晴らせぬ恨み、晴らします(一)
その侍は、ひどく苛立っていた。
特にこれといった理由もないのに、なぜかむしゃくしゃする。体の奥が疼き、どうにも堪えられない。
こんな時、普段なら酒を飲むなり売春婦を買うなりして、どうにか気持ちの高ぶりを押さえて寝る。それが、普段の処し方であった。事実、そのやり方も既に試してはみたのだ。
しかし、体の疼きが収まる気配はない。今夜は、いつにも増して異様な血のたぎりを感じる。このままでは、眠れそうにない。己の愛刀が、血を求めて鳴いている……そんな妄想が、頭から離れなかった。このままだと、錯乱しそうである。
やがて、彼は着替えて刀を腰に帯びる。直後、表に飛び出していった──
侍は、提灯を高く掲げた。血走った目で、辺りを見回す。今は丑の刻(午前一時から三時)であり、人気はない。したがって、目当てのものも見つからないかもしれない。
彼自身、そんなことは承知のはずだった。しかし今、体内でうごめいているのは、理性では御しきれぬものだ。これは、もはや病としか言いようがない。何かに取り憑かれたような表情で、侍は夜の街を徘徊していた。
前方を、ひとりの男が歩いているのが見えてきた。坊主頭に、みすぼらしい着物姿だ。体はさほど大きなものではなく、背中を丸めていた。髷は結っていなかったが、そもそも髪の毛はない。綺麗に剃り込まれている坊主頭だ。
そんな坊主は杖を突きながら、ゆっくりと慎重に歩いている。歩き方や顔の向きから察するに、おそらく目が見えないのであろう。
こんな時間まで出歩いているということは、揉み療治か何かを営んでいる盲人であろうか。盲人なら、昼も夜も同じことなのだろう。
まあ、いい。この坊主の事情など知ったことではないのだ。もうじき、人生を終えることになるのだから……。
侍は近づいていき、そっと声をかけた。
「おい、お前」
だが、坊主は歩き続けている。侍は苛立ちながらも、優しく声をかけた。
「おい、そこの坊主。ちょっと止まってもらおうか」
「へっ? あっしに何か御用ですかい」
そう言うと、坊主は立ち止まった。暗がりのせいで、顔はよく見えない。だが声の調子からして、こちらを警戒している雰囲気は感じられなかった。
侍は、残忍な笑みを浮かべる。盲人なら、一太刀で終わるだろう。獲物としては物足りないが、まあ仕方あるまい。
いや、せっかく見つけたのだ。一太刀で終わらせてはもったいない。たっぷり苦しめてから殺そう。
途端に、人を切る感触が蘇った。侍は舌なめずりをしつつ、口を開いた。
「冥土の土産に教えてやろう。俺の名は大場新之助、奥山新陰流の免許皆伝だ。俺の剣であの世に逝けることを、誇りに思うがいい!」
大場は、腰の刀を抜いた。その時、落雷のような音が響く。
直後、彼の胸を何かが貫いていた──
「ぐっ……な、何だと」
胸の一部を抉り取られるような、凄まじい痛みが走る。大場は、痛みを必死でこらえながらも周囲を見回した。
すると、二間ほど(約三・六メートル)の先の道に、奇妙な出で立ちの者が立っていた。頭に編み笠を被り、手拭いで顔を隠している。一応、女の着物を身に付けてはいるが、本当に女かどうかも判断がつかない。手には、黒焦げになった竹の筒のような物を握りしめている。いつの間に現れたのか。
「この……」
大場は痛みをこらえ、刀を振り上げる。怒りに任せ、新たに現れた何者かへと向かって行く。
だが、今度は坊主が動いた。杖だったはずの物が一転、鈍く光る刀身が現れる。
次の瞬間、その刃が一閃──
大場の急所を、正確に切り裂いていた。
何が起きたのか理解できぬまま、大場は倒れた。薄れゆく意識の中で彼が見たものは、自分を殺したふたりの姿である。片方は、めくらの坊主だ。あらぬ方向に顔を向けながら、彼の体を杖でつついている。
もうひとりは、編み笠を被っていた者だ。顔に巻いていた手拭いを取り、こちらを見下ろしている。
その素顔は、大場が今までに見たこともないようなものだった。目つきは鋭く、鼻は曲がっている。唇は歪んでおり、さらに顔全体には、太い線のようなぎざぎざの傷痕が何本も張り付いていた。
ここまで醜い顔を見たのは初めてだ。大場は、こんな状況にもかかわらず顔をしかめる。
「貴様、なんと醜い顔をしているのだ。物の怪か……」
薄れゆく意識の中、大場はそれだけを言い残す。直後、息絶えた。
編み笠を被っている者は、忌々しげな様子で口を開く。
「物の怪だぁ? お前みたいな人斬りの気違いにだけは言われたくないんだよ」
吐き捨てるように言ったその声は、紛れもなく女のものだった。
・・・
その翌朝。
大場の死は、既に大勢の人間の知るところとなっていた。既に見回り同心たちが来ており、死体の見分も始まっている。
「おいおい、こりゃあ何なんだよ……」
見分に来た同心のうちのひとりである渡辺正太郎は、大場の死体を眺めながら顔をしかめる。
「それにしてもよう、こんなところで死なないでくれよな」
渡辺は、死体のそばにしゃがみ込むと、誰にも聞こえぬよう呟いた。
花のお江戸、などと人は言う。だが、ここ剣呑横町だけは、江戸らしからぬ魔窟であった。素性の怪しげな者が多く住み着いており、町方も迂闊に手を出せない。事件があったからと言って下手に首を突っ込むと、非常に面倒なことになる。
本来なら、この界隈で出た死体は、適当な理由を付けて処理するところだ。しかし、死体が二本差しとなるとそうはいかない。見たところ、死体となっているのは身分の高い侍だ。どこの馬の骨とも知らぬ貧乏浪人とは訳が違う。
しかも厄介な事に、刀と鉄砲による殺しなのだ。
「旦那、あっしはこいつを知ってますぜ。ここいらじゃ、有名な阿呆ですよ」
岡っ引きの岩蔵が、いかつい顔をぬっと近づけて来た。
渡辺は思わず目を逸らす。この岩蔵という男は、どうも苦手だ。立場は渡辺の方が上だが、捕らえた罪人の数は岩蔵の方が遥かに多い。
「有名な阿呆? 本当か? いったい何者だ?」
渡辺の立て続けの問いに、岩蔵は馬鹿にしたような表情で答える。
「大場新之助っていう名の、旗本の三男坊でさあ。剣の腕は立つんですが、三度の飯より人斬りが好きだったって噂ですぜ。こいつに斬られたのは、ひとりやふたりじゃ済まないですよ」
「とんでもねえ奴だな」
言いながら、渡辺は顔をしかめた。親が旗本ともなると、非常に厄介なことになる。下手をすると、この剣呑横町を調べなくてはならないかもしれないのだ。
「大丈夫ですよ、旦那。この新之助はね、鼻つまみ者だった。あちこちで、すぐに刀を振り回してた本物の気違いでさあ。親もほとほと手を焼いてましたし。ひょっとしたら、親が金を積んで殺させたのかもしれませんぜ。噂に名高い仕分人とやらにね」
言いながら、岩蔵は愉快そうに笑う。名は体を表すという言葉があるが、岩蔵は正にその言葉通りだ。岩のような頑健な体つきと、それに劣らぬいかつい面構えをしている。事実、悪党の間からは「鬼の岩蔵」の二つ名で恐れられているのだ。「昼行灯」などと呼ばれている自分とは大違いである。
まあ、そんなことはどうでもいい。とりあえず、形通りの仕事だけはしなくてはならない。渡辺は死体を調べながら、無駄口を叩く。
「ところで岩蔵、その仕分人とやらだがな、本当にいると思うか?」
「どうでしょうね。ただ、他にもいろんな連中の噂を聞きますよ。仕分人とか、仕業人とか、仕置人とかね」
「なんだ、そりゃあ。随分といい加減な噂だなあ。本当に、そんな奴らがいるのか?」
「どうでしょうねえ。まあ、あっしは似たような奴がいると踏んでますがね」