第11話 門の向こうへ
朝の光がレース越しに滲み、寝台の上の少年を照らしていた。
ライアンは目を瞬かせ、ゆっくりと身を起こした。寝ぼけた視界に青い影が差す。
「おはよう、ライアン」
扉の向こうからロニーが入ってきた。手には整えられた衣服の束。
「……おはよう、ロニー」
流れるように言葉が口から落ちた瞬間、ライアンは小さく眉を寄せる。
(もう普通に出てくる……俺は、すっかり“人間の音”で喋ってる)
ロニーは「ほら、腕をこっち」と穏やかに声を掛けながら、ライアンの寝間着を丁寧に
脱がせた。白いシャツを広げ、少年の腕をするりと袖に通してやる。ずれた布を軽く整え、次は
黒いズボンを差し出す。「片足ずつな。……よし」小さく頷いて履かせると、最後にブーツを足元へ
置き、しゃがんで紐を結んでやった。結び目を確かめてから、優しい眼差しでライアンを見上げる。
そして、いつもの木櫛を手に取り、額の上にかかる前髪、短く刈られた横髪と襟足を優しく梳いた。
ライアンは鏡に映る自分を睨み、吐息を落とした。少年の顔つきが、森で獣と暮らしていた頃よりも
ずっと人間らしい。
(……やっぱり、短ぇな。風に揺れる感触もない。……俺の髪じゃないみたいだ)
曇った鏡が、ため息の重さを映し出す。
そんな様子を見て、ロニーが肩をすくめる。
「ライアン、お前、背伸びたな」
ライアンは驚いて鏡を見返した。
「……そう、かな」
頬がわずかに熱くなる。
(短いのは相変わらずだ。けど……骨も腕も、重くなった気がする。森なら、もっと速く走れたのに)
ライアンは少し照れたように鼻を鳴らした。
「……べつに、勝手に伸びただけだ」
だが心の奥では、兄のように見てくれているロニーの言葉に、不思議な温かさを覚えていた。
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食堂に入ると、ドロテアが柔らかい笑みで出迎えた。
「おはよう。ライアン」
ライアンは喉の奥で言葉を飲み込んだ。
(……本当は、呼びたくない。あの女を“母さん”なんて……でも、森に帰れない。俺には、もう
この温もりしかない……)
胸がきゅっと締めつけられる。重たい口を無理やりこじ開けるように、唇が動いた。
「……おはよう、母さん」
ドロテアの瞳が潤む。次の瞬間、彼女は席を立ち、ライアンを抱きしめた。
「……ようやく言ってくれたのね」
普段なら嫌がるライアンも、今回は抵抗しなかった。
(嫌だ……でも……これしかねえ。温かさを感じられるのは、今はこの腕しかない……)
朝食の席につくと、ロニーが控えめに口を開いた。
「令嬢様、ひとつ提案がございます」
ドロテアがカップを置き、視線を向ける。
「なにかしら?」
「ライアン様も、そろそろ学院に通わせてはいかがでしょう。年齢は正確には分かりませんが……
見た目は十三歳ほど。魔法も剣も学べる“ヴァルグランデ学院”なら、ライアン様の力を伸ばすには
良い環境かと」
ドロテアの白い指がグラスの縁をなぞる。瞳が冷たく揺れた。
「学院……。でも、外の世界は“汚れている”。粗野な子供たちに混じれば、せっかく磨き上げた
ものが曇ってしまうわ。……この子には私がすべてを与える。それで十分でしょう?」
ライアンは小さく肩をすくめた。
(……また、囲い込もうとしてる。この女の傍にいれば、森からどんどん遠ざかるだけだ)
ロニーは一拍置き、落ち着いた声で続けた。
「令嬢様のお心は理解しています。ですが……閉ざされた場所で育った花は、風に当たらなければ
根を張れません。学院は“汚れ”ではなく、ライアン様に必要な空気を与えてくれるはずです」
ドロテアの瞳がわずかに揺らぐ。
「……空気、ね」
ライアンは唇を噛んだ。
(……外の世界。俺には森しかなかった。けど――人間の世界の空気って、どんな匂いなんだろう)
しばしの沈黙の後、ドロテアはため息を落とした。
「分かったわ。ただし――必ず上位の成績を保つこと。そして週末には必ず屋敷に戻ること。
その約束を破れば……分かっているわね」
ライアンは顔を背け、低く答えた。
「……わかってる」
(やれやれ……結局、縛りつけは消えないんだな)
ドロテアがライアンに学院通いを許した後、ロニーは横目でライアンを見た。
今朝、鏡に映った自分の髪を睨んでため息をついた少年の顔が、脳裏に残っている様子だった。
「令嬢様、せっかく学院に通うのでしたら……身なりも、もう少し整えてあげてはいかがでしょう」
ロニーの声は穏やかだったが、その奥に小さな願いが隠れている。
ドロテアが首を傾げる。
「整える……?」
ロニーは肩をすくめ、あえて軽い調子で続けた。
「今のライアン様は清潔ではありますが、どこか素朴で地味です。淑女たちは見た目に敏感です
から……少しオシャレをすれば、すぐに憧れの的になるでしょう。美しい淑女を連れて帰ってきて、
令嬢様にお孫さんを抱かせる日も、そう遠くはないかもしれません」
その一言に、ドロテアの瞳がぱっと輝いた。
「……お孫さん、ね」
想像の中で、愛らしい赤子を抱く自分を思い描き、頬を朱に染める。
「面白いわ。――いいでしょう。ロニー、あなたに任せるわ」
ロニーは深く頭を下げ、横目でライアンをちらりと見た。
《半年後》
屋敷の玄関に立つ少年の姿は、森で駆け回っていた獣の子ではもうなかった。
白いシャツに袖を通し、黒いジャケットを羽織る。胸元には〈一本の大樹と剣、そして杖〉を描いた
紋章が刻まれ、布越しにも重みを感じさせた。脚には黒のズボンと磨かれたブーツ。鏡に映る自分を
前に、ライアンは思わず呼吸を止めた。
以前は眉の上で無理やり切り揃えられていた前髪が、今は自然に伸びて眉を覆い、目のすぐ手前で
ゆるやかに揺れている。横髪もわずかに長くなり、整えられた襟足と相まって、全体の印象は幼さより
も落ち着きを増していた。
(……俺、こんな顔してたんだ。なんか……前よりマシになってる? ちょっとだけ……嬉しいかも)
学院の制服に身を包んだライアンの首元には、まだ革の首輪が重たく残っていた。黒い革は使い
込まれて艶を失い、金具は冷たく鈍く光っている。ドロテアは歩み寄ると、白い指で金具を外した。
カチリ、と乾いた音。
重さから解放された首に、ひやりとした風が触れる。
「……もう、これは要らないわね」
そう囁いたドロテアの瞳は、柔らかくも鋭い光を宿していた。次の瞬間、彼女は小箱を開き、
中から黒いループタイを取り出す。細長い黒い紐。その中心には、赤いひし形の留め具が光を受けて
輝いていた。
ドロテアはそれをライアンの首元に回し、丁寧に結び留めた。
「これで、どこにいてもあなたの居場所は分かるわ。でも安心して。もう電撃なんて与えない。
これは“親子の証”――私とあなたを繋ぐ、印よ」
赤いひし形の留め具が喉元で光り、ドロテアの白い指がそっとその上をなぞった。
「大切にしなさい。私の息子として、恥じないように」
首輪の冷たい重みは消えた。代わりに、胸元で赤い宝石が小さく揺れている。
ライアンは鏡に映る自分を見つめ、唇をきゅっと結んだ。
(……首輪はなくなった。けど……これも結局、繋がれてるんだよな。でも……前よりは……まだ、
まし……か)
玄関先。朝の光が差し込む中、制服姿のライアンを前に、ドロテアは両手を組んで立っていた。
「ハンカチは?」
「……ある」
「筆記具は?」
「……ある」
「学院の入学証は?」
「……あるって」
「靴紐、ほどけかけていない?」
次から次へと飛んでくる質問に、ライアンは眉をひそめた。
(……もう全部あるって言ったじゃん。森なら何も持たなくても生きられるのに。人間って、
こんなに確認しなきゃいけないのかよ)
心の中でぶつぶつ言いながらも、口から出るのは短い返事だけ。
「……ある」
「……ある」
ドロテアは一つひとつ頷き、納得するまで視線を外さない。その様子は、母のように見えて、
鎖のようでもあった。
「よろしいわ。ロニー、お願いね」
「承知しました、令嬢様」
ロニーが軽く会釈し、ライアンの肩に手を添える。
「行こう、ライアン。馬車が待ってる」
石畳の前に立つ黒塗りの馬車。ライアンは深く息を吐き、ドロテアをちらりと見やった。
「……行ってきます、母さん」
その言葉に、ドロテアの瞳が揺れ、今にも涙をこぼしそうなほど柔らかく微笑んだ。
「ええ……気をつけて」
ライアンはその視線から逃れるように、ロニーと並んで馬車へ乗り込んだ。揺れる座席に身を
預けると、外の空気の冷たさが頬を撫でる。
(……やっと出られた。けど……学院か。人間の中で、俺は……)
馬車の車輪が石畳を叩き、屋敷は遠ざかっていった。馬車の扉が閉まり、車輪が石畳を叩き始める。
屋敷が少しずつ遠ざかっていく。ライアンは窓辺に肘をつき、ぼんやりと景色を眺めた。
向かいの席に座るロニーが、ふっと息を吐いて背を預ける。その姿を目にして、ライアンは無意識に
目を細めた。
青い髪が、朝の光を受けてかすかに揺れる。真ん中で分けられた前髪は眉にかかるほどで、左右に
流れる線は耳たぶのあたりで止まっている。襟足はきっちりと整えられ、乱れがない。
(……枝の揃った大木みたいだ。崩れそうにない。だから……横にいると、不思議と心が静かになる)
ロニーの黄色い瞳が、窓の外を柔らかく見つめていた。その光は冷たさを持たず、不思議と落ち着きを
与えてくる。高い背丈に、細い体つき。けれど、そこから漂う空気は安心感そのものだった。
ロニーは視線に気づいたのか、口元を緩める。
「そんなに見るな。……大丈夫だ、学院も」
「……別に、見ていない」
ライアンは慌てて窓に顔を戻したが、胸の奥のざわつきは少しだけ静まっていた。
今日から学院遍に突入します!
ライアンはようやく本格的に人間界に飛び込む。
待っているのは友情か、更なる試練か。
楽しみに~。




