江戸は、針地獄のごとき有様です(一)
その日、上手蕎麦は珍しくにぎやかであった。決して広くはない店内だが、訪れる客で満席となっているのだ。
「お春ちゃん、今日も可愛いねえ。店が終わったら、俺と飯でも食いにいかない?」
そんなことを言いながら、蕎麦をすすっているのは建具屋の政だ。まだ若く、整った顔立ちだが落ち着きがない。その顔と軽快な喋りとで、女たちに人気がある。
もっとも、下働きのお春には好かれていないようだった。無視して、さっと店の奥に入って行く。
「政さん、最近よく来てくれてるね。ありがとうさん」
彼女の代わりに蘭二が声をかける。とはいえ、政の目当てがお春であることは明白なのだ。毎回お春に声をかけては、体よくあしらわれている。
と、政は蘭二の顔をじっと見つめた。そして、向こうで忙しくしているお春へと視線を移す。
ややあって、そっと尋ねてきた。
「ねえ、もしかして……蘭二さんて、お春ちゃんと付き合ってんの?」
「何を馬鹿なことを言ってるんたい。違うよ」
「本当に? 俺、その言葉信じていいんだろうね? 本当に、蘭二とお春ちゃんは付き合ってないんだよね? 蘭二さんみたいな二枚目が相手じゃ、勝ち目ないもん」
「ないない、付き合ってないから」
蘭二が首を振りながら否定した時、またひとり店に入ってきた。丈の短い着物を着て、髪は真っ白で、がりがりに痩せこけている男だ。老人、と言っても差し支えない年齢であろう。歩く姿から察するに、足腰はまだしっかりしているようだが。
老人は、ちらりと蘭二を見る。
「お禄さんは、いるかい?」
「いるけど……あんた、誰だい?」
蘭二は、不審そうに尋ねた。このあたりでは、見かけない顔である。しかも、堅気ではない匂いを放っているのだ。ひょっとして、裏の人間だろうか。
その時、奥からお禄が顔を出した。
「誰かと思えば、小平次のとっつぁんじゃないか。久しぶりだね」
彼女は、意外そうな顔つきで老人を見つめる。
この小平次という名の老人は、裏社会の仕事師である。かつては、猿の小平次の二つ名で有名な凄腕の殺し屋だった。蛇次や、弁天の正五郎すら一目置いていたほどの男なのだ。まだ若かりし頃のお禄に、裏の世界のいろはを教えたのも小平次である。
「ああ、久しぶりだな。ところで、ちょいと相談したいことがあるんだがね……付き合ってもらえないかい?」
「相談? まあ、別に構わないよ。今日は暇だしね」
「いや、暇なのはあなただけだから」
蘭二が小声で突っ込んだが、彼女はそれを無視して声をかける。
「とっつぁん、奥に来なよ」
ふたりは、店の地下室に降りて行った。お禄は小平次を椅子に座らせ、自分もその正面に座る。
「こんな所で悪いけどさ、どうせ他の連中に聞かれたくない話なんだろ」
「へへ、お前には敵わねえな。にしてもよう、お禄……お前が、仕上屋の元締とはな。まあ、お前は昔から根性があった。いざとなれば、そこらの男なんて束になっても敵わねえ……そんなふうに思わせる度量があったのは間違いねえよ」
小平次の言葉に、お禄はくすりと笑った。
「ふふふ、からかうんじゃないよ。それにさ、今は一匹狼じゃやっていけないから」
「そうらしいな。俺も近頃は、本当に仕事がやりづらくなった。そろそろ潮時じゃねえかと思ってんだよ」
言いながら、小平次はため息をついた。
「何を言ってんだい。この稼業に足を踏み入れたら、普通の幸せなんてものは掴めっこねえ……あたしにそう言ったのは、とっつぁんだよ」
・・・
お禄は、上州の山奥にある小さな寒村で生まれた。両親と共に、貧しい村で食うや食わずの生活をしていた。
ある日、お禄は山の中で行き倒れた旅人と出会う。旅人はあちこちに怪我をしており、彼女は朽ち果てた山小屋に連れ込み介抱する。
やがて、お禄と旅人は恋仲になった。そして、怪我も癒えて旅を再開した彼の後を追い、お禄は村を出る。
そこで、彼女は旅人の正体を知ることとなる。
旅人の名は信次。まだ若いが、一匹狼の殺し屋であった。その事実を知った時……お禄は愕然となる。
だが、今さら後戻りなど出来なかった。信次とお禄は、ふたりで組んで仕事をするようになる。
数年後、お禄と信次は江戸に来た。そこでふたりは、裏の仕事人として生きるようになる。やがて、お禄の腹に子が宿り、ふたりは裏の世界からの引退を決意する。
そんな時……裏の世界の抗争に巻き込まれ、信次は死亡。お禄は生き残ったものの、流産してしまった。
・・・
「とっつぁん、あんたが仮に足を洗ったとするよ。そこからは、何をして生きていく気だい?」
お禄の問いに、小平次は黙ったままだ。何も答えようとしない。
少しの間を置き、お禄は言葉を続けた。
「あたしたちの手はね、真っ赤な血の色なんだよ。相手の流した血で、真っ赤に染まっちまってる。この手の色だけは、いくら洗っても綺麗にはならねえ……それを教えてくれたのも、あんただよ」
言いながら、小平次を見つめるお禄。その目には、奇妙な光が宿っていた。
小平次は、顔を上げる。
「するってえと、お前は俺の引退に反対だって訳かい?」
「いいや。あたしはとっつぁんが何をしようが、とやかく言う気はないよ。けどね、あんたの引退を良く思わねえ連中もいるだろうさ」
「まあ、いるだろうな」
そう言うと、小平次はまたしても溜息を吐いた。
「俺も年を取ったよ。しかも、時代は変わってきている。巳の会なんてのが出来て、蛇次みてえなのがあちこちに睨みを利かしてやがるんだからな。本当、やりにくい世の中になったもんだよ。もう、俺なんかの出る幕はないんだ」
やりきれない表情で言った後、小平次は歪んだ笑みを浮かべる。
お禄には、小平次の気持ちが理解できた。彼女も、近頃の裏稼業にはやりにくさを感じている。かつては、自由に生きていた。許せない外道は殺す。それで金が貰えるなら、なお結構。そんな心構えで、お禄は裏稼業をやっていたのだ。
それが今では、仕上屋という組織を束ねる身だ。もっとも、仕上屋は他と比べれば居心地はいいし気楽だ。また仕上屋にいるからこそ、自分は裏の世界でやっていけている。
もし、自分が小平次のような一匹狼だったら……今、生きていないかもしれない。
「お禄、お前がどう思おうが、俺は引退させてもらうよ。ただし、最後のお務めを果たしたらな」
「最後のお務め? 何だいそりゃあ?」
「だから、最後のお務めだよ」
そう言うと、小平次は懐に手を突っ込み、何かを取り出した。
「申し訳ないんだがな、こいつを預かってくれねえか?」
言いながら、小平次が差し出してきたものは数枚の小判だった。お禄は、思わず目を細める。
「とっつぁん、どういうことさ?」
「ちょっと待ってくれ。今から、順を追って話すから。世直し小僧ってのを覚えてるかい?」
小平次の問いに、お禄は頷いた。
「世直し小僧? ああ、そんなのいたねえ。金持ちから盗んで、貧しい家にばら蒔いていたって噂の泥棒だろ。確か五年か六年くらい前に、派手に暴れてたよね」
そう、世直し小僧とは……かつて、江戸を騒がせていた盗賊である。悪徳商人の屋敷に忍び込み、蔵を破り千両箱を持ち去るのだ。盗んだ金は、貧乏長屋にばら撒いていたという。
しかも、仕事の度に「世直し小僧! 参上!」と書かれた紙を壁に貼り付けていた。世の中の人々は、世直し小僧の活躍に喝采を送ったものである。
ところが、数年前から噂を聞かなくなってしまった。
「そうさ。その世直し小僧だがな……」
そこで、小平次は言葉を止めた。辺りを見回し、声を潜める。
「俺は、やっと見つけたんだよ。その世直し小僧を、な」




