第29話 灰のあとの灯
――温かい。
頬に触れる柔らかな熱で、意識がゆっくり浮かび上がっていく。
耳の奥で、ぱち、ぱちと薪の弾ける音がした。ライアンは重たい瞼を開けた。
ぼやけた視界の中に、橙色の光がゆらめく。木造の天井。壁に掛けられたランプ。
(……ここは……?)
息を吸い込むと、乾いた木と煙の匂いが胸に広がる。
現実感が戻ると同時に、こめかみの奥を鋭い痛みが走った。
脳裏に、洞窟での光景が一気に流れ込む。
シグムントの剣、崩れ落ちる刃、黒い霧、そして――自分の手の血。
「……っ!」
ライアンは息を呑み、反射的に上半身を起こした。
目の前がぐらりと揺れ、思わずシーツを掴む。焦点の定まらない視線で周囲を探した。
――レグナスは? フィオナは?
しかし部屋には二人の姿はなかった。代わりに、暖炉の前に一人の男が腰を下ろしていた。
「目が覚めたか」
低く落ち着いた声。
ガラントだった。
彼はゆっくりと立ち上がり、歩み寄ってくる。
「どうだ、痛みは?」
ライアンは自分の腕や胸を確かめた。
どこにも傷はない。昨日、確かに剣で斬られたはずなのに――。
「……平気です。もう、痛くありません」
ガラントは安堵の息を吐き、眉を緩めた。
「そうか。それなら良い」
短く言って、暖炉の火を見やる。その横顔に、わずかに疲労が滲んでいた。
ライアンは喉を鳴らし、恐る恐る口を開いた。
「……どうして……僕、ここに……?」
ガラントは深く息を吐き、腕を組んだまま答える。
「昨日、お前たちが戻らなかったからな。嫌な予感がして、村の連中を連れて洞窟へ向かったんだ」
声が静かに落ちる。
「そこで――泣いていたフィオナと、倒れていたお前とレグナスを見つけた。
ひどい傷だったが、フィオナが必死に魔法をかけてたよ」
ライアンの喉が震える。
「……レグナスと……フィオナは……?」
ガラントは少し黙り、暖炉の炎を見つめながら言った。
「二人とも無事だ。今は別の部屋で休んでいる」
その言葉に、ライアンの胸からようやく張り詰めた空気が抜けた。
けれど、安堵の奥に、押し寄せるような罪悪感が残った。拳を握りしめたまま、ライアンは唇を噛んだ。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てる。胸の奥が焼けるように痛い。
――自分は仲間を傷つけた。この手で、この拳で。
その沈黙を破るように、ガラントがゆっくり口を開いた。
「……フィオナから聞いたよ。お前、あの時――操られてたそうだな」
ライアンの肩が震えた。
「レグナスを……瀕死になるまで殴り続けてたってな」
その一言で、頭の中が真っ白になった。
息が詰まり、視界が滲む。
「……そんな……僕は……」
声が掠れて、最後の言葉が出なかった。溢れる涙が頬を伝い、床に落ちた。
「僕……闇に飲まれて……支配されて……。
それで……大切な仲間を……自分の手で……」
嗚咽混じりの声に、ガラントは静かに近づいた。
無言のまま、大きな手でライアンの頭を軽く撫でる。
その掌は温かく、どこか懐かしいぬくもりを持っていた。
「もういい。自分を責めるな」
ガラントは低く言った。
「お前が苦しんでるのは、誰よりも分かってる。
でもな――その気持ちは、俺じゃなく仲間に伝えろ」
その時、コンコン、と静かなノック音が響いた。
ガラントは顔を上げ、「入れ」と短く言う。
木の扉が軋んで開く。
そこに立っていたのはレグナスだった。
肩越しに、フィオナの姿も見える。彼女は怯えたように、レグナスの背中に隠れていた。
ライアンの喉が小さく鳴った。声を出そうと唇を開いたが――言葉が、出てこない。
レグナスは顔を上げた。その瞳が、まっすぐライアンを射抜く。
燃えるようなオレンジ色の瞳――けれど、その奥に宿る感情は、怒りだけではない気がした。
悲しみのような、失望のような……言葉にできない色が揺らめいている。
眉間には険しい皺。拳は握りしめられ、節が白くなっている。
唇はかすかに震え――それでも、レグナスは何も言わない。その沈黙が、言葉よりも重く響いた。
ライアンは喉の奥が焼けるように熱くなり、胸の鼓動がうるさくなる。
(……怖い……。でも……当然だ。あんなことをしたんだから……)
視線を逸らせないまま、ライアンは拳を握りしめた。
二人は黙ったまま部屋に入り、ベッドから数歩離れた場所で立ち止まる。
張り詰めた空気の中、ライアンはふと屋敷で読んだ本の一節を思い出した。
――「深く謝るとき、人は地に頭を下げる」という文章。
迷いはなかった。
ライアンはベッドから降り、震える腕で床に手をつき、深く頭を下げた。
額が木の床に触れ、冷たさが皮膚を刺す。
「……ごめんなさい……!」
震える声が部屋に響いた。
沈黙が落ちる。
やがて、低い声がその静寂を割った。
「……何を、謝ってる?」
ライアンは唇を噛み、拳を握りしめた。
「僕……操られて……レグナスを殴って……!」
レグナスの眉がぴくりと動いた。
「……あれは……本気で痛かったぞ」
低く唸るような声。
「拳が何度もめり込んで……骨が軋むって自分でも分かった」
その声には怒りと、まだ癒えきらない痛みが混ざっていた。
ライアンは顔を上げられず、肩を震わせる。
「本当に……ごめんなさい……!
あの時、幻覚を見せられて……頭の中がぐちゃぐちゃで……怒りが止められなかったんです!」
「……幻覚?」
レグナスが眉をひそめる。
「何を見た?」
「……嫌いな人を……」
その言葉に、レグナスは深く息を吸い込んだ。しばし視線を落とし、ゆっくりと吐き出す。
「……つまり、俺のことが嫌いだったってわけか?」
ライアンは驚いて顔を上げた。
「ち、違う! レグナスのことは……! 大事な親友だと思ってる!」
しかし、レグナスの表情は変わらない。
怒りを押し殺すように唇を噛み、髪を乱暴にかき上げた。
「……本当にそうか? 本気で、俺を仲間だと思ってたのか?」
部屋の空気が重く沈む。ライアンは返す言葉を見つけられず、息を詰まらせた。
レグナスの拳が小刻みに震えている。
「お前、笑ってたんだぞ……。あの時、俺を殴りながら……楽しそうに笑ってた。
首まで絞められて……本気で、殺されるかと思ったんだ……!」
その言葉が、胸に突き刺さる。
ライアンは再び額を床につけ、涙が頬を伝って落ちる。
「本当に……ごめんなさい……!」
レグナスの肩が震えた。
次の瞬間、拳を固く握りしめ、足元を強く踏み鳴らした。
「ごめんなさいじゃねえだろ!!」
怒鳴り声が部屋に響き、空気が一瞬止まった。
ライアンの体がびくりと跳ねる。
「俺だって……信じたかったんだ! でもあの時、お前の顔が……!」
ライアンは必死に言葉を返す。
「違うんだ! 本当に分からなかった! 僕には……レグナスが見えてなかったんだ!」
その時、静かに一歩、足音が近づいた。
レグナスの背後に隠れていたフィオナが前に出る。
彼女はそっとライアンの前にしゃがみこみ、震える肩に手を置いた。
「……ライアン」
その声は柔らかく、けれど芯が通っていた。
「そこまでしたくなるほど、あなたが“嫌いな人”って……誰なの?」
ライアンの喉が震えた。
口を開いた瞬間、胸の奥が痛んで、言葉が零れ落ちた。




