月が笑ってらぁ
その日、空には綺麗な満月が上がっていた──
「お禄さん、ちょっとはしゃぎ過ぎじゃないかい?」
夜道にて、蘭二は苦笑しつつ声をかける。
今日は、おかしなことばかりだ。まず、店を閉めるのがやけに早かった。さらに、お春に小遣いを与え帰らせた後、こんなことを言い出したのだ。
「蘭二、飲みに行こうか」
「えっ?」
「そうだよ。それとも、あたしみたいな年増とじゃ嫌かい?」
こうしてふたりは、あちこちの店で飲み食いしたのだ。
こんなことは珍しい。蘭二は、お禄に何かあったのではと不安を感じている。ひょっとしたら、この前のおみつの件が未だに心に引っ掛かっているのかもしれない。
そんなことを考えていたため、いくら呑んでも酔えなかった。だが、お禄の方はお構い無しだ。しこたま酒を飲み、今や千鳥足で夜道を徘徊している。
「ほらほら、足元に気をつけなよ」
「うるさい男だね。たまにはいいじゃないか」
「いや、だから……ほら、足元に気をつけないと」
言っているそばから、お禄がよろける。蘭二は、慌てて助けようとした。だが、彼女はすぐに体勢を立て直す。
「見なよ、大丈夫だから。このお禄さんを、なめるんじゃないよ」
そう言って、お禄は胸を張る。その姿を見て、蘭二は呆れた様子で頭を掻いた。
「全く、しょうがない人だ」
「ふん、すかしてんじゃないよ。そんなんだから、お前は女に縁がないんだよ。面だけ見れば、役者にも負けないくらい、いい男なのにさ」
「うん、確かに縁がないなあ」
言いながら、蘭二は空を見上げる。
綺麗な満月が浮かんでいた。
「見なよ、綺麗な月だ」
「おや、本当だねえ」
お禄も、空を見上げる。普段の顔とは真逆の、あどけない表情だ。
「悪いねえ、蘭二」
不意に、お禄が呟くように言った。
「えっ? 何がだい?」
「今夜は、あたしなんかに付き合わせちゃってさ。あんただって、本当は若い女と遊びたかったかもしれないのにね」
「私は、女遊びに興味はないよ。それより、お禄さんの気晴らしになったなら良かった。私で良ければ、いつでも付き合うよ」
そう言って、蘭二は微笑む。すると、お禄は真剣な表情になった。彼の顔を、まじまじと見つめる。
「あんた、もしかして男の方が好きなのかい?」
ややあって、ためらいがちに聞いてきた。蘭二は、思わず顔をしかめて首を振った。
「何でそうなるかなあ。違うよ。私には、好きな女もいるしね」
その言葉を聞いたとたん、お禄の目が丸くなった。
「えっ、本当かい? 誰? 誰?」
お禄は、はしゃぎながら聞いてきた。まるで、恋の話をする若い娘のような表情である。
「いや、お禄さんが話したこともない人だから」
「へええ、そうかい。どんな人?」
「どんな人、って……まあ、一言では言い表せない女だよ。とても複雑な人格の持ち主だが、同時にとても魅力的な女性だ。顔も私好みだしね」
「なんだい、そりゃあ。また小難しいことを……で、もう口説いたのかい?」
「いいや。ものすごく鈍感な人でね、私の気持ちに全く気付いてないんだよ」
その言葉を聞いたとたん、お禄は呆れた様子で蘭二をはたいた。
「何を言ってんだい! はっきり言わなきゃ、伝わるわけないだろ! だったら、その女を店に連れて来なよ! あたしが代わりに言ってやるから!」
「そんなことしなくていいよ。そのうちに、自分の口で気持ちを伝えるから」
答える蘭二の表情は、複雑なものであった。だが、お禄はその表情には気付いていない。
「本当に情けない奴だね。学があって面もいいのに、女ひとり口説くことも出来ないのかい」
ひとりでぶつぶつ言いながら、お禄は歩き出した。
その後ろ姿を見ながら、蘭二は呟く。
「本当に、どこまで鈍感な女なんだろうね」
・・・
権太は、汗だくで目を覚ました。
また、あの時の夢を見てしまった。いつになったら、あの地獄から解放されるのだろうか。
いや、逃れることなど出来ないのだ。奴らの亡霊は、この先も権太に取り憑いたまま、離れることはないのだろう。
権太は上体を起こし、周りを見回す。その時になって、ナナイがいないことに気づいた。
「ナナイ、どこだ?」
声をかけてみた。しかし、彼女からの返事はない。どこに行ったのだろうか。権太は立ち上がり、外に出て行った。
ナナイは、外の野原に立っていた。一糸まとわぬ姿で、空の満月を見ている。月明かりに照らされた白い裸身は、この世のものとは思えぬ幻想的な雰囲気を醸し出している。権太は思わず、その光景に見とれていた。
すると、ナナイが振り向き微笑む。
「つき、とても、きれい。ナナイ、とても、たのしい」
その言葉に、権太ははっと我に返った。近づいて行き、ナナイの腕を掴む。
「そんな格好で、外に出るな。誰かに見られたらどうする。中に入れ」
「みられる、こまる?」
不思議そうに言うナナイを、権太は力ずくで抱き寄せた。
「ああ、俺が困る。他の男には、見せたくない」
この女と出会わなかったら、自分はどうなっていただろうか。
そんなことを思いながら、権太はナナイを抱きしめた。
「明日も出かける。血は足りてるか? もし足りないなら、明日の朝にもうひとり殺す」
「だい、じょうぶ。あと、にかい、か、さんかい、ねる、だい、じょうぶ」
そう言って、ナナイはうんうんと頷いた。これは、二日か三日くらいなら持つ……ということだろう。一緒に暮らしているうちに、片言の言葉から彼女の意図を理解できるようになっていた。
「そうか。なら、よかった」
権太は、にっこり微笑んだ。
ナナイは、米も野菜も魚も食べないし、水も酒も飲まない。ただ、人間の血だけを飲む。血があれば、他のものを食する必要がないらしい。
かつて島で暮らしていた時、権太は蘭学者くずれの男から様々なことを教わった。その蘭学者が、こんな話をしていた。
「南蛮には、人の血を啜る鬼がいるらしい。多くの書物に書かれている」
ナナイは恐らく、蘭学者の言っていた「人の血を啜る鬼」なのだろう。だが、鬼とは何だ?
蘭学者は、こうも言っていた。
「南蛮の鬼は、恐ろしい力を持っているらしい。人間に仇なす存在であり、見つけたら迷わず殺さなくてはならない……とも書かれている」
人間に、仇なす存在。
だが、ナナイには大した力はない。普通の人間より優れた感覚と強い力を持っているようだが……他人に対し、積極的に危害を加えようという気持ちがあるわけでもない。
ただ、人の血を吸うだけ。米や魚や野菜を食べる代わりに。そのためには、他人の命を奪う必要がある。
他人の命を奪う……これは、どう考えても悪だ。しかし、他人を犠牲にしなくては、ナナイは生きられない。
ナナイを生かすためなら、何人でも殺す。
今の権太にとって、善悪などという概念など、道端の虫けらほどの値打ちもないものだ。
・・・
壱助は逃げていた。
盲人の演技を忘れ、なりふり構わず必死で逃げ惑う。だが奴らは、しつこく追いかけて来た。
やがて息が切れ、足が止まる。これ以上は歩けない。
振り返ると、奴らはすぐ近くに迫って来ていた。殺したはずの者たちが、白骨と化した体で迫り、手を伸ばしてくる。
彼の両手と両足を掴み、一瞬で引きちぎる──
「うわああああ!」
叫ぶと同時に、壱助は目覚める。暗闇の中、自分がどこに居るのか分からず戸惑う。
すると、お美代がにじり寄って来るのが感じられた。
「あんた、うなされてたみたいだねえ。大丈夫かい?」
「あ、ああ……」
言いながら、壱助は額の汗を拭いた。ここが寝ぐらにしている廃寺であることに気付き、胸を撫で下ろす。
それにしても、あんな悪夢を見ようとは。
自分も、もう年なのだろうか。
「あんた、もしかして……夢の時は、目が見えてるのかい?」
不意に、お美代が聞いてきた。壱助はどきりとなりながらも、平静を装って答える。
「あ、ああ。そうらしいんだよ」
「ふふふ、それも不思議な話だねえ」
言いながら、おかしそうに笑うお美代。
壱助はたじろいだ。やはり、誤魔化すにも限界がある。今こそ、真実を話すべきなのかもしれない。
「あ、あのな……お美代、俺は本当は……」
言いかけて、壱助は口ごもる。それ以上、どんなに頑張っても言葉が出てこないのだ。 自分は、本当に度胸がない。
「なんだい、あんた?」
聞き返してくるお美代。壱助は言葉につまり、頭を掻く。
「な、なあ。ちょっと散歩にでも出ないか?」
苦し紛れに出た言葉だった。さすがに、お美代も首を傾げる。
「はあ? こんな夜中に? あんた、何を言ってるんだい?」
すっとんきょうな声を出すお美代。だが、壱助は立ち上がる。
「嫌な夢を見ちまったんでな、すぐには寝られそうもねえよ。お前は先に寝ててくれ。俺は、ちょっくら外を歩いてくる」
月明かりの下、壱助は杖を突きながら歩く。
道すがら、ずっと考えていた。この先、どうすればいいのだろうか。
彼の悩みは、お美代とのことだけではない。先ほど見た夢のこともある。
まさか自分が、悪夢にうなされるとは。殺し屋稼業を始めて、もう二十年近くなる。若かった頃は、何も怖くなかった。地獄に逝くことすら、恐れてはいなかった。
しかし、今は?
「今夜は、月が綺麗だね」
不意に、後ろから声がした。
壱助はびくりとなる。誰の声かは確かめるまでもない。目をつむり、ゆっくりとした動きで振り返る。
「お前、何しに来たんだよ」
「目の見えないあんたを、こんな夜中にひとりで野放しにしとけないだろ? 妖怪に食われちまうかもしれないし、追い剥ぎに襲われるかもしれない」
お美代がそう言った直後、足元から、みい……という声がした。見ると、生まれたばかりの仔猫だ。震えながら、お美代のそばによちよち歩いて来る。
「おやおや、可愛い追い剥ぎさんだこと」
お美代はしゃがみこむと、仔猫を抱き上げる。
「あんたも、親を無くしたのかい。だったら、あたしたちと暮らそうか」
「おいおい、そいつを飼おうってのか? 俺たちは殺し屋なんだぜ」
壱助は、呆れたような声を出した。
「殺し屋が猫を飼っちゃいけない、なんて掟はないだろ。それに、命を奪うだけがあたしたちの役目じゃないはずだよ」
静かな口調で、お美代は言葉を返す。壱助は思わず顔をしかめた。
「そうかい。勝手にしろ」
「ああ、勝手にさせてもらうから。見なよ、この可愛い顔」
言いながら、お美代は仔猫を抱き上げた。
「馬鹿野郎、俺には見えないんだよ。先に帰るぜ」
不貞腐れたように言って、壱助は歩き出した。お美代は仔猫を撫でながら、ひとり呟く。
「いつまで続ける気なんだろうね、あんな下手な三文芝居を……本当に、しょうがない人だよ」




