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おとぼう奇談

作者: 武田ウグイ

おれは、一面の湿地帯のなかにたつ小屋のなかで震えていた。なにしろ師走の初めである。水の上はことさら風が強く、藁のすき間からひゅうひゅう風が入ってくる。


たしかここを、地元の川魚などを取っていた漁民どもはヨウモツ小屋と言っていた。ここから網を入れて魚をとるらしいのだが、いずれにしろ、しょせんは水上の足場程度のものだ。おれの着ているつぎはぎだらけの檜皮色の袴はずぶ濡れで、もう着物としての役にはたちゃあしない。侍の誇りである腰の大小は水のなか。このまま凍死するのは、素浪人風情では、とてもらしい最期だ。いや、その前におとぼうに食われてしまう…。


さきほどまでのほろ酔い気分は、世の中の底辺の鼻つまみもんに与えられた最期の慈悲だったのだろう。乗っていた小舟が水面下からぶっ飛ばされたときに、新月の夜空を飛んだ七人の影はいやに覚えていた。

おれはそいつらがおとぼうに食われているあいだに、天祐と言うべきかこの小屋に見当をつけ、必死に泳いでまんまと逃げこんだというわけだ。しかし、状況は絶望的である。しばしば聞こえていた仲間の悲鳴や叫び声がもう聞こえなくなったが、おとぼうはまだ腹に余裕があるのだろうか…。近くでクェーと、汚い鳥の鳴き声がした。それが連続して五つほど響いた。鳥はおしなべて夜は眠っているものだ。まさか…。



潟だか川だかの区別のつかない際に葦だかヨシだかが延々と生えている。とにかく河川の氾濫がありすぎて平野全体が水に浸かっているのが越後の常であるらしい。そんな水の国に化けナマズがいるという噂もあながちウソとは思えない。そいつが人を食うなどという話もまた世の中の忙しい雰囲気に影響されて、話に尾ひれがついたものだとおれは思っていた。


なにしろ黒船が浦賀にあらわれて以降の日の本ではどんな流言蜚語が流れようとも不思議ではない。ヤクザあり浪人崩れありのわれわれぼんくらども八人は加賀から北前船で新潟に北上し、水に浸かった芦原のほとりにある村のひとつに足を運んだ。そこではちょうど化けナマズに殺られた娘の葬式をやっていた。


一味の頭領の、浪人風情にしては顔立ちが柔な美男子で、他人様にたいして説得力のある木田佐助が喪中の村で、慇懃にたずねた。


「われわれのなかに鯨漁で名を馳せたものがいるのです。よければその化けナマズの話をきかせちゃくれませんでしょうか?」


村人たちは話をしてくれた。なんでもここ十年、村の眼前にある湿地帯や港町新潟の海岸で一年に2,3人ほどそこを往く人が消える事件があった。神隠しや異国船の侵犯に怒った海神わだつみの仕業だとこれまで人の口はささやいていたが、五年前に近くの村に流れついた小舟に乗っていた右足がふともものあたりから食われた旅装姿の男が、息も絶え絶えにこういったのだと云う。


「でかいナマズだった。十畳あってもたりねえくらいの。そいつがたち子とおれの足を食っちまいやがった…」


たち子とは、その男の十歳になった娘であるという。その男は行商の貫助と名乗ったが、そんな不幸な彼も村人に看病を受けながらも亡くなってしまった。いままでは村人も目に見えぬものの仕業であると畏れていたが、人の手で成敗できそうなナマズ風情だとわかったらもう容赦はない。彼らは銛や網などを持ちよって仕留めようとしたが、その大ナマズはけっして衆人の前に姿を現わさない。熱が冷めて、村人たちがもとの生活に戻ると、以前のように行方不明者がまた出始めた。その繰り返しであったという。


この人智を兼ね備えたような狡猾な相手に、村人は奉行に願い出たりもした。しかし奉行のほうは化けナマズなどというおるかおらぬかもわからんものに現を抜かすなと、にべもなかったらしい。

メリケンの要求した新潟の開港が直前に控えており、役人たちが万事事なかれと願い、そのような不逞な話にとりあわないのも無理はなかった。


再三の請願も却下された村人は途方に暮れた。最後には、村々を通る人に話をして、化けナマズのことが各地へ流布されるように仕向けたのだという。われわれ四人は加賀に逗留中にこの話を聞いて足を運んだ次第だった。


「この人はぁ知行も与えられた名うての銛手よ! 土佐の沖でぅあぁまたの漁船を沈め、エゲレスの軍船ですら敵わなかった大クジラの目ン玉をこぉの銛がぶち抜いて仕留めたのよぉ!」


元講談師の喜助によって、おれはそういう役どころにされた。長身で体つきに無駄な肉や脂もない男が短い鉤槍を小脇にかかえ、はるばる諸国を旅した日焼け顔を仏頂面に構えりゃ、口上の通りそうかもしれんと思うような男ができあがる。おれの大小は、この一座で一番の小男の日向が慣れぬ様子で腰につけている。目の前の村人たちからは三分の疑と七分の信が感じとれる。とっかかりとしては上々だろう。そのうち、村人の中から多少いいものを着た長者がでてきた。村長むらおさらしい。


「あなたがたならおとぼうを仕留められるとおっしゃりたいのですか?」


「おとぼう、というのですか? その化けナマズは…」  木田佐助が聞く。


「そうです。まだ誰もナマズを見たことがないのですが、信濃は諏訪の方がここにいらしたときに、われわれの話を聞いて “そりゃあおとぼうではないですか”と…。諏訪ではそんな噺があるらしいのです。…ともかくもわれわれが勝手に名付けました。」


「なるほど」  木田佐助はおれたちのほうを向いてニヤリと笑った。こいつは相手の心を推しはかる才能がある。この村長をみて吉と出たらしい。


「おとぼうは神出鬼没だと言っても、奴の痕跡のようなものはないのですか? ナマズだから鱗はないでしょうが…われわれは自らの技能でひと働きしたいのだが、幻相手に頑張っても徒労ゆえ」


村長はおれたちを喪中の屋敷へ連れていった。村のなかではおそらく一番大きな家屋だった。庭には蔵も見受けられる。しかし、おれは庭の片隅にある樽の壊れたような木材の山に気づいた。べつになにかに使ったあとに放置されているといえばそれまでなので、それ以上は気に掛けなかった。


村長は喪服の村人がまだ集まっている、抹香臭い部屋にまで連れて行った。座棺のなかにいる娘を見せた。娘は大ナマズに襲われて溺れ死んだらしく、死に装束の彼女の遺体は想像よりはずっときれいだった。


「わしの娘なのです。わしが検分をゆるします」  村長は言葉を詰まりながら言う。


「まあ」  そばで控えていた細君らしき女性は、大きな声でそう叫んだ。


「なんてことを!! もうこれから埋葬しようというときに、仏をこんなうさんくさい連中の手で辱めようって…おまえ様は正気なの!?」


「いやいや、たず(・・)よ。それからみんなよ」  


奥方だけではなく、列席していた村人も村長の発言になにごとかと目を見開いていたのだ。村長は憤慨猛る奥方と村の者たちを連れて、奥の部屋に行った。すこしの喧騒のあと、彼らがぞろぞろと戻ってきた。


「みんな納得してくれました」


村長はぜいぜいと息を切らしてそういった。それでも、いまだに老婆の目はわれわれに対しての敵愾心を隠さないし、村人も睨めつけてる。


われわれは自らの役どころのとおり、丁重に娘を座棺から取りだして、ござに敷かせた。木田佐助は誰よりもてきぱきと動いた。


「ひゅう」  彼は死体をはだけさせると、一味の者だけに聞こえる声で口ずさんだ。こいつには一味のだれも絶対に敵わないし、そんな勝負はだれもしようとも思わない。


「確かにこれは…」  


それはそうと、おれは娘の肩から腿、脚のくるぶしまでくっきりと、扇形につけられた噛み傷をみてぞっとした。大ナマズに右の方向からくわえられたのが容易に想像できた。巨大な、粗い金やすりに襲われたような傷がついている。そうだ、ナマズの歯とはおおよそこのようにヤスリ状なのだ。おれは料亭で見たことがあった。


「確かに」  木田佐助は納得した。


「心情的に許されないことをお許しいただきありがとうございます」  村長、それから村の者たちに頭を下げた。その態度のおかげで村人たちのなかに、なにか安堵の雰囲気が広がった。


「われわれはナマズ退治に務めさせていただきます。お代は後程で結構です。一人あたり八両でどうでしょうか」


こいつは慎重な性格だ。もともとは江戸の旗本の末席の家の次男坊なのだったのだが、放蕩とワルが過ぎて勘当させられたのだ。だがしかし、家柄のせいか頭は回るし、礼儀作法や気遣いの良さ、人懐っこさも技能・・として、常人以上に精通しているのだ。まず信を得ること。全ての場合でうまくいくわけではないが、それでもこのぼんくら一味の稼ぎの大本は木田佐助の能力によるところが大きい。



われわれは村の一軒家に泊まった。そこはほとんど中心から離れた外縁に位置していたおかげで、われらの謀議も進めやすいというものだ。


「たしかに、誰もいないぜ」  


日向が村の見回りから戻ってきた。


「…にして今まで見てきたなかでもとくにどん百姓ばかりの村だぜ。今度ばかりはあの銛の演出も無理がねえかと思っていたんだが、あっさり信じちまってよ」


「バカ、おれの交渉力のおかげだ」  木田佐助が意地を張った。


「さて、だ」  龕灯の明かりを一味四人の輪にむけて、木田佐助が切りだした。


「ご丁寧に奴らから案内しやがったが、カネのありそうなところはもうつかめた。他になにか情報を聞き出したやつはいるか?」


誰も、なにも言わない。おれはあの木材の山のことを言おうかと思ったがやめた。木田佐助はつまらないことと断ずるだろうからだ。この村は易いカモなことは来たとたんにわかった。平時ではなく、奉行所も遠く、そしておれたちをこんなに早く信用した。つまり、つとめをするのに好都合ということだ。


「意見がないのなら、このまま村長の屋敷まで行くぞィ」



「そういえば、香典をちょっとつまめばよかったな」  


喜助がけらけら笑い、徳利をがぶ飲みしながら艪をこぐ。おれたちはまんまと急ぎ働きに成功した。村長の屋敷に夜闇にまぎれて忍びこみ、家族以下にはドスで突いたり、粘土を口鼻につっこんであの世に行ってもらった。おれも息子の一人を斬捨てた。村長は錠で土蔵を開けさせるともう用はなく、木田佐助が鍵槍で地面に串刺しにしてあの世へ送った。おれたちは蔵の小判、おおよそ五十両と大量の銅銭を手に(そりゃあ大盗からみりゃしけた稼ぎだ)、舟着き場の舟を拝借して退散したのである。かなり村から離れると、盗み出した酒を飲み、宴会がはじまった。悪党どもの愉快な笑い声が夜の水面にひびいた。


「にしても、笑えるな」  やくざの徳次郎が言った。


「一人あたま五両として、おれたち八人にまけても六十両は必要だろうに、結局五十しかねえじゃねえか」


「さらにまけようって肚だったんじゃねえのか」  


日向が酔いつくした声で、夜空をあおいでそういった。


「もともとおれたちは百両だっておがんだことねえよ」


「おれはある」  


木田佐助が舳先の特等席に座って、大小を抱きよせてこちらを見渡している。「どこでだ?」 とおれが訊いた。


「実家だよ。正月んときに金庫箱のなかに、親父の貯めこんでいたカネがあってな…。天下から見りゃさんぴん侍と何が違うのかわからねえクズ旗本のくせに、下の人間に偉ぶる親父にほとほと嫌気がさしていた時だった」


「じゃあそれを持って…」  日向が艪をこぎながら言う。


「そうだよ。追手もなかった。あっという間に妓楼で使い果たした」


木田佐助らしい話だ。いや、もしかしたらでっちあげの作り話かもしれん。おれも含め、ここにいる全員に言えることだが、カネのために離合集散して人を殺すような奴らを信用しないに越したことはないのだから。


「にしても、世の中は変わるねぇ。新潟でちょいと耳に挟んだが、京都で公儀の軍はなんと賊軍あつかいされたそうだ。帝の旗は薩長土肥のほうに翻ってな…。まったく、はやく新しい世になってほしいもんだぜ。こんなおれたちをパクれない連中よりももっとマシな。はやく新しい世の中がみてえなぁ」


「あの世はどうだい」  どこからともなくそんな声がすると、轟音とともにおれの視界は天地がひっくり返った。




ヨウモツ小屋から決死の覚悟で躍り出たおれは漁網でとらえられた。おれに近づいてきたのは人間だった。近隣の村人たちである。しかし、顔ぶれから見ておれたちが悪さをした村とは別のところらしい。おれは縛につき、みじめにひっ立てられた。


「お、お前たちはなんなんだ」  「おれは乗っていた舟がひっくり返ったんだ。なんでこんな罪人のように」  「他のやつらもいたんだ。助けてやってくれよ」


そいつらは全く相手にもしなかった。おれは奴らとともに一里ほどあるかされ、磔場らしきところにたどりついた。「うわあやめろぉ」

おれは情けない声をあげたが、処刑はされなかった。縄できつく結わえつけられただけだ。縄が手首に食いこみ血が流れて、滴る音がおれにも聞こえる。


「おめえさんは運が悪かったんだよ。おとぼうのことを知っちまったままではな…」


ある村人が独り言のようにそうつぶやいた。おれを結わえつけるとそいつらは見張りの男を残して去ってしまった。濡れた着物もそのままだが、危機に際して神経が昂ったせいで寒さは感じない。むしろ直前まで飲んでいた酒のせいで眠気がひどい。おれは何度か眠りそうになったが、そのたびに見張りの男に長棒で小突かれた。


「寝るんじゃねえ。明日がお楽しみなんだからよう」


野卑に笑っている。


「なんで、こんなことをするんだ………」


奴はなにも答えず、ただげひげひと笑うだけだった。おれはいくら棒で疲れようと、眠気には勝てなくなった。最後に見えた蒲原平野はもう夜明けの様相だった。おれの磔台はちょうど出ずる日から直線にあった。葦原という言葉を越後にいる間に耳にしたが、よく言ったものである。強さを増してゆく日光は、褐色の葦原を黄銅にちかい色に染めていき、おれのまぶたが閉じるにしたがって、幻のような景色を眠りにおちる最後にみた。



目覚めるともう夕方だった。目の前にはござが敷かれ、その上には護摩でもするように炎がうなりをあげて焚かれていた。その奥は例のごとく水辺である。周りを見回せば神道の恰好をした男たちが囲いを作って、梵字でも読んでいそうなお経をあげていた。おれと横にいる木田佐助は前に手を縛られて、それらに包囲されている。やつはやつらしく散々に抵抗したのか、顔は青あざで膨れて、髷も解けて無惨にやつの顔にかかっている。


「なにされるんだろうなおれたち」  


この男には珍しくあきらめの色が濃い声だ。それはそうと、おとぼうの襲撃を乗り切ったのがこいつらしいなと思った。


炎にはどんどん薪や乾いた葦が横から放りこまれた。勢いを増し、荒ぶる炎はおれたちの額に汗をにじませた。お経がいったん止むと、おれたちの前にこの祭主の主らしき老爺がやってきた。そいつはおれたちの前でかがんだ。


「お前ら、蒲立かんだち村の名主の一家を殺したな? そして金を奪ったろう?」   


おれたちは口をつぐんだ。


「いや、責めているわけじゃない。ただまことか否かだけ知りたいんじゃ。ここは処刑場にしちゃあまりに瀟洒じゃろう」


たしかにそうである。おれは炎に目をこらしてたら、その横にある山にいまさら気づいた。それは樽の山だった。老爺がおれの目線になにか気づいたようである。


「あのなかは酒と味噌が入っている。おとぼうは人を食うに飽きたらない。毎年この時期になるとあれらをこの潟に流し込んで、おとぼうの冬ごもりのための腹を満たしてやるんじゃ。何年か前にたまたま牛車が潟に落っこちて、その年の冬はおとぼうの被害がわずかだったからわかったことじゃ」


「おとぼうはなんなんだ? お前らはあいつを飼いならしてるのか」


おれは叫んだ。目の前の光景はおれの理解を超えている。知りたい一心で叫んだ。老爺はようやく話し相手が見つかったのが嬉しいのか、にやりとして応えた。


「おとぼうがどこから来たのかはわしらもさっぱり。ただ確かなのは異国の舟が新潟にやってきてからおとぼうの人喰いが始まったことじゃ。わしらもそりゃあいろいろ話したわい。異国がおとぼうを使わせて奉行に、公儀に圧力をかけているのか、はたまた異国の捨てたものが普通のナマズをおかしくさせたのか…しかし、結局なにもわからん。じゃがのう、おとぼうは近在の村に大きな恵みをもたらしてくれるんじゃ。これだけ言ってもお前らにはなんのことかわからんよのう」


老爺はけらけらと笑った。下卑た笑いだった。


「そんなことより、おれたちの金を返しやがれ」 


木田佐助がそう叫んだ。この期に及んでである。老爺はしばしみじめな木田佐助をみた。


「…お前らが蒲立村の蔵から盗んだ金のことじゃが、あれももともとは他人様のものだったんじゃ。おとぼうが新潟の沿岸やこの潟を泳いで食った人間の路銀なのよ」  


おれは目をぱちくりとさせた。


「おとぼうが冬眠についたあとに、村々の男どもが水底をさらってやつが糞した金を拾う。結構な額じゃぞ。旅は危険で行方不明の者など数知れんからな。本来はそれを取り締まる奉行もうつけで、新潟の開港をまえに騒ぎを起こしたくないからといって、大ナマズの害もそのままにしとる。おかげで、ここらあたりの村は大いに栄えた。ご覧の催しを開いてもやぶさかではないほどにな……しかし、つい昨日な、蒲立村の村長の娘が不幸にもおとぼうにやられた」


老爺は焚きついた炎でかいた汗をぬぐいながらしゃべる。種明かしが楽しいのかもしれない。


「それ以前から、だいたいあの村長は裏切り者の気があった。だいいちお宝探しに参加していたくせに…前々から旅人に、おとぼうのことをわざわざ知らせおって。村長は腰抜けで自分のやっていることに堪えきれなくなったのじゃないかと思っているが…。まあ、やつが本格的に動く前に貴様らが畜生働きをしてくれたからよかった。残された村の者にはおとぼうを盛り立てるようによう言いきかせるつもりじゃ」


老爺は立ち上がった。


「さあおしゃべりは終わりだ」


奴が合図すると、周囲の男たちがやってきて、縛り上げたおれと木田佐助を持ちあげた。


「これから放酒の儀に入る。おとぼうは毎年この目の前の小池で越冬するんじゃが、そこに酒と味噌をふんだんにぶち込む。そうすればおとぼうは冬のあいだおとなしく眠りこける。すくなくとも、われわれが潜ってお宝を探せるくらいにはな」


おれたちは炎の後ろの、二人だけが乗れる小さな舟に乗せられた。左右を見れば、水際のかがり火のなかで半裸の男どもがぞくぞくと味噌と酒の樽を舟に乗せている。潟にも目をこらせば、おれが昨夜に逃げこんだヨウモツ小屋と特徴が同じものがさほど遠くない位置にある。おれたちはまさにおとぼうの越冬場所に差しかかってしまったわけだ。老爺はすぐ後ろから言う。


「お前らはいろいろ知ってしまった以上、ここから逃がすわけにはいかん。しかし、あの裏切り者を始末してくれた恩もある。せめてだが生き延びる機会をやろう。おとぼうがどれだけ腹を空かせているかわからんが、お前たちを再度おとぼうに捧げて、もし喰われなかったらこの村で漁民として生きるくらいの立場は用意してやろう」


そう言って、老爺は小舟に包丁を置いた。


「いいかわしの言うことを守るんじゃぞ。沖に漕ぎ出してからこれでお互いの縄を切れ。縛られててもいくらかはできるじゃろ」


効率的な作業で左右の舟が酒や味噌で満載になると、太鼓が鳴った。おれたちの小舟は誰も漕いでいないのに自動で動いた。


「うお、どうなってんだ」  おれは叫んだ。


「前をよくみろい」  


木田佐助が言う。よく見たら舳先に縄が結わえられている。まだ夜入りも浅いので、酒や味噌を載せた舟を引っぱる舟にも縄がつけられているのがわかる。左右からも掛け声がする。九十九里で地引網を引くのを見物したときに聞いたときのような、そんな声だ。なんとなくわかった。老爺の言っていたとおり、ちょうどここは小池のような形をしていて、水中から出た大杭かなにかを支点に縄を引っぱって無人舟を成立されているらしいのだ。どんどんと舟の群れは沖へ進んでいった。太古の音も遠のいてゆく。


「佐助よ。おれがさきに縄を切ってやるから…」


ふり向くと、木田佐助はすでに老爺のおいた包丁を結わえられた手でつかんでいた。


「おれの縄を切ってくれるか?」 


「いや、おれのを先に切ってくれ。渡すよ」


そのまま包丁をおれに渡した。おれは、とてつもなく嫌な予感がしていた。こいつの人格を知っているからこその予感だ。こいつはいままで仲間を裏切ったり、犠牲にすることはなかったが、その必要に迫られる状況に陥らなかっただけのように思う。しかし、木田佐助はおれに包丁を渡した。自分の優位を捨てた奴は、いま何を考えているのか…。


「はやくしてくれよ」   木田佐助が急かした。


おれはしぶしぶ、奴と向かいあって目を細めてごしごしと縄を切ってやった。手を切らないようにしたつもりだったが、「あつっ」と奴が叫んだ。


「悪い!」  


「いや、しょうがねえ」  


こいつにしては素直だ。最後まで切った感覚がすると、奴は立ち上がり腕を広げた。そして、「すまんな」と言った。


おれは包丁を突きだしたが、奴の動きのほうが速く、体当たりされおれはのけぞった。まだ舟のなかだった。


「ちくしょう、貴様」  


おれは叫び、手にした包丁をかたく握りしめたまま奴に踊りかかった。しかし、奴は中腰のままおれの脚にまた体当たりした。


「あ」


そのままおれは前のめりに水中へと落っこちた。凍える水が全身をつつみ、その衝撃におれは一瞬考えるのを忘れた。次の瞬間には、息をしなければならないと本能が鋭く呼びかけた。だが、脚をばたつかせても縛られた両手は機能的じゃない。手を広げてもとても水上へと上がれたものではないし、暴れながらどんどん沈んでゆく一方だ。包丁もどこかへ行ってしまった。


動いたせいで余計に苦しくなり、もはやダメだと思った。おれは水への抵抗をやめてだらんとした。泥水ゆえなにも見えない。そのときに、細長いものがぺちぺちとおれをたたいているのに気がついた。手の近くにきたときにおれはそれを掴んだ。一回しりぞいたあと、水中のおれはなにかに挟まれた。感触から優しく扱われているのがわかった。しかし、こうなるのは初めてでも、こうなった者をおれは昨日見たことがあったのだ。おれはおとぼうに咥えられている。


「いまのお前は、なぜおれに食われないと思う?」  


おとぼうが訊いてきた。頭のなかで反響するのだ。おれは応えた。


「わからない。なぜだ」


「すでにおれは、満腹だからさ。もう上の舟を叩きこわして一人たいらげんだ」


つまり木田佐助はこいつの中か。安全圏にいたはずのあいつが。皮肉だ。しかし、おれの息ももうすぐ止まりそうだ。


「酒に酔って寝てしまう前にお前を引き揚げてやろう。このままおれの寝床で腐られても、困る」  


おれは咥えられたまま、上にあがる強い流れを感じた。


「ぷはぁ」  水面に出るとおれは口の中の水を吐きだし、めいいっぱいに息を吸った。



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