第5話 言葉の檻
――森があった。
木々は空を支え、葉の隙間から光がこぼれる。鳥のさえずりが昼を明るく押し上げ、土の匂いが
胸いっぱいに満ちる。一人の少年は長い黒髪をなびかせ、小さな狼たちと走った。追いかけっこ、
木登り、落ち葉の雨の中で転がり、声を上げて笑う。ここは自分の世界だ。息をすれば、家族の匂いが
返ってくる。
そこへ――地面から黒い影が芽を出すように伸び、数本の触手となって飛びかかった。
狼たちが悲鳴をあげ、影に絡め取られる。触手が冷たい蛇みたいに彼の脚へ、腕へ、首へ、
そして頭へ。
爆ぜる音。
触手が彼の髪に食い込み、じわじわと黒を蝕み始めた。一本、また一本。森の音や匂いが、
ほどける糸みたいに遠のく。
(やめろ! やめてくれ! 母さん! 父さん!)
彼は喉が裂けるほど叫んだ。
――その肩に、温かさが触れた。
「……ライアン」
目を開く。青髪の使用人――ロニーがいた。手は肩に置かれ、顔は苦しそうに歪んでいる。
何度も名前を呼び、心配そうに覗き込んでいた。
ライアンは涙を流しながら上体を起こす。喉が詰まって声にならない。だがロニーが抱き寄せ、
「落ち着いて」と低く囁いた。
その声は森の風の音に似ていた。
令嬢の撫でる手は屈辱的だったのに、ロニーの腕には奇妙な安らぎがあった。
しばらくして息が落ち着くと、ロニーは立ち上がり、散乱している服と裸のままのライアンを見て
苦笑した。
「まったく……」
呟き、首を横に振る。新しい白いシャツを手に取り、手際よく腕を通す。
パンツを穿かせ、ブーツを履かせる。最後にブラシで寝癖を梳く。
その手つきは驚くほど丁寧だった。髪を刈られて短くなったのに、まるで長いままだった頃を思い出す
ように、優しく。
(こいつ……悪いヤツじゃねぇのかもな)
そんな考えが、胸の中に灯る。
二人は長い廊下を歩き、食堂へ向かった。
扉の先に、令嬢がもう座っている。彼女は微笑みながら挨拶の言葉を投げた。その中で「ライアン」
という音が聴こえた。
(……それ、俺の音じゃねぇ。俺には……もっと大事な呼び名があるんだ)
彼は心の中でだけ呟き、それを深く押し込めた。
料理が運ばれる。光る肉、彩りの野菜、湯気の立つスープ。腹が鳴り、手が勝手に伸びかけたところで――咳払い。昨日の痛みが甲に蘇り、指が空中で固まる。
渋々、食器を握る。刃が肉を断ち、香りが鼻をくすぐる。ひと口ごとに体に火が入る。
令嬢の目が柔らいだ。
(従ってるふりだ。食って、力を戻す……それだけだ)
彼は自分に言い聞かせ、皿を空にした。
食後、令嬢は指先で扉を示した。彼は導かれるまま、白い部屋へ入る。高い本棚、机、椅子、羽ペン、インク壺。紙と革の匂い。
「座りなさい」
意味は分からない。
けれど、座れと命じているのは分かる。喉の奥で低く唸りつつ、渋々腰を下ろした。
分厚い本が机に置かれ、令嬢の白い指が一枚を開く。
「唸ってばかりじゃ、まるで森の獣だわ。ふふ……でも安心して。私が“言葉”を教えてあげる。
あなたを、きちんと人間にしてあげるの」
冷たい甘さ。音の刃。
令嬢は唇をゆっくり動かす。
「あ、い、う、え、お」
柔らかいのに、命令の重みがある。
「真似をして。ほら――獣には決して出せない、美しい音よ」
首を振り、唸る。白い指が机を叩く音。視線が刺さる。
仕方なく、喉が動いた。
「……あ……い……」
彼女の唇が釣り上がる。
「ふふ……それでいいのよ。唸り声よりずっとましだわ」
意味は分からない。けれど、自分を否定して笑う音色は分かった。胸がちくりと痛む。
次のページが捲られる。
目に飛び込んできたのは――森の絵だった。
花。草。川。空を飛ぶ鳥。
絵の鮮やかさに、赤い瞳が大きく見開かれる。
(これ……俺の森……!)
令嬢の教鞭が花の絵を突いた。
「はな」
その音が、胸を打つ。
分からないはずなのに、絵と結び付いた瞬間――何かが灯った。
(これに……名前がある? 母さんたちが呼んでた音とは違う……でも……)
思わず口が動いた。
「……はな」
令嬢の瞳が喜色に染まる。
「そうよ。できるじゃない」
胸に、不思議な温かさが広がった。
鳥の絵。川の絵。草の絵。
「とり……かわ……くさ……」
言うたびに胸がざわめく。
(おいおい……名前を言うだけで……こんな気持ちになるのかよ……!)
気付けば指が絵を突いていた。
「……これ……それ……!」
止まらない衝動。
(もっとだ……もっと知りてぇ……!)
令嬢はゆっくり立ち上がり、彼の背後に回った。
白い手がそっと、短く刈られた黒髪の上に置かれる。
その瞬間――
(……母さん……?)
記憶が弾ける。
夜、眠れなかった幼い日。ゴリラの母が大きな手で頭を撫でてくれた。
その温もりと酷似していた。
緊張で張り詰めていた心が、一気に緩む。
「一緒に言いましょう」
耳元で囁く声は甘く、やさしく、命令とは思えなかった。
(違う……これは罠だ……でも……)
抑えていた衝動が堰を切ったように溢れた。
「……はな……とり……そら……」
声が止まらない。
次の絵を指すたびに、令嬢が名称を囁き、彼は復唱する。
撫でる手は温かく、言葉を吐けば必ず褒められる。
(……これ、悪いことじゃねぇのか……? むしろ……ちょっと気持ちいい……?)
胸が勝手に弾んで、唇の端が上がりかける。
自分でも抑えられない。
令嬢は喉の奥で笑った。
「見なさい……好奇心に目を輝かせて。獣にこんな瞳はできない。やはりあなたは人間なのよ」
意味は分からない。ただ、声に滲む勝ち誇った調子が耳に刺さる。
(……クソ……騙されてんのか……? でも……楽しい……止まらねぇ……!)
絵本を指す指は止まらない。
そのたびに令嬢が名称を囁き、ライアンが復唱する。
喉が枯れるまで。夢中になって。
ライアンは肩で息をし、赤い瞳を伏せた。
(……俺、言っちまった。こんなに……たくさん“人間の音”を……)
胸の奥に残るのは、くすぐったいほどの温かさ。
だが同時に、胃を掴まれるような後悔が押し寄せる。
(俺は獣だ……! そうだろ……! なのに……なんでだよ……なんでこんなに嬉しいんだ……!)
令嬢は満足げに手を放し、立ち上がった。
「もう十分ね。あなたの心には“言葉”が芽生えたわ。次は……“書く”番よ」
ページが閉じられる。
ライアンは喉を押さえ、唇を噛んだ。
母の温もりに似た撫で方――それが今や、冷たい鎖になって心に絡みつく。
(……危なかった。俺、もう……片足、完全に“人間”に踏み込んじまった……!)
それでも、残った喜びは甘く、離れない。
令嬢は本を閉じると、机の上に羽ペンと白い紙をそっと置いた。
「声だけでは不十分よ。人間は、言葉を“形”にして残す生き物。さあ、学ぶのです」
ライアンは眉をひそめた。
(“形”……? 獣の足跡みたいなもんか……?)
紙の白さが雪のように目に刺さる。森にはなかったもの。ペン先は細い爪のように鋭い。
令嬢は椅子を引き寄せ、彼のすぐ隣に座った。白い指が羽ペンを取り、すらりと走らせる。
黒い線が滑らかに並び、見たことのない模様が浮かび上がる。
「これが“文字”。ただの線ではないわ。意味を宿した印。獣には決して描けない、人間だけの術」
羽ペンが差し出された。
「持ちなさい」
その声は、甘く、それでいて抗えない強制力を帯びていた。
ライアンは渋々それを掴んだ。指に伝わる軽さ。けれど不安定で、心がざわつく。
紙の上に黒い雫が落ち、じわりと広がった。
「線を引いてみなさい」
令嬢が隣で微笑む。
ライアンは震える手で線を走らせた。だが、思うようにいかない。途切れ、歪み、黒が紙を汚す。
「……」
胸が痛む。
令嬢はすぐに彼の手を包んだ。
「違うわ。こう、ゆっくり。息を合わせて」
後ろから重ねられた手が彼の手を導く。
羽ペンが滑り、黒い線が整った形を成していく。
(……母さんの手みたいだ……大きくて、あったけぇ……でも――違う! こんなの、俺を縛る鎖だ!)
怒りと混乱が胸をかき乱し、視界がじわりと滲む。
「よくできましたね。獣ではなく、人間の証よ」
彼女は耳元で囁き、短く刈られた襟足を撫でる。
(……違う……! 俺は……人間なんかじゃねぇ……!)
紙の上に残った形。
それを見つめながらも、ライアンの胸には奇妙な達成感が広がっていた。
(でも……“できた”って感じる……なぜだ……?)
令嬢はにやりと笑い、もう一枚の紙を差し出した。
今度は大きな文字をゆっくり書いて見せる。
黒い線が繋がり、一つの形が浮かぶ。
「これが、あなたの名前」
彼女は紙を軽く叩き、次いでライアンの胸を指さした。
「ライアン」
耳に刺さる音。胸に貼り付く重み。
(まただ……! “ライアン”なんて音、俺のじゃねぇ!)
令嬢の目が命じる。書け、と。
ライアンは震える手で羽ペンを動かした。線は曲がり、形は歪む。けれど――紙には確かに“ライアン”の文字が浮かんだ。
令嬢は紙に書かれた拙い文字をしばらく眺め、満足げに笑った。
「これでいいの。あなたは“ライアン”よ」
赤い瞳が揺れた。
(うるせぇ……! それは俺の音じゃねぇ……俺の名は……!)
意味は分からない。ただ胸を指されるたびに、それが“自分を縛る音”だと悟る。
令嬢は自らの胸に手を当て、はっきりと口にした。
「私は――ドロテア」
その音が耳に刻まれる。
(ドロテア……これが、この女の音……!)
何を言ったかは分からない。だが、強く言い放ったその響きは、彼女自身を示していると直感した。
髪を切り、牙の首飾りを壊し、名前を奪った女。
その音を、彼は忘れないと誓った。
ドロテアと名乗った令嬢は椅子から立ち上がり、背後に回る。
白い手が短く刈られた襟足をなぞった。
「森など忘れてしまいなさい。これからは私のもとで生きるのです」
言葉の意味は分からない。
けれど――撫でながら告げる声色に、彼女が何かを命じていることだけは分かった。
(忘れろ……? 何を……? 森を……? 母さんを……?)
胸の奥がざわつき、唇が震えた。
(そんなの、できるわけない!)
ドロテアは笑みを深め、彼の顎を軽く上げさせた。
「いい子。もう獣ではないわ。これからは人間として生きるのよ、ライアン」
その名をまた呼ばれ、心臓が痛んだ。
(やめろ……それは俺の音じゃねぇ……!)
低い唸りが漏れる。拒絶の証だった。
ドロテアはその唸りを楽しむように目を細め、背筋を伸ばした。
「やがて従順になる。あなたは必ず私の子になるのだから」
ライアンには意味が理解できない。
ただ、声に宿る甘さと冷たさ、そして勝ち誇った笑い。
それだけで十分だった。
(この女は……俺を“人間”に変えようとしてる……! 絶対に、負けない!)
ロニーがそっと近づき、肩に手を置いた。
ライアンは驚き、振り向く。
その手からは森の匂いがかすかにした。
胸に走った苛立ちが、少しだけ和らぐ。




