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第10話 折れた牙

 屋敷の広間は、甘い香りに満ちていた。

大きな円いケーキ。宝石のように並ぶ果実、雪の峰のような白いクリーム。炎が瞬き、甘い歌の

ように空気を揺らす。思えば、ここに捕らえられてから――もう一年。

森を駆けていた日々は、遠い霧の向こうに沈んでしまったようだ。

言葉も、食事も、服も……嫌々覚えたはずなのに、今では当たり前になっている。


 (……一年。なのに……まだ、森の匂いが恋しい)


 ドロテアが椅子から立ち上がり、ゆっくりと両手を広げた。

「おめでとう。今日で、あなたが“人間として生まれ直してから”一年。――新しい誕生日よ」

 

 ライアンの赤い瞳が細く揺れた。

 (誕生……? 俺は森で産声を上げた。父さんの胸の鼓動を聴き、母さんの手で眠った。

 それが俺の始まりだ。……ここじゃない)

 それでも、甘さは正直だった。フォークを通して口に入る柔らかさ、果汁の酸、鼻に抜ける香り。

 (……美味い。身体が勝手に喜んでる。……だけど煙の匂いも、獣たちの声もない)


 胸の奥でざわりと土の匂いが蘇る。湿った大地、焚き火の煙、母ゴリラの手。

 (帰りたい……。やっぱり森がいい)

 だが、次の瞬間、ドロテアが片手を上げた。銀の蓋をのせた皿が運ばれてくる。

蓋が外れた瞬間、空気が変わった。干からびた肉。硬そうで、見た目も悪くて、森でよく食べていた

獣の食べ物に似ている。


 「今日は特別よ。好きなように食べていいわ。手でも構わないの」

 笑顔は花のように柔らかい。だが瞳の奥は冷たく光っていた。

 「これは――あなたの卒業試験だから」


 (卒業……? 何からだ)

 ライアンは指で肉をつまみ、乱暴に噛みちぎった。

 ――苦い。舌に針のような苦みが刺さる。喉が閉じる。飲み込めない。


 「……っ」


 思わず吐き出した。唇が震え、胸の奥がざわめく。

 (な、なんだこれ……! 森じゃあんなに旨かったのに……どうして、飲み込めない……!?)

 ドロテアの口元がぱっと綻んだ。


 「おめでとう、ライアン」

 甘い囁きが刃のように突き刺さる。


 「あなたはもう、獣を卒業したのよ。獣の食べ物は体が拒んだ。もう吠えず、駆けず、

  ここで人として生きる。――立派な“人間”になったの」


 「ち、違う!」

 椅子が軋み、机を叩く音が広間に響いた。

 胸の奥が、ざらりと削れた。

 (……一年。俺は、一年も……罠に気づかなかった?)

 いろんな後悔が、砂を噛むみたいに歯の間に広がる。

 (あの時、もっと強くロニーを殴っていれば。あの鎖が外れていたら。そこらの草無理やり

 食っていれば、舌は変わらなかったのか)


 無意味だと分かっても、考えは勝手に戻る。背中が寒い。視界が揺れた。

 胸が裂けるように熱い。

(やめろ……! 俺は獣だ! 父さんと母さんの子だ! 人間なんかじゃない!)


 だがドロテアは微笑んだまま。大きな鏡を持ち出すと、背後からライアンの頭を掴み、

短い髪を押し上げた。


 「見なさい」

 鏡の中――そこにいるのは、見知らぬ顔。額が露わで、清潔に整えられた少年。

 (これ……誰だ……。俺じゃない……!)


 「似合っているわ」

 白い指が額からうなじへと滑る。優しさを装った圧力。


 「人は見た目を大事にするのよ。汚れていては誰からも相手にされないわ。だから私が

  整えてあげたの。綺麗に、可愛らしく。……私の可愛い“息子”としてね」


 「やめろ! 僕は……違う!」

 声が震え、涙が滲む。


 ドロテアはゆるやかに、しかし強く抱き寄せた。

 「いいえ、違わない。もう見て。清潔で、整っていて、可愛らしい……人間の顔よ」

 鏡の中の自分が涙で歪んだ。

(嫌だ……! 父さん……母さん……俺は……!)


 ドロテアの囁きが耳を満たす。

「もう森には戻れない。けれど安心して。空いた場所は、私が埋めてあげる。

 母として、いつまでも」


 赤い瞳が揺れる。

 (……帰れない……? 本当に……? 父さんも、母さんも……もう……)

 喉の奥から小さな声が漏れた。

 「……さみしい……」


 ドロテアはその言葉を聞いて、白い唇に笑みを浮かべる。

 「なら、心配はいらないわ。あなたには、これから私がいる。母として、傍に」


 白い指が額からうなじへ、やわやわと撫で下ろす。髪を梳くたびに、体温が染み込んでいく。

胸がきゅっと縮み、涙がにじむ。

 (……母さん……? 違う……でも……あったかい……)

 (俺の母さんの手と……ちょっと似てる……。違うのに、なんで……心臓が落ち着くんだ……)

 (もう森には帰れない。父さんも母さんも、ここにはいない。なら……これでも、いいのか……?)


 (違う……違うはずなのに……! でも……離したくない……この温もり……)


 震える唇が勝手に動く。

 「……かあ、さん……」


 ドロテアの瞳が潤み、頬に喜びの色が差した。

 「そう……そうよ。私の可愛い子」

 彼女は子をあやすように頭を撫で、指先で髪を梳き続ける。


 ライアンはその温もりに抗えず、瞼が重く落ちていった。赤い瞳がゆっくり閉じられ、寝息が小さく

零れる。ドロテアは胸に抱き、愛おしげに揺らしながら撫で続けた。


 「私の息子……やっと、私のものに……」

 彼女はその頭を優しく撫でながら、ロニーを振り返った。

「ロニー……あなたには話しておくべきね」

 その声は、少しだけ震えていた。


 「私には、かつて愛する夫がいたの。名はアンドレ。あの人と過ごした日々は、春の陽だまり

  みたいに温かかった。私は身ごもり、もうすぐ赤ん坊が生まれるはずだった」

 遠くを見るように目を細める。


 「馬車で旅をしていたある日……突然、熊が現れたの。御者が叫び、馬が暴れ……。アンドレは

  私を必死に庇ってくれた。私は助かったけれど――子は流れてしまった」


 吐息が震え、言葉がかすれる。

「医師は言った。もう二度と望めない、と。アンドレは……冷たい言葉を残して去ってしまった。

 私がどんなに泣き叫んでも、戻ってはこなかった」


 白い指がライアンの頭をゆっくり撫でる。

 「……ライアン、初めてあなたを見たとき、胸がざわめいたわ。あんな獣たちに囲まれて……

 それでも、こんなに可愛い顔をしているなんて」


 彼女の瞳がわずかに揺れる。羨望と嫉妬とが入り混じった光。

 「でも許せなかった。獣と過ごすあなたが幸せそうに見えるのが。――私の方が、

  あなたをもっと幸せにできる」


 唇が歪んで、笑みとも熱病ともつかぬ色を浮かべた。

 「だから決めたの。獣から切り離して、人間に育てる。私の息子として。……もう一度、

  母になるために」


 ロニーは静かに頭を垂れた。

 「……承知しました、令嬢様」



 「今夜は眠らせてあげて。明日からはまた勉強を続けるのよ」


 「はい」

 ロニーは眠るライアンを抱えたまま、廊下を静かに進んだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 廊下の壁に灯る火が、細い輪を重ねる。扉が遠ざかり、近づき、また遠ざかる。

ふっと、誰にも見せない笑みがロニーの口元に灯る。


 「……さて、これでまた一歩......」


 囁きは夜気に溶け、誰の耳にも届かない。

ただ、腕の中の少年だけが無垢に寝息を立てていた。


 「......悠久(ゆうきゅう)安寧(あんねい)に近づく......」

目に宿る光は、普段の柔らかさとは違う色を帯びていた。


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