣を、ぎゅっと握りしめる。
足は、前を向いたままだ。
「……逃げない」
低く、しかし確かな声。
「俺は二度と縛られない。
誰の理想にも、誰の首輪にも――従わない」
剣先が、東の魔術師を真っ直ぐに指す。
「ここで、お前を止める」
その瞳には、恐怖ではなく、決意が宿っていた。
東の魔術師は笑った。
「出来るものならな」
ラウルが剣を構えた瞬間、森の空気が張り詰めた。
「ラウルだけじゃない」
低く、しかし力強い声が響く。
父狼ガルクが一歩前に出て、牙を剥いた。
「俺たちも戦う。ラウルは、俺たちの子だ」
ガルクの声は、雷のように響いた。
「誰にも、指一本触れさせん」
ベアトリスも大きな体でラウルの背後に立ち、静かに頷く。
周囲から、獣たちの気配が次々と集まってくるのが分かった。
「……見えるだろ」
ラウルは剣を構えたまま、東の魔術師を睨んだ。
「こっちは、俺だけじゃない。
獣たちもいる。数は――俺たちの方が多い」
一瞬の沈黙。
そして、東の魔術師は――声を上げて笑った。
「はは……ははははは!」
愉快そうに、腹を押さえる。
「数が多ければ勝てる?
まだそんな“牧歌的”な考えをしているとは」
その瞳が、冷たく細められた。
「だからこそ、用意しているのですよ。
“獣ごとき”では、決して届かぬものを」
そう言って、彼は両手を広げた。
次の瞬間――
空間が、裂けた。
空気が引き裂かれるような音と共に、黒い裂け目が森の中に開く。
その奥から、巨大な影が、ずるりと這い出してきた。
歪んだ肉体。
異様に膨れ上がった胴。
不釣り合いなほど太い四肢。
そして――頭部。
そこには、人間の顔が縫い付けられていた。
「……っ!」
その顔を見た瞬間、ラウルの息が詰まる。
「……シグムント……?」
震える声で、名前を呼ぶ。
見間違いではなかった。
かつて学院でラウルを虐げていたシグムントと、彼の悪友たち。
「う……うぅ……」
複数の人間が、黒い巨体のあちこちに縫い付けられ、
虚ろな目で宙を見つめ、苦しげな呻きを漏らしている。
それは、悲鳴にも似た声だった。
獣たちが、一斉に唸り声を上げる。
恐怖と嫌悪が、森全体に広がった。
「……最低だ」
ラウルの声は、怒りで震えていた。
「命を……命を、道具にするな!!」
東の魔術師は、その反応を楽しむように微笑む。
「傑作でしょう?
人と魔物を融合させた――私のキメラです」
誇らしげに、両腕を広げる。
「獣の力など、及びません。数が多かろうと、意味はない」
ラウルは、歯を食いしばった。
「……そこまでして、なぜ“時の揺り籠”が欲しい」
東の魔術師の笑みが、深くなる。
「決まっているでしょう」
囁くように、しかしはっきりと。
「永遠の命です」
その瞳が、狂気に染まる。
「老いも、死も、失うこともない。
永遠に生き、永遠に――世界を思うがままにする」
ラウルの中で、迷いが消えた。
「……そんな未来、絶対に認めない!」
叫びと同時に、大地を蹴る。
剣を掲げ、ラウルは東の魔術師へと走り出した。
全身の力を脚に込め、距離を一気に詰める。
走りながら、両手剣を大きく振り上げた。
――この一撃で、終わらせる。
そう思った、刹那。
金属同士が激しくぶつかり合う音が、森に響いた。
ラウルの両手剣は、寸前で弾かれる。
受け止めたのは、東の魔術師ではなかった。
「……っ!」
金色の光を纏った剣。
俊敏な動きで間に割り込んだ、セリオス殿下の剣だった。
「はは……流石ですね、殿下」
背後から、東の魔術師が愉快そうに声を上げる。
「身を挺して守ってくださるとは。
実に忠実で、頼もしい」
その言葉に、セリオス殿下は口元を歪め、不敵に笑った。
「気にするな。邪魔な弟を始末するのは、兄の役目だ」
そう言い放ち、剣を構え直す。
東の魔術師は肩を揺らして笑った。
「ええ、ええ。ですが――殺してしまうのは困りますよ」
ちらりと、ラウルを見る。
「後で“実験台”にしますので。……骨を折る程度で、お願いします」
「へっ、承知した」
次の瞬間、セリオス殿下の姿が掻き消えた。
視界の端に、金色の軌跡。
刹那遅れて、鋭い斬撃が迫る。
「くっ……!」
ラウルは咄嗟に両手剣を構え、攻撃を受け止める。
だが、その重さと速さに、体が軋んだ。
一撃、二撃、三撃。
息をつく間もなく、剣が降り注ぐ。
「速……っ」
防ぐのが精一杯で、反撃の隙が見えない。
「ラウル殿下!!」
背後から、ロニーの声が飛ぶ。
不安と焦りが滲んだ叫びだった。
ラウルは歯を食いしばりながら、叫び返す。
「大丈夫だ! ロニーは獣たちを頼む! 秘宝を守れ!」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに――
大地が、震えた。
黒い巨体が動き出す。
キメラが、唸り声を上げながら巨大な拳を振り下ろした。
狙いは、父狼ガルク。
「来るぞ!!」
ガルクは地を蹴り、跳躍する。
寸前で拳をかわし、着地と同時に咆哮した。
「エルデアの獣を、舐めるな!!」
その声に応えるように、獣たちが一斉に動く。
熊が体当たりを仕掛け、猪が突進し、猿たちが木々を駆け、鷲が空から急降下する。
獣たちとキメラが激突し、森は一瞬で、血と咆哮と衝撃音に満ちた。
剣と剣。
爪と拳。
意思と意思。
静かだった故郷は、もはや原形を留めていない。
それぞれの理想と執念がぶつかり合い、その結末を――まだ、誰も知らない。
だが確かなのは。
この森で、すべてが決まろうとしているということだった。




