第36話 折れた牙の先へ
翌朝、ライアンはうっすらとした不安を抱えながら目を覚ました。
胸の奥がざわついて、眠った気がしなかった。
――昨日、メリックの日記の最後に見た“ラウル”という名。
森で獣たちが自分をそう呼んでいたあの名前が、何千年も前の書に記されていた。
偶然の一致なのか、それとも――。
ぼんやり考え込むライアンの横で、レグナスが欠伸を噛み殺しながら声をかけた。
「おい、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「え? あ、ううん。大丈夫、大丈夫」
慌てて笑みを浮かべると、レグナスはじっと見つめたが、それ以上は何も言わなかった。
三人は宿の朝食を済ませ、静かな街を抜けてガラントの工房へ向かった。
炉の熱気が漂う扉を開けると、ガラントは既に待っていたように笑顔で迎えてくれた。
「おう、よく来たな。調子はどうだ?」
「ええ……おかげさまで」
ライアンは差し出された手を握り、持参した日記を両手で返した。
ガラントは受け取りながら、ライアンの沈んだ表情に気づいた。
「……何か見つけたか?」
ライアンは一瞬、胸の奥で何かが動くのを感じたが、首を振った。
「いえ。ただ、続きを知りたくなって……」
ガラントはふっと目を細め、頷いた。
「そうか。あれは第一巻だ。エルデアの日常と、反乱が起きるまでの記録だ。
第二巻には、メリックが反乱中に見た地獄や、あいつが編み出した付与魔法のこと、
そして国外へ逃げてこの村に辿り着くまでが書かれてる」
「……そんなことまで」
ライアンの声に、ガラントはにやりと笑う。
「気が早ぇな。だが次にここへ来たとき、続きを貸してやるよ」
ライアンは思わず顔を上げた。胸の奥で、好奇心と不安がせめぎ合っていた。
(もっと知りたい……でも、今は――)
深呼吸して気持ちを整えると、ガラントが手を打った。
「さて、話はここまでだ。今日の主役はこいつだ」
そう言って、ガラントは布で包まれた一本の剣を取り出した。
炉の光を受けて、包みの隙間から黒紫の輝きがちらりと漏れる。
ゆっくりと布を解くと、鈍い金属音と共に刀身が姿を現した。
ガラントは炉のそばへ歩み寄り、炎の光を映した刃をそっと持ち上げた。
刃は黒紫の金属光沢を帯び、まるで夜の闇をそのまま凝縮したかのようだった。
中央には、一本の赤い筋が柄から先端まで真っすぐに走っている。
その筋は血管のようにわずかに脈打ち、見る角度によって朱から深紅へと色を変える。
さらに目を凝らすと、刀身全体に細かい刻印のような文様が無数に彫り込まれているのが分かる。
炎の光を受けるたび、それらの線が赤い残光を描きながら、まるで呼吸するようにゆらめいた。
硬質なはずの金属に、どこか生き物のような温もりと鼓動が宿っている――
そんな不思議な錯覚を覚えるほどだった。
「……これが、僕の……?」
ライアンは思わず息を呑んだ。
柄には茶色の布が丁寧に巻かれており、手に馴染む感触が見ただけでも伝わってくる。
ライアンはゆっくりと手を伸ばし、指先で刀身の中央をなぞった。
次の瞬間――赤い筋が鋭く閃き、まばゆい光が刃全体を走った。
「――っ!」
ライアンは思わず目を見開いた。
光は生き物のように刀身を駆け抜け、表面の模様が次々と赤く染まっていく。
炎が広がるように赤い輝きが刀の端まで波打ち、まるで脈動しているかのようだった。
あまりの眩しさに、ライアンは反射的に手を放した。
剣はかすかに鳴き声のような音を立てて光を収める。
静寂の中、ガラントが口元に笑みを浮かべた。
「やはりな……見事だ」
「え……?」
「その反応だ。剣が“お前を認めた”」
ライアンはきょとんと目を瞬かせた。
「認めた……? どういう意味ですか?」
ガラントは笑いを深め、炉の光を背にして答えた。
「この剣は、ただの鉄の塊じゃねぇ。持ち主を選ぶ。
お前が触れた時に応えた光――それが、この剣の“意思”さ」
黒紫の刃は、まるで呼吸をしているように、微かに赤い光を宿していた。
「……剣の、意思?」
ライアンは、ガラントの言葉を頭の中で何度も繰り返した。
意味は分かるようで、分からない。けれど、胸の奥がざわめく。
(そんなこと……本当にあるのか? でも――この感覚……)
そっと柄を握ると、冷たい金属の奥から微かな鼓動のようなものが伝わってきた。
(……まるで、生きてるみたいだ)
その不思議な温もりに、ライアンは思わず息を呑んだ。
ガラントの言葉の意味が、少しだけ胸に落ちた気がした。
ライアンは柄を握る拳に力を入れて、ゆっくり剣を持ち上げた。
――重い。だが、不思議と苦ではない。
その重みは、腕にずしりと伝わりながらも、まるで自分の一部が戻ってきたような安心感を
与えてくれる。
柄に巻かれた布が手のひらに馴染み、ライアンは自然と微笑んだ。
「……ありがとう、ガラントさん。すごく……いい剣です」
「へっ、そう言ってもらえるのは嬉しいがな――」ガラントは口の端を上げて笑った。
「喜ぶのはまだ早ぇ。剣は持つだけじゃ意味がねぇ。振ってこそ、初めてお前の力になるんだ」
その言葉にライアンはきょとんとしたが、ガラントの目がどこか楽しそうに光っているのを見て、
すぐに理解した。
「……試し斬りを、ってことですか?」
「おう。せっかく認められたんだ。剣も、お前の腕前を確かめたがってるだろうよ」
レグナスとフィオナは、ガラントの言葉に反応して同時に顔を上げた。
レグナスが真っ先に笑みを浮かべる。
「おっ、いいじゃねぇか! いつもの剣さばきも十分すげぇけど……
その“特別な一本”を振るとこ、ぜひ見てみてぇな!」
フィオナもその隣で目を細め、興味深そうに頷いた。
「私も見たいわ。あの剣、普通の刃とは明らかに違う……動かした時に、どんな光を放つのかしら」
レグナスはにやりと笑いながら、ライアンの肩を軽く叩いた。
「ほら、期待されてるぞ。見せてやれよ、英雄さん?」
ライアンは頬を赤らめ、照れくさそうに笑った。
「……わかったよ。そこまで言うなら、少しだけね」
小さく息を吐き、ライアンは剣を見つめる。その刃が、まるで返事をするように赤く瞬いた。
ガラントは満足げに頷き、工房の奥へ向かって歩き出す。
「よし、こっちだ。裏庭なら思う存分振れる」
三人は顔を見合わせ、期待に胸を躍らせながら、ガラントの後に続いた。
工房の裏口を抜けると、そこには鍛錬用の広い庭があり、朝の光が鉄屑と木片を照らしていた。
裏庭には、風に揺れる草と鉄の匂いが漂っていた。
ガラントは中央に立ち、太い丸太ほどの巻き藁を三本、等間隔に立てた。刃を試すためのものだ。
「さあ、好きに振ってみな。あの剣がどんな音を立てるか、聞かせてくれ」
ガラントの声には、どこか誇らしげな響きがあった。
ライアンは一歩前に出て、両手で柄を握る。
刃がわずかに唸り、黒紫の光が息をするように脈打つ。
(この剣……まるで生きているみたいだ)
胸の奥で鼓動が速くなる。手のひらに伝わる温もりが、自分の鼓動と重なっていくようだった。
「構えろ、ライアン!」
レグナスの声が背中を押した。
フィオナは息を呑み、両手を胸の前で組んで見つめている。ライアンは息を整え、腰を落とした。
次の瞬間、風が裂けた。
――バシュッ!
剣が閃いた瞬間、巻き藁が音もなく二つに割れた。
切り口はまるで鏡のように滑らかで、赤い光が筋を描くように走っていく。
続けざまにもう一太刀。二本目、三本目が斜めに切り裂かれ、藁屑が静かに宙を舞った。
「すげぇ……」
レグナスが思わず呟く。
その瞬間、刀身の赤い筋が再び光を放ち、刃の輪郭が炎のように揺らめいた。
まるで剣そのものが歓喜しているかのようだった。
ガラントは満足げに腕を組み、低く笑った。
「上出来だ。――どうやら、本当にお前を選んだらしいな」
ライアンは剣を両手で抱え、静かに息を吐いた。
「……すごい切れ味です。ありがとうございます、ガラントさん」
感謝を述べながらも、彼の瞳には戸惑いがあった。
「でも、振っている時……変な感覚がありました。なんというか――剣が、生きてるみたいで」
ガラントは目を細め、にやりと笑う。
「ほう、気づいたか。あれは“エルデアの秘法”だ。あの剣には、意思を宿してある。
お前と共に学び、強くなる。まるで相棒みたいにな」
「剣に……意思が?」
「そうだ。お前が強く念じれば、あいつも力を貸してくれる。
ただし――扱いを誤るなよ。相棒を怒らせりゃ、痛い目を見る」
ガラントは笑いながらも、その瞳は真剣だった。
続けて、ガラントは柄を指で叩きながら説明を始めた。
「今回は“炎の魔法”を刻み込んである。『イグニート』と唱えて、炎を思い浮かべてみな」
「思い浮かべる……」
ライアンはごくりと唾を飲み込み、両手で柄を握り締めた。
「イグニート!」
次の瞬間、刀身に刻まれた紋様が赤く脈動し――炎が迸った。
刃全体が燃え盛り、空気が震える。熱気が頬を撫で、光が視界を覆う。
「……で、出た……! 本当に炎が――!」
ライアンは息を呑み、思わず一歩下がった。
胸の奥が高鳴る。初めて“魔法”というものを自分の手で扱えた。その奇跡に、心が震えた。
(これが……魔法……? 俺にも、できたんだ!)
だが、その瞬間。
炎が唸りを上げ、まるで怒り出したように膨れ上がった。
「なっ……!? 違う、待ってくれ――!」
ライアンは慌てて剣を引いたが、炎は彼の意思を無視して荒れ狂い、赤い奔流が庭を包み込む。
「やばい、止まらない……! なんで……僕、制御できない……っ!」
熱風が頬を切り、視界が揺らぐ。
(どうして……! せっかく掴んだのに……! このままじゃ……みんなを――!)
「落ち着け! 集中しろ!」
ガラントの声が響くが、炎はさらに荒れ狂い、風に煽られて赤い火花が舞った。
爆ぜる火花。逆巻く火流。まるで刃そのものが獲物を求める獣になったかのように。
「やばい……止まらない……! 熱い、熱い……っ!」
手が震える。心臓が暴れる。視界が揺れる。
(落ち着け……落ち着かないと……でも――っ!)
炎がさらに膨れ、庭の草が焦げ始めた。
「ライアン!」
レグナスが駆け寄り、ライアンの両肩を掴んだ。
「聞け! “光の輪”だ!」
「っ、レグナス……?」
「いいか、胸の奥に小さな光の輪をイメージしろ……!
それが息に合わせて回る。上へ、下へ、体を巡り――腕を通って、剣に流れ込むんだ!」
ライアンは必死に息を吸い、震える胸の奥に小さな光を描いた。
(……回れ、光……頼む……!)
光の輪が回る。胸から頭へ、腹へ、足へ――
そして、腕から燃える剣へ。炎の勢いがすっと弱まり、暴風のような熱が静まっていく。
やがて刃の赤光だけを残し、炎は音もなく消えた。
「……はぁ、はぁっ……」
ライアンは剣を手放して地面に片膝をつき、荒い息を吐いていた。汗が額を流れ、視界がかすむ。
「ライアン、大丈夫か?」
レグナスがすぐ近くに駆け寄り、肩を支えた。
「顔が真っ白だ……どうした?」
「……わからない……すごく疲れた……息が……苦しい……」
絞り出すような声に、レグナスの表情が険しくなる。
そこへ、フィオナが駆け寄り、しゃがみ込んでライアンの脈を取った。
「魔力切れじゃない……体力を魔力に変換しすぎたのね。無理しすぎたわ」
そう言って、両手をライアンの胸元にかざした。
彼女の手から、柔らかな光が広がる。
「これで少しは楽になるはずよ。体力回復の魔法かけるから、じっとしてて」
光がライアンを包み込み、荒れていた呼吸がゆっくりと整っていく。
「……あ……呼吸が、楽に……」
「よかった。焦らないで、もう少し休んで」
レグナスは安堵の息を吐き、静かに微笑んだ。
「無茶するなよ。俺たち、まだ始まったばかりなんだからな」
ライアンはうなずきながら、震える足でゆっくりと立ち上がった。
「もう大丈夫か?」
ガラントの声に、ライアンは荒い息を整えながら小さく頷いた。
「……うん。ちょっと怖かったけど……ちゃんと扱えるようになりたい。
そうしたら、もっとみんなを守れると思います」
その言葉に、ガラントは満足げに笑い、フィオナも優しくうなずいた。
レグナスは笑って、ライアンの肩を軽く叩いた。
「その調子だ。これから魔力の扱い、俺がみっちり教えてやるよ」
ガラントも満足げに頷く。
「制御を覚えりゃ、前に言ってた“連携技”も、一人で出せるようになるだろう」
「……だから炎なんですね」
ライアンの声に、ガラントは嬉しそうに目を細めた。
「その剣で、どんな敵でも切り抜けてみせろ」
レグナスが力強く言うと、フィオナが微笑んで続けた。
「もしまた私たちのことを忘れそうになったら、その剣を見て思い出して。
――私たちは、いつだって隣にいるから」
ライアンは涙をこらえきれず、にじんだ視界の中で二人に微笑んだ。
「……ありがとう、二人とも」
ガラントは剣を拾い上げ、ライアンに差し出した。
「いい仲間だな。……さあ、その相棒に名前をつけてやれ」
ライアンはしばらく考え、静かに答えた。
「――“ブレイヴフレイム”。勇気の炎、って意味です」
その瞬間、剣が赤く光り、柔らかな脈動を返した。まるで気に入ったとでも言うように。
ガラントは微笑み、背負うための鞘を差し出した。
「立派な名だ。大事に使えよ」
三人は深く一礼し、工房を後にした。
朝の空気は澄んでいて、炉の煙の匂いがまだかすかに漂っていた。
黒紫の剣を背負いながら、ライアンは振り返って小さく呟いた。
「……ありがとうございました、ガラントさん」
胸の奥に、熱いものが広がる。
この村に来たばかりの時とは違う。
知らなかった歴史を知り、恐れながらも炎を制御し、新しい力を得た。
――そして、自分を信じる勇気を覚えた。
ライアンは朝焼けに染まる空を仰ぎ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
赤と金が混ざる空が、まるで新しい旅立ちを祝福しているようだった。
(もう迷わない。この剣と仲間がいれば、どんな運命でも乗り越えられる)
その決意を胸に、ライアンは学院への道を歩き出した。
足取りは軽く、けれど確かな強さを秘めていた。




