第51話 帰る場所
獣の子ラウルとして生きると決めたライアンは、ロニーの背中を追って走り続けていた。
足は軽く、胸の奥から不思議な力が湧き上がってくる。長い距離を走っているはずなのに、息は乱れず、
肺いっぱいに空気が満ちている。
――ああ、戻ってきたんだ。
体が、魂が、ようやく本来の場所へ帰ろうとしている。
太陽が西へ傾き、森の影が長く伸び始めた頃だった。ラウルの鼻先に、懐かしい匂いが届く。
湿った土の匂い。若草と樹皮が混ざった、胸の奥をくすぐる香り。
思わず足が止まり、ラウルは息を呑んだ。
高く連なる木々の列。
その奥から差し込む、柔らかな夕陽。
――ここだ。
言葉にしなくても分かる。
ここが、自分の帰る場所だ。胸がざわめき、鼓動が早まる。
ラウルは森の入口へと視線を向けた。
そこに、二つの大きな影があった。その影はすぐに動き出す。
こちらに気づいたのだ。重い足音と、しなやかな走り――二つの気配が、一気に距離を詰めてくる。
次の瞬間、ラウルの視界に飛び込んできたのは――
銀色の毛並みを持つ、大きな狼。そして、茶黒の体毛に包まれた、逞しいゴリラ。
「……っ」
言葉が喉で詰まる。
視界が滲み、熱いものが込み上げてきた。
考えるよりも先に、体が動いていた。
ラウルは一直線に駆け出し、ゴリラの胸へと飛び込む。
「ただいま……母さん……!」
声が震れ、涙がこぼれる。
抱きしめられた瞬間、強くて温かい腕が、何も言わずに包み込んだ。
「……おかえり、ラウル」
低く、優しい声。
大きな手が、昔と同じようにラウルの頭を撫でる。
その感触だけで、胸がいっぱいになる。その横で、銀狼が静かに歩み寄ってきた。
父狼――ガルクは、じっとラウルを見つめると、軽く前に出て、彼の髪をそっと噛んだ。
「……本物だな。本当にラウルだ……」
確かめるような、けれどどこか震えた声。
ラウルは顔を上げ、今度はガルクの首にしがみつく。
「父さん……!」
ガルクは一瞬だけ目を細め、それから、いつもの調子で鼻を鳴らした。
「だいぶ人間の匂いがついたな」
そう言うや否や、ぐい、と自分の毛皮をラウルの体に擦りつける。
「ほら、もう一度つけ直してやる」
「ちょ、ちょっと……! くすぐったいって!」
思わず笑い声がこぼれる。
その感覚が、あまりにも懐かしくて、涙と笑いが同時に溢れた。
ラウルは二人の顔を交互に見つめる。
変わらない姿。
変わらない温もり。
「……二人とも、無事でよかった」
絞り出すような声に、ガルクは鼻先を軽くラウルの額に触れさせた。
「よくぞ帰ってきてくれた、ラウル」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
少し遅れて、ロニーが息を整えながら近づいてきた。
ラウルの背後で立ち止まり、深く頭を下げる。
「ご無沙汰しております、ガルク殿、ベアトリス殿。
ラウルを……無事にお連れできました」
ガルクはロニーをじっと見据え、それから低く唸るように言った。
「……久しぶりだな、ロニー。礼を言う。よく、ラウルを取り戻してくれたな」
「いえ。自分は、当然のことをしたまでです」
二人が自然に言葉を交わす様子を見て、ラウルは胸の奥で静かに頷いた。
――やっぱり、ロニーの話は全部、本当だった。
そのとき、母ゴリラのベアトリスが穏やかに声を上げた。
「さあ、立ち話はここまで。帰ってきた子に、まずはご飯でしょう」
大きな手でラウルの背を押し、森の奥を示す。
「いっぱい話を聞かせておくれ。二年間、どんなふうに過ごしていたのか……」
ラウルは、もう一度だけ森の入口を振り返り、それから力強く頷いた。
「うん……全部、話すよ」
夕暮れの森に、四つの影が溶け込んでいく。
こうしてラウルは――
ロニーと共に、そして家族の待つ場所へと、確かに帰還したのだった。
ラウルは父狼ガルク、母ゴリラのベアトリス、そしてロニーと並んで、ゆっくりと森の奥へ足を
踏み入れた。木々の隙間から差し込む夕暮れの光、湿った土と草の匂い。かつて毎日のように
感じていた気配が、次々と胸に押し寄せる。懐かしさに喉の奥が熱くなり、ラウルは無意識のうちに
周囲を見渡していた。
「……変わっていないな、この森は」
思わず呟いたラウルに、ガルクがちらりと視線を向ける。
「当たり前だ。ラウルの帰りを待っていたんだからな」
その一言で、ラウルの喉がきゅっと詰まった。
歩きながら、懐かしい植物や小動物を見つけるたび、心の中で名前を呼ぶ。皆、無事だ。守られている。
やがて辿り着いたのは、円形に広がる洞窟だった。天井の中央にはぽっかりと穴が開き、
茜色に染まり始めた空が覗いている。洞窟の中央には焚火の跡と、使い慣れた簡素な調理道具。
「ここだ、ラウル。お前の家だ」
ガルクの低い声に、ラウルは小さく頷いた。
ベアトリスはラウルとロニーを見回し、穏やかに腕を振る。
「さあ、座りなさい。すぐに温かいものを用意するわ」
「ありがとうございます、ベアトリス殿」
ロニーは一礼し、石の椅子に腰を下ろした。
焚火に火が入る間、ガルクはラウルの服装に目を留めた。
「ラウルよ。その妙に整った服……毎日それを着ていたのか?」
ラウルははっとして、自分がまだ白いシャツとサスペンダーパンツ姿のままだと気付いた。
「……うん。人間の世界は、決まり事が多くてさ」
「そうか」
ガルクは低く唸るように頷いた。
「窮屈だったろう。よく耐えたな、ラウル」
その言葉に、ラウルは小さく笑って頷いた。
そのやり取りの最中、ベアトリスが木の器を手に戻ってきた。中には、湯気を立てる肉のスープ。
「ラウル、どうぞ」
差し出された器を受け取り、ラウルは一瞬ためらって中を覗く。人間の屋敷で嗅いだ香りとはまるで
違う、野性の匂い。喉がきゅっと鳴り、思わず息を詰めた。
(俺は……まだ獣の料理、食べれるかな……)
そんな様子に気づき、ロニーがそっと声をかける。
「大丈夫だ。食えなくなってない。ゆっくりでいい」
ラウルは小さく頷き、スープを一口含んだ。
次の瞬間、視界が滲んだ。胸の奥から込み上げてきたのは、悲しみではない。張り詰めていたものが
解けていく、安堵と帰還の実感。
「……うまい」
震える声でそう告げると、ラウルは涙を拭い、もう一口、また一口と器を傾けた。
「そうでしょう」
ベアトリスは目を細め、ガルクは満足そうに鼻を鳴らす。
「いい食いっぷりだ、ラウル。遠慮するな、たくさん食え」
やがて器が空になると、ラウルは深く息を吐き、育て親二人を見つめた。
その表情には、決意と、伝えなければならない想いが宿っていた。
ラウルはゆっくりと口を開いた。
声は落ち着いていたが、その奥には、まだ癒えきらない痛みが滲んでいた。
「……森から攫われたあと、ドロテアって女に捕まった。
屋敷の地下牢に閉じ込められて、……無理やり、髪を切られた」
その言葉を聞いた瞬間、ガルクの喉から低い唸り声が漏れた。
鋭い牙が剥き出しになり、洞窟の空気が一気に張り詰める。
「誰だ。ラウルの髪に、牙を立てたのは」
怒りを隠そうともしない父の声に、ラウルは小さく肩を震わせた。
「あの時は怖かったよ。悲しくて……悔しくて……」
その続きが出る前に、ガルクは岩を爪で削り、吠えた。
「そいつは――俺が喰い殺す」
「がっ――!」
突然、ロニーが盛大に咳き込んだ。
肉を詰まらせたようで、何度も胸を叩いている。
ガルクの鋭い視線が、即座にロニーへ向いた。
「……ロニー、まさかお前が……」
ラウルは慌てて身を乗り出した。
「ち、違う! ロニーは母さんの料理が美味しすぎて、きっと喉に詰まっただけだよ!」
一瞬の沈黙。
ロニーは目を瞬かせ、小さく頷いた。
「……その通りです。大変、美味で……不覚にも」
そして、ラウルの横顔を見て、ロニーは小声で付け足す。
「……助かった、ラウル。ありがとう」
怒り狂っているガルクに、ベアトリスがゆっくりとガルクの腕に手を置いた。
「ガルク。ラウルの話を、最後まで聞こう」
ガルクは低く唸りながらも、牙を引っ込めた。
ラウルは深く息を吸い、続けた。
「髪を切られたあと……ライアンって名前を付けられた。
それから、首輪を……雷が流れる首輪を付けられて……」
「首輪だと?」
ガルクの声が低く響く。
「……もしかして、あの時の、か」
ロニーは表情を引き締め、静かに答えた。
「はい。間違いなく、東の魔術師のものです」
再び怒りが爆発しそうになるのを察し、ラウルは言葉を重ねた。
「逆らうと電撃が走った。
人間の言葉と習慣を無理やり覚えさせられて……
一年経つ頃には、獣としての感覚が、分からなくなってた」
焚き火の爆ぜる音だけが、洞窟に残った。
やがてラウルは、少しだけ表情を和らげた。
「でも……学院で、仲間に出会った。レグナスと、フィオナ。
あいつらは、俺を……俺として見てくれた」
ベアトリスの目が、優しく細まる。
「……どんな子たち?」
ラウルは、少し照れたように笑った。
「不器用で、優しくて……命がけで、守ってくれた」
ガルクは楽しそうに仲間の事を話すラウルを真っ直ぐ見据え、低く問う。
「その仲間を置いて戻ったということは……
お前、自分の生まれを、知ったな」
ラウルは、迷いなく頷いた。
「うん、ロニーから聞いた。そして、皆を守るために……帰ってきた」
その一言で、洞窟の空気が変わった。
炎が揺れ、獣たちの気配が息を潜める。
その沈黙を破ったのは、ロニーだった。
「……ここから先は、私が説明いたします」
ロニーはガルクとベアトリスに向き直り、深く頭を下げた。
「ラウルが戻ってきた理由。そして、これから起こること――
全て、お話しします」
焚き火の炎が、静かに大きく揺れた。




