第49話 選ばれし世界
迷宮最深部には、なおも巨人が放った灼熱の閃光の名残が漂っていた。
空気は温かいはずなのに、ライアンの背筋には氷水を垂らされたような感覚が走る。
この空間では、時間が完全に止まっている。動けるのは、ライアンとロニーだけだった。
その静止した世界に、微かな光の揺らぎが生まれる。
ロニーの視線がその一点に向けられた。光はゆっくりと形を取り、人の輪郭を結ぶ。
次の瞬間、そこに立っていた人物を見て、ライアンは息を呑んだ。
喉が震え、かろうじて名を絞り出す。
「……アルヴェイン校長……?」
理解が追いつかないまま、ライアンはその場に立ち尽くした。
ロニーと、突然現れた校長の姿を、ただ交互に見つめることしかできない。
アルヴェインは静かに微笑み、ライアンへと歩み寄る。
その動作はゆっくりで、慎重で、まるで壊れ物に触れるかのようだった。
やがて、ライアンの前で片膝をつく。
両手で、そっとライアンの手を包み込んだ。
その瞳には、深い安堵と、抑えきれない喜びが宿っていた。
「ご無事で……本当に、何よりです。ラウル殿下」
その言葉を聞いた瞬間、ライアンの胸が大きく揺れる。
困惑と戸惑いが入り混じり、視線が揺れた。
「……どうして、ここに……?」
言葉を選びながら、ライアンは続ける。
「校長も……エルデア王国の……?」
アルヴェインはゆっくりと立ち上がり、静かに頷いた。
その背後で、ロニーが一歩前に出る。
「師匠。迷宮の正体と……“時の揺り籠”について、ラウル殿下に説明を」
アルヴェインは短く息を整え、ロニーから水晶玉を受け取った。
淡く青い光が、その掌で静かに脈打つ。アルヴェインはそれを静かに見つめながら、語り始めた。
「かつて――エルデア王国は、小さな国でした」
語りは落ち着いているが、その声音には重みがある。
「しかし、周囲の大国から、幾度も侵略を受けていました」
水晶玉を包む指先が、わずかに強くなる。
「勇敢なエルデア王国の獣戦士たちは確かに強かった。
ですが、多勢に無勢……犠牲は、確実に増えていったのです」
その言葉を聞きながら、ライアンは無意識に拳を握りしめていた。
「そこで、私が考えたのが――
時間の流れそのものを制御し、王国を外界から切り離すという方法でした」
ライアンは思わず首をかしげる。
理解しきれない思いを、そのまま口にした。
「……時間の流れを、制御する……?」
アルヴェインは優しく微笑み、水晶玉を撫でる。
まるで大切な記憶に触れるような仕草だった。
「時間とは、川のようなものです。一方向に、決して止まることなく流れていく」
水晶玉の中の光が、静かに揺れる。
「ですが――川に船を浮かべ、その船を錨で川底に固定すればどうなるか」
アルヴェインの視線が、まっすぐにライアンを捉える。
「船の中にいる者たちは、流れに逆らい、その場に留まり続けることができる」
静寂が、広間を包み込んだ。
「それが――
大結界《時の揺り籠》です」
その言葉が、ゆっくりとライアンの胸に沈み込んでいった。
ライアンは少し考え込み、ゆっくりと視線をアルヴェイン校長に戻した。
「……つまり、その大結界で、王国全体の時間を止めていた、ということですか?」
アルヴェイン校長は穏やかにうなずいた。
「正確には、“止めることもできた”という表現が近いですね」
「止めたら……どうなるんですか?」
「外と中の時間が異なれば、出入りは極めて困難になります」
校長は水晶玉を軽く掲げ、指先でゆっくりとなぞった。
「錨で固定されていないものは、時間の流れという川に押し流される。
固定された船――つまり王国には、容易に近づけません」
「じゃあ……」
「ええ。外からは見えず、攻撃も侵入も不可能になる」
ライアンは思わず息をのんだ。
だが、すぐに別の疑問が胸に浮かび、眉をひそめる。
「でも……時間が止まっていたら、みんな不老不死になるんじゃ……
それに、子供も生まれなくなる」
アルヴェイン校長は目を細め、感心したように微笑んだ。
「鋭いですね、ラウル殿下。その通りです」
「……やっぱり」
「だからこそ、完全停止は例外でした。
平和な時は錨を引き上げ、時間の流れに身を委ねる。
侵略の兆しがある時だけ、完全停止にするのです」
「それで……長生きはしても、不老不死にはならない……」
「ええ。生も死も、きちんと巡るように」
アルヴェイン校長はそう言って、両手を大きく広げた。
「――そして、その制御を行うのがこの塔です」
ライアンは周囲を見渡した。
崩れた石柱、広大な空間、地中深く広がる迷宮。
「……塔、ですか? どう見ても、ここは地中に埋まってる迷宮ですよ。
王国を守る塔が……どうして、こんな場所に?」
アルヴェインはその問いを聞くと、目を細めた。
遠い記憶を辿るように、静かに息を吐く。
「……それには……」
低く、重い声だった。
「話さねばならぬ、“あの日”のことを」
その一言で、ライアンは悟った。
この迷宮が、ただの遺跡ではないことを。
アルヴェイン校長は、水晶玉を胸元で静かに抱えたまま、ゆっくりと語り始めた。
「――この迷宮は、元々“塔”だった。時の揺り籠を制御するための、唯一の場所だ」
その言葉に、ライアンは思わず周囲を見渡した。崩れた石壁、歪んだ床、魔物が跋扈していた痕跡。
どう見ても、王国を守るための神聖な場所とは思えない。
「時の揺り籠は、あまりにも強力です。だから私は、誰でも起動できないように、“鍵”を作りました」
アルヴェイン校長の視線が、ロニーの手にある分厚い本へ向く。
「それが……盟約の書ですね」
ライアンは息を呑んだ。
「だが、反乱の夜――
セリオス殿下と、東の魔術師は、それらすべてを狙っていました」
アルヴェイン校長の声に、かすかな苦悩が滲む。
「私は苦肉の策として、この塔を“逆さ”にし、地中へ埋めることで封印しようとしました。
起動も制御も、誰にもできないようにするために」
拳を握りしめ、アルヴェイン校長は一度言葉を切った。
「……だが、その最中に、東の魔術師が闇魔法で妨害してきました。
私の魔法と衝突し、制御しきれない魔力が暴走しました」
ライアンの背中に、冷たいものが走る。
「結果として、塔の内部には大量の魔物が召喚され、構造も歪み……
盟約の書の保管場所さえ、私にも分からなくなってしまいました」
アルヴェイン校長は、深く息を吐いた。
「一番厄介なのは、最も魔力が濃い、かつての“頂上”――
今で言う最深部には、あの六腕の巨人が生まれてしまいました」
その名を聞いた瞬間、ライアンの脳裏に、赤い瞳と圧倒的な威圧感が蘇る。
「……まさか」
ライアンの喉が、ひくりと鳴った。
「もしかして……学院の生徒たちに、探させていたんですか」
アルヴェイン校長を真っ直ぐに見据え、ライアンは続けた。
「巨人を倒して、盟約の書を手に入れるために。
この学院は……そのための“育成施設”だったんですか」
問いかけに、アルヴェイン校長は答えなかった。ただ視線を落とし、唇を強く噛みしめる。
沈黙が、重く広間に落ちる。
「……っ」
ライアンの胸に、抑えきれない感情が込み上げた。
「そんな……そんな理由で……!」
声が震え、次第に怒りへと変わる。
「たくさんの人を巻き込んで!
ロニーも、校長も!
とっくに滅んだ国の宝を集めるために、こんなことを……!」
その瞬間――
「違う」
静かだが、はっきりとした声が割って入った。
ライアンが振り向くと、ロニーが真っ直ぐにこちらを見つめていた。
先ほどまでの軽薄さは消え、そこには覚悟を宿した眼差しがあった。
「全部……全部、ラウルを助けるためだ」
ライアンは、言葉の意味を理解できず、瞬きを繰り返す。
「……え?」
ロニーは一歩踏み出し、ライアンの前に立った。
「お前が生きられる場所を守るため。
獣たちと、もう二度と奪われない未来を作るためだ」
ライアンの胸が、大きく波打つ。
「……どういう、意味だよ」
その問いに、ロニーは答えようと口を開いた。
ロニーは、ライアンの視線を真正面から受け止めたまま、静かに語り始めた。
「……反乱の後、エルデア王国の民はほとんど亡くなった」
淡々とした口調だったが、その声の奥に、押し殺した痛みが滲んでいた。
「生き残った民も、わずかだった。国外へ逃げるしかなかったんだ。
王国は……事実上、滅んだ」
ライアンの喉が、ひくりと鳴った。
「王国に残ったのは、ラウルと……森の獣たちだけだった」
その言葉に、ライアンの胸が締めつけられる。
自分が過ごしてきたあの森が、孤立した最後の場所だったことを、今さら思い知らされる。
ロニーの声音が、わずかに強まった。
「だがな、時の揺り籠を失った王国と森は、誰でも自由に出入りできるようになった。
つまり、無防備だ。あの令嬢みたいな奴も自由に入れてしまう」
その一言で、ライアンの呼吸が止まった。
脳裏に浮かぶのは、冷たい笑みと、奪われた日々。
自分を捕らえ、名前も、自由も、尊厳も奪った、あの女。
ライアンは思わず拳を握りしめた。
ロニーは続ける。
「だからだ。俺は師匠と手を組んだ。
失われた「時の揺り籠」と、「盟約の書」を取り戻し、森を完全に封印する」
「……封印?」
「そうだ。そうすれば、誰も入れない。誰も触れられない。
ラウルも、獣たちも……永遠に、脅かされずに生きられる」
その言葉を聞いた瞬間、ライアンの中で、何かが弾けた。
視線が、固まったままのレグナスとフィオナへ向く。
「……そんな物のために」
声が、震えた。
「そんな物のために……二人は、死にかけたんだぞ!」
感情が、抑えきれずに溢れ出る。
「永遠の命なんて、いらない!!」
ライアンはロニーを睨みつけた。
ロニーは、すぐには言い返さなかった。
一歩近づき、宥めるように、穏やかな声で続ける。
「落ち着け。永遠の命が目的じゃない」
「……じゃあ、何だよ」
「脅威を断つためだ」
ロニーの目が、鋭くなる。
「反乱を起こしたセリオス殿下と、東の魔術師……奴らは、今も生きている。
どこかで潜み、時の揺り籠と盟約の書を狙っている」
「……なんで、そこまで?」
ライアンの問いに、ロニーは即座に答えた。
「奴らは時間を支配する力を欲している。不老不死になるためだ。
そして……世界を、自分のものにするために」
一瞬の沈黙。
「だから、ラウルごと森を封じる。
お前を守るためでもあり、同時に……魔道具を、奴らの手に渡さないためだ」
ライアンは、唇を噛んだ。
「……俺が住んでた、あの森は……、エルデア王国の……森だったのか?」
小さく、問いかける。
ロニーは、ゆっくりとうなずいた。
「そうだ。時の揺り籠は盗まれたけど、完全に力が消えたわけじゃない。
残滓が森に残って、時間の流れを鈍らせていた」
「だから……」
「そう。お前は何百年経っても、少年のままだった」
その事実が、重く胸に落ちる。
自分は、長い時間を生きてきた。知らないまま、気づかないまま。
ライアンは、ぼう然と立ち尽くした。
やがて、ふと疑問が浮かぶ。
「……じゃあ、ロニーは? 校長は……なんで、外にいて生きてるんだ」
ロニーは、どこか誇らしげに笑った。
「俺と師匠は、時間魔法が得意でな。
ずっと自分自身に、時間停止魔法をかけ続けてる」
ライアンは言葉を失った。
そんな彼の肩に、ロニーがそっと手を置く。
その眼差しは、今までになく真剣だった。
「なあ、ラウル」
静かに、だがはっきりと問いかける。
「このまま、人間界で――ドロテアの息子、ライアンとして生きるか。
それとも……俺と一緒に森に帰って、獣の子、ラウルとして生きるか。
お前自身がこの場で選べ」
ライアンは答えられなかった。
拳を握りしめ、唇を震わせる。
ロニーは、さらに続ける。
「制御塔を失った今、一度、時の揺り籠を起動させたら……
もう、外には戻れない。外からも、入れない」
ライアンは俯き、必死に考え始める。
何が正しいのか。
誰を守りたいのか。
――自分は、何者なのか。
ここで選べば、もう二度と戻れない。
森を選べば、人間の世界は遠ざかる。
人間の世界を選べば、獣たちの待つ森は閉ざされる。
胸の奥が、きしむように痛んだ。
どちらも、自分の居場所だ。
どちらも、守りたい世界だ。
ライアンは歯を食いしばり、深く息を吸った。
答えは、まだ出せない。だが、逃げることだけはできないと、はっきり分かっていた。
ロニーは何も言わず、ただ静かにライアンを見守っている。
急かすことも、促すこともせず、その選択を待つ覚悟だけが、その瞳に宿っていた。
止まった時間の中で、少年は、生き方を選ぼうとしていた。




