第47話 時の魔術師、ロニー
時間が止まった迷宮最深部の広間で、ただ一人、歩く者がいた。
ライアンは石像のように固まったまま、その人物をただ見るしかできなかった。青い髪が揺れる。
静謐な大気の中、その青は異様なほど鮮やかで、まるで止まった世界の中で唯一呼吸している
光のようだった。
白と青を基調にした長衣、肩に羽飾り――鳥を思わせる軽やかさ。しかし、その背に滲む
魔力の圧だけは、恐ろしく重い。
(……ありえない……なんで……ここに……)
心臓が跳ね上がる。
ライアンはその男を知っていた。
本来ここにいるはずのない人物――
優しくて、屋敷では支えてくれた、あの「執事」。
男は祭壇へ歩み寄り、ゆっくりとその分厚い本に手を伸ばした。
光が男の指先を照らす。
その場に似つかわしくないほど、震えていた。
「……あ……あ……っ」
嗚咽のような息。
男はその本を高く掲げ、ぽろぽろと涙をこぼしながら天を仰いだ。
「王妃様……師匠……ついに……ついに、我々の悲願が……叶うのです……」
止まった世界に、彼の声だけが澄んで響く。
喜びと狂気の境界を往くような熱――。
ライアンの背筋に冷たいものが走った。
(やめろ……何を……するつもりだ……ロニー……?)
必死に体を動かそうとするが、指一本動かせない。
ただ心臓だけが苦しそうに脈打っていた。そのとき、青髪の男――ロニーがこちらを振り返った。
軽く指を鳴らす。
――カチリ。
世界がわずかに動いた。
ライアンの首だけが自由になり、息が一気に喉を通る。
「はっ……く、はぁ……っ……!」
水面から顔を出したように、何度も呼吸を繰り返す。
やっと声が絞り出せた。
「……ロ……ロニー……なのか……?」
恐怖と混乱が入り混じる声だった。
ロニーはゆっくり微笑み、胸に手を当てた。
「ええ。お久しぶりでございます、ライアン……
――いえ、ラウル殿下、と呼んだ方がいいかな?」
丁寧に一礼する。
しかし、その所作はもう「執事」のものではなかった。
威厳と、言いようのない異質さが滲み出ている。
「エルデア王国宮廷魔術師――“時の魔術師”ロニーでございます」
ロニーの黄色の瞳が、喜びに濡れた狂気と忠誠の光を宿しながら、ライアンを射抜いた。
ロニーの自己紹介を聞いた瞬間、ライアンの思考は完全に停止した。
喉がひくりと鳴り、額から冷たい汗が伝い落ちる。
――違う。
ライアンの知っているロニーは、もっと静かで、控えめで、優しい執事だった。
いつも一歩引いた場所から見守るように立ち、必要以上に感情を表に出さない男。
だが、今、目の前に立つ男は違う。
肩まで伸びた青い髪は無造作に揺れ、黄色の瞳は獲物を前にした獣のように光っている。
同じ顔、同じ声のはずなのに、纏う空気がまるで別人だった。
時間の止まった広間で、ロニーだけが自由に呼吸し、動いている。
その事実が、ライアンの背筋をじわじわと凍らせていく。
「……どうして……ここにいるんだ……?」
震える声を、必死に絞り出した。
ロニーは一瞬だけ目を細め、それから口角を吊り上げた。
愉快で仕方がない、という笑みだった。
「決まってるだろ。――これを取りに来た」
そう言って、彼は祭壇の上の分厚い本を軽く掲げる。
ライアンは目を見開いた。
「……その、本は……?」
「盟約の書だよ。これはな、エルデア王国を守る大結界――
**《時の揺り籠》**を起動させるための、唯一の鍵だ」
あっさりと告げられた言葉に、ライアンは首を傾げるしかなかった。
鍵。盟約の書。大結界。
聞いたことのない言葉ばかりが、頭の中を滑っていく。
一方、ロニーの声は楽しげで、どこか誇らしげですらあった。
理解が追いつかず、ライアンが言葉を失っていると、ロニーはふっと肩をすくめる。
「まぁ、急に言われても分かんねぇよな」
そう言いながら、彼は右手を差し出し、手のひらを上に向けた。
青白い光が、空気を裂くように集まってくる。
やがて光が収束し、ロニーの手のひらの上に――ひとつの水晶玉が現れた。
ライアンの瞳が大きく揺れた。
「……それ……まさか……」
「そう。ドロテアの屋敷にあったやつだ」
ロニーは、今まで見せたことのない笑みを浮かべる。
歪んでいて、どこか楽しそうで――狂気を孕んだ笑顔。
「長いこと探してたんだけどさ。なかなか見つからなくて困ってたんだよ」
水晶玉を指先で転がしながら、彼は続ける。
「でも――お前のおかげで、やっと手に入った」
ライアンの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「お前の名前を出しただけで、あの女、ベラベラ喋りやがってさ。
本当にお前……よっぽどあの女に気に入られてたんだな?
ハハハッ!」
嘲るような口調。
ロニーの笑い声が、静止した空間に不気味に響く。
ライアンの身体が、小刻みに震え始めた。
「……俺を……利用したのか……?」
声が掠れる。
「ロニー……俺……あんたのこと……兄みたいだって……」
視界が滲み、涙が溜まっていく。
「……あの屋敷で……俺がどんな気持ちで過ごしてたか……
分かってて……それでも……?」
怒りと失望が、胸の奥で渦を巻く。
身体が動いたなら、今すぐにでも殴りかかっていたかもしれない。
だがロニーは、そんなライアンを見て、肩を揺らして笑った。
「兄、ね。……それは光栄だな」
そして、ゆっくりと歩き出す。
固まったままのレグナスとフィオナの前へ。
顔を覗き込み、値踏みするように視線を走らせる。
「へぇ……仲間もできて、ずいぶん楽しそうじゃないか」
さらに一歩、フィオナに近づき――
「お、これが彼女か?
可愛い顔してるじゃん」
指を伸ばそうとした、その瞬間。
「触るなッ!!」
ライアンの叫びが、広間に響き渡った。
涙を浮かべながら、必死に声を張り上げる。
「……もう、いい……!
全部……全部、ちゃんと説明しろ……!」
ロニーは一瞬、驚いたように目を瞬かせた。
――そして、ふっと息を吐く。
「……悪い悪い」
彼はライアンの前に戻り、そっと頭に手を置いた。
「ちょっと揶揄いすぎたな」
その声は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
「……いいか、ライアン。
これから話すことは、全部……本当のことだ」
狂気の色が、ゆっくりと引いていく。
そこに現れたのは――ライアンが知っている、穏やかなロニーの表情だった。
「だから……ちゃんと聞け」
時間の止まった広間で、真実が、語られようとしていた。




