表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/56

第28話 囁く闇、呼ぶ声

 ――冷たい。

 どこか遠くで水の滴る音がする。

意識の底から、ゆっくりと光が滲み出すように広がっていった。

 

 「……ん、ここは……どこ……?」

 

 重たい瞼を持ち上げると、視界にぼんやりと灰色の壁が映る。

石でできた天井、湿った空気、鼻をつく鉄の匂い。見慣れない空間――いや、どこかで見たことがある。


 「……牢屋……?」

 掠れた声で呟いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

身体を起こそうとした瞬間、ジャラリと音が鳴る。両手首と足首に冷たい鎖の感触。

動くたびに、鉄が肌に食い込み、痛みが走った。


 「……だれか……!」

 かすれた声で助けを呼ぶが、返事はない。ただ、静寂が重く響くだけだった。

ふと頬に、何か柔らかいものが触れた。ライアンは目を伏せ、視界の端に揺れる色に息を呑む。


 ――髪。

 長くて、懐かしい感触。うつ伏せのままでも分かる。襟足は腰まで伸び、横髪が耳を覆い、

前髪が視界を隠している。指先で確かめるように触れると、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 (……俺の、髪……? どうして……)


 その安堵をかき消すように、コツ、コツと足音が響いた。ゆっくりと近付いてくる。

ライアンの心臓が早鐘を打つ。


 (この音……知ってる……ここは……あの時の……)


 思い出す――初めて人間界に来た日。閉じ込められた、あの地下牢屋。足音が止まり、

闇の向こうから黒いマントを纏った男が現れた。


 「……お目覚めですか」

 低く冷たい声。男はゆっくりと鉄格子を開け、牢の中に入ってくる。


 「だ、誰……なんだ……?」

 掠れた声が震える。恐怖で喉が乾き、唇が勝手に震えた。


 男は一瞬だけ沈黙し、やがて微笑を含んだ声で答えた。

 「私は、ただ主に仕える従者に過ぎません」

 その声音は礼儀正しいのに、どこか湿っている。


 「……主? 誰のことだ……?」

 ライアンの問いに、男は穏やかに首を振った。

 

 「今はまだ、お話しできません。いずれ、あなたも会うことになりますよ」

 そう言うと、男はゆっくりとしゃがみ込み、ライアンのすぐ隣に膝をついた。

 

 そして、細い指先でライアンの襟足に触れる。長く伸びた髪を、まるで品定めするように

撫でながら、冷たい笑みを浮かべた。


 「……これが、あなたの“大切なもの”ですか?」

 その声には優しさと残酷さが同居していた。


 ライアンの全身に鳥肌が立つ。

 「やめろ……触るな……!」

 自分でも驚くほど強い声が出た。鎖が鳴り、体が震える。


 男はしゃがんだまま、絡めた髪をゆっくりと指先に滑らせた。

 「……どうやら、あなたにとってこれは“誇り”そのもののようですね」


 低く落ち着いた声に、嘲りとも哀れみともつかない響きが混じる。

 「守りたいものほど、壊れやすい。人の心とは実に面白い」


 ライアンの胸が締め付けられる。

 「な、何のつもりだ……!」


 男は微笑み、目の前の髪をそっと引き寄せた。

 「試してみましょう。あなたの“大切”が、どれほど脆いものか」


 金属の冷たい音が響く。鋏の刃が光を反射し、わずかに髪先をかすめた。

床に落ちた細い一筋を見つめ、ライアンの喉がひくりと鳴る。その反応を見て、男は薄く笑った。


 そして、男は再びライアンの髪を一房つまみ、ゆっくりと持ち上げた。

 「……繊細ですね。ほんの少し力を入れただけで、すぐに千切れてしまう」


 ライアンの肩がびくりと震える。

 

 男は続ける。

 「まるであなたの心のようだ。鎖に繋がれ、誇りだけを握りしめて――

  それがどれほど無力か、まだ分からないのですか?」

 

 冷たい鋏が光を弾いた。小さな音を立てて、髪の一房が切り落とされる。

その一瞬の音が、やけに大きく響いた。

 

 「やめろっ……やめて!」

 ライアンは鎖を引きちぎろうと暴れた。だが鉄はびくともしない。

手首が擦り切れて、血が滲む。


 男はその様子を眺めながら、まるで憐れむような微笑を浮かべた。

 「可哀想に。抵抗しても、痛みと恐怖しか残らない。

  ……あなたは、弱いのです」


 その言葉は刃のように胸を突いた。ライアンの呼吸が乱れ、目が潤む。

 

 男はライアンの頬に触れた。

 「泣かなくていい。弱さは罪ではありません。

  むしろ、弱いからこそ――求めるのです。力を」


 「……力?」

 ライアンの声が震える。


 「そう。誰にも支配されず、誰にも奪われない力。

  髪を切られることも、鎖に繋がれることも、もう二度とない。

  恐怖も、屈辱も、全部焼き尽くすような――絶対の力を」


 その囁きは蜜のように甘く、胸の奥まで染み込んでくる。ライアンの前に、かつての記憶が流れた。


 ......無理やり切られた髪......

 ......電撃の痛み......

 ......自分を笑う声......

 ――逃げられなかった夜。


 「……いやだ……もう、あんなのは……いやだ……」


 嗚咽混じりに呟くライアンの頬を、男の指がそっとなぞる。

 「哀れな子だ。もし力があれば、あの時あなたを傷つけた者たちは皆、跪いていた。

  泣かずに済んだ。……欲しいでしょう? その力が」


 ライアンの唇がかすかに震えた。

 「……ほしい……」

 

 その瞬間、男の目が細まり、満足げな笑みが浮かんだ。

 「――よろしい。ですが、力には対価が要ります」


  細い息がライアンの頬をかすめる。

 「あなたの”大切な物”――その髪を、少しだけ“主”に捧げなさい。

  そうすれば、あなたの心を“解き放って”あげましょう」


 ライアンの喉が鳴った。

 「……心を、解き放つ? それって……僕が僕じゃなくなるってことか……?」

 

 男は微笑んだ。

 「いいえ。自我を奪うわけではありません」

 

 声は驚くほど穏やかで、まるで子をあやすようだった。

 「ただ――あなたの中の“恐れ”や“迷い”を消すだけです。

  本当のあなたを、もっと素直にしてあげるのです」


 鋏がもう一度鳴り、長い髪がふわりと宙を舞った。

 「さあ、選びなさい。力を得て生きるか、それとも、このまま全ての大切なものを失うか」


 男の声は甘い香りを帯び、思考を溶かしていく。

ライアンは泣きながら首を振った。だが、言葉が出ない。ただ、震える唇からかすれた声が零れた。


 「……もう、苦しいのは……嫌だ……」


 男の笑みが深まる。

 「――よく言えました。では、始めましょう」

 

 黒い光が男の掌に集まり、ライアンの額へと吸い込まれていった。冷たい闇が心の奥まで

染み込んでいく。


――光が消え、闇だけが残った。

 

 だが、怖くなかった。ライアンはゆっくりと立ち上がり、己の手を見つめた。

漆黒の靄が腕にまとわりつき、力が溢れ出している。

胸を締めつけていた痛みも、恐怖も、不安も――何もかもが消えていた。

代わりに、身体の奥から熱が込み上げる。


 「……すごい……これが……力、なのか……」

 唇が勝手に笑った。

視界が冴え、心臓の鼓動が心地よく響く。生まれて初めて、“完全”になれた気がした。

 

 背後から、あの男の声が響く。

 「どうです? その身を満たす感覚は」

 

 ライアンは息を吐き、笑みを浮かべた。

 「最高だ……! 今なら、誰にも負けない……!」

 

 男は満足げに頷く。

 「ええ、それでいい。あなたは今、“恐れ”から解き放たれたのです。――では、試してみましょうか」


 空間が震え、闇の奥から一人の“女”が現れた。

長い金髪が揺れ、冷ややかな光を放つ瞳がライアンを射抜く。背は彼より高く、白いドレスのような

衣が闇の中で浮かび上がる。その顔――忘れようとしても、忘れられない。


 「……ドロテア……」

 口の中が乾く。


 かつて自分を辱め、髪を切り、心を踏みにじった女。その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。

怒りと憎しみが、黒い炎のように溢れ出す。


 「お前が……俺の全部を……!」

 

 背後で男の声が甘く囁く。

 「そうです。あなたを縛り、侮辱した者。恐れはもう要らない。――さあ、壊してしまいなさい。」


 ライアンの両腕を、黒い霧がゆっくりと包み込む。手のひらの奥で、力が脈打つように脈動していた。

 

 「……これが……俺の力……」

 胸の奥から込み上げる熱に任せて、ライアンは一歩踏み出した。

 

 目の前では、“ドロテア”が静かに微笑んでいた。その穏やかな表情が、逆に恐ろしい。


 ――“もっと短く切りなさい。その方が人間らしいでしょう?”

 ――“私から逃げられないのよ”


 耳の奥で、あの日の声が蘇る。冷たい笑い声が、髪を引き裂いた記憶と重なる。

胸の奥が締めつけられ、喉が焼けるように痛い。

 

 「……やめろ……やめろよ……」

 顔を覆うように震える手。

 

 だが、幻の“ドロテア”は笑いながら近づいてくる。

 「もう二度と、あなたが好きに生きることなんてできないわ」


 その瞬間、何かが弾けた。

 「――うるさいっ!」

 

 ライアンは駆け出し、拳を振り抜いた。黒い霧が腕に集まり、拳を包む。

 

 「黙れぇぇっ!」

 渾身の一撃が“ドロテア”の頬を打ち抜き、衝撃が空間を震わせる。


 “ドロテア”は微笑んだまま、ゆっくりと顔を上げた。

その笑みが、かつての記憶と重なって見えた。

 

 怒りが爆発する。

 「お前が……お前が俺をこんなにしたんだ!」

 

 黒い霧を纏った拳が、何度も何度も彼女を殴りつけた。

痛みはもう感じない。ただ、止められない。


 何度も、何度も――幻の“ドロテア”を殴りつける度、空間が軋み、深い闇が広がった。

拳が肉を叩く感触。だが、痛みも重さもない。ただ、無限に続く怒りだけが彼を突き動かしていた。


 その時――遠くから、かすれた声がした。

どこか懐かしく、しかし苦しげに掠れている。


 『……ラ……イアン……やめろ……もう……それ以上は……っ』

 

 途切れ途切れの声。誰の声か、もう分からない。

それでも、その音が胸の奥を掻きむしるように響いた。


 「……うるさい……」

 ライアンの喉から、低い唸りが漏れる。

 

 声の主を思い出そうとするほど、頭の中が黒く塗りつぶされていく。

怒りと悲しみがないまぜになり、視界が歪んだ。

 

 「……その名前を……呼ぶな……!」

 喉の奥から低い唸りが漏れた。

 

 “ライアン”――その名は、かつてドロテアが笑いながら与えた、人間としての“鎖”だった。

彼の誇りを奪い、獣としての自分を否定した印。

 

 「俺は……誰のものでもないっ!」

 怒りと悲しみが混じった叫びとともに、再び拳が飛ぶ。


 幻の“ドロテア”の笑みが崩れ、顔を歪めた。唇が震え、か細い声が漏れる。


 「……やめて……ライアン……もう……」

 その息は途切れ途切れで、まるで痛みに押し潰されているようだった。


 ライアンの瞳がわずかに揺らぐ。

だが次の瞬間、怒りがそれをかき消した。

 

 「……やめるのは……お前だっ!」

 ライアンは首へと手を伸ばし、力任せに掴み上げた。


 黒い霧が腕を這い、手のひらから煙のような光が立ち昇る。

幻の“ドロテア”が苦しげに喉を鳴らすたび、ライアンの手に心地よい熱が伝わった。


 背後から、あの男の穏やかな声が響く。

 「そう、そのまま――とどめを刺しなさい。恐れも、痛みも、もう必要ない」

その言葉が耳に溶けるように染み込む。


 しかし――次の瞬間。

 どこからともなく、別の声が響いた。

 

 『……ライアン……お願い、もうやめて……!』


 それは少女の声。

悲しみと祈りが混じった、どこか懐かしい響きだった。けれど、誰の声なのか思い出せない。

胸の奥が一瞬だけざわめく。だが、その微かな温もりも、闇がすぐに呑み込んでいった。


 「……うるさい……俺は……もう、誰にも……」

 握る手に力がこもる。


 幻の“ドロテア”が、息を詰まらせ、苦しげに体を震わせた。


 ――その瞬間だった。


 地面の奥から、鈍い轟音が響く。闇がざわめいた。その中心で、銀色の閃光が走る。

重く低い唸り声――それは獣の咆哮だった。闇を裂くように、一匹の巨大な狼が現れた。

毛並みは銀に輝き、双眸は燃えるような琥珀色。狼はライアンの背後で立っている男を睨みつけた。


 ――この匂い、この気配。

 胸の奥で、何かが震えた。記憶の底から、幼い日の光景がにじみ出す。

あの温もり。あの声。あの瞳。

 

 「……父さん……?」

 掠れた声が、唇から零れた。


 狼の瞳が一瞬だけ優しく細まる。次の瞬間、その身体がしなやかに跳ね上がった。


 「な……なぜ貴様がここに……!?」

 男が怯えたように後ずさる。


 狼の牙が閃き、黒衣の男の悲鳴が闇に響く。血の代わりに黒い霧が弾け、空間が崩れ落ちた。


 その瞬間――全ての闇が霧散した。


 眩しい光が差し込み、洞窟の天井が見える。

息が荒く、膝が震える。ライアンは掴んでいた“何か”を手放し、そのまま膝から崩れ落ちた。

 

 視界が滲む。

目の前には、地に倒れたレグナスの姿。顔には無数の痣が浮かび、口元から血が滲んでいる。

その傍らで、フィオナが泣きじゃくりながら必死にレグナスの名を呼んでいた。

ライアンは息を詰まらせ、震える手を見つめた。赤い液体が、指の隙間から滴っている。

それが何かを理解した瞬間、喉の奥が凍りついた。


 「……あ……あぁ……僕……僕が……」

 声にならない嗚咽が漏れた。涙が頬を伝い、岩の床に落ちて消える。


 その時、洞窟の空気がわずかに震えた。

男の顔から血の気が引いていく。まるで何か――見えない何者かに心を掴まれたかのように、

瞳が大きく見開かれた。


 「……馬鹿な……精神領域に……あの“狼”が――!?」

 男の声が震える。

 

 その身を包む黒衣の内側から、黒い瘴気が滲み出した。わずかに身をよろめかせながら、唇を噛む。

 

 「……チッ、仕方ない。一旦引く」

 低く呟き、杖を高く掲げる。

 

 「――さあ、可愛い駒たち。主のもとへ戻れ。」

 命令と同時に、遠くで金属音が響いた。

 

 虚ろな目をしたシグムントと二人の仲間が、まるで操り人形のように駆け寄ってくる。

男は彼らを庇うように立ち、杖の先に闇を集中させた。


 「……これは……主に報告せねばなるまい。まさか、こんな“異質な力”が残っていたとは……」

 吐き捨てるように言い残し、足元に黒い魔法陣を展開する。

黒霧が渦を巻き、轟音と共に男たちの姿を飲み込んだ。


 「待てっ……!」

 ライアンが手を伸ばすも、霧は一瞬で消え去り、洞窟には静寂だけが残った。


 意識が遠のく。

耳の奥で、世界の音が一つずつ消えていく。かすかに嗚咽が聞こえた。

フィオナの泣き声――途切れ途切れのその声だけが、闇の底で微かに残っていた。

レグナスは動かない。岩の上に倒れたまま、血の跡が光に滲んでいる。


 (……みんな……ごめん……)

胸の奥で小さく呟いた瞬間、視界が完全に闇に溶けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ