闇に裁いて、仕上げます(四)
「蛇次さん、どうもお久しぶりです」
そう言って、由五郎は頭を下げる。だが、当の蛇次はそちらを見ようともしない。彼は由五郎の目の前で、女の体をまさぐっているのだ。
ここは、蛇次の仕切る出会い茶屋である。由五郎は用心棒の浪人者、新之丞を連れて蛇次に会いに来た。今後、さらに手広く商売をしていこうと考えている由五郎にとって、蛇次は避けて通れない相手だ。
そのため、手土産を持ち出向いて来たのである。蛇次と直接、顔を会わせるのは久しぶりだ。かれこれ二年ぶりになるだろうか。もっとも、間接的な取り引きはずっと続いている間柄である。
しかし、店の者に案内された部屋に入ると、さすがの由五郎も唖然となった。部屋の中で、蛇次は若い女を腕に抱き、その首のあたりに口づけをしていたのだ……。
「あ、すいません! お取り込み中とは知りませんで」
そう言うと、由五郎は部屋を出ようとした。しかし、蛇次に呼び止められる。
「おい待てよ、俺に話があるんだろうが。聞いてやるよ」
その言葉に、由五郎は仕方なく足を止めた。
「本当に久しぶりだなあ、由五郎。ところで今日は、何しに来たんだ? 見ての通り、俺は忙しいんだがな。でも話くらいなら出来るぜ」
蛇次の口調は、ひどく投げ遣りだった。冷酷な表情で女を愛撫している。由五郎に対し、欠片ほどの関心もないらしい。一方、女は露骨に嫌そうな顔をしている。
由五郎は、額の汗を手で拭った。
「へ、へい。実はですね、近々この辺りでも商売をさせていただこうかと思いまして、まずは蛇次さんにご挨拶をと」
「そうかい。それはいい心がけだ」
「へえ、ありがとうございます。では、あっしはこの辺で……」
そう言って、由五郎は立ち上がる。しかし、蛇次が制した。
「まあ待てよ。もう少し、話そうじゃねえか。近頃は物騒になってきてるしな。お前、近ごろ目障りな奴はいねえか?」
言いながら、なおも愛撫の動きを止めない蛇次。由五郎はひきつった笑みを浮かべた。
「え、まあ、今のところ特に居ませんが」
「そうか。俺は最近、岩蔵の奴がうっとおしくてなあ。たかだか目明かしの分際で、鬼の岩蔵なんて呼ばれて、いい気になってやがるんだよ。あと、近頃は仕分人とか名乗る馬鹿もいるらしくてな……」
話が終わり、外に出た由五郎はほっと一息ついた。隣の新之丞は、見るからに不快そうな顔をしている。
「あれが蛇次か。江戸の裏稼業の大物と聞いていたが、あの態度は何だ。ただの色気違いではないか」
吐き捨てるように言ってのけた。すると、由五郎の顔つきが変わる。
「お前、滅多なことを言うもんじゃねえ。誰に聞かれているか分からねえんだぞ」
そう言って、辺りを見回す。既に日は沈んでおり、人の気配は無い。
もっとも、新之丞の言わんとするところはわからなくもない。蛇次は、ふたりの目の前で女を抱きながら、淡々と語り続けたのだ……裏稼業の心構えを、である。
由五郎は一応、真面目くさった顔つきで聞いてはいた。だが、内心では呆れはてていた。
この由五郎は、自身が悪党であることを知っている。やくざである以上、悪に徹するのは当然のことだ。しかし、蛇次は違う。もともと、人として壊れているように見えるのだ。あの男が自身の行動をどのように考えているのかはわからないが、まともな人間とは思えない。
確かなことはひとつ。蛇次はかなりの変人であるが、敵に廻したら長生きできない。一声かければ、かなりの数の人間が動く。その動く人間の中には、奉行所の者もいる。
だから、今後も上手く付き合っていかねばならない。そんなことを思いながら、由五郎は歩き出した。仏頂面の新之丞が、その後に続く。
そんな彼らを、じっと見つめる者がいた。
・・・
「あんた、来たよ」
お松が小声で囁き、素早く移動していく。
ややあって、由五郎と用心棒が歩いて来る足音が聞こえてきた。壱助は杖を手に、よろよろと歩きだす。
「そこの旦那さま。いかほどでも構いません。哀れなるめくらに、どうかお恵みを」
言いながら、壱助はふたりに近づいていく。杖を握りしめ、時おり立ち止まりながら、よろよろとした足どりで間合いを詰めていった。
「何だお前、とっとと失せろ。お前にやるものなど無い」
鋭い声を発しながら、新之丞が前に出る。壱助を突き飛ばそうと、手を伸ばした瞬間だった。
壱助の仕込み杖が、稲妻のような速さで鞘から抜かれる。
直後に一閃──
新之丞は不意を突かれ、反応できなかった。腹を切り裂かれ、よろよろと後ずさる。
だが、壱助は手を止めない。さらに斬り続ける。腕、胸、喉……滅多切りだ。新之丞とて、腕に覚えのある男である。しかし今、刀を抜くことも出来ぬまま倒されてしまった。
それを見た由五郎は、思わず後ずさる。
壱助の方は、相手からの返り血で真っ赤に染まった顔で、にたりと笑った。その表情は、怪談に登場する妖怪のようだ──
「な、何なんだお前!」
由五郎は震えながらも、懐に呑んでいた短刀を抜いた。壱助を睨み、じりじりと下がっていく。
しかし由五郎は、背後に忍び寄る者の存在に気づいていなかった。
短刀を構え、由五郎は少しずつ下がっていく。相手が何者かは知らないが、必要とあらば逃げる。この男は、腕でのし上がってきた者ではない。頭の働きでここまで来たのだ。いざとなれば、恥も外聞もなく逃げる。
その時、奇妙な匂いと人の気配とを感じ取った。由五郎は慌てて振り向く。
すると、いつの間に近づいていたのか……二間ほど離れた場所に、顔に手拭いを巻いた者が立っていた。毛皮の手袋をはめ、竹筒のような物をこちらに向けている。
その時、由五郎はようやく気づいた。
これは、火薬と火縄の匂いだ。
次の瞬間、落雷のような音が響く──
由五郎の眉間を鉛玉が貫き、彼は仰向けに倒れていた。
・・・
花田藤十郎は、自身の道場にて目覚めた。
妙な気配を感じる。微かな物音も。何者かが、道場に侵入してきたらしい。彼は立ち上がり、そっと歩き出した。
だが、侵入者に姿を隠す気はなかった。
「俺のこと、覚えてるか」
言いながら、道場にずかずか入って来た者がいる。大きな体と傷だらけの顔、ごつごつした手、そして鋭い目付き。
仕上屋の権太である。
「何しに来たのだ?」
低い声で言うと、花田は身構えた。何しに来た、などと尋ねてはいるが……権太の体から立ち上る殺気を既に感じ取っている。この男の意図が何なのか、既に察していた。
そして権太の答えは、花田の想像通りだった。
「お前を殺しに来た」
「ほう、誰かに頼まれたのか? それとも、お前の意思か?」
そう言うと、花田はじりじり間合いを詰めていく。久しぶりに、血のたぎりを感じていた。全身の毛が逆立つような感覚だ。目の前の男は、本当に強い。
実のところ、浪人を叩きのめした時から気にはなっていたのだ……あの場にいた権太が発していた、並々ならぬ闘気。花田は浪人との戦いで物足りないものを感じており、つい挑発してしまった。
しかし、まさか向こうから来てくれるとは。
「お前が痛め付けた女たちに頼まれたんだよ」
言葉と同時に、権太は襲いかかって行った。
権太の杉板をもぶち抜く正拳が、花田の顔面めがけて放たれる──
しかし、花田はその拳を素早く払いのけた。同時に、権太の襟を掴む。
直後、権太の巨体が一回転した。花田の投げ技が決まったのだ。畳の上に叩きつけられ、権太は思わず呻き声を上げる。
すかさず追撃する花田。権太の喉元めがけ、自らの足を降り下ろす。足裏による踏みつけで首の骨をへし折る、はずだった。
しかし、権太の反応は早い。首を振って、花田の踏みつけを避ける。
と同時に、花田の右足を掴む。足首を脇に挟み、捻りを加える。足関節を極めたのだ。
花田の足首は、一瞬にして壊されてしまった。当の花田はというと、驚愕の表情を浮かべている。痛みより、自身も知らぬ技で足首を破壊された驚きの方が先に立っているらしい。
だが、権太の動きは止まらない。自らの両足を、花田の左足に引っ掛けた。
直後、一気に引き倒す──
仰向けに倒れた花田。対する権太は巨体に似合わぬ敏捷な動きで、今度は相手の上半身に飛び付く。
仰向けになっている花田にのし掛かり、上四方固めで押さえ込む。
さらに、太い腕を花田の首に巻きつける。そのまま締め上げた──
抵抗することも出来ず、あっという間に絞め落とされた花田。しかし、権太は腕を離さない。完全に絶命するまで絞め続けた。
やがて、権太は立ち上がった。死体と化した武術家を、複雑な表情で見下ろす。
花田の死に顔は、気のせいか満足そうに見えた。闘いの果てに、強者の手にかかり死ねたことに、喜びを感じていたのか。やくざと共に悪行を重ねていた花田だが、心の奥底には武人の部分が残っていたのかもしれない。
「だったら、柔術だけしてやがれ」
思わず、低い声で毒づいた時だった。
「どうしたんだい権太さん、しんみりして。あんたらしくもない」
不意に、後ろから聞こえてきた声。蘭二のものだ。涼しい顔つきで、道場に入って来た。
だが、権太はその言葉を無視した。黙ったまま花田の体を担ぎ上げ、歩き出す。しかし、蘭二がその肩を掴んだ。
「権太さん、あんたはいちいち喋り過ぎる。誰かに聞かれたら、どうするんだい? それに、これは果たし合いじゃないんだ。こんな奴は、後ろからさっさと殺せばいい」
「うるせえな。殺せりゃあ問題ないだろうが」
そう言って、権太は乱暴に手を振り払う。だが、蘭二は素早く動いた。権太の前に立つ。
「あんたは確かに、腕は立つよ。だがね、これは遊びじゃない。仕事なんだよ。あんたが下手を打てば、お禄さんに迷惑がかかるんだ。あと、死体の始末はしっかりしてくれ──」
「だったら、お前が殺れや」
言ったかと思うと、権太は死体を藁に包み一気に持ち上げる。大柄な花田の体を肩に担ぎ、振り返りもせずに大股で去って行った。
その後ろ姿を、蘭二はじっと見つめる。ややあって、溜息をついた。
辺りを見回し、音も無くその場を離れる。
・・・
翌日、渡辺正太郎は朝から死体見分に駆り出されていた。周囲には、既に野次馬が集まっている。
「おいおい、また刃物と鉄砲かよ」
由五郎と新之丞の死体を見下ろし、頭を掻いた。一方、岩蔵は十手をぶらぶらさせながら、思案げな顔で辺りを見回している。
「こいつらは、裏の世界じゃ有名人ですぜ。青天の由五郎っていやあ、ちったあ知られたやくざ者です。そいつが殺された、となると……これから厄介なことになりそうな気がしますぜ」
「はあ? どういうことだよ?」
渡辺が尋ねると、岩蔵は呆れ果てたような表情を浮かべた。
「旦那、あんたは何年同心やってるんですか? だから、昼行灯なんて呼ばれるんですよ。いいですか、名の知れた親分である青天の由五郎が殺られたとなったら、その縄張りの奪い合いが始まるんじゃないですかい」
「ああ、言われてみればそうだなあ。本当に面倒くさい話だよ」
やる気の無さそうな渡辺の返事を聞き、岩蔵は顔をしかめた。この見回り同心は、三十になるかならないかのはず。にもかかわらず、やる気がまるきり感じられない。
「あんた一生、出世しねえだろうなあ」
今回、権太が花田を仕留めた技はノースサウスチョークという絞め技です。動画などありますので、わからない方はそちらを見てください。