仕事に生きるは、くたびれます(二)
しばらく歩いた後、左馬之介は奇妙な場所に辿り着いた。
そこには、藁やぼろ切れ、石や木の枝などを用いて建てられた掘っ立て小屋が立ち並んでいる。傍には大きな川が流れており、地面は伸び放題の雑草により覆われていた。
そう、ここには得体の知れない素性の者たち……いわゆる河原者が、数多く住み着いている場所なのだ。今も、ざんばら髪にぼろぼろの着物を着た者たちが徘徊している。顔には埃や泥が付き、肌は日光と風雨にさらされて浅黒く、遠目からでは男か女かも判断しづらいような連中だ。
彼らは、近づいてくる左馬之介の存在に気付くと敵意を剥きだしにして睨みつけた。なにせ、町方とは犬猿の仲である。中には、襲いかかりそうな男までいた。
そんな中、すっと間に入った者がいる。
「おやおや旦那、よくぞいらしてくださいましたね。ちょいと待ってておくんなさい」
そう言いながら、左馬之介に向かい親しげに挨拶する女がいた。大道芸人のあぎりである。こちらは汚い着物姿だ。編み笠を被り、手拭いで頬かむりをしているため、顔はよく見えない。肌は汚れが目立つが雪のように白く、女にしては背が高い。
「あぎり、いてくれたのか。では、行くとしよう」
左馬之介は、女に声をかけた。このあぎりという名前は、恐らく偽名であろう。あるいは、芸名かもしれない。
もっとも左馬之介にとっては、彼女の本当の名前など、どうでも良かった。あぎりの存在は、今の彼にとって大切なものなのである。それだけで充分であった。
左馬之介は、あぎりの住んでいるあばら家へと向かった。河原からは、少し離れた場所だ。彼女は普段、河原の周辺にいるが、夜になると寝ぐらにしているあばら家へと帰っていく。
その家には、重大な秘密があった──
あばら家の中は暗く、あるのは行灯の僅かな明かりのみ。そんな中で、左馬之介とあぎりは床に寝転がり、煙管をくわえていた。もっとも、彼らが吸っているのは普通の煙草ではない。
その煙管に詰められているのは、麻薬の阿片である。それも純度が高く、中毒性の強いものであった。当然ながら、江戸ではご禁制の品として定められている。
首切り役人と、河原者の女。ふたりは、一糸まとわぬ姿で木の床に寝そべっている。しかも家の中には、阿片の煙がたちこめているのだ──
「あぎり、俺はもう疲れてしまったよ。近頃では、生きるのすら面倒だよ。なあ、そろそろ俺を殺してくれんか。お前になら、殺されても構わん。金なら出すぞ」
阿片の煙を吸いながら、そんな言葉を口にする左馬之介。その表情は虚ろで、目は虚空に向けられていた。
「何を言ってるんですか。旦那に死なれちゃ、あたしが困るんですよ。もっともっと生きてもらわないと」
あぎりはそう言うと、左馬之介に頬寄せる。頬かむりの手拭いを取り去ったその顔は、鼻が高く瞳は青い。まるで南蛮人のようであった。
左馬之介と、あぎり。煙管をくわえている両者の姿は、男の死神のごとき雰囲気と女の不可思議な容貌とが相まって、この世のものとは思えぬ不思議な雰囲気を醸し出していた。
あぎりは、母親が南蛮人に強姦されて生まれた混血の女である。その風貌には、顔も知らぬ父親の血が色濃く現れていた。
成長するにつれ、あぎりの容貌は人目を惹くものになっていく。それゆえに、男たちからは好奇の目で見られてきた。もっとも他の女からは、嫉妬の混じった嫌悪の目で見られるようになっていたが。
その特徴的な容貌ゆえ、あぎりはまともな職に就けなかった。他の女たちからは異人の子と罵られ、男たちからは欲望を剥き出しにした視線が飛んで来る。男に手込めにされたことも、一度や二度ではなかった。
やがて、あぎりはつまらぬいざこざから人を殺し、故郷を捨てて江戸に流れて来た。江戸に流れて来るまでの間に、あぎりは自分の身を守る術を会得していた。
「それより旦那。また、頼みたいことがあるんですがねえ」
あぎりの言葉に、左馬之介は虚ろな目を向ける。
「何だ? 言ってみろ。お前の頼みとあれば、俺は大抵のことはするぞ」
その言葉に、あぎりは妖艶な笑みを浮かべる。彼女の顔は、美しさと同時に禍々しさをも感じさせた。
彼女の内にあるものは、愛なのか。あるいは打算なのか。一応、左馬之介は役人である。彼を仲間にしておけば、有利に運ぶのは間違いない話だ。
あぎりの本心がどこにあるのか、左馬之介にはわからない。わかりたくもないし、わかる必要もない。
ただ、自分があぎりを心から愛している……それだけで充分であった。
いや、違う。
これは愛という感情とも、また別なものなのかもしれない。世の中には、いかにお互いの存在を厭わしく思おうとも、最期まで関係を絶つことの出来ぬ者たちがいる。自分とあぎりとの関係もまた、そういったものなのかもしれない。
いや、それすらどうでもいいことだ。左馬之介にとっては、取るに足らないことである。
ただ、あぎりが自分の傍にいてくれれば、それでよかった。他には、何もいらない。
・・・
その翌日、上手蕎麦に奇妙な客が訪れた。
仕込み作業をしていた蘭二が顔を上げると、行商人風の男が店に入って来るのが見えた。頭に笠を被って背中に荷物を背負い、足袋を履いた姿だ。しかし、その目は油断なく辺りを窺っている。
しばらくして、男はざる蕎麦を注文した。やがて蕎麦を運んで来た蘭二に向かい、低い声で囁くように言葉をかける。
「やはり、な。お前、近藤であろう?」
その声を聞いた瞬間、蘭二の表情も変わった。近藤という名前は、過去に捨てたはずのものである。となると、目の前にいる男は過去の自分に関係ある人間なのだ。眉間に皺を寄せ、相手の顔を覗き込む。
直後、蘭二は複雑な表情を浮かべた。
「須貝、か?」
「そうだ。なあ、後で会わんか?」
その夜。
店を閉めた後、蘭二は行商人風の男と並んで夜道を歩いていた。実のところ、ふたりは古い付き合いなのだが……再会を喜んでいるようには見えない。
「元気だったか、近藤」
感情のこもっていない問いかけに、蘭二は苦笑する。
「その名前は捨てたよ。今の名は、蘭二だ」
「そうか。俺も今は、栗栖と名乗っているのだ。お互い、追われる身では仕方ないな」
そう……蘭二は若かりし頃、この男と共に蘭学を学んでいた時期があった。もっとも、今はどちらも御上より追われる身である。
「ところで近藤……いや蘭二、お前はあの蕎麦屋で働いているのだな?」
栗栖の問いに、蘭二は頷く。
「ああ、そうだよ。あそこの主人のお禄さんは、私の身元をいちいち詮索したりしない人だからね。まあ、どうにか細々と生活しているよ」
蘭二は曖昧な答えを返した。目の前の男には、自分の正体を知られるわけにはいかない。
「そうか。なら、俺の仕事を手伝う気はないのか? 金にはなるぞ」
「仕事? いったい、何をすればいいんだい?」
蘭二が尋ねると、栗栖はさりげない仕草で周りを見回し、耳元に顔を近づけ囁く。
「阿片を造るんだよ。お前のように、知識があって信用の置ける人間に手伝ってもらいたいんだ」
「えっ?」
蘭二は驚きのあまり、それ以上は何も言えずに黙り込んだ。
この栗栖、もともとは蘭方医になるため勉学に励んでいたのだ。やがて本による勉強にあきたらなくなり、墓場から死体を掘り起こして片っ端から切り開いたり、薬を調合したりしていた。蘭二とふたりで、無縁仏となった死体を盗んだこともしばしばである。
そんな栗栖が、蘭学の知識を阿片造りに活かすとは……さすがの蘭二も、二の句が継げなかった。
「ここだけの話だがな、俺は質の良い阿片を造ることが出来る。さらには、造った阿片を売り捌いてくれる連中も、既に見つけているのだ」
栗栖はいったん言葉を止める。真剣な表情で、蘭二を見つめた。
「俺の仕事を手伝ってくれんか? 俺たちは、この国の未来のために蘭学を学んだ……日本の未来のために、だ。なのに、この日本は、俺たちを咎人として追った。こんな国の法など、守る必要は無いだろう。そうは思わんか?」
「すまないが、ちょっと考えさせてくれ」
栗栖と別れた後、蘭二はひとりで空を見上げた。
近藤長英、それが蘭二の本名だ。栗栖こと須貝貢と共に、私塾で蘭学を学んでいたのだ。
あの当時は、他にも大勢の門下生たちがいた。お互いを競争相手と見なして、切磋琢磨していたのだ。
そんな門下生たちの中でも、栗栖と蘭二は妙に気が合った。ふたりで共に勉学に励み、研究や実験に勤しんだ。
しかし、ふたりはやり過ぎた。やがて、無縁仏となった死体を盗んでいたことや、薬を無断で作り病人たちに配っていたことが役人にばれてしまう。
結果、ふたりは役人に追われる身となってしまったのだ。
当時の蘭二たちには、強い使命感があった。これからの日本には、蘭学が必要だ。医学、工業、武力……伝え聞くだけでも、西欧諸国は日本よりも遥かに進んでいるという。近い将来、そんな国々が日本に侵略して来ないとは言い切れない。だからこそ、もっともっと外国について学びたい。そして、ゆくゆくは日本という国の進歩と展に貢献したい──
その気持ちに、嘘はない。しかし、他の気持ちがあったのも確かだ。自分の能力を、他の者たちに認めさせたい……という思いである。蘭二も栗栖も、他の門下生たちには負けたくないという心があった。
それ故に、ふたりは墓から死体を持ち出して解剖したり、薬品を調合して病人に飲ませたりしていた。
結局のところ、己れのためにやっていたのだ。病人に渡していた薬も、善意だけではない。人体実験のようなものだった。幸いなことに死者は出なかったが、出たとしても不思議ではなかった。
そんな蘭二も、今では裏稼業にどっぷり浸かっている。人の命を奪い、金を貰うという稼業に。
一方、栗栖は阿片の密売人になっていた。人間を堕落させ、最終的には廃人に変えてしまう薬の密売人に。
自分と栗栖、果たしてどちらが悪人なのだろうか。
「蘭二、どうしたんだい?」
店に戻った蘭二に、お禄が声をかける。何かに気づいたのだろうか。
蘭二は、力ない表情で口を開く。
「いやね、私はこれまで何をしてきたんだろうか……と思ってね。今まで、必死で蘭学を学んでいたつもりだった。しかし、実は何も学べていなかったのかもしれない。少なくとも、大切なことを見落としていたのは確かだよ」
「はあ? なんだい、そりゃあ? 学のないあたしにも、わかるように言いなよ」
お禄のあっけらかんとした言葉に、蘭二は思わず笑ってしまった。この女、確かに学はないかもしれない。だが、自分よりもずっと賢いのは間違いない。
「うーん、要するに若さと馬鹿さは一字違い、ってことかな」




