さよならだけが、人生です(三)
小屋に帰るなり、権太は仰向けに寝転んだ。無言のまま、じっと天井を見つめる。
頭の中は、先ほど見たもので占められていた。清吉は、いつの間にか外道と化していたのだ。それも、自ら進んで……。
かつての清吉は、あんな人間ではなかったはずだ。島を出たら、真っ当に生きると言っていたのを覚えている。それなのに、いつの間にか人間の屑になっていた。
人の運命とは、本当にわからないものだ。そもそも清吉は、奉公先の年上の女将に誘惑され、挙げ句に姦通罪で島送りになったのだ。他の悪党とは違う。そうでなければ、こんなに早く島から帰ってこれなかったはずだ。
清吉の行動は、褒められたものではない。だが、盗んだわけでも殺したわけでもないのだ。しかも、当時の彼は奉公人である。奉公先の女将に言われれば、逆らうことなど出来ない。いわば、加害者であると同時に被害者でもある。
しかし、世間の人はそうは見ない。清吉は、紛れもなく極悪人の島帰りなのだ。その上、今はやくざ者である。
確かに、やくざになる道を選んだのは清吉自身だ。しかし、全てが清吉だけのせいなのだろうか……自業自得という一言で、片付けられる問題ではないはずだ。
結局、人生など……なるようにしかならぬものなのだろうか。
「ごんた、げんき、ない。どした?」
ナナイが、心配そうに声をかけてきた。権太は体を起こし、微笑む。
「大丈夫だよ」
「ほん、とう?」
彼の言葉を、ナナイは信用していないらしい。じっと、顔を覗きこんできた。
権太は目を逸らし、下を向く。ナナイは、浮世離れした女だ。そもそも、人間ですらないのかもしれない。
しかし、妙に鋭い部分がある。
「本当だよ」
言いながら、ナナイを抱き寄せる。
考えてみれば、自分は清吉よりも罪深い男なのだ。これまで、何人の人間を地獄に落として来たことか。
奴を裁く資格はない。奴の今後を心配する余裕もない。
・・・
その頃、上手蕎麦の地下室でも一組の男女が向き合っていた。もっとも、こちらには色っぽい空気は皆無である──
「仕分人だって?」
怪訝な表情のお禄に、蘭二は頷いた。
「ああ、確かにそう言ってたよ」
「ふざけやがって。いったい、どういうつもりなのかね」
お禄は、眉間に皺を寄せ考える。
仕分人とは……近頃、江戸で噂になっている裏の仕事師たちだ。もっとも彼女は、どこかの瓦版屋の想像の産物だろう……くらいにしか思っていなかった。現に、お禄も実物を見たことはない。噂をたまに聞く程度だ。
まさか、実物が自分たちに接触してくるとは──
「その女の顔は、まだ覚えてるかい?」
お禄の問いに、蘭二は頷いた。
「うん、覚えてるよ」
「どんな感じだい?」
「そうだなあ……馬鹿のふりが上手い女、という感じがしたね」
「馬鹿のふり?」
首を傾げるお禄。
「つまり、物を知らないふりをしつつ接近してきて、気がついたらこっちの懐に入り込んで来る……という印象だったね」
「ああ、なるほど。あたしの一番嫌いな女だ」
そう言って、お禄は顔をしかめた。
「まあ、嫌いというだけなら特に問題もない。近づかなければいいだけだからね。だが、あのお琴という女は、自分から仕上屋に接触してきたんだ。恐らく、また何かしらの動きがあるだろう。これから、どうするつもりだい?」
「そうだねえ……とりあえずは、ほっとくよ」
「えっ、それでいいのかい?」
困惑する蘭二に、お禄は口元を歪めて見せる。
「ああ。気分は悪いけどさ、今のところ何か仕掛けて来る気配もなさそうだしね。もし、あたしらを潰す気なら……わざわざ挨拶なんかに気やしないよ」
「まあ、確かにね」
・・・
黒波一家の親分である留介の屋敷には、大きな地下室がある。こういった秘密の部屋は、やくざ者や裏社会の住人にとっては必要不可欠なのだ。
今、その部屋では……ひとりの女と、四人の男たちがいた。
「こいつは、もう駄目ですね。客の前でも、平気で垂れ流すようになっちまった。商売になりませんよ」
吐き捨てるように言ったのは清吉だ。苛立たしげな様子で、女を睨みつける。
その視線の先にいる女には、両手両足がなかった。さらに、その表情は虚ろだ。時おり、不気味な笑い声を上げている。
「そうだな、ちょいと阿片を吸わせ過ぎたよ。これからは、ほどほどにしないといかんなあ」
そう言うと、留介は行商人風の男に視線を移す。
「だがな、こいつらにも気晴らしはさせなきゃならねえ。飴と鞭、そのさじ加減を間違えちゃいけねえ。なあ栗栖さん、あんたもそう思うだろう?」
そう、留介は女たちに阿片を吸わせていたのだ。阿片を吸わせることで束の間の快楽に溺れさせ、客の相手をさせていたのである。
阿片は、人間の持つ価値観を狂わせる。両手両足を失った事や視力を失った事すら、阿片のもたらす快楽に比べれば大したことはない……そう思えてくるのだ。
もっとも、吸えば吸うほど確実に心と体は崩壊していく。
「ああ、人間には息抜きが必要さ」
そう答える栗栖の表情は冷めきっている。自分の知ったことではない、とでも言いたげな様子だ。
「しかし、こうなってしまっては使い物になりませんね。では、始末するとしましょうか」
言いながら、刀を抜いたのは用心棒の市村武三だ。色白の端正な顔立ちは、まるで女性のようである。しかし、その美しい顔には狂気めいた笑みを浮かべていた。
「仕方ないな。じゃあ、始末は任せたぞ」
そう言って、顔をしかめる留介。この市村は、生まれは確かだし腕はいい。それなりに教養もある。物腰も穏やかだ。仕官の口には困らない、はずだった。
三度の飯より人殺しが好きという欠点さえ無ければ、今頃はそれなりの地位にいたはずだったのだ。
「さてと清吉、次はどうするかな。また、新しい女を調達しなくてはならんが……」
「お任せください。今度は、もっといい女をさらってきますから」
留介の言葉に対し、清吉はにやりと笑う。彼の足元には、首をはねられた女の死体が転がっている。床は既に血まみれだ。
市村は、いかにも満足そうな様子で刀に付いた血や脂を拭っている。
「では、俺は失礼するよ。また阿片が入り用な時は、いつでも言ってくれ」
そう言って、栗栖は立ち去ろうとした。だが、その途中で足を止める。
「ところで留介さん、闇の仕分人とやらの情報は入ったのか?」
「闇の仕分人? ああ、蛇次がそんなことを言っていたな。どうせ、でたらめに決まってる」
留介の言葉に、市村が反応する。楽しそうな表情で顔を上げた。
「仕分人ですか。もし仮に、そんな連中がいるのなら……ぜひ出て来てもらいたいものですね。そうしたら、この私が叩き斬ってやりますよ」
そう言うと、市村はその場で素振りを始める。取り憑かれたような表情で真剣を振るうその姿は、どう見ても正気ではない。さすがの留介も、ひきつったような顔で見ている。
一方、栗栖は我関せずといった表情だ。
「そうか。まあ、気を付けるんだな。では、帰るとしよう。俺も暇ではないのでな」
その言葉を残し、栗栖は去って行った。
「さて清吉、こいつの死体を始末しないとな。頼んだぞ」
留介の言葉に、清吉は頷いた。
「へい、任せてください。死体が見つからないよう、灰になるまできっちり燃やしますんで」




