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第2話 断ち切られたもの

――ジャキン、と冷たい刃の音が落ちた。

 白い床に、黒い束がするりと滑り落ち、止まる。自分の髪だと気づいた瞬間、少年の喉から低いうなりが漏れた。


「ガァァ……ッ!」

 鎖が軋む。肩と手首に食い込む鉄の輪が、筋を焼くように痛い。首を激しく振る。長い前髪が視界を

覆い、頬にまとわりつく――はずだった。そこに在った重みが、もうない。


(やめろ。触るな。返せ。俺の……)

 銀の鋏を握るロニーの指が微かに震えている。額に薄い汗。刃先が一拍、宙で止まり、それからためらうようにもう一度開いた。


「……すまない」

 少年には意味は分からない。けれど、声の揺れだけで胸が締めつけられた。ロニーの目はまっすぐこちらを見ず、黒髪の束に落ちている。そっと束をすくい上げ、指先で撫でる。揺れるたびに淡い匂いが鼻を掠める。

森の湿った土、風にそよぐ草――野生そのものの匂い。


「……随分と手入れされているな。これがお前の、大事なものなんだな」

低く抑えた声。自分に言い聞かせるような響き。

鋏を持つ手がわずかに止まり、刃先は空で迷う。


(母さんの手。父さんの息。ここにある。切るな、切るな――!)

 刃が髪を咥え、音を立てて噛み切る。

 黒い一房が床に落ちるたび、少年の胸の奥で記憶がぱっと明滅した。

 ――まぶたの上に落ちる大きな影。母の手が、ごつごつした指で前髪を梳いてくれる。喉の奥から鳴る、安心させる低い振動。

 ――肩口に噛みついてくるやわらかな感触。父の牙がじゃれつく。引っ張られる髪。笑い声。

 ――走る。風が背を押し、髪が後ろに流れる。獣たちの足音が並び、息が重なり、森そのものが胸の中で呼吸する。

 ひと房、またひと房。明滅するたびに、色が薄くなる。(消えるな。消えるな。薄くなるな)必死に胸の内側でつかまえようとしても、指の間を水が零れるみたいに逃げていく。


「グルルルルッ……!」

 鎖を鳴らし、体を捩じる。床に擦れた膝が熱くなり、


 鉄の輪が皮膚を裂く感触が走る。使用人のロニーは目を伏せたまま、小さな声を繰り返した。

「……すまない……すまない……」


 襟足に刃が入るたび、うなじに冷たい空気が触れた。そこはいつも母の掌が覆い、父の顎が乗っていた場所。空気が刃物になって刺す。(寒い――)横髪が落ちると、耳に牢の滴る音と人の息がむきだしでぶつかってくる。守りが剥がれていく感覚。胸の内側で、獣の毛並みが逆立った。


 ロニーは鋏を止め、少年の足枷だけを外すと、壁際に座らせた。

少年は息を荒げ、全身を震わせながら、じっと相手を睨んだ。

 

 その瞳。

涙に濡れた赤は、まるで宝石のように輝いていた。

青髪使用人のロニーは心が押し潰されそうになり、思わず視線を逸らした。

だが、作業は終わっていない。

彼は再び鋏を持ち、残っていた長い前髪に刃を入れる。

 

 少年はもう声を張る力もなく、低い唸り声だけを漏らした。

やがて前髪にも刃が触れた。視界の陰がひと息に明るくなる。眉にかからぬ短さに整えられ、額の皮膚が外気に晒される。守られていた薄暗さが奪われ、むきだしになった心臓のように落ち着かない。

床は黒で埋まり始めていた。白い石を覆う、夜の切れ端のような髪たち。少年は無意識に手を伸ばそうとした。指先で掴めば、少しは戻る気がした。けれど鎖が短く、地面に指は届かない。届かない。届かない――。


 そのとき、かかとの高い靴音が階段から降りてきた。金属の留め具がちり、と鳴る。

 令嬢が来た。

 扉が開き、甘い香りとともに青い瞳が差しこむ。彼女は一歩、また一歩と白い床を踏み、散らばった黒に目を落とした。その唇に、嬉しそうな、どこか壊れた線が浮かぶ。

彼女は瞳を輝かせて、黒髪少年に向き直った。


「まあ……なんて清らか。獣の影が消えて、人間の顔が現れたわ」

 青い瞳が狂気に濡れている。短くなった髪に指を滑らせ、わざとらしく撫で回した。

「いい額、可愛い目……従わせ甲斐があるわ」


「グルルルッ!」

 少年は怒りに吠え、牙を剥いた。だが鎖は外れない。

令嬢の青い瞳が、少年の首元に落ちた。そこには、三本の牙を繋いだ首飾りが揺れていた。


「……まあ、これは」

 彼女の指が紐を掴み、容赦なく引きちぎる。ぶつ、と小さな音を立てて牙が揺れ、宙ぶらりんに掴まれた。

「動物が作った飾り? なんて不快なのかしら」

 令嬢の瞳に、あからさまな嫌悪が宿る。

「こんなものをぶら下げている限り、いつまでも獣のままね」


「ガアァァァッ!!」

 喉が裂けるように叫んだ。返せ、と全身で訴える。

 思い出が少年の頭をよぎる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 焚き火の赤が弾ける。

大きな手をぎこちなく動かしながら、ゴリラの母は紐を編み続けていた。指先には小さな傷が滲んでいる。

「……ほら、見てごらん。少し曲がっちゃったけど……ちゃんとできてきたよ」

母は恥ずかしそうに笑い、少年の胸に編みかけの首飾りをそっと当てた。


「母さん……指、血が……」

心配そうに覗き込む少年に、母は首を振る。


「大丈夫。あなたのためだもの。痛くなんてないさ」

傍らで父の狼が火を見つめながら、低く穏やかに言った。

「三本の牙……母さん、父さん、そしてお前。俺たちの印だ」


「……印?」少年が瞬きをする。

母は優しく笑いながら、焚き火の光にかざした。

「ずっと一緒だって約束の印。どんな時でも、離れないって」


 少年の赤い瞳が大きく揺れる。

「……ずっと? 本当に?」


「ずっとだ」父の声は落ち着いて力強く。


「忘れないで。母さんも父さんも、いつもそばにいるよ」

母の声は、夜風よりも柔らかく胸に染み込んだ。

焚き火がぱちりと鳴り、三人の声が炎に溶けて、星空へ昇っていった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 令嬢はためらいもなく、それを床に叩き落とした。

そして、かかとを振り下ろす。

ガキン、と甲高い音。

牙が砕け、白い破片となって四方に散った。


「こんな獣臭いもの、要らない」

その瞬間、少年の胸に火が走った。熱と冷たさが混じり合い、内臓を抉られるような痛み。

 

 母の手の温もりも、父の声も、森の光景も――全部が粉々に砕かれたように思えた。

いつまでも一緒にいようという願いまで、足の裏で踏みにじられた。

(奪われた……母さんの想いも、父さんとの誓いも、俺の生きた証も。……全部、消された)


瞳から熱いものがこぼれる。牙を剥き、涙に濡れた赤い目で令嬢を睨みつけた。怒りと絶望が、

燃える炎のように渦を巻く。


 令嬢はうっとりとした微笑みを浮かべる。

「徹底的に獣を削ぎ落としてあげるわ。あなたは人間になるのよ」

革の首輪が取り出される。黒く光る帯が、彼の喉に押し当てられた。

金具が鳴り、冷たい輪がぴたりと首に締めつけられる。


「こちらの方が似合うわね」

 指先が短く刈られた髪を撫で回す。その声には狂気と優越感が漂っていた。


「今日からあなたは――ライアン。人間界へようこそ」

 耳に突き刺さったのは「人間」という音だった。

 母が寝る前に語ってくれた物語の中で、必ず出てきた言葉。

 獣とは違うもの。恐ろしく、奪い、支配する存在。


(俺を……人間に? 違う。俺は獣だ。森の子だ。お前の言葉なんかに屈しない。

 俺は……俺のまま生きる!)

 胸の奥で火が激しく嘶いた。怒りに揺れる赤い瞳が、狂気の令嬢を刺す。


「反抗的なその目……ええ、いいわ。従わせたときにもっと輝く」

令嬢はその視線に酔うように笑い、踵を返した。

「ロニー、後は任せたわ」

 令嬢は満足げに微笑み、裾を翻して牢を後にした。甘い香りだけが残る。


 牢に残されたのは、少年とロニーと呼ばれている青髪の使用人。

ロニーはしばし黙っていた。やがて膝を折り、そっと肩に触れる。

言葉を落とすが、意味は分からない。

それでも――その声の響きは冷たくなかった。


 鎖が外される。力なく崩れそうな体を、ロニーが支える。

よろめく足で一歩を踏み出すと、視界が滲んだ。空腹と疲労で体が重い。

だが、胸の奥の火だけはまだ消えていない。

(消さない。奪わせない。俺は人間にならない。絶対に)

 

 ロニーに導かれ、廊下を歩く。石の床は冷たく、遠くから湿った匂いが漂ってくる。

扉が開き、蒸気が溢れ出した。湯気の熱気が頬に触れる。

白い部屋。湯の匂い。森とは違う世界。

ロニーは押しつけることなく、ただ横に立ち、待っていた。


 少年は一歩を踏み出した。

短く刈られた髪を揺らし、胸の奥に燃える火を抱えながら。

(俺は獣だ。人間にはならない。何を奪われても……俺は俺だ)

そう誓いながら、湯気の向こうへ進んでいった。


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