春には、春の花が咲きます(四)
次の日、お禄は珍しく店にいた。
とはいっても、心を入れ換えた訳ではない。ただ単に、厄介事に巻き込まれたくないからだ。外をうろうろしていると、また捨三あたりに声をかけられそうな気がする。情報収集は、女掏摸のお丁や大道芸人のお歌に任せよう……と考えたのた。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。お禄という女は、厄介事から逃れられない星の下に生まれてしまったらしい。
「お禄さん、珍しいね。この時間に店にいるなんて」
声をかけてきたのは、建具屋の政だ。このところ、毎日店に顔を出している。しかも、入り浸る時間も長くなってきた。本当に暇な男である。まともに仕事をしているのだろうか。
「うるさいね。あたしが自分の店にいちゃいけないのかい。あんたこそ、真面目に働きなよ」
言い返したお禄に、政は渋い顔をして見せた。
「なんだい、客に向かって。俺だって、真面目に働いてるからここにも来られるんだよ。ねえ、お春ちゃん」
政は、お春に微笑みかける。だが、お春はそっけない態度で奥でに引っ込んで行く。
「もう、つれないなあ」
ぶつくさ言う政を見て、横にいた蘭二が苦笑した。
「あんたも、いい加減に諦めなよ。あんたは若いし、顔も悪くない。なびく女くらい、すぐに見つかるさ」
「馬鹿いわないでよ。俺は、お春ちゃん一筋なんだから」
そんな会話を無視し、お禄は店の中で動いていた。だが、その足が止まる。
「お禄さん、ちょいといいかね」
裏口に出た時、不意に声をかけられた。彼女は顔を上げる。
すると、そこには弁天の小五郎が立っていた。言わずと知れた、江戸の裏社会における二大巨頭のひとりである。
「これはこれは、小五郎さん。いったい、どうなさったんですか?」
「うん、お禄さんに話があってね。仕事中で申し訳ないが、ちょいと来てもらいたいんだよ」
小五郎の表情は険しい。お禄は内心、不吉なものを感じながらも笑顔で頷く。
「ええ、構いませんよ」
直後、彼女は蘭二の方を向く。
「そういうわけだから、あとは頼んだよ」
ふたりは、河原までやって来た。周辺には人通りが無く、向こう岸には河原者たちの住む集落が見えている。みすぼらしい格好の者たちが、やつれた表情でのろのろ動いていた。
「なあお禄さん、近頃はどうもいけねえよ。俺も年を食ったせいか、とにかく切った張ったってのが面倒くさくなってきた」
集落を眺めながら、小五郎は呟くように言った。
「いや、それはあたしも同じです。切った張ったが好きで好きでしょうがねえ、なんて奴は気違いでしょうね」
お禄のとぼけた声に、小五郎は笑った。
「まあな。しかし、この年になっても許せねえ奴がいる。阿片を扱う連中だ」
そう言うと、小五郎は真剣な眼差しでお禄を見つめる。
「お禄さん、亥の会の猪乃助と伝八、それに用心棒の龍造って人でなしを殺してもらいてえんだ」
その言葉を聞き、お禄は顔をしかめる。どうやら捨三は……いや、蛇次は猪之助を始末するために、小五郎を動かす事にしたらしい。あるいは、何者かの入れ知恵だろうか。
お禄の思いをよそに、小五郎は語り続ける。
「亥の会の元締の猪之助は、阿片を捌いてやがる。しかもだ、亥の会の伝八って野郎は……あちこちの女郎や夜鷹を痛めつけてる、とんでもねえ野郎さ。そして龍造は、猪乃助の用心棒として敵対した連中を始末してきた」
いかにも憎々しげな表情で、小五郎は言い放つ。
聞いていたお禄は、心の中でため息をついた。蛇次はともかくとして、弁天の小五郎に頼まれたとあっては、引き受けない訳にはいかない。
「わかりました。猪乃助と手下たちは、あたしらが始末します」
その日の夜、お禄は仕上屋の面々を地下室に呼び寄せた。
集合した壱助、蘭二、権太の三人を前に、彼女はゆっくりと語り出す。
「いいかい、今回の相手は……亥の会の元締めの猪之助と用心棒の龍造、そして伝八という男だ。手強いが、殺るしかないよ」
「いやあ、なんとも面倒な連中ですねえ。ま、あっしとお美代は相手が誰だろうが、銭さえ貰えば殺りますよ」
そう言って、真っ先に手のひらを突き出したのは壱助だ。お禄はその手のひらに、小判を十枚乗せた。
すると、そのやり取りを見ていた蘭二が口を開く。
「前金で、ひとり五両とはね。なんとも景気のいい話だ。また、大物からの仕事のようだねえ」
蘭二の声には、微かな皮肉があった。お禄は眉をひそめる。
「蘭二、そりゃどういう意味さ? やりたくない、って言いたいのかい?」
「いや、そういう訳じゃないよ。ただね、最近は景気のいい話が多いな、と思っただけさ。もちろん、殺るに決まってるよ」
言いながら、蘭二は机の上に手を伸ばした。五両の小判を掴み取る。
「なんだい、屁理屈をこねくり回して。安いよりは高い方がいいに決まってるだろう。文句いうんじゃないよ」
ぶつぶつ言いながら、残るひとりを見つめるお禄。その視線の先にいる権太は、黙ったまま机の上の小判を見つめている。
「ちょっと権太、あんたはどうするのさ? 今回は、降りるっていうのかい?」
お禄の言葉に、権太は苦渋の表情を浮かべた。まさか、こんなことになろうとは想像もしていない。
だが、やらなくてはならない。自分が殺らなくては、ナナイが飢える。
「殺るよ。龍造は腕が立つからな。俺が殺らなきゃならねえ」
・・・
「伝八、その情報は確かなのか?」
尋ねる猪之助に、伝八は頷いた。
「ええ、間違いないですよ。女掏摸のお丁が、ぼやいてましたからね……ここらに最近、やたら器量と羽振りのいい夜鷹がいるって。蕎麦屋の蘭二も、かなり入れあげてるとか言ってました。相当、溜め込んでるでしょうね」
「ふざけやがって。俺たちに話を通さず商売しようとは、ふてえ女だな。伝八、言うことを聞かねえようなら痛めつけてやれ」
猪之助の言葉に、伝八は嬉しそうに頷いた。
そう、彼らは夜鷹を痛めつけるため、わざわざ町外れや河原などを徘徊しているのだ。猪之助らにとって、これはいつも通りのことである。
だが、今夜はいつもとは違っていた。
彼ら三人が、人気のない野原を通りかかった時だった。突然、龍造が足を止める。
「猪之助さん、気をつけてください。妙な奴がいます」
その言葉の直後、茂みの中から立ち上がった者がいた。大柄な体格の男であ。、龍造を睨みつけている
「久しぶりだな龍造さん、権太だよ。猪退治に来た」
ぶっきらぼうな口調で言い放ち、権太は身構える。だが、龍造は訝しげな表情を浮かべた。
「権太だと? 覚えがないな。俺を知っているのか?」
低い声で言いながら、龍造は身構える。すると、伝八が不快そうな顔つきで、懐の短刀を抜いた。
「龍造さん、こいつ知り合いかい?」
「さあ、知らん奴だ。だが、こいつの方は俺たちに用があるらしい。恐らく、どこかの馬鹿が雇った殺し屋だろう。お前は、猪之助さんを連れて逃げろ……この男、相当な腕だぞ」
その言葉に、猪之助と伝八はじりじりと後ずさる。しかし、権太はふたりのことなど見ていなかった。
「そうか、俺のことは忘れちまったってわけか。まあ、いい。あんたには死んでもらう」
低い声で言うと、権太は両拳を上げた。顔の前で構え、龍造を睨みつける。
睨み合う両者。じりじりと横に動く権太に対し、龍造は全く動こうとしない。
権太にはわかっていた。下手に飛び込めば、その刹那に龍造の一撃が炸裂する。奴の技は、一撃必殺の威力だ。勝負は、ほんの一瞬で決まる。
両者は、異様なまでの殺気に包まれていた──
「くそ、なんだあいつは……」
ぶつぶつ言いながら、後ずさる猪之助。だが、そこに妙な男が現れた。目を瞑り、杖で足元を探るようにしながら歩いて来る。壱助だ。
「何だおめえは。めくらの来る所じゃねえぞ」
言いながら、伝八は壱助に近づいて行く。その時、彼の仕込み杖が抜かれた。
直後、恐ろしい速さで切りつける。腕、胸、首……滅多切りだ。伝八は、血を吹き上げながら悲鳴を上げる。だが、壱助は容赦しない。さらに切りまくる──
「てめえ! 何しやがるんだ!」
猪之助は喚き、懐に呑んでいた短刀を抜いた。
その騒ぎを尻目に、権太と龍造はじっと睨み合う。一瞬でも目を逸らせば、相手が飛び込んで来る。この勝負は、素人の喧嘩とは違うのだ。先に、一発当てた方が勝つだろう。
お互い、その事実を理解していた。だからこそ、踏み込むことが出来ない。
下手に踏み込めば、相手の拳で迎撃され……殺される。
一方、猪之助は短刀を構えて間合いを詰めていく。それに対し、壱助はじりじりと後退していた。
猪之助は笑みを浮かべる。この男とて、今まで裏の世界にて顔役として君臨していた。それなりに、切った張ったの修羅場を何度も潜り抜けている。目の前にいる座頭さえ片付ければ、あとは龍造とふたりがかりで、残るひとりを殺すだけ。
伝八が死んだのは痛いが、これは仕方ない……猪之助は、短刀を振り上げた。
その時、茂みの中から立ち上がった者がいた……お美代だ。お美代は竹筒を構え、火縄で点火する。
直後、轟く銃声──
と同時に、猪之助の眉間を銃弾が貫く。彼は短刀を振り上げた姿勢のまま、仰向けに倒れた。
その銃声には、さしもの龍造も反応せざるを得なかった。彼の視線が、一瞬ではあるが権太から離れる。
権太にとって、その一瞬こそが千載一遇の好機であった。彼は、一気に間合いを詰める。同時に、鳩尾めがけて爪先蹴りを叩き込む。
三日月のような軌道を描き、龍の爪先は龍造の鳩尾に打ち込まれた。
龍造は、思わずうめき声を上げる。息が詰まるような衝撃だ。抵抗できない痛みに、彼は思わず前のめりになる。
だが、権太の動きは止まらない。直後に龍造の腕を掴む。肘の関節を極め、一瞬でへし折った──
だが、龍造もただ者ではない。激痛に耐えながらも、残るもう一方の手で強烈な正拳突きを放つ。杉板をも叩き割る正拳が、権太の顔面を襲う。
権太は、その正拳を回し受けで払いのけた。さらに、腰の回転を利かせ全体重を乗せた正拳を、龍造の鳩尾に打ち当てる──
さすがの龍造も、耐えることが出来なかった。腹を押さえ、崩れ落ちる。
権太は、倒れている龍造を見下ろした。ほんの一瞬の間、彼の脳裏に様々な思いがよぎる。龍造との、懐かしい思い出だ……。
島にいた時、龍造が武術を教えてくれなかったら、自分は今まで生き延びることは出来なかっただろう。
「ありがとよ。あんたのおかげで、俺は今まで生きてこられたよ」
権太は、呟くように言った。その瞳には、哀しみの色がある。ほんの一瞬、ためらいが心をよぎった。
だが、それらの感情はすぐに消える。
「だが、あんたを殺さなければ、ナナイを生かすことが出来ない。死んでくれ」
直後、権太はとどめを刺した──
・・・・
町外れにある、一軒のあばら家。
慎重にあたりを見回しながら、そこに向かい歩いて行く女がいた。
戸口で、女はいったん立ち止まった。辺りを見回し、そっと戸を開ける。
足音を忍ばせて、中に入って行こうとした。だが、中から声が聞こえた。
「そこにいるのは、何者だ?」
「あたしです。お琴ですよ。今日はね、耳よりな情報を持って来たんですよ」
お琴は妖艶な笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「栗栖さん……仕上屋の元締は、上手蕎麦っていう蕎麦屋の女主人、お禄です。間違いありませんよ」




