第3話 蒸気の部屋
入口から白い蒸気の匂いが漂ってきた。湿った甘い香り。森の朝露の匂いとはまるで違う、
よそよそしい匂い。
部屋の奥は霞んでいて、煙のようなものが揺れている。
ロニーはそこでライアンの歩みを止め、膝をつき、彼の体にまとわりつく毛皮へ手を伸ばした。
ごわりと音を立てて、母が縫ってくれた毛皮の腰巻が剥ぎ取られる。次に父が直してくれた小手も。
ひとつ外されるたびに、心臓が冷たくなる。
(やめろ……それは俺の……森の匂いだ。母さんの手の跡だ。父さんの牙の跡だ。奪うな……!)
けれど、疲れ切った体は言うことを聞かない。
結局、彼は裸にされ、低い椅子に腰を下ろさせられた。
温かい水が頭に注がれる。
びくりと肩を震わせたが、流れる水は川の冷たさとは違い、妙に心地よかった。
ロニーが液体を掌に取り、頭に塗り込む。泡が立ち、甘い花のような匂いが広がる。
「……」
何も言わず、指で優しく頭皮を揉む。
その瞬間、胸に蘇ったのは母の大きな手。眠れない夜に、いつも撫でてくれた。
低く喉を鳴らす声。温もり。――目を閉じると、その記憶に包まれる。
(母さん……)
瞼が重くなる。
しかし次の瞬間、鼻先をくすぐる違和感に気づいた。頭を揉んでいるロニーの手に、知っている
匂いが混じっている。森の匂い。湿った土、木々の樹液の匂い。
(どうして……? こいつから、森の匂いがする……?)
疑問が膨らむが、確かめる言葉を持たない。ただじっと鼻をひくつかせる。
やがて頭も体も清められ、張り詰めた気分もほんの少し緩む。
タオルで拭かれ、湯気に包まれながら新しい部屋へ。
途中で、下腹部に重みを感じた。
(出したい……)
森では、どこでも自由にしていた。だからためらわず立ち上がり、先ほど水を浴びた椅子の横でしようとした。
「っ……!」
ロニーが慌てて制止する。意味はわからなくても、その必死な仕草で理解した。
別室に連れて行かれると、白い丸い物体があった。ロニーが「トイレ」と言った気がした。
身振りで使い方を示され、恐る恐る座る。ようやく用を足せた。
終えると手に泡を乗せられ、石鹸の匂いで指をこすらされる。
(ルールだらけだ……場所、手順……全部決められている。窮屈だ。森の方がずっと自由だ……!)
胸の奥でまた火が揺れた。
さらに別の部屋。そこには布の服が用意されていた。
ロニーは下着を履かせ、長袖の白いシャツを広げて腕を通す。紐付きの黒いパンツを穿かされ、
足には黒いブーツが押し込まれた。
最後に鏡の前に立たされる。
背後からブラシで髪を梳かれる。
映ったのは見知らぬ少年。
前髪は眉に届かず、横も後ろも短く刈り上げられている。首も耳も露わ。
誇りも自由もなく、そこに立つのは誰かに作られた「人形」。
「……グルルル……ッ」
唸り声が漏れる。胸の奥に怒りと悔しさが込み上げ、喉を締めつけた。
そのとき耳元で囁きが落ちた。
「……安心しろ。後で俺が元に戻す」
獣の言葉に聞こえた。はっとして振り返る。
ロニーの顔。黄色い瞳。表情はないが、確かに今の言葉は聞こえた。
(……は? 今、こいつ……獣の言葉、喋ったか?)
(戻すって……なんだよ、それ。髪のことか? それとも……俺のことか?)
(分かんねぇ……けど、胸がざわざわする……)
心臓が跳ね、胸に希望とも疑いともつかぬ渦が広がった。
だが彼はすぐに無言に戻り、次の部屋へ導く。
扉の向こうに、金髪の女――令嬢が待っていた。
青い瞳で全身を舐めるように見つめ、歓喜の声を上げる。
「まあ……なんて美しい変わり様。獣の影がすっかり消えて、人間の少年そのものだわ」
白い手が頭に伸び、短くなった髪を撫で回す。
爪先で地肌をこすり、額を叩き、耳の裏をくすぐる。
「清らかね……こんなに可愛らしい子だったなんて」
ライアンと名付けられた黒髪少年は全身を強張らせた。
(やめろ……触るな! これは俺の頭だ! 母さんと父さんが守ってきたものだ!)
怒りに震え、赤い瞳で睨みつける。だが令嬢はそれを喜ぶかのようにさらに笑んだ。
「その反抗的な目……ええ、とても良いわ。その目が従順に変わる瞬間、きっと甘美でしょうね」
(絶対に従わない……! お前の思い通りになどならない! 俺は獣だ!)
頭を押さえられるたび、胸の中で炎が爆ぜる。耐えるしかない。
怒りを押し殺し、瞳に火を宿し続ける。
令嬢は満足げに頷き、教鞭を手に取った。
「安心しなさい。必ず可愛らしい少年に仕立て上げてあげるわ」
その言葉に、ライアンの胸の火はさらに強く燃え上がった。
(俺は獣だ。お前の思い通りの“人間”にはならない)
令嬢は教鞭を手に取り、楽しげに告げた。
「さあ、最初の調教よ。まずは“食事”から始めましょう」
冷たい声が響き、食堂への扉が開かれた。
(奪わせない……俺は人間にならない。獣として生きる!)
胸の奥で燃える火だけが、彼を支えていた。




