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第50話 獣の子、森へ

 ロニーは、迷宮の静寂の中で、静かに二つの選択肢を差し出した。

人間界に残り、ドロテアの息子ライアンとして生きるか。

それとも、獣の子ラウルとして、共に森へ帰るか。


 どちらも一度きりの道で、引き返すことはできない。

ライアンは言葉を失い、時間の止まった広間を見渡した。

石像のように固まったままのレグナスとフィオナ。

初めてできた、人間界での仲間。

短い時間だったが、確かに心を通わせ、笑い合い、共に死線を越えた友だ。


――この二人がいたから、俺は自分を思い出せた。


 胸の奥が、じくりと痛んだ。だが同時に、森の匂いが脳裏に蘇る。

父狼の低く温かい声。母ゴリラの大きくて優しい腕。

何も知らない赤子だった自分を、命懸けで守り、育ててくれた存在。


――ありがとうって、言わなきゃいけない。


 真実を知った今、逃げることはできない。

時の揺り籠と盟約の書。それを狙う者たちが、今もどこかで牙を研いでいる。

自分が生き延びた代償として、傷ついた人々がいるのなら――

その責任から目を逸らすことはできない。


 ライアンは、拳を強く握りしめ、顔を上げた。

迷いは、もうなかった。


 「……俺は、ロニーと行く」

 その声は震えていなかった。


 獣の子として、エルデア王国の生き残りとして。

守るべきものを守るために、この道を選ぶ。

ライアンは、まっすぐロニーを見つめ、はっきりと告げた。


 ロニーは真剣な眼差しで、じっとライアンを見つめていた。その視線には、

迷いを断ち切らせるための最後の確認が滲んでいる。


 「……本当に、それでいいのか」

 静かな問いかけに、ライアンは一瞬だけ唇を噛みしめ、それから力強く頷いた。


 「人間界には、レグナスやフィオナみたいな優しい人がいる。楽しいことも、

  美味しいものもたくさんあった」


 少しだけ微笑み、しかしすぐに真剣な表情に戻る。

 「でも……俺は、まだ森でやるべきことがある。父狼と母ゴリラに、ちゃんと伝えなきゃいけない

  言葉があるんだ。だから……ロニーと一緒に帰る」


 迷いのないその声を聞いた瞬間、ロニーはほっと息を吐き、柔らかく微笑んだ。

 「……いい目だ。後悔しない選択だよ」

 そう言って、ロニーはそっとライアンの頭の上に右手をかざした。空気がわずかに震え、

時間そのものが息を潜める。


 「約束通りだ。今から、お前を“元の姿”に戻す」

 「髪も、味覚も……奪われる前の、お前に」

 ライアンはごくりと喉を鳴らし、緊張した声で小さく頷いた。


 ロニーの指先に青白い魔力が集まり、低く澄んだ声で呪文が紡がれる。

 「――巡れ、時よ。失われし刻を辿れ」

 「――在りし日の姿へ、魂を還せ」


 次の瞬間、ロニーの右手が強く青く輝き、その光が波のように広がってライアンの全身を包み込んだ。

温かく、懐かしい感覚が肌を撫でる。ライアンの髪が、ゆっくりと伸び始める。

首元を越え、肩に触れ、背中を滑り落ちて――やがて腰を越え、尻のあたりまで届いた。

ライアンは目を閉じたまま、その変化を受け入れていた。体の奥で何かが正しい位置に戻っていく感覚。

失われていた自分が、静かに帰ってくる。

やがて青い光が収まり、静寂が戻る。


 アルヴェイン校長が静かに指を鳴らすと、床からせり上がるようにして一枚の大きな鏡が現れた。

ライアンは恐る恐る、その前に立つ。


 鏡の中には――二年前に失ったはずの自分がいた。

無理やり削がれた幼い姿ではない。

野性と強さを宿した瞳、長く風に揺れる髪。獣の子として生きてきた証を、その身に刻んだ少年。


 「……戻った……ありがとう、ロニー」

 震える手で髪に触れた瞬間、堪えていた涙が頬を伝った。


 ロニーはその背後に立ち、優しく頭を撫でる。

 「よく頑張ったな、ラウル」

その一言に、胸の奥が熱くなる。

 

 ライアン――いや、ラウルは静かに頷いた。

獣の子として、王国の遺志を継ぐ者として。

これから先、どんな運命が待っていようとも、強く生きると、心に誓いながら。


 「さあ、行こう。ここからが――お前の、本当の人生だ」

 ロニーは、ラウルとして生きることを選んだライアンに視線を向け、静かに森へ帰る準備を促した。

その時、ラウルの視線は、自然と彼の背後へ向かっていた。


 時間が止まり、動かないままのレグナスとフィオナ。

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


――ちゃんと、別れを言いたい。

――ありがとう、と。

――ごめん、と。


 だが、今の自分の姿を見られるわけにはいかなかった。

獣の子としての姿で、二人の前に立つ勇気はなかった。

ラウルは、そっとアルヴェイン校長を見上げた。


 「……手紙を、残したいです」

 短い言葉だったが、その意味を察したアルヴェイン校長は、何も問わずに頷いた。


 指を軽く鳴らすと、石の祭壇の上に、羊皮紙と羽ペン、そして小さなインク瓶が現れる。

ラウルは祭壇の前に立ち、羽ペンを手に取った。

少し震える指先を、深呼吸で落ち着かせる。


 二年間。

人間として過ごし、学び、笑った時間。

ラウルは、人間の文字で、一文字ずつ丁寧に書いていった。


――自分の正体。

――友達になってくれたことへの感謝。

――直接別れを言えないことへの謝罪。

――そして、一生忘れないという約束。


 書き終えた時、胸の奥に、温かくて痛いものが広がった。

ラウルは羊皮紙を折り、そっとレグナスの足元に置く。

そして、二人の顔を、ゆっくりと見つめた。

眠っているようにも見えるその表情に、思わず喉が鳴る。


 「……ありがとう、レグナス……フィオナ……」

 声にはならない言葉を、胸の中で何度も繰り返した。

静かに背を向け、ラウルはロニーの方へ歩き出す。


 「……行こう、ロニー」

 小さく、だが迷いのない声だった。


 その時、ふと立ち止まり、ラウルは振り返る。

 「校長は……一緒に、来ないんですか?」


 アルヴェイン校長は静かに首を横に振った。

 「私は人間界に残る。

  ――多くの若者を、危険な場所へ送り込んだ責任がある」


 アルヴェイン校長は目を伏せて、続けた。

 「これからは、剣士として、魔術師として、

  本当に“守るための力”を育てる。

  それが、私にできる償いだ」


 ラウルはしばらく黙り込み、それから真剣な眼差しで尋ねた。

 「……校長って……何者なんですか。

  大結界を作ったり、塔を逆さにしたりするなんて……普通じゃない」


 その問いに、ロニーが肩をすくめて笑った。

 「俺の師匠だよ。エルデア王国最強の魔術師。昔は“大賢者”なんて呼ばれてたぞ」


 「ゴホン! やめなさい、ロニー」

 アルヴェイン校長は照れたように咳払いをした。

 「それは昔の話だ。今は、ただの老いぼれた校長だよ」

 そう言ってから、アルヴェイン校長はラウルの手を取った。

その手は、驚くほど温かかった。


 「ラウル殿下。どうか――時の揺り籠と、盟約の書を守ってください。

  絶対にセリオス殿下と東の魔術師の手に渡らないように……」


 ラウルは強くうなずいた。

 「はい。必ず守ります」

そして、ふと視線をレグナスとフィオナに向ける。

 「……アルヴェイン校長先生、二人を、安全な場所へお願いします」


 「はい、お任せください」

 アルヴェイン校長が即座に答えた。


その時、アルヴェイン校長はロニーを見つめ、わずかに目を細めた。

 「ロニー……」

 「大丈夫だ、師匠。俺は必ず、ラウルを守り抜く」

 その言葉に、アルヴェイン校長は深くうなずいた。


 やがて、アルヴェイン校長が手をかざすと、床に眩い金色の魔法陣が広がった。

 「それが、出口です」

 アルヴェイン校長の言葉を聞いて、ラウルは最後にもう一度だけ振り返り、

動かぬ二人に小さく頭を下げた。


 「……さようなら、フィオナ、レグナス。そして、ありがとう」


 ロニーと並び、魔法陣へと足を踏み入れる。

金色の光が二人を包み込み、やがて――

迷宮最深部には、静寂だけが残った。


 光がゆっくりと収束し、世界の輪郭が戻ってくる。

ラウル――いや、かつてライアンと呼ばれていた少年は、そっと目を開けた。

そこは学院の裏門だった。背後には見慣れた石壁、前方には風に揺れる草原。

太陽はまだ高く、時間がほとんど経っていないことを告げている。


 「……地上に戻ってきたんだな」

 小さく呟くと、隣でロニーが静かに頷いた。


 「ここから半日ほど歩けば、お前が育った森だ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


 半日――それだけで、父と母に会える。

嬉しさと同時に、理由の分からない緊張が込み上げる。


 そんなラウルの様子を横目に、ロニーはふと視線を落とした。

ラウルの首元。そこにぶら下がる、革紐のループタイ。


 「……それ、すぐに外せ」

 低い声だった。


 ラウルは一瞬きょとんとしたが、言われるまま手を伸ばす。

革紐に触れた瞬間、胸の奥に嫌な感覚が蘇った。

首輪。

支配。

奪われた日々。

外しかけたラウルに、ロニーが続ける。


 「あれも、昔お前に付けられていた首輪も――同じだ。

  東の魔術師が、獣を縛るために作った魔道具だ」


 ラウルの指が止まった。

 「……じゃあ、ドロテアは」

 

 「接触している。間違いない」

 ロニーの声に迷いはなかった。

 「おそらく東の魔術師は、お前を森から引き離すために彼女を使った。

  獣の子を無力化するために、な」


 ラウルの喉が鳴る。

 「……俺を亡くなった息子の代わりにと唆したのかな?」


 「可能性は高い」


 胸の奥が、静かに冷えていく。

だが、ラウルはふと別の違和感を思い出した。


 「……でも、シュタインルー村の洞窟で会った時、

  あいつ、俺のことが分かっていないみたいだった」


 ロニーはしばらく黙り込み、空を仰いだ。

 「……力が弱まっていたんだろう。だが、それは逆に危険だ」


 ラウルの背筋に、冷たいものが走る。

 「どういう意味だ?」


 ロニーは一度視線を落とし、静かに息を吐いてから、ラウルを見た。

 「……もう、お前の帰還には気付いているだろう。

  東の魔術師は、今、追い詰められていると思う」

わずかに声が低くなる。


 「奴の力は衰えている。だからこそ――

  残っている全てを使ってでも、動く。

  力が尽きる前に、セリオス殿下を連れて、森を襲うだろう」


 言葉を区切り、ロニーは続けた。

 「時の揺り籠を手に入れるために。

  そして――奴らに取って邪魔なお前、ラウルを始末するために」


 ラウルは息を呑み、素早く首からループタイを引きちぎるように外した。

草の上に投げ捨て、迷いなく、踏み砕く。


 「……来るんだな。ドロテアも」


 「すぐに気付く。お前と俺が消えたことに」

 ロニーは短く息を吐き、前を向いた。

 「だから急ぐぞ。森へ」


 ラウルは頷き、ロニーの背中を追いかける。

走りながら、胸の中で感情が渦を巻く。

父と母に会える喜び。

再会できる安堵。

そして――

迫り来る戦いの予感。


 だが、ラウルは歯を食いしばった。

託された魔道具を守るために。

家族となってくれた獣たちを守るために。

もう、奪われるだけの存在ではない。

ラウルは前を向き、草原を蹴って走り続けた。

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