石が流れて、木の葉が沈みます(二)
町外れの野原を、行商人風の男が歩いている。大きな荷物を背負い、辺りを見回しながら慎重に進んでいた。
男は野原を歩き、林の中へと入っていく。やがて一軒の小屋の前で立ち止まった。
彼は周囲を見回し、誰もいないことを確かめた後、ゆっくりと戸を叩いた。
「俺だ、栗栖だよ。ちょっと開けてくれないか」
ややあって、小屋の戸が開く。中から、作務衣を着た不気味な風貌の男が出て来た。背は高いが痩せており、手足が長く鋭い目付きをしている。だが何より目立つのは、着ている作務衣が血まみれであることだった。
「栗栖さん、どうぞ入ってください。先生がお待ちです」
栗栖が小屋の中に入って行くと、そこには凄惨な光景が広がっていた。
薄明かりの下、全裸の男が横たわっている。驚くべきことに、その両手両足は切断されていた。さらに体のあちこちが切り刻まれ、内臓が剥き出しになっているのだ。辺りには大量の血が流れ、男の漏らしたらしい糞尿の匂いがたちこめている。
その男……いや、死体の周囲を三人の男が取り囲んでいる。胸の悪くなるような臭い匂いをものともせずに、真剣な表情で死体を見つめていた。
「やあ栗栖さん。今日もご苦労様です」
ひとりの男が顔を上げ、血や肉片らしきものの付着した顔で笑みを浮かべる。この中で一番の年配者であり、体も小さい。しかし、その瞳からは強靭な意志の力を感じさせる。
栗栖は軽く頭を下げると、懐から紙の包みを取り出す。
「佐島さん、どうぞ」
言いながら、栗栖は包みを差し出した。佐島と呼ばれた男は受け取り、中身を確かめる。
それは、阿片だった。
「いつも助かるよ、栗栖さん。それにしても、あんたの阿片はいいものだねえ。お陰で助かるよ」
佐島の言葉に、栗栖は手を振った。
「いえいえ、とんでもないです。佐島さんは、これからも研究に励んでください……日本の夜明けのためにも。微力ながら、私も応援させていただきますよ」
「実にありがたい言葉だ。我々の数少ない協力者である栗栖さんに対し、こんな形でしか報いることが出来ないのが残念でならないよ」
そう言うと、佐島は懐から小判を取り出した。手渡そうとするが、栗栖はかぶりを振る。
「いえ、あなたからは受け取れません。その金は、医学の夜明けのために用いてください」
「そうか……ありがとう。君の協力には、いつも感謝している」
「それより、この男は何なんです?」
言いながら、栗栖は床の死体を指差す。すると、佐島は顔をしかめた。
「うむ、阿片を使わず、両手と両足を切断してみたのだ。途中で、心の臓が止まってしまったがな。やはり、阿片なしで体を切るのは難しい」
「そうですか。やはり、阿片は必要ですか」
「ああ、今のところはな。もっとも、阿片は副作用が強すぎる。いつかは、違う薬を用いたいものだ。だがな、これは失敗ではない。私は阿片なしでの手足の切断は不可能に近いという事実を、己の肌身ではっきりと理解できたのだ。これは大きな進歩だぞ。試してみなくてはわからなかったことだ。この男の尊い犠牲は、無駄にならなかった」
そう言う佐島の目は輝いていた。危ういまでの、強い光だ。だが、栗栖には彼の気持ちが理解できた。
「そうですね。俺も昔は、死体を盗んで切り開きました。しかし、生きている人間と死体では、雲泥の差がありますからね」
「その通りだよ。近頃の医者は、医は仁術などという形だけの言葉を弄して、その頭にあるのは金勘定ばかり。本気で日本の医術の夜明けを考えている者など、今ではほとんどいない」
佐島の表情が険しくなった。彼は視線を落とし、男の死体を指差す。
「死体の腑分けだけで、生きた人間を治すことなど出来ん。生きた人間の病や怪我を治すには、同じく生きた人間を何体も切らなくてはならないのだ。栗栖、これからも協力を頼んだぞ」
「わかりました」
・・・
翌日、蘭二はいつも通りに店にいた。客は三人来ているが、しかし、お禄はいない。何をやっているのかは不明だ。恐らく、裏の仕事に関係する用事だろう。
そんなことを考えていた時、新たな客が現れた。行商人のような風体の男だ。しかし、その顔には見覚えがある。いや、見覚えなどと言う生易しいものではない。
蘭二は、その行商人風の男に近づいた。
「栗栖、何か用か?」
注文を聞く振りをして、小声で尋ねる。すると、栗栖も小声で囁いた。
「近藤、いや蘭二……すまんが、後で話がある。店が終わったら、ちょっと時間を作ってくれ」
その日の夜、蘭二と栗栖は並んで歩いていた。
この栗栖という男、かつては蘭二と共に蘭学を学んでいた。しかし地元の役人に追われる羽目になり、名前を変えて江戸に流れて来た……そして今では、阿片の密売を生業としている。
ふたりの顔つきは対照的である。栗栖はにこやかな表情を浮かべており、いかにも嬉しそうだ。一方、蘭二の表情は堅い。
「お前に会ってもらいたい人がいる」
歩いている時、不意に栗栖が口を開いた。
「会ってもらいたい人? 何者だ?」
「佐島章軒という名の医者だ。その知識の深さや持てる技術は、今の江戸には並ぶ者がないであろう」
栗栖は熱く語る。その瞳には、未だに消えぬ情熱があった。かつて蘭学に打ち込んだ、あの頃と同じものが。
「ほう、そんな凄い人がいるとは知らなかったな。だがな、その佐島さんは、私やお前の経歴を知っているのか?」
蘭二が尋ねると、栗栖は笑みを浮かべて頷いた。
「当たり前だ。それだけじゃない。俺は、佐島さんに阿片を売っているんだ」
「阿片だと?」
蘭二の足が止まった。驚愕の表情で栗栖の顔を見つめる。しかし、栗栖は平然としていた。
「お前も知っての通り、阿片には人の痛みを麻痺させる効果がある。俺の作った阿片を使い、佐島さんは医術の研究をしているのだ。これは素晴らしい事だぞ。日本の医術の夜明けを、佐島さんがもたらすかもしれん」
その言葉に、蘭二は下を向いた。
確かに、阿片にはそういった作用もある。だが、それと同じくらい危険な副作用もあるのだ。蘭学書には、阿片の吸いすぎで廃人になってしまった者たちの実例が、数多く載せられていた。
その時、蘭二はある事実に気づく。
医術に阿片が必要?
ということは、生きた人間の体を切り開いているということか?
「その佐島さんという人は、人間の体を生きたままで切り開いているのか?」
語気鋭く尋ねる蘭二と、栗栖はすました顔で答える。
「当たり前だ。生きた人間の体を知らずして、生きた人間の治療など出来ぬ。これは当然の事だろう」
「ちょっと待て。その体を切り開かれた人間は、病人なのか?」
「いや違う。無宿者や河原乞食などだ。そいつらを連れてきて阿片を吸わせ、切り開いている──」
「お前、何を考えている! 人間を生きたまま切り刻むなど、悪鬼の所業ではないか!」
そう言って、蘭二は栗栖の襟首を掴む。だが、栗栖は怯まない。
「悪鬼の所業だと? お前こそ、この行為の大切さが理解できているのか? 俺は今まで、たくさんの死体を切り開いてきた。だがな、生きている人間はまるで違う。死体の腑分けなどとは比べ物にならん。この日本の医術の進歩と発展のためには、誰かが手を付けなくてはならんことなのだ。お前とて、わかるはずだ」
「そ、それは……」
蘭二には、それ以上のことは何も言えなかった。
栗栖の言っていることは、間違いではない。日本の医術は、西洋のそれに比べれば遥かに遅れている。意味不明な民間療法が幅を利かせ、さらには訳のわからない呪い師のような輩に、大金を積んで病の治療を依頼する者までいる始末だ。
無知ゆえに、失われる命……かつて蘭二も栗栖も、嫌というほど見てきたものだ。
「なあ蘭二、一度でいい。佐島さんと会ってくれ。会って、あの人のやっていることを、その目で見て判断してくれ。俺は今、阿片を作らなくてはならん。そのため、あの人の手伝いはあまり出来ない。だが、お前なら手伝いが出来るはずだ。佐島さんを助けてあげてくれ」




