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第35話 眠れる血の記憶

 ライアンは「セリオス殿下」という名前を目にした瞬間、心臓を掴まれたように息を呑んだ。

初めて見るはずなのに、どこか懐かしい。まるで遠い記憶の底に刻まれているような響きだった。

 (……なぜだ。知らない人の名前なのに、胸が痛い)


 そのざわめきを押さえつけるように、ライアンは再びメリックの日記に目を向けて、

そっと次のページをめくった。黄ばんだ羊皮紙の上に、古びたインクで丁寧な筆跡が並んでいる。


 ――今日はセリオス殿下と共に魔物討伐に向かった。

   エルデアの東にある洞窟で、ゴブリンの群れが現れたという。

   殿下は迷いなく自ら討伐隊に加わられた。

   洞窟に着くと、殿下は先日献上した剣を手に、光の斬撃で群れを一掃された。

   あの一撃の美しさと威力は、まるで伝説の英雄が振るう光の剣のようだった。

   民衆は凱旋する殿下を称え、彼は優しい笑みで手を振り返していた。

   その姿を見た誰もが、セリオス殿下こそが未来の王にふさわしいと信じていた。

 

 ライアンは息を止め、次の行へ視線を滑らせる。

 ――だが、ある日を境に、殿下が変わってしまった。

 

 そこで、ページの文章は途切れていた。

それ以上の説明は書かれていない。ただ、その短い一文が、重くページ全体に沈んでいた。


 「……ここまでか」

 ライアンは小さく呟き、ゆっくりとページを閉じた。


 フィオナが首を傾げる。

 「“変わってしまった”って……どういう意味なのかしら」


 レグナスが腕を組み、顎を撫でた。

 「光の剣を振るってた王子様が、急に変わるって……何があったんだ?」


 ライアンは黙って首を振る。胸の奥がざわめいていた。

 (優しくて、皆に慕われた王子……それが、どうして……)


 目を閉じると、洞窟の中で剣を振るう少年の姿が浮かんだ。

光の斬撃。歓声を上げる民。微笑む王子。それらが一瞬、重なって、

――なぜか自分自身がその光景の中に立っているような気がした。


 「……まるで夢みたいだ」

 思わずこぼした言葉に、レグナスが目を細める。


 「夢ならいいけどな。現実なら、これから何かが起きるってことだ」

 静かな宿の一室に、重い沈黙が落ちた。

 

 ライアンは小さく息を吐き、決意を込めて次のページに手を伸ばした。

次のページに記されていたのは、あまりに衝撃的な内容だった。


 ――エルデアの男児は十五の年を迎えると、自らの生涯を捧げる職を選ぶ。

   戦士、技師、魔導士、料理人――いずれも、民が国を支えるための誇り高き道だ。

   その中で、セリオス殿下は「獣戦士」を選ばれた。

   獣戦士――それは獣の力を一時的に借り、人の限界を超えて戦う者たち。

   初代国王が創設したと伝えられる、王国最強の戦士集団だった。

 

   獣戦士になるためには、まず“契約の獣”を見つけねばならない。

   心を通わせ、魂を交わす儀式――その契約を結べた者だけが、真の獣戦士となる。


 ――セリオス殿下は、自ら契約の相手を探すために森へ入られた。俺を含む数人の従者が同行した。

   狼、蛇、鷲……幾多の獣を前にしても、殿下は首を横に振られた。

   そして、ついに見つけられたのだ。王の威厳を思わせる、一頭の巨大な金色のライオン。

 

   殿下はその瞬間、目を輝かせて言われた――「この獣と契約する」。

   だが、それが悲劇の始まりだった。

   殿下が契約の儀を始めると、ライオンは静かに彼を見つめ、低い声で告げた。

   ――「お前の心には闇がある。契約はできぬ」


   殿下は震える声で訴え、歩み寄ろうとした。だが次の瞬間、獣の爪が閃き、殿下の右目を裂いた。

   鮮血が飛び散り、殿下はその場に崩れ落ちた。

   急ぎ宮殿へ運ばれ、命こそ助かったものの、右目には深い傷跡が残った。

   殿下は心を閉ざし、誰とも会おうとしなくなった――と、そこまで書かれていた。



 ライアンは思わず息を詰め、ページをめくった。


 ――ある夜、一人の男が現れた。

   外套で顔を深く覆い、全身を黒いマントルに包んだ“東の魔術師”と名乗る者。

   彼は「殿下を癒やす品を持ってきた」と言い、カイレオン陛下の許可を得て城内へ入った。

 

 そこまで読んで、ライアンの手が止まった。

 「黒いマントル……?」

 彼の小さな呟きに、レグナスとフィオナも顔を見合わせる。


 「まさか――」フィオナが声を潜めた。


 「あの洞窟で見た……あの男?」

 レグナスの表情が固くなる。


 部屋の空気が、一気に張り詰めた。

日記の文字が、まるで過去から警鐘を鳴らしているように見えた。

ライアンはレグナスとフィオナの強張った表情を見て、小さく頷くと、再び日記へ視線を落とした。


 ――その夜、殿下の寝室に一人の男が現れた。

   深く外套の影を被り、顔は闇に沈んでいる。その口調だけが、妙に柔らかかった。

  「お初にお目にかかります、殿下。東の果てより参りました。

   あなた様の傷を癒す“力”をお持ちいたしました」

 

   セリオス殿下は鋭く睨みつけ、「帰れ」とだけ言い放った。

   だが、男はゆっくりと懐から黒い首輪のようなものを取り出した。

   それは鉄でも革でもなく、どこか不吉な光を帯びている。

  「これは“服従の輪”と申します。これを獣に嵌めれば、その意志を完全に支配できます。

   拒めば、雷が走る仕組みです」

 

   殿下は息を呑み、長く黙り込んだ。男は一歩、また一歩と近づき、囁くように言葉を重ねた。

  「獣は殿下の慈悲を嘲り、その爪で顔を裂きました。心を通わせられぬ相手には――

   力で語るしかありますまい」


   静寂の中、殿下の唇がかすかに歪んだ。やがて、不穏な笑みが浮かぶ。

  「……試してやろう」


   翌日、殿下は黒衣の男と従者を連れて再び森へ入った。

   やがて、あの金色のライオンが姿を現す。男は殿下に言った。

  「どうかご覧あれ、殿下の御心がいかに強きかを」

   男が首輪を投げると、闇の糸のように伸び、獣の首へ絡みついた。

   次の瞬間、稲妻がほとばしり、ライオンは悲鳴を上げて崩れ落ちた。

 

   殿下は狂気にも似た笑みでその様子を見つめ、なおも命じた。

  「跪け。契約を受け入れろ」

   拒む度に雷が走り、やがてそのライオンは頭を垂れた。


   ――その日、殿下は“獣の力”を得た。だが、それは祝福ではなく、呪いだったのかもしれない。

 

   以後、黒衣の男は殿下の側近として仕えるようになり、首輪の術で次々と獣を支配した。

   その光景を見たカイレオン陛下は怒り、声を荒げた。

  「セリオス、我が民を守る力を、なぜ虐げるために使うのだ!」

 

   だが殿下は冷たく言い返す。

  「力を持たぬ者に、導く資格はない。父上こそ時代に取り残された」

  

   リアナ王妃は涙を流しながら諫めた。

  「あなたの心を愛してくれた獣を、どうか思い出して……」

   けれども、殿下の瞳にはもう光はなかった。


   宮殿は日に日に沈み込み、やがて王妃は新たな命を宿した。

   セリオス殿下が十七を迎えた年、第二王子が誕生した。

   黒い髪、赤い瞳――王妃の腕の中で笑う赤子の傍らに、窓辺で小鳥たちが歌っていた。

   その光景を見た陛下は静かに呟いた。

  「……この子こそ、エルデアの希望だ」


 ページを閉じたライアンは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

――彼はこの後の展開を、別の書物で知っている。

そして、その記憶が、胸の奥でゆっくりと疼き始めた。


 ライアンは深呼吸して、次のページを捲った。

隣に座るフィオナとレグナスからも、緊張の息づかいが伝わってくる。三人は息を揃えるようにして、

古びた文字を追った。


 ――ある日の昼、カイレオン陛下とリアナ王妃、そして俺は庭で昼食を共にしていた。

   王妃の腕の中で、小さな黒髪の赤子がすやすやと眠っていた。

   セリオス殿下の素行に心を痛めていた陛下の顔が、赤子を見るたびに少しずつ和らいでいく。

  「この子の寝顔を見ると、不思議と胸が落ち着くな」

   陛下がそう呟いた時――遠くで獣の悲鳴が響いた。

   全員が顔を上げ、慌てて声の方へ駆けた。

 

   宮殿の中庭では、一頭のライオンが地に倒れ、苦しげに呻いていた。

   その前に立つのは、黒い外套の影を纏った男と、無表情のまま獣を見下ろすセリオス殿下だった。

   その横顔には、もはや慈悲の欠片もなかった。

 

  「セリオス! これは何の真似だ!」

   陛下の声が中庭に響く。


   殿下はゆっくりと振り返り、口角を上げた。

  「こいつは私に逆らったのです。だから罰を与えました」

 

   その笑顔に、陛下の拳が震えた。

  「お前は何をしているのか分かっているのか! 

   エルデアの血を継ぐ者は、獣と心で通じ合えるはずだ。その首輪など――不要だ!」


  「心?」殿下は嘲るように笑った。

  「そんな曖昧なものに頼るから、いつまでも時代に取り残される。力こそ支配の証です、父上」


  「愚か者が……!」

  陛下は一歩踏み出し、思い切り殿下の頬を打った。乾いた音が響く。

  「お前にエルデアを導く資格などない!」

 

  「……なんだと?」殿下の瞳が細く光った。

  「この国の未来は、お前ではなく――」

  陛下は王妃の腕に眠る赤子を見つめ、震える声で宣言した。

  「この子に託す! この子こそ、エルデアの次なる王だ!」

 

  その瞬間、殿下の瞳が怒りで赤く燃え上がった。

  「……あの赤子を、ですか」

  低く呟くと、殿下は赤子を一瞥し、剣を握りしめて走り去った。


  ――夕刻。王妃はそっとフォークを置き、遠くを見つめながら小さく息をついた。

  「……胸の奥がざわめくわ。セリオスに、何か――良くないことが起きる気がするの」

  その穏やかな声に、陛下も顔を上げた。

  だが次の瞬間、宮殿の中心から轟音が響き渡り、炎と煙が立ち上った。


  ――セリオス殿下は剣を掲げ、反乱を起こした。

  その姿は、かつて英雄と呼ばれた少年ではなかった。闇の獣を従えた暴君のようだった。

  王妃はすぐに私の親友であり、宮廷魔術師を呼び出し、赤子を託した。

  その瞳には涙が滲んでいたが、声は揺らがなかった。

  「この子を……ラウルを託します。どんなことがあっても、生かして――」

  俺は親友と共に脱出を図ったが、殿下の兵に追われ、途中で別れざるを得なかった。

 

   ――親愛なる友よ。どうか、ラウル殿下を守ってくれ。

 

 日記はそこで終わっていた。

けれど、ガラントの話を思い返せば――この先にも、まだ続きがあるのだろう。

表紙の裏には「第一巻」と刻まれている文字が、薄く残っていた。

部屋には重い沈黙が降りた。


 ライアンは手の中の日記を見つめ、震える指先で最後の行をなぞった。

 (ラウル……?)

 

 それは――森で暮らしていた頃、獣たちが自分を呼んでいた名だった。

胸の奥が凍りつく。血が逆流するような感覚。


 (どうして……俺の名前が、こんな古い日記に……)


 誰にも答えられないまま、ライアンはただ日記を抱きしめた。

その震えを隠すように、静かに目を閉じる。

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