許せぬ奴に、とどめ刺します(一)
佐島が死んだ翌日。
蘭二は、いつものように店で働いていた。というより、働いていないと気持ちが押し潰されてしまいそうだった。昨日の仕事は、今までで最も後味が悪いものだった。一刻も早く忘れてしまいたい。
やがて、店に行商人のような男が現れた……栗栖である。何やら、ひどく思い詰めたような表情だ。
その姿を見た蘭二の表情は、一気に暗くなった。さりげなく近づき、囁きかける。
「どうかしたのか?」
「すまんが、後で時間を作ってくれ」
栗栖の声は、ひどく虚ろだった。
その夜──
「なぜ、佐島さんが死なねばならんのだ」
栗栖は無念そうな表情を浮かべ、呻くような声を上げていた。直後、徳利から酒を注ぎ、一気に飲み干す。
栗栖と蘭二は、町外れにある一軒のあばら家にて酒を飲んでいた。栗栖は、飲みながら呪詛のごとき言葉を吐き続けていた。完全なる自棄酒だ。
蘭二の方は、口元を歪めつつ飲んでいた。栗栖の気持ちは、痛いほど理解できる。かつて、ふたりは死体を掘り出し、腐りかけた匂いに顔をしかめながら腑分けをしたものだ。本に書かれたものを読んだだけでは、到底得られないであろう生きた知識……あの佐島は、その生きた知識の宝庫のような人物だったのだ。
だが、その知識は永遠に失われてしまった。それを受け継いだ者もいない。
「佐島さんを殺したのは、裏の世界の仕事師らしい。佐島さんに切られた者の家族が依頼したのだろうが、馬鹿なことをしたものだ。日本の医術にとって、かけがえのない人が失われたのだからな」
顔を上げ、怒りに満ちた表情で言葉を吐き出す栗栖。蘭二は何も言えず、黙ったままうつむく。
「俺は、佐島さんを殺した奴を絶対に許さん。必ず探し出し、息の根を止めてやる」
その言葉を聞き、蘭二はぎょっとなった。
「何を言い出すんだ。馬鹿な真似はやめておけ──」
「いや、俺はやるぞ。佐島さんと、その弟子たちを殺した奴らを探し出し、その報いを受けさせてやる。奴らは、医術の夜明けを……ひいては、日本の夜明けを遅らせたのだからな」
そう言うと、栗栖は酒を飲み干し、壁を睨みつけた。まるで、壁に浮かんでいる何者かを睨み殺さんばかりに。
その壁に浮かんでは消える者は、佐島を殺した何者か……なのであろう。もっとも、その何者かが実は隣で酒を飲んでいると知ったら、栗栖は一体どんな反応をするのだろうか?
自棄酒をあおる栗栖を見ているうちに、蘭二もまた絶望的な思いに襲われた。いつの日か、自分は栗栖を殺すことになるのかもしれない。
あるいは、栗栖に殺されるか──
蘭二は湧き上がってきた不安を打ち消すため、自らも酒をあおった。
・・・
翌日の昼、出会い茶屋の辰巳屋にて、ふたりの男が向き合って座っていた。
ひとりは巳の会の総元締・蛇次である。もうひとりは、人の良さそうな中年男だ。神妙な顔つきで、蛇次の前に座っている。
ややあって、蛇次が口を開いた。
「元吉、久しぶりだな。どうだ、元気でやってるか?」
「へえ、おかげさんで」
「おめえは、だいぶ前に裏の仕事からは足を洗ったはずだよな。いったい何の用だよ? まさか、気が変わったのかい?」
蛇次の言葉に、元吉と呼ばれた男は照れたような表情を浮かべる。
「いやあ、足を洗ったんですよ。ところが、最近うちのかかあに、子供ができたんでさぁ。ですから、まとまった銭が欲しいんですよ」
そう言った後、元吉は真剣な顔つきで頭を下げる。
「蛇次さん、お願いします。あっしには、まとまった銭が要るんでさぁ。何か金になる仕事があったら、是非ともあっしにやらして欲しいんです」
「仕事、か。無いことも無いが、その前にひとつ聞きたい。お前、本当に何でもやるのかい?」
じろりと睨む蛇次に、元吉は神妙な顔つきで答える。
「へい、もちろんです。あっしは、何でもやります」
「殺しでも、かい? 俺が殺しを頼んだら、やってくれるのかい?」
蛇次の顔色が変化した。冷酷な裏稼業の大物の素顔が剥き出しになる。だが、元吉は頷いた。
「ええ、やりますよ。いえ、やらせて下さい。かかあには、今まで苦労させて来ました。生まれてくる子供のためにも、まとまった銭を渡してやりたいんです」
「そうかい。だったら、次の丑の日にまた来てくれよ。お前の出来そうな仕事を探しとくから。ただし確認しておくが、掟は覚えてるだろうな?」
「へい、もちろんです」
「念のため、もう一度言っておく。万が一のことがあった場合、お前が口を割ったら……お前だけでなく、嫁と子供も死ぬことになる。だから、もし下手を打ったら、その時は、自分で自分の口を塞ぐんだぞ。わかっているな?」
言った後、蛇次は不気味な笑みを浮かべる。元吉は、表情を強張らせながらも答える。
「もちろんです。絶対に、蛇次さんには迷惑をかけませんから」
「なら、ちょっと俺の屋敷に来てくれ」
そう言って、蛇次は立ち上がった。
・・・
昼は、江戸でひときわ人の往来が多くなる時間帯である。
そんな時に、お禄は蛇次の屋敷へと向かっていた。本音を言えば気は進まないが、呼び出されてしまった以上は行かない訳にもいかない。蛇次を敵に廻しても、何も得しないのだ。蘭二も付いて来ようとしていたが、彼には店を任せた。
今の蘭二には、仕事が必要だ。それも、血生臭くない仕事が……。
やがて、お禄は屋敷にたどり着く。溜息をつき、中に入ろうとした。
すると、屋敷から出て来る者がいる。お禄はその場で立ち止まり、道を譲ろうとした。
ところが、出て来る者の顔を見た瞬間、お禄の表情が凍りつく──
「ん、あんた……元吉さんじゃないか。久しぶりだねえ」
お禄の目の前に現れたのは、かつての友人である元吉だった。数年前まで裏の世界で仕事をしていたのだが、若い女と所帯を持つことになり、裏稼業からは足を洗ったはずだった。
その元吉が、なぜ蛇次の屋敷から出て来るのだろうか?
「あんた、足を洗ったんじゃなかったのかい? 蛇次さんに何の用が?」
きつい口調で、お禄は尋ねる。だが、元吉は顔を背けた。
「お禄さんにゃ、関係ねえよ。俺の方にも、いろいろあってね」
お禄から目を逸らし、そう言い放った。苦い表情を浮かべ、足早に去っていく。
その後ろ姿に危ういものを感じたお禄は、すぐさま屋敷に入って行った。
「やあ、お禄さん。よく来てくれたね」
蛇次は目刺しを七輪で焼きながら、お禄に手を挙げて挨拶した。その気になれば、もっといい物が食べられるはずなのだが、この男には食に対するこだわりがないらしい。目刺しと飯と漬け物だけで食事を終えることがほとんどだとか。あるいは、その質素な食事こそが逆にこだわりなのかも知れないが。
「蛇次さん……今日はいったい、何の御用ですか?」
お禄が尋ねると、蛇次は笑みを浮かべながら口を開いた。
「いや、用というほどのものでもないんだよ。ただ、お禄さんの仕上屋は本当に大したものだと思ってな。刀で斬る、首をへし折る、果ては鉄砲で眉間を一発……腕の立つ人間を揃えているね。大したものだよ。もし、何かあった時には、よろしく頼むよ」
「いえいえ、こちらこそ」
そう言いながらも、お禄は内心で首を捻っていた。こんなことを言うために、わざわざ呼び出したのだろうか。
しかし、蛇次の次の言葉を聞いた瞬間、お禄の表情は凍りついた。
「いや、実はな……今日、仕上屋さんに仕事を頼むつもりだったんだよ。しかし、その仕事を元吉にやらせることになってな。わざわざ来てもらったのに、すまないね」
「元吉さんに、ですか? あの人は、足を洗ったはずじゃあ?」
「それがな、あいつの女房がこれらしいんだよ」
そう言いながら、蛇次は自分の腹を指差した後、膨れるような仕草をして見せた。
「えっ? そ、そうだったんですか……」
言ったきり、お禄は絶句した。その刹那、古い記憶が蘇る……。
かつて、裏稼業で少しは知られる存在だった元吉。お禄の旦那である信次ともども、一緒に仕事をこなして来た。
だが、彼はおみつという名の女と知り合った。元吉と二十歳近く年の離れたおみつだったが、二人はすぐに意気投合した。やがて恋仲になり、そして夫婦になったのである。
それを機に、元吉は裏の世界から足を洗った。
「すまないな、お禄さん。わざわざ呼び出したのに、あんたには無駄足を踏ませちまったな。勘弁してくれよ」
「い、いや、それは構いませんが……元吉の的になってるのは、いったい誰なんです?」
口元を歪めながら尋ねるお禄に、蛇次は笑いながら首を振った。
「そいつだけは言えねえな。裏稼業の掟は、あんただって知ってるはずだぜ。依頼の内容は、墓場まで持って行かなきゃならねえ秘密だよ。いくら口の堅いあんたにでも、言うことは出来ねえ」
「そ、そうですね。すみませんでした」
頭を下げる。そうなのだ……誰が相手であろうと、殺しの依頼を受けた以上は他言無用である。それは裏稼業の掟の、基本中の基本である。
「まあ、いいって事よ。ところで、万が一の話だが……もし元吉が仕損じたら、この仕事を仕上屋さんに頼めるかな?」
「はい?」
縁起でもないことを……と言いかけたが、お禄はその言葉を呑み込んだ。代わりに、笑顔で頷く。
「ええ、もちろんですよ。あたしたちに、お任せください」
屋敷を出た後、お禄は溜息をついた。結局、今日の訪問は無駄足に終わったわけだ……ただ、不安だけが残る。
あの元吉は腕の立つ方ではない。もともと殺しは請け負っていなかったし、お人好しで涙もろい性格だ。裏の世界では、どう転んでも出世しないだろう。
当の本人も、それは分かっていたはずだ。だからこそ、おみつと恋仲になったのを機に裏稼業から縁を切ったのだ。
「お禄さん、もう会うこともねえだろうが、達者でな」
最後に会った時、元吉はそう言っていた。
その元吉が、またしても裏の仕事をしようとしている──
お禄は頭を振り、足早に店に向かう。今の自分には、関係のない話だ。ただでさえ、最近では面倒なことが多い。他のことまで気にしている余裕はないのだ。
それに、蛇次も元吉の腕前がどの程度のものかは知っている。いくら何でも、無茶なことはさせないだろう。
蛇次は元吉に、子供が出来たお祝いがてら楽な仕事を回したのではないだろうか?
自分でも、無理のある話だと思う。あの蛇次は、そんな粋な真似をするような男には思えない。しかし、今の自分にしてあげられることはないのだ。
元吉さん、下手を打つんじゃないよ。
胸の中で呟くと、お禄は店へと戻って行った。




