春には、春の花が咲きます(一)
「うわああああ!」
叫ぶと同時に、壱助は目覚めた。慌てて周りを見回す。
目に映るものは、いつも通りの風景だ。穴の空いた壁、ぼろぼろの床板、荒れ果てた庭……寝ぐらにしている廃寺である。
その時、お美代が不安そうな表情を浮かべて、にじり寄って来た。
「あんた、またうなされてたみたいだねえ。大丈夫かい?」
「あ、ああ」
言いながら、壱助は額の汗を拭いた。またしても、悪夢を見てしまったのだ。最近、どんどん頻度が高くなっている気がする。
「やっぱり夢の時は、目が見えてるみたいだね」
不意に、お美代がぽつりと言った。壱助はどきりとなりながらも、平静を装って答える。
「あ、ああ。そうなんだよな」
「それも、面白い話だねえ」
おかしそうに、お美代は笑った。その態度に、壱助はたじろぐ。ひょっとして、彼女は知っているのだろうか……という疑念が湧いて来た。
いや、気づいていようがいまいが、いつかは打ち明けなくてはならないのだ。
「あ、あのな……お美代、俺は……」
そこで、壱助は口ごもる。あの時と同じだ。それ以上、どんなに頑張っても言葉が出てこない。自分は、どこまで度胸がないのだろうか。
「なんだい、あんた?」
「いや、その……なあ、あの夫婦のことをどう思ったよ?」
「えっ? 夫婦って、誰のことさ?」
「この前殺した神谷右近と、嫁の花だよ」
そう……壱助はあの夫婦の事が、未だに気にかかっていたのだ。足の動かなくなった右近に、献身的に尽くしていた妻の花。自分には理解できぬ話だ。
神谷右近は、恐ろしく気難しい男であった。あんな男の下の世話までしてやる……どれだけ辛抱強いのだろうか。
「さあね。長く寄り添ってりゃあ、好きだの嫌いだのと言ってられないんだろうさ。腐れ縁、って言葉もあるしね」
「腐れ縁、か。なあ、もし俺の足が動かなくなったら、お前はどうする?」
壱助の問いに、お美代は笑った。
「冗談じゃないよ。これ以上、手間をかけさせないでおくれ。あたしにゃ、あの奥方さまみたいな真似は出来ないね」
「だろうな。この先、俺があんな体になっちまったら……その時は、鉛玉で俺の頭をぶち抜いてくれ」
・・・
翌日の昼間、権太は市場をぶらついていた。
もっとも、そこで開かれているのは真っ当な市場ではない。江戸のあちこちから盗まれた盗品が集まる市場……通称・泥棒市である。様々な品物が並び、見ているだけでも楽しめる。
あちこちの屋台を、冷やかしながら歩いていた権太。だが、その顔が歪む。
見覚えのある同心が、十手をちらつかせて屋台の主人に因縁を付けていたのだ。
「金次、この反物には見覚えがあるな。確か、盗まれたと奉行所に届け出があったんだがな。まさか、盗品じゃねえよなあ?」
ねちねち言いながら、十手を軽く振る渡辺正太郎。すると、金次と呼ばれた男は愛想笑いを浮かべた。
「何を言ってるんですか渡辺さん。よく見てくださいよ」
そう言うと、袖の下に金子きんすを滑り込ませる金次。すると、渡辺はうんうんと頷いた。
「おう、言われてみればその通りだな。俺の早とちりだ。悪かったな金次」
そんなやり取りを、権太は顔をしかめながら見ていた。
「あの野郎……相も変わらず、こすい真似をしてやがるなあ」
吐き捨てるように言い、目を逸らした。その時、妙な二人組が目に留まった。
身なりのいい強面の中年男が、ご機嫌な様子で歩いている。年は四十代半ばであろうか。がっちりした体格で、その表情からは自分に対する圧倒的な自信が窺える。もっとも、それだけなら何という事もない光景だ。
しかし、その隣で歩いている者はかなり異様であった。真っ白な髪が、肩まで伸びている。いかつい顔には、大きな火傷の痕があった。背は高く、逞しい体つきをしている。黒い着流し姿で、中年男の隣を歩いていた。
「あ、あいつは……」
思わず、驚愕の表情を浮かべる。その時、渡辺が音もなく近づいて来た。権太の腕を、十手でつつく。
「お前、こんなところで何してんだ?」
「えっ? 楽しそうなんで、ちょっと見に来ただけです。いけませんか?」
逆に聞き返す権太に、渡辺は口元を歪めた。
「いいや、別にいけなくはねえさ。それより、あそこの二人組を知ってるのか? やけに、興味ありげに見てたじゃねえか」
言いながら、渡辺は十手で二人組を差した。だが、権太は素知らぬ顔で首を振る。
「いいえ、ぜんぜん知りません。おっかねえ奴らだから、近寄らねえようにしようと思ってただけです」
「それはいい心がけだ。あいつらは、ここ最近、急にのしてきた連中さ。あの猪之助てのは、もともと上方でも、ちっとは知られたやくざ者だったがな……江戸に出てきてから、運はぐっと昇り調子らしい」
「おっかない連中ですね。だったら、なおさら近寄らねえようにしますよ。じゃあ、ごめんなすって」
それだけ言うと、権太は足早にその場を去って行く。
残された渡辺は、去り行く彼の姿をじっと睨みつける。その顔には、いつもの脱力感がすっかり消え失せている。
「とぼけてられんのも、今のうちだぜ」
誰にともなく呟いた時、権太と入れ替わるように現れた者がいる。目明かしの亀吉だ。
「旦那、何やってるんです?」
「何って、決まってるじゃねえか。見回りだよ」
「見回り? どうせ、いつもみたいに悪さしてたんでしょうが……奥方さまに叱られても知りませんぜ」
「余計なお世話だ。お前もたまには、ひとりで下手人を捕まえて来いよ。俺に手柄を立てさせろ」
・・・・
その猪之助は、泥棒市の中をのんびりと歩いて行く。傍らには、用心棒が付いて歩いている。
やがて、猪之助はとある出店の前で立ち止まった。
「栗栖さん、いるかい」
猪之助の声に反応し、顔を上げたのは……行商人の身なりをした栗栖だった。以前よりも頬はこけ、体は痩せている。さらに、目は落ち窪んでいた。だが、その目つきは鋭い。以前よりも、瞳に宿る光は強くなっていた。
「やあ、猪之助さん。また注文しに来たのかい?」
そう言って、栗栖は虚ろな笑みを浮かべる。
「ああ。あんたの阿片は質がいいからねえ。旗本の三男坊が、あんたの阿片をえらく気に入ってくれたんだよ」
「ほう、それはありがたい話ですね」
「お前、大丈夫か? 顔に死相が出ているそ」
栗栖の言葉の途中で、いきなり口を挟んできた龍造。猪之助は、思わず顔をしかめた。
「龍造、よさないか……今は商売の話をしているんだ」
「いえ、構いませんよ猪之助さん。それにしても、随分と愉快な方ですね。龍造さん、と仰るのですか?」
栗栖の問いに、龍造は頷いた。
「いかにも。島帰りの龍造だ。よろしく頼む」
そう言って、龍造は笑って見せた。くっくっくっ……という不気味な声だ。傍らにいる猪之助は、いかにも不快そうに顔をしかめた。
しかし、栗栖の反応は違っていた。
「なるほど、あなたは島で鬼となったようですな。私もいずれ、鬼になるかもしれませんね」
真顔で、そんなことを言ったのだ。はたから見れば、完全に狂人同士の会話である。たまりかねた様子で、猪之助が口を挟んだ。
「龍造、いい加減にしておけ。それより栗栖さん、品物を早く頼むよ」
「おお、これはこれは失礼しました。では、こちらをどうぞ」
言いながら、縦長の紙包みを差し出す栗栖。猪之助はそれを受け取り、懐へとしまった。
「いつもながら助かるよ。ところで栗栖さん、あんたが探している闇の仕事師だがね……怪しいのが見つかったよ」
「ほう……それはそれは。で、いったい何者なんです?」
掴み所のない表情で尋ねる栗栖に、猪之助は声をひそめた。
「怪しいのは、仕上屋か仕分人だね。ただし俺の口からは、これ以上の事は言えない。俺も、この世界で飯を食っている人間だ。同業を売るような真似は出来ないからな。後は、自分で探るんだね」
「仕上屋、か。聞いたことはあるね。じゃあ、後は自分で探ってみるさ」
栗栖がそう言った途端、龍造がまたしても笑い出した。
「仕上屋か、面白いな。いつか、そいつらを食ってみたいものだ」




