人違いシンデレラ
ある日、我がリオハ男爵家に突然ペネデス公爵家のご子息ジン・ペネデス様が来訪された。事前の連絡が全く無かったため両親が不在で私が対応することとなった。形式的な挨拶を済ませた後、ペネデス様の向かいの席へと腰掛ける。
「単刀直入に申し上げます。どうか私と結婚していただけませんか?」
座った途端に発せられたこの言葉。
ははーん、と私は表情を変えずに突然の来訪の理由を察した。と言うのも彼についての前情報は夜会や茶会に出ていれば嫌と言うほど耳に入ってくるのである。
彼は当代きっての美男子とご婦人方の間で名高く、だからと言って遊び人というわけでも無い。どちらかと言えば必要以上の接触を避けるような真面目で紳士的な男性と言えるだろう。僻んだ男性からは生真面目と揶揄されることもあるらしい。それでもそんなところが素敵だと言ってと近づく女性が後を絶たないのだからお気の毒である。そうでなくともペネデス公爵家は実務と魔法に関して名望が高い。機会があればすり寄りたい人間は数多と居ることだろう。
そんな男性がいきなり求婚してきたのである。何か裏があるのではと考えるのは失礼にはならないだろう。恐らくは今まで彼に関わったことが無く、関わろうともせず、結婚の申し込みを断れない程度に家格が下の男爵家の私に虫除けになれということだと思う。
「理由をお尋ねしても?」
察しはついていても定型文として理由は聞かねばなるまい。私の考えはあくまで推測でしかないのだから。
それにペネデス公爵家であれば関わったことが無く家格が下の家の娘なんて幾らでも居るだろうに、そんな中で我が家を選んだ理由がそれなりに気になる。大方幾らでも居る令嬢の中からたまたま最初に訪れた家が我が家だったというオチだろうけど。
そんなことを考えながら紅茶を一口。公爵家の人間に出すのに相応しい、我が家で一番上等な茶葉である。
「覚えていませんか?」
ペネデス様にそう言われて私は紅茶から彼へと視線を動かした。見ればペネデス様はどこかそわそわとしていて期待をにじませた表情は落ち着きが無いように見える。
そして私は首を傾げた。
覚えていないかと尋ねてくると言うことは私と彼は何らかの接点があって、彼はたまたま私に求婚してきたのではなく、相手が私だから求婚してきたということなのだろう。公爵家の子息と接点に成り得る出来事。全く記憶に無い。肯定的なものであっても否定的なものであっても相手が公爵家なら、まして彼のような記憶に残りやすそうな相手であれば覚えていそうなものだが。
「申し訳ございません、記憶に無いのですが…」
そう答えると彼は落胆することも無く、まして怒ることも無く。むしろどこか安心したように私の知らない私との出会いを語り始めた。
「三か月ほど前のことになります」
* * * * *
その日の夜会、ペネデス様は自分に媚を売ろうとやって来る有象無象に嫌気がさして折を見て庭園へと抜け出したそうだ。そして夜の庭園のベンチに座り深く溜息を吐き出すと、どうされました、と近くから女性の声がした。
大方先程近寄ってきたうちの誰かだろうと思い、折角逃げてきて少し落ち着いた気持ちがどん底に叩き落されたような心地がしたそうだ。多少酒が入っていたこともあってペネデス様は当てつけるようにその女性に今まで内に秘めていた不満をぶつけてしまった。
顔も知らないような人間が何故親し気に話しかけてくる。顔や家柄しか見ていない。自分の努力も知らないで流石ペネデスなんて言ってくる。出来て当然だと言われる。出来なければ必要以上に落胆される。かと言って出来る努力もしないような連中に褒められても腹が立つだけだ。期待しないで欲しい。勝手に幻滅しないで欲しい。自分は所詮この程度の人間なのだ。他人からすれば羨むような家柄だったとしても自分はそんなものは望んでいない。こんなしがらみだらけの貴族になど生まれたくなかった。羨んでいるような連中に全て押し付けて逃げ出してしまいたい。
全てを吐き出した後になって急に肝が冷えるような心地がした。どこの誰とも知れない相手にこんなことを。それこそどこの誰に言いふらされるか分かったものではない。
慌てて弁明しようと口を開いたところでそれまでじっと聞いていた彼女が口を開いた。
「あなたは優しい人です。ずっとそれを人にぶつけないように溜め込んでいたんですね」
え、という声は音にならなかった。叱責や半端な激励が返ってくると思っていた彼にとってその返答は全くの予想外だった。静寂の中、夜会から流れる音楽だけが遠くから微かに聞こえていた。
「暗闇で顔が見えなくても、どこの誰かも分からなくても、あなたが人を思いやることが出来る素敵な人だと言うことは分かります。きっと容姿や家柄なんかに囚われずにあなた自身を見て慕う人がたくさん居ますよ」
目が覚めるような感覚だった。そう言った彼女こそが、自分の容姿も家柄も気にせずに、求めていた言葉をくれたのだ。空虚だった心の中が温かな感情で満たされていく。それはペネデス様にとって初めての感覚だったそうだ。
叶うならば、この女性の特別な人間になりたい。
そう思って女性に名前を聞こうと立ち上がって声のしていた場所に近づいてみたのだが、そこにはもうすでに人影は無くなっていた。再び静寂を取り戻した庭園には相変わらず夜会の喧騒がわずかに聞こえるだけだった。
* * * * *
「その時の女性があなたです」
語り終わった直後の予想外の言葉に、ふぁ?!と貴族令嬢にあるまじき間抜けな声が出る。紅茶を口に含んでいたら間違いなく口から噴き出していただろうし、それと比べれば控えめな奇声くらい可愛いものである。許して欲しい。思いがけず初対面の男性の、雲の上のような相手の、心の闇と言って差し支えないような内容を聞かされたのだ。それだけも割とお腹いっぱいである。
それはそうと。
「申し訳ございません、記憶に無いのですが…」
「ええ、そうでしょう。きっとあなたからすれば記憶に残りすらしない些事でしょうから。構いません、それでも私は間違いなくあなたの言葉に救われたのです」
救った覚えが全く無い。
ペネデス様は私の言葉を都合良くポジティブに捉えていらっしゃるがこれは私が覚えていないのではない。本気で全く微塵も記憶に無いのである。私は嗜み程度に夜会に出席してはいるから該当の夜会に出席していたかもしれないが、他人の邸宅の夜の庭を散歩したことなど一回も無い。よって会場から逃げ出したペネデス様と遭遇するはずがない。
つまり、ペネデス様は絶対に人違いをしている。
「失礼ながら、人違いではないかと…」
「そんなはずありません!私があなたの声を聞き間違えるはずがない!!」
声。え、まさかそんな曖昧な情報だけでここまで来たのだろうか。確かにペネデス様は相手の顔を見ていないのだろうけど、だからって声を頼りに探したのだろうか。行動力が凄い。
不意にペネデス様が掌を上にして手を出した。するとそこにコンパスの針のようなものが現れ、針の先端が私を指し示す。
「私は人や物を探し当てる魔法を得意としています。捜索には勿論、探す際に条件を絞ることで対象を特定することも可能です」
魔法。王族に連なる者たちだけが扱える特殊能力。ペネデス公爵家は魔法の扱いに長けていると評判な上、公爵夫人は国王陛下の実妹だからその息子ジン・ペネデス様が魔法を扱えても不思議はない。
「私の魔法ではあの夜会に出席した貴族令嬢の中で同じような声の持ち主はあなたしか居ませんでした。そして今日、こうして直接声を聞いて確信しました。あなたこそ私の探していた女性だと!」
不思議はないはずなのだが真偽のほどを審議したい。その魔法、失敗しておいででは?
「そう言われましても本当に覚えが無いのです」
「構いません。代わりに私が覚えています」
構ってください。それは代わりにならないのです。
「カシス・リオハ様。急な来訪に重ねて突然このようなことを言い出す無礼をお許しください」
無礼も何もあなたの方が身分が上ですなどと思っている間にペネデス様は席を立ち、私の傍らで膝を折る。そして止めるよりも先に私の手を取って真っ直ぐと私の目を見据えた。
「どうか、私の生涯の伴侶となっていただけませんか?」
流石は当代きっての美男子。こんな気障な行動ですら一服の絵画のようである。
それはそうと。
ペネデス公爵家は公爵家の中でも最も王族に近いとまで評される貴い一族だ。結婚相手としてはこれ以上ないほどの良縁である。本来ならば私のような男爵家の娘が選ばれて良い相手ではない、当然周囲からの反感はあることだろう。だが同時に、そんなペネデス家から出された結婚の申し出を理由も無く断れるような立場ではないのである。私的にはペネデス様の探し人ではないという完全無欠な理由があるのだが、魔法まで駆使してここに来た彼がこの理由で納得するとは思えない。あとで別人だと分かった途端に公爵家を騙した罪人扱いされたりしないだろうか。考えただけで胃と心臓に悪い。
私を見上げてくるペネデス様の目が期待と不安に揺れている。すごく断り難い。
取りあえずこの場は曖昧な返事をして帰ってもらい、親が帰ってきたら無難に断る理由を一緒に考えて貰おう。
「ま、前向きに検討させて頂きたく…」
お茶を濁すために言ったこの言葉。
都合良くポジティブに捉えるペネデス様によって、この返事で何故か婚約が成立することになった。
* * * * *
とは言え、こんな当人同士の口約束で結婚が簡単に決まるほど貴族社会は優しくない。結婚相手は当主が決めるのが一般的であり恋愛結婚など極々一部の変わり者のすることだと思われている。ちなみに我が家の父上は大喜びであった。大賛成である。そりゃそうだ、普通ならあり得ないレベルの良縁なのだから。
しかし、相手方はそうは行くまい。何故なら相手は公爵家の中でも王家に最も近いと言われる家、それに対する我が家は男爵家においても中の下程度の家柄。こちらからしてあり得ないレベルの良縁であるのなら向こう側からしてあり得ないレベルの悪縁である。ジン・ペネデス様が如何に私との結婚を望んだところでペネデス公爵が、何なら公爵家全体が反対するに決まっている。結婚とは恋愛ではない、家同士の繋がりなのだ。公爵家に反対されてしまえば男爵家の私が異論を唱えることなど出来るわけも無く、つまり私自身がわざわざ波風立てて反対する必要などどこにも無いのだ。
婚約から一週間後、公爵家からの招待を受けた私はそんなことを考えながら意気揚々と公爵家へと赴いた。
まさかの大歓迎である。
遡ること一か月ほど前、王太子殿下が平民の女性と結婚すると大々的に発表したのだ。跡継ぎが王太子殿下一人しか居ないと言うのに彼女と結婚するためならば平民に下ることも辞さないと言ったとか言わなかったとか。言っていたら十分脅しである。国王陛下が可哀そう。
そのせいで極々一部の変わり者がするレベルだった恋愛結婚が貴族の間で大流行。平民との身分違いの恋に身を燃やし反対された末の駆け落ちも少なくない数が発生しており、年頃の子息令嬢を持つ親は自分の子供が伴侶として平民を連れてきたらどうしようと戦々恐々としているらしい。ましてペネデス公爵夫人からすれば事の発端が自分の甥がやらかした話になるので気が気でなかったことだろう。
そんなところに家格は遥かに劣るとはいえ血筋がしっかりしていて教養もある程度身についている私がやって来たのだ。
公爵夫人から泣いて喜ばれた。
持参金は要らないから、なんならこちらから金を出すから早く嫁いできてくれと懇願された。逃がしてなるものかという執念を感じた。必死過ぎる。正直少し怖かった。
「母と打ち解けたようで何よりです」
二人きりになったタイミングでジン・ペネデス様がこう言った。
果たしてあれを打ち解けたと表現して良いものか、単純に時期が味方しただけのような気もするのだが。味方と言うよりは敵なのかもしれないが。
「以前父が薦めてきた婚約者は母との折り合いが悪く破談になりましたから」
すみません、私はそれを期待して今日の招待を受けました。きっと公爵夫人の必死ぶりはきっとその縁談を破談にしてしまった後悔もあるのだろう。あの時に破談していなければ息子が甥のように平民を連れてくるのではという恐怖を味わうことも無かったのだろうし。
「幼いころからの婚約者は母からの教育に耐えられなくて逃げ出してしまいました。二件も破談にしてしまったので母も流石に控えると思いますから、安心してください」
公爵夫人怖いな。と言うか、そうか。ジン・ペネデス様ほどの方に婚約者が居なかったのはそういうことか。
「ペネデス様」
「ここはペネデス家で、あなたも近いうちにその一員になります。名前で呼んでください」
多分一員になることは無いと思うのだが、公爵家の人間に逆らう勇気など私にあるはずも無い。
「ジン様、図々しいのは承知しておりますがお願いがあります」
「…お聞きしましょう」
私の真剣な態度にジン様は姿勢を正して向き直った。家格が下でも、女性であっても、彼の誠実な態度は変わることが無い。良い人だと思う。ジン様の尋ね人の言っていたように、外見や家柄だけで判断するのが勿体ないくらい優しく素敵な男性だと思う。だからこそ言っておかなくてはならない。
「もしあなたの探している女性が私でなかった時は、迷わずに婚約を解消していただきたいのです」
私の言葉にジン様は虚を突かれた様子だった。そうだろう、彼からすれば探している女性は私以外に居ないことになっているのだから。この発言は彼の魔法の腕を疑うような不敬な発言で、処罰されてもおかしくない。それでも処罰を受けることの方が彼を騙していくよりよほど良いと思えた。
「もし婚姻を結んだ後だったとしてもお望みであれば離縁いたしますし、世間体が気になるようでしたら相手の方を愛妾という形で囲っていただいても私は…っ!」
突然抱きしめてきたジン様によって言葉の続きはかき消されてしまった。
「どうか、そのようなことを言わないでください」
ジン様の声が震えていた。顔は見えないけれども今にも泣きだしそうな声だった。
力加減が上手く出来ていないのか抱きしめる腕に苦しいほど力が入っている。
「私にとってあの出来事はただの切っ掛けにすぎません。あなたが覚えていない記憶を頼りに結婚を迫るような男を信用出来ないのかもしれませんが、私は心からあなたを愛しているのです」
ときめきとは違う感覚で胸が苦しくなった。きっとこの台詞を聞くべき相手は私ではないのだろう。申し訳なさと寂しさと、あとは何だろう。何でも良いか。どうせ一時の夢でしかないのだから。
「私もですよ。だからこそあなたの幸せを願わずにいられないのです」
叶うならば、ジン様が想い人と結ばれる未来であって欲しい。
たとえそこに私が居なくとも。
* * * * *
残念ながらその願いは叶わなかった。
婚約が解消されないまま公爵家との交流を続けていたある日のことである。
王太子殿下の婚約が正式に決まり、そのパーティーにペネデス公爵家の婚約者である私もジン様のパートナーとして出席することになった。私たちの婚約が驚きの速さで決まったのに対して殿下の婚約はなかなか難航したようで、それでもこうして勝利をもぎ取ったのだから殿下はなかなか頑固者のようだ。
ジン様にその辺りを尋ねてみると彼は困ったように笑う。
「一般的な関係としては従兄弟に当たるのですが、家の方針で関わることはあまり無いので実は分からないのです。殿下の婚約者の顔を見るのも今日が初めてで…」
王家に最も近い公爵家だからこそ王家との距離には細心の注意を払っているそうだ。互いに高い身分を持っていると親しくなりすぎた故の問題なんて沢山あるのだろう。
「あちらも私個人に挨拶してくることは無いと思いますよ」
「良かったです、それを聞いて安心しました」
マナーは一通り身に着けているが王家の前に出ても恥ずかしくないレベルではないのだ。公爵家の方々は婚約に至った事情が事情なだけに大分多めに見てくれている節があるようだし、王太子殿下の前に出なくて良いというのは有難い。
王太子殿下とパートナーが会場に入り場内の視線が一斉に二人に注がれる。平民だったというその女性は着慣れないドレスと慣れないマナーにその動きはぎこちないが、殿下の隣を歩くその姿はとても幸せそうだった。なるほど、駆け落ちする人間が増えるわけだ。あの幸せそうな二人を見ていると恋愛結婚とはそんなにも素晴らしいものなのかと皆が皆思ってしまうことだろう。
まず王太子殿下の挨拶が始まり、そのあと促されるようにして婚約者の女性が前に出て挨拶をする。
その声が耳に届いた瞬間、息を飲んだ。
彼女の声は、私の声とそっくりだったのだ。
他人が発する声と自分自身で聞こえている声は違うというけれど、その程度の誤差しか感じないような、そんな声だった。そのことが衝撃的過ぎて彼女の話す内容が一切頭に入ってこない。それどころか周囲の雑音すらも聞こえない。自分の心臓の音と内容が聞き取れない彼女の声だけが聞こえていた。
ゆっくりと、ゆっくりと隣に居るジン様を見る。恐怖で動かない首を無理やり動かして。見たくないという気持ちを抑えつけて。
そして絶望に染まった表情のジン様を見て確信してしまった。
彼女こそがジン様の想い人なのだ。
* * * * *
終わってしまえば呆気ない話である。
そして可哀そうな話である、私ではなくジン様が。
想い人を探したのに見つけた相手は人違いで、ようやく本人を見付けたは良いがその瞬間に失恋が確定してしまったのだ。あの日の夜会に彼女を連れて来たのが王太子殿下だったとすればジン様が彼女と出会ったときに既に二人は親密な関係だったと予想できる。最初から負け戦だ。幾らジン様が絶世の美男子であっても数々の障害を乗り越えたあの二人の間に入り込む隙間など無いだろう。
多分ジン様の魔法は失敗していなかった。なのに人違いを起こした原因はジン様の設定した条件のせいだ。あの夜会に出席した貴族令嬢の中で同じような声の持ち主。王太子殿下とまだ結婚していない彼女は身分的にはまだ平民だ。条件から洩れてしまったのだろう。そして彼女と似た声の私が条件に当てはまってしまった。
これからどうなるのだろう。
いや、どうなるなんて考えるまでも無い。婚約を解消されるに決まっている。真面目な彼はきっとあちらが駄目だったからこちらに乗り換えるというような不誠実な行為を嫌う。私を都合の良い虫除けにすることを嫌う。別人であった私を自分の都合で縛り付けておくような行為を嫌う。
そんなジン様が私は好きだ。
きっと彼女を想ったままでも代わりでも良いから結婚してと言えば彼は結婚してくれるだろう。虫除けでもお飾りの妻でも構わないから側において欲しいと縋り付けば彼は側に置いてくれるだろう。婚約の話をここまで進めておいて解消するだなんてあんまりだと泣き付けば彼は思いとどまってくれるだろう。
そんなことを考える自分が大嫌いだ。
会った瞬間から失恋が確定していたのにどうして好きになってしまったのだろう。
会わなければ良かった。
会いたくない。
会えばきっと婚約を解消されてしまう。
そんなことを考えている間に二週間。婚約してからこんなに公爵家に顔を出さなかったのは初めてである。公爵夫人から理由を尋ねる手紙が届いたので体調を崩していると返事をしておいた。夫人が尋ねてくると言うことはジン様はまだ婚約解消のことを言っていないらしい。だけどそれも時間の問題か。だってこうして彼が訪ねて来ないのが何よりの証拠である。
この想いを捨てることは出来なくても、覚悟だけは決めておかなくては。泣いて縋って困らせてしまったりしないように。
* * * * *
公爵夫人に返事を出してから二日後、何故かジン様が来訪された。公爵夫人宛ての手紙だったはずなのだが。しかもタイミングが悪く再び両親が不在で私が対応する羽目になる。
「……」
「……」
向かい合わせに座り、気まずい沈黙が流れる。沈痛な面持ちのジン様を見れば来訪の理由は察しが付いた。ジン様は婚約を解消に来たのだ。
「…母から、体調を崩していると聞きました」
公爵夫人がジン様に情報を流したのか。夫人からすればジン様と私は将来的に夫婦になると思っているのだからジン様に聞かれれば簡単に答えてしまうだろうし、見舞い目的であればたとえ親が居たとしても私のもとに通してしまっていたことだろう。つまりこうして家に引きこもっていたことは全くの無駄だったのだ。
「ご心配をお掛けして申し訳ありません、この通り大丈夫ですので」
だから帰って下さいなどと言えるはずも無く。
「………」
「………」
室内に再び沈黙がやって来た。
こうしてジン様を前にして出来ていたつもりの覚悟が全く出来ていなかったのだと思い知らされる。このまま彼の優しさに甘えていてはダメだ。私にとっても、勿論彼にとってもいい結果を生まない。
「ジン様、婚約の件ですが…」
「婚約解消はしません」
私から話を切り出すと言い終わる前にジン様が言葉をかぶせてくる。それに少し驚きながらもすぐに反論するために口を開く。
「ですが、」
私の言葉を遮るようにジン様が前に手を突き出してきた。そしてその掌にはジン様の魔法であるコンパスの針が私を指し示す。ジン様の行動の理由が分からずにその針とジン様の顔を交互に見る。ジン様は掌の自分の魔法を見てからその手を戻した。
「…あの?」
「今の魔法に設定した条件は、私が最も愛している女性です」
え、と声が漏れる。だってそんなのはおかしい。針は間違いなく私を指していた。ジン様が好きなのは彼を孤独から救ってくれた彼女なのではないのか。
「私にとって夜会での出来事は確かに救いであり、あなたに会う切っ掛けでありました。けれども切っ掛けが無くなった程度で消えてしまう想いだと思われてしまうのは心外です」
思っていました、ごめんなさい。
「殿下のパーティーで彼女の声を聞いた時に真っ先に頭を過ったのはあなたとの約束です。探している女性があなたでなかった時には婚約を解消すると。この二週間、それを恐れて会いに来ることも出来なかった不甲斐ない自分をお許しください」
ジン様は席を立ち、私の傍らで膝を折る。そして止めるよりも先に私の手を取って真っ直ぐと私の目を見据えた。それはまるで最初に出会ったときのようで思わず息を飲む。
「殿下の婚約者である彼女に未練はありません。ですがあなたを諦めることはどうしても出来ないのです。どうか、私の生涯の伴侶となっていただけませんか?」
最初に出会った時と違うのは私と彼の関係性。そして今度は人違いではなく、間違いなく私に会いに来てくれたと言うことだ。
真っ直ぐ見てくる彼の目を見つめ返し、その手を少しだけ握り返す。
「ジン様」
「はい」
「私はあの平民の彼女のように強くありません」
「ならば私があなたを守ります」
「障害があったら諦めてしまうかもしれません」
「あっても取り除いてみせましょう」
「反対されればしり込みしてしまうかもしれません」
「我が家に反対する人間はおりません」
「家格にも差があります」
「王家と平民の差に比べれば些細なものです」
「あと私は結構計算高いです」
「今後はそんな一面も見せてください」
「こんな私でも好きになってくれますか?」
「勿論です、そんなあなただから私は好きになりました」
一つ一つ真面目に返してくるジン様に思わず笑ってしまい、それにつられたのかジン様も頬を緩める。結局この二週間と出来損ないの覚悟は全くの無駄だったようだ。まったくもって遠回りをしてしまった。
「カシス・リオハ様、単刀直入に申し上げます。どうか私と結婚していただけませんか?」
「はい、喜んで」
ジン様の申し出に、私は笑顔で快諾した。