江戸は、針地獄のごとき有様です(三)
所変わって、上手蕎麦では──
お禄は地下室にて、ひとり眉間に皺を寄せ考えていた。ちょうど今しがた、小平次が帰って行ったところである。
先ほどは、面倒な話を聞いてしまった。聞いてしまった以上、このままには出来ない。
だが、動く決心がつかなかった。
「お禄さん、大丈夫かい?」
降りて来た蘭二が、心配そうに声をかける。
「大丈夫。ただ、ちょいと面倒なことになってね……そういや、権太の奴はどこにいるんだっけ?」
「えっ? 一応は、この近くの弥勒長屋に住んでいることになっているよ。あいつは仕事もしてないし、今頃あちこちぶらついてるんじゃないかな」
奥歯に物が挟まったような言い方に、お禄は眉をひそめた。
「一応って、どういうことだい? あんた、仕事の時は権太を呼んでくれてるじゃないか」
「それがね、私も長屋には行ってみるんだよ。けど、あの人は居たためしがない。仕方ないから、置き手紙をして来るのさ」
「なんだい、そりゃあ。あいつも、使えない男だね。頼みたい用事があったんだけど、こりゃ無理だわ」
渋い表情のお禄に、蘭二は怪訝な様子で尋ねる。
「私じゃ駄目なのかい?」
「あんたは、店があるだろ。壱助はめくらだし、お美代は面を晒さない……となると、権太しかいないんだけどね。全く、困った男だよ」
「でも、召集をかけるとすぐに来るよ。呼び出そうか?」
ためらいながら提案した蘭二に、お禄は渋い顔になる。
「うーん……いや、あいつは無愛想だから、とっつあんと揉めそうだ。それに、とっつあんも頑固だからね。やっぱり、権太はやめとこう」
・・・
その数日後。
人気の無い林道を、静かに歩いて行くひとりの男がいた。
島から来た三人組のひとり、竹蔵である。彼は江戸に来たついでに、過去に世話になった人たちに挨拶廻りをしていた。
その挨拶もようやく終わり、宿への道を歩いていたのである。
途中、彼は足を止めた。さっきから、何者かに後をつけられているような気がする。だからこそ、人気の無い道へと誘いこんだのだ。
竹蔵は、ゆっくりと周りを見回し、口を開く。
「おい、俺に何か用か?」
その言葉の直後、ひとりの男がぬっと姿を現した。黒い着物に身を包み頬被りをしている。着物ごしにも、痩せた体をしているのが見て取れる。また、頬被りから僅かに覗いている髪は白い。
「おめえ、竹蔵だな。昔は世直し小僧と名乗って、仲間と一緒にあちこち荒らし回っていただろう」
顔は頬被りで隠しているが、その声は老いた男のそれだ。竹蔵は、思わず眉をひそめた。
「世直し小僧? 知らねえな。他の誰かと間違ってるんじゃねえか?」
「嘘つくんじゃねえ。調べはついてるんだよ」
言いながら、男は懐から短刀を抜いた。
「悪いが、死んでもらう」
そう言うと、男は低い姿勢で身構える。
一方、竹蔵は静かな表情で睨み返した。お八の前で見せる軽薄な雰囲気は、完全に消え失せている。
「お前、何を考えてるんだ? 俺は、人殺しは嫌いなんだよ。お前じゃ、俺には勝てない。さっさと失せろ」
「そうもいかねえんだ。いったん引き受けた以上、殺らねえ訳にいかねえ」
言うと同時に、男は動いた。
前転し、一気に間合いを詰める男。と同時に、短刀を突き出す──
竹蔵は、短刀の切っ先をすっと躱した。だが、男の動きは止まらない。次の瞬間、男はくるりと一回転した。まるで独楽のように足を軸にして回る。
直後、男のもう一方の手に握られた短刀が竹蔵を襲う──
だか竹蔵は、すんでの所でしゃがみこみ、男の刃を躱した。同時に、低い姿勢から体当たりを食らわす。
男は、膝のあたりに竹蔵の体当たりを食らった。抵抗すら出来ず、一瞬で倒される。
一方、竹蔵の動きは止まらない。即座に短刀を払い落とす。と同時に、男の体に馬乗りになった。
「お前は誰だ? なぜ俺を狙った?」
尋ねる竹蔵。と同時に、着物の襟を掴み首を絞め上げる──
「わ、わかった。言うよ、言うから離してくれ」
苦しそうに哀願する男。竹蔵は、男を睨みながら語りかける。
「いいか、下手な真似したら首をへし折るぞ」
「わかったよ。頼むから、命だけは助けてくれ。まだ死にたくねえ」
いかにも哀れみを誘うような声だ。竹蔵は腕の力を緩めた。
その時、男の手が動いた。何かを素早く、自身の口に放り込み飲み込む。
直後、にやりと笑った。
「お前、何をしやがったんだ!」
竹蔵は怒鳴る。だが既に遅かった。男の口から血が垂れる……彼は即座に状況を理解した。
「くそがぁ! こいつ、何てことをしやがる!」
言いながら、竹蔵は男の口をこじ開けようとする。このままでは、男は死んでしまう。
だが遅かった。男は舌を噛み切っていたのだ。しかも、さっき口の中に放り込んだ物は、恐らく毒薬だろう。
「くそが!」
竹蔵は、急いで男の体を担ぎ上げた。この男は、ただのごろつきではない。間違いなく裏の人間だ。しかも、自分が世直し小僧であることも知っていた。
ならば、生かしておいて吐かせなくてはならない……自分たちを狙っているのが、何者なのかを。
男の体を背負い、竹蔵は走る。だが、男は痙攣を始めた。激しく体を震わせながら、手足をばたばたさせているのだ。
腕力にはそれなりに自信のある竹蔵だが、担ぎきれずその場に落としてしまった。
同時に悟る。男は、どうあがいても助からない。もはや手遅れなのだ。
その予想が正しかったことを証明するかのごとく、男はさらに激しく手足をばたつかせる。
直後、息絶えた。
「くそ……」
複雑な思いを胸に、竹蔵は死体と化した男を見下ろす。頬被りしていた手拭いを剥ぎ取ってみたが、全く見覚えの無い顔だ。しかも、老人と言っても差し支えない歳に見える。こんな老人が、なぜ自分を狙ったのだろう。
確かに自分たちは、かつて世直し小僧として江戸の町を荒らしていた。だが、殺生はしていない。金持ちから盗み、貧しい者に分け与えていた。殺し屋を雇うほどの恨みを買っているとは、到底思えない。
「お前、何だったんだ?」
竹蔵は、呟くように言った。もちろん、答えなど返って来ない。それでも、問わずにはいられなかったのだ。
自分たちは、何者に恨みを買っていたのだろうか……と。
宿に戻った竹蔵は、先ほどの出来事をふたりに相談した。もちろん、お八が寝た後である。
「何だと? 竹蔵、その爺さんの死体はどうしたんだよ?」
宗太郎の問いに、竹蔵はしかめ面を作った。
「どうしようもねえから、林の中に隠しておいたよ。しかし、あれでは見つかるのも時間の問題だな」
「口を割る前に自害するとは、とんでもねえ爺さんだな。で、これからどうするよ?」
健次の言葉に対し、ふたりは眉間に皺を寄せた。
「それにしても、今頃になって俺たちの殺しを依頼するとはな。依頼した奴は、いったい何者なんだろうか? お前ら、何か心当たりはあるか?」
そう言って、宗太郎はふたりの顔を交互に見る。だが、両者とも首を横に振った。
「いや、ないな」
「ああ、俺もない」
ふたりの言葉に嘘は無さそうだ。宗太郎は思わず頭を掻いた。
「となると、どっかの悪党に雇われたのか? こうなったら、出来るだけ早く江戸を離れよう。健次、船が出るのは三日後だったな?」
「そうだ」
「三日か……いいか、それまでは気を配るんだぞ。出来るだけ、三人一緒に動くんだ」
「お八はどうするんだ?」
尋ねる竹蔵に、宗太郎は苦り切った表情になる。
「お八か……確かに、狙われる可能性はあるな。仕方ねえ、江戸を出るまでは四人で行動だ。いいか、目立つような動きをするんじゃねえぞ」




