終わりは、殺陣で仕上げます(五)
翌日になっても、お禄は店にいた。奥の部屋に、こもりっぱなしであった。
とは言っても、仕事をしているわけではない。何をするでもなく、奥でぼんやりしている状態だ。端から見れば、生ける屍のようであっただろう。呆けたような表情で、じっと椅子に座っていた。言うまでもなく、店は閉めたままである。
訪れた者といえば、蘭二だけである。彼は律儀に、いつも通り店に現れた。だが、お禄の様子を見て、二言三言声をかけただけだった。握り飯や水を置き、そそくさと引き上げていった。
その翌日もまた、お禄は店にいた。蘭二の置いていった握り飯を食べ、水を飲む。それ以外は、何もせずじっとしていた。そのままでは、彼女もまた死人の仲間入りをしていたかもしれない。
だが、夜遅く……お禄の態度を一変させる事件が起きた。
突然、乱暴に戸を叩く音がした。お禄は面倒くさそうに声を出した。
「誰だい。店はやってないよ」
しかし、向こうにいる者に去る気はなさそうだった。なおも、乱暴に戸を叩いてくる。お禄は舌打ちし、立ち上がった。
「どこの馬鹿か知らないけどね、さっさと失せな。ふざけてると怪我するよ」
念のため懐に短刀を隠し、戸に近づいて行く。その途端、掠れた声が聞こえてきた。
「お禄さん……俺だ……小五郎だよ……」
聞き覚えのある声だ。慌てて戸を開ける。
そこにいたのは、間違いなく弁天の小五郎だった。裏の世界の大物であり、蛇次すら一目置く男のはずだった。
ただし、今の彼には見る影もない。全身を滅多刺しにされ、血まみれの状態である。息も絶え絶えであり、もはや助からないであろう。ここまで辿り着けたのが、奇跡としか言いようがない。
「小五郎さん、誰にやられたんだい!」
言いながら小五郎の体を担ぎ、店の中に運び入れる。小五郎は、顔を歪めながら口を開く。
「蛇次だよ。あの野郎、全て仕組んでやがった。だいぶ前から、絵図面を描いてやがったんだよ……」
「ちょっと! それはどういうことですか!?」
「蛇次は最初から、俺とあんたを潰すつもりだったんだよ。邪魔な連中をひとりずつ始末し、一方で俺たちの評判を……」
そこまで話した時、小五郎は咳き込んだ。口からは、大量の血を吐き出す。
「小五郎さん、喋ったら駄目だよ。すぐに、医者を呼んで来るから──」
「呼ばなくていい……俺は、もう助からねえ。それより、俺の話を聞いてくれ……」
小五郎から聞いた話は、お禄の予想を遥かに超えていた。
蛇次はまず、小五郎が阿片を異様に嫌っている点に目を付けた。手下たちを上手く使い、阿片を扱う者たちのうち、自身の邪魔になりそうな組織もしくは人間の情報だけを小五郎に流したのだ。
結果、小五郎は仕上屋に依頼して始末する。蛇次は自身の懐を痛めることなく、邪魔者を消すことが出来た。
その一方で、蛇次は他の連中に根回しをした。小五郎は阿片に対し厳し過ぎる、あいつはもう時代遅れだ……などという言葉で、自身の味方を増やしていく。
彼らにとって決定的だったのが、密売人である栗栖の死であった。
質の良く安い阿片を作る栗栖の存在は、江戸の裏社会において重宝されていたのだ。実際、栗栖の阿片でとんでもない額の金を稼いだ者もいた。
ところが、その栗栖が死んでしまったのだ。死因は自殺であるが、蛇次は小五郎の仕業であると噂を流した。小五郎が、殺し屋を雇い栗栖を殺させたのだ……という内容のものである。
もとより、小五郎が阿片を嫌っていることは、裏の世界ではよく知られている。その噂を疑う者などいない。しかも、実際に小五郎は仕上屋に依頼しているのだ。
かくて弁天の小五郎は、裏の世界で完全に孤立していた。以前から彼に世話になっていた者も、小五郎を見捨て蛇次の側に付いたのである。
そして今日、蛇次は裏社会の主だった者を集めた上で、弁天の小五郎を呼び出した。理由はといえば、彼を引退させるためである。皆の前で、小五郎に言い渡した。
「小五郎さんよう……もう、あんたの時代じゃねえんだ。あんたのやり方で、迷惑してる連中も少なくない。後は若い者に任せ、とっとと身を引いてくれないかな」
だが小五郎はその申し出を拒絶し、さっさと引き上げてしまう。すると、帰り道で刺客に襲われた──
体の数箇所を刺されながらも、小五郎は力を振り絞り刺客を返り討ちにする。
瀕死の重傷を負った小五郎だが……お禄に真相を伝えるため、息も絶え絶えの状態で歩き続けたのだ。
「お禄さん、もう無理だ。蛇次の奴は、誰にも止められねえ。あんただけでも逃げてくれ」
そう言い残し、小五郎は息を引き取った。
お禄は、小五郎の遺体を見下ろす。
もはや、どうする事も出来ない。蛇次に対抗できる者は、いなくなってしまった。このままだと、自分や蘭二も殺られる。そもそも、今まで殺られなかったのが不思議なくらいだった。
もう、仕上屋は終わりなのだ。
その翌日、店を訪れた蘭二に向かい、小五郎の死を打ち明ける。そして、決定的な言葉を放った。
「仕上屋は、もう終わりだよ。あたしは、江戸を離れる。お前も、好きにしな」
「どういう意味だい? このまま、何もかもおっぽり出して逃げようってのか?」
語気鋭く尋ねる蘭二に、お禄は歪んだ笑みを浮かべる。
「そうだよ。これ以上、江戸にはいられない。蛇次に殺られちまうよ。命が助かっただけでも、めっけもんさ。あんたも早いとこ、ずらかった方が身のためだよ。こんな時じゃなきゃ、支度金くらい持たしてやりたかったけど……悪いねえ」
そこで、お禄はくすりと笑った。
「ま、あんたは面も頭もいいからね。どこに行っても、やってけるだろうけどさ」
その言葉を聞いた瞬間、蘭二は目を細めた。お禄とは対照的に、にこりともしていない。
「じゃあ、権太さんの仇は討たないっていうのかい?」
「んなもん、無理に決まってるだろ。殺った渡辺は、曲がりなりにも奉行所の役人だ。しかも、後ろには巳の会が付いてる。もう、あたしたちの手に負えるような相手じゃないんだよ」
吐き捨てるような口調で、お禄は言った。
蘭二は、ぎりりと奥歯を噛み締める。ややあって、声を震わせながら語り出した。
「お禄さん……私はね、壱助さんの体を見てきたよ。あの人は、ひどい有様だった。両目を潰され、耳を削ぎ落とされ、膝を砕かれてたよ。他にも、無数の傷があった」
そこで、蘭二は言葉を切る。いつのまにか、彼の目には涙が溢れていた。
涙を手で拭い、再び語り出す。
「権太さんは、そんな壱助さんとお美代さんを助けるために死んでいったんだよ。あなたは、なんとも思わないのかい?」
「馬鹿な奴だって思ってるよ。何も、他人のために死ぬこたあないだろうにね」
素っ気ない口調で、お禄は言葉を返した。
すると、蘭二の表情が歪む。彼は目線を逸らし、下を向いた。
やがて、その顔に笑みが浮かぶ。だが、それはひどく歪んだ笑顔だった。何もかもに絶望し、後は笑うしかない……そんな表情であった。
「それが、あんたの考えか。あんたは、そういう人だったのか。わかったよ。私は、あんたという人を見誤っていたらしい」
「見誤るも何も、あたしは最初から、こういう女だよ。嫌になったなら、さっさと出て行きな」
「ああ、そうさせてもらう」
低い声で答えた蘭二。まるで、獣の唸り声のようだった。
直後、くるりと背中を向け店を出ていった。
ひとり残されたお禄は、ふっと口元を歪め天井を見上げる。
その目から、一筋の涙が溢れた──
「これでいいんだ。蘭二、元気でね……」




