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The Kingdom  作者: 春野隠者
ゴード暦528年 魔女の系譜6章
94/103

復讐するは我にあり1

一応この章で、TheKingdomひとつの区切りとなる予定です。


 ゴード暦528年、初夏。

 シュセ・ノイスターの西域討伐は成功のうちに幕を閉じた。

 王都ロクサーヌは東都ガドリア、南都ジェノヴァにその武力を見せ付ける形になる。

 戦乙女シュセの名は、ロアヌキアだけでなく隣国ポーレまでも鳴り響いた。少年王の決断の正しさが広く知れ渡ることになる。同時に討伐後の西域の統治に、今までカルのことを侮っていた、特に南都の貴族たちは、顔を青ざめた。

 シュセから降伏した貴族たちの詳細を聞くと、カルはその全員に査察を実施した。そのやり方も巧妙で、最初は特に悪政を噂される者から、徐々にその範囲を広げていった。

 過去五年で、不正に蓄えた財産の没収。

 抵抗すれば即座に処分の対象とするその苛烈な処分に、権力の上で胡坐をかくことに慣れた貴族たちは背筋を凍らせた。

 結果ほとんどの貴族たちが、カルの査察の対象となり没落することになる。100年の昔、戦乱を嫌って半ば独立していた西都は、このとき完全に少年王の手中に収まったといっていい。

 だがカルは民に対しては、寛大な態度を見せる。

 税の軽減と王都の財力を使ってのインフラの整備だ。不正の摘発と働く場所を与えてくれる新しい君主に、西域の民は喝采を送る。

 その喝采の中、西方候主の地位にシュセ・ノイスターは上ることになる。彼女が故郷を追われて十余年目の凱旋だった。

 そして西域討伐の成功は、カルの座を狙うオウカと、それを狙うサギリら東都の一派にも影響を及ぼさずにはいられなかった。





 クルドバーツの所有する宿の一室で、エレガは握り締めた拳でルカンドを殴りつけた。

「だめですよ、エレガお姉さま!」

「クシュレアが死んだ。ナルニアもだ! ルカンド、ええ? わかっててお前……! すまないの一言で許されるはずないだろう!」

 クシュレアとナルニア亡き後、エレガとカーナはそのことを伝えにロクサーヌにきていた。

 案内された部屋には、サギリ、ジン、そしてルカンドの姿。

 彼女らが伝えたことに、ルカンドは一言だけ返す。

 彼としては他に言うべき言葉を持たなかった。

 そしてエレガは激昂する。

「君たちの身は、雪華から買い取ってある。この後は自由にしていい。これが証明書だ」

 奴隷の所有を認める証書を、彼女らを縛っていた鎖の書類を、ルカンドは差し出す。

 淡々としたその言葉に、エレガはなおも怒りが収まらない。

 魔女の冷たい視線も、狼の興味なさげな視線も、エレガにはすべてが気に入らなかった。

「こんな、こんなものがなんだ!」

 差し出された書類を手で振り払う。

 さらに拳をぶり上げるエレガの首筋に、いつの間にか鈍く光る小太刀の刃が突きつけられていた。このま少しでも小太刀を引けば、彼女の首は胴体を別れを告げることになる。

 それがわかっていてもなお、彼女の怒りは収まらなかった。小太刀を突きつけている狼に向かって、憎悪の篭った視線で睨み返す。

「ジンさんっ!?」

 あせったのはルカンドだった。ジンの瞳は明らかにエレガを殺すつもりで、サギリの言葉をまっている。サギリが一言やれと言えば、ジンは躊躇なく殺すだろう。

「サギリさん、止めてください!」

 殴られた頬がはれ上がったまま、ルカンドは後ろで事態の成り行きを眺めているサギリに懇願する。

「……うちのかわいい手下に手ェだすンだから、覚悟はできてるンだろうね? 雪華の下っ端」

 睨み据えるサギリの視線は、温度すら感じさせない絶対零度の冷たさがある。

 背筋に氷塊を突っ込まれたようにあわ立つ肌。一瞬に飲まれた気を、エレガは奮い立たせた。

「殺したきゃ、殺せばいいだろう!?」

 握った拳にさらに力をこめると、視線だけでサギリを殺そうと睨み付ける。

 憎悪に燃えるエレガの視線と、冷え切ったサギリの視線が空中で火花を散らしているようだった。

 だがそれも長くは続かない。サギリの口元が弦月にゆがむと、視線はエレガからカーナに移っていく。

「そうさね……けど、お前は自分が死ぬより、他人が死ぬのが苦痛な類のやつだろう?」

 向けられた視線の先にカーナがいることにエレガは愕然としてサギリを見る。

「このっ卑怯者!」

「さぁて、どうするかね」

 悪魔の微笑が、エレガを打ちのめす。

「くっ……」

 握られた拳が力なく垂れ下がるのを確認すると、サギリはジンに命じる。

「サギリさん! 彼女の怒りは正しい。彼女の怒りは僕が受け止めるべきものです! だからっ……」

 ルカンドの言葉をさえぎるようにサギリは言い放つ。

「アタシはさっき何ていった? 双頭の蛇(うち)のもンに手を出すなら、容赦はしない。そういわなかったかい? その怒りが正しかろうが、間違っていようが関係ないンだよ」

 うつむくエレガを睨んだままのサギリは、ルカンドを振り向きもしない。

 ルカンドは一度俯くエレガを見やって、サギリに向き直る。

「サギリさん、お願いします。彼女を助けてください」

 面白がるようなサギリの視線が、ルカンドとエレガを交互に見る。

「ふン、落とし前はしっかりつけてもらおうか」

「わかっています」

 強くうなずくとルカンドは、エレガに向き直る。

「今後一切、ガドリアに近づくことを禁じます」

 歯を食いしばるエレガに背を向け、ルカンドはサギリを直視する。

「これでいいですよね?」

「甘いことだねえ……ジン、やめときな」

「どっちが、甘いんだか」

 誰にも聞こえないように呟いたジンの言葉が消えないうちに、彼は小太刀をしまう。

 小太刀が引かれると同時に、エレガはその場に泣き崩れる。それを支えるカーナに、幾ばくかの金を渡し、ルカンドは彼女らを下がらせた。

 三人だけになると、ルカンドが口火を切る。

「彼女たちの働きのおかげで、西都の方は概ね成功したと言って良いと思います」

「アンタの策が図に当たったわけだ。こっちは王様と繋ぎもつけたし……そろそろ動くかね」

「オウカ・ジェルノの暗殺ですか? 正直あまり必要ないのではないかと思います」

 オウカ・ジェルノ……ロクサーヌに巣食う魑魅魍魎の総元締め。カルの王道の足を引っ張ってくれる東都にとっては、毒にも薬にもなる存在だった。

 それを排除してしまうのは、ルカンドにとって性急すぎるような気がするのだ。

「いや、アレには消えてもらう」

 断固としたサギリの言葉に、ルカンドは頷いた。

「そうすると、王都に貸しを作ることが難しくなりますね……」

「ルカ。百聞は一見にしかずってェ言葉を知ってるかい?」

「え、ええ。それがなにか?」

 きょとんとしたルカンドに、サギリは苦笑を張り付かせて答えを教える。

「一度お前も、あの王様に会ってみるといい。そして目ン玉の中をよぉく覗いて見な。ありゃぁ、結構な悪党だよ?」

 愉しげに笑うサギリに、ジンとルカンドは顔を見合わせる。

「しばらくはあの王様に付き合ってみようじゃないか。国獲りはその後でも良いさ。その為にも、オウカ・ジェルノには消えてもらう」

「わかりました。クルドバーツさんには、しばらく引き続き“根回し”を続けるようにお願いしておきます」

「ああ、東都にはしばらく動かずにいるように伝えておくれ。オウカの首はアタシ一人で充分だからね」

 わずかに眉をしかめるジンに、サギリは視線を向けた。

「アンタはしばらくあのお嬢ちゃんと仲良くしておきな」

「なんで、俺が」

 露骨に顔をしかめるジンに、サギリは苦笑した。

「キレーヌの苗木はどの程度揃ってるンだい?」

「数は300ほど、初回ですので大口の取引には中々食い込めないようですね……でもなぜ?」

「ふふん……なぁ、ルカ。もしガドリアが王都や西都、南都みたいに豊穣の女神(ビューノス)の加護があるような土地なら、どう思う?」

「すばらしいことだと思います。でもそれは……」

「そう。アタシらがどうあがいたって、なるようにしかならない」

 自然の暴威に、人はあまりにも無力だった。

「だけどね。人の一生が短かくできてるように、アンタの子孫や子供の代になったら、あるいは自然の暴威をねじ伏せられるだけの術が見つかるかもしれない」

 小さな変化を積み重ねて、少しずつ手を加えていく。

「ガドリアに豊穣の女神(ビューノス)の息吹を」

 ぼんやりと呟いたルカンドの脳裏に浮かぶのは、誰も飢えない故郷の姿だった。

「人の上に立つなら、夢を見させるンだ」

 ニヤリと笑うサギリ。胸のうちを駆け上がる衝動に、ルカンドはしっかりと頷いた。






 シュセ・ノイスター帰還に伴って、オウカ・ジェルノが担っていた衛士の長の役目は彼女に戻されることとなった。

 彼女の名声は今や王都ロクサーヌでは並ぶもののないものとなっている。それと争おうなどとオウカのような慎重な男がするはずもなかった。

 荘厳なる帰還を祝う祭典の後、シュセは自身の執務室に戻り、やっと一息ついていた。

「シュセ様っ!」

「お姫さん!」

 どたどたと、乱暴に扉を開けたのは彼女が留守居の間、近衛を預かっていたクラウゼとユイルイの二人。

「ご無事の帰還なによりです!」

「無事に帰ったってなー!?」

 扉を開け放つなり、声を張り上げる。

「え、ええ。貴方たちもお変わりなく……」

 騒々しい彼らに、ため息を吐きつつ積みあがった書類に目を転じる。

「で、これはいったいどういうことでしょう?」

「いや……それが」

 しどろもどろに言い訳をするユイルイに、クラウゼは罰が悪そうに頭をかく。

「面目ねぇ。オウカのじじいに言い様にされちまって……」

 クラウゼの身も蓋もない言い方に、更なるため息が積み重なった。

「まぁ、仕方ないでしょう。片付けてしまいますので、手伝ってくださいますね?」

「もちろん!」

「喜んで」

「ああ、それと。これからしばらくわたくしも休暇をもらうことになりそうです。簡単に仕事を説明しますので、しっかりと励んでくださいね」

「……はい」

 引きつった返事が、二人の口からもれた。

「シュセ様、お客人です」

「どなたです?」

「ジン、と申される若い男の方ですが……」

「ジンさんが? わかりました。わたくしの方から伺いますので、私室へ。くれぐれも粗相のないようにお願いします」

 そそくさと立ち上がると、ユイルイとクラウゼに一言告げて外へ出て行く。

「どう、思う?」

「なにが?」

「その……ジンってやつだ。もしかしてお姫さんに悪い虫がついているんじゃねえか?」

 声を潜めたクラウゼに、ユイルイが思案顔で頷く。

「シュセ様は世間知らずなところがあるからな」

「お前が言うな。それよりも、大事になってからじゃ遅い」

「どうする?」

「とりあえず、そいつを見てみないことにはわからん。そんで、悪い虫なら……」

「やるか」

 二人頷くクラウゼとユイルイは、そっと仕事場を抜け出した。






 オウカ・ジェルノはいらだっていた。むろん、表には出さずにだが。

「あの小僧、いい気になりおって……」

 先日、御前会議で諮られた法案。西域の処分に関する法律は、オウカにすれば都合の悪いものだった。

そればかりではない。はじめは法律論争などで優位に立っていたはずのオウカであったが、日に日にカルの推官達の意見は鋭さを増していく。

 率いるカルの有能さもあるのだろうが、それにもまして次第にカルを中心とした流れのようなものができ始めている。今まではオウカの顔色をうかがい、積極的に発言すらしなかった者達が、次第に声をだすようになっている。

 そのことがオウカには気に入らなかった。

 王の下にまとまる勢力は、いまだに増え続けている。日和見を決め込んでいた中小の貴族達の何割かはすでに少年王の傘下にあり、その数はいまだに増え続けている。

「このままでは済まさぬ」

 ロアヌキア開闢以来の名門、ジェルノ家の邸宅にてオウカは一人最高級の葡萄酒をなめていた。

「翁、知らせだ」

 姿を見せたのは異国の戦士。

 多額の金とそして闘争の場と引き換えに、彼の護衛を引き受けた遥か北方の異人。

「む……」

 書簡に視線を落とすオウカ。その口元が残酷な笑みの形をとってゆがむ。

「アズ、よき知らせじゃ。お前の大好きな闘争の時刻じゃ」

「相手は強いんだろうな」

「強かろう。何せ東都を奪い取るほどの力の持ち主なのじゃから」

 目を細めたアズの口元は、にんまりを笑みの形をとった。

「期待させてもらおう」

 立ち去るアズを、見送ってオウカは今一度書簡に目を落とす。

「東都の魔女、サギリ……まさか、な」

 書き記された特徴は、脳裏で像を結ぶ一人の女の姿。

 それはすでに死者の列に加わる者のことだった。




 ◆




 クルドバーツは、王都ロクサーヌに展開する店を着実に増やしていった。

 最初は武器の店から始まり、雑貨店、あるいは洋服なども扱う。その裏には、東都から品上げされる確かな武器と、着実な彼の手腕があった。

 ディード亡き後ガドリアからロクサーヌへ続く交易路の拡大は、物品の流通を生み、確実な富となって彼の元に戻ってきていた。

 かつて血を流さねば通れぬか細き道に、将来の機運をかけた商人たちの組合“赤き道”。今や、王都でもっとも勢いのある商会といっても過言ではなかった。

「雪華のお二人を、ですか?」

 その記念すべき総本舗。クルドバーツの武器屋の2階で、クルドバーツはルカンドから相談を受けていた。

「そうです……なんとか、見つけ出して生きていけるように取り計らっていただけませんか?」

「それは、私としてもやぶさかではありませんが……」

 難しい顔で考え込むクルドバーツに、ルカンドは頭を下げた。

「ですが、なぜそこまで? 支度金は渡してあげたのでしょう?」

 今二人の話題に上っているんは、エレガとカーナの二人のことだ。彼女らの安全をなんとか、はかれないものかとルカンドは、クルドバーツに頭を下げ続けている。

「そうです。でもお金は使ってしまえばそれまで……彼女らがこれからも生きていくためには、働くことがどうしても必要になってくる。だから──」

 必死の懇願に、クルドバーツはルカンドの発言を制した。

「ルカンド殿、はっきりいいますが、それは余計なお世話というものでしょう? 彼女らに生きる才覚なくば、いくら仕事があろうとも結局は無意味です」

 彼女たちの生きる希望を打ち砕いたのは、他ならぬルカンド自身だ。直接手を下してはいかったとしても、失敗すればその程度のことは理解できた。

 だがそれでも必要と思ったから。

「あなたの心情を満足させるためだけに、私たちの金を使うわけには参りません。彼女たちを救うのなら、利益をお示しください」

 商人然としたクルドバーツの言葉。

 商人を使いたいなら利益を示せと。

「利益、ですか?」

「そう利益です。それさえ認めさせていただえれば、恩義ある貴方のために、“赤き道”は全力で二人の行方を捜しましょう」

 奥歯をきつく食いしばり、ルカンドは考える。

 彼女らを救って商会の利益になること。

「……彼女らは、西都の地理に詳しいばかりでなく、今回の内乱で活躍した長槍隊と懇意です」

 西都に出店をする際の案内として、彼女らには価値がある。

 だがそれにクルドバーツは首を振る。

「いまだ王都の店の足元も定まらぬ中、西都などとんでもない」

「西都は、南都の商人らがいまだ手をつけていない、いわば未開の地……王都で鎬を削る彼らに、一歩先んじることができます」

「む、む」

 今王都の商会の序列をつけるとすれば、最大規模で展開しているのが南都ジェノヴァの商人たちだ。次いで地元ロクサーヌの商人たち、その次は個人商達が続いて、やっと東都の“赤き道”がくる。

 商才豊かなジェノヴァ商人たちは、銀行、食料品を牛耳っている。

 彼らに対抗するためには、既存の商品だけでは心もとない。もっと広範囲の商売が必要だった。

「わかりました。西都に出店する際には、彼女らの助けを借りるとしましょう。それはそうと、親交があった長槍隊といえば、どこの部隊です?」

 メモをとるために、小さな帳面を開くクルドバーツ。

「確かバッセール配下の、グリューエン隊」

 その名前を聞いた瞬間クルドバーツの目は見開かれた。

「いいですな。売り込み甲斐のあるところだ」

 今回の内乱でつとに名高い長槍隊。

 コネを利用して、そこに武器を収めることが可能になれば、評判を呼ぶに違いない。

「お引き受けしましょう」

「ありがとうございます」

 にっこりと笑うクルドバーツの脳裏では、これから弾き出される利益の計算が働いていた。





 シュセの私室、スカルディア家の屋敷の中で、彼女に与えられた私的な空間にジンは招きいれられた。近衛の長としての彼女に用件があるものなどは、執務室に通されることになるので、これは彼女がジンのことを私的な客人と判断したことになる。

 落ち着いた色に統一された部屋の内装に、効果ではあるものの控えめな装飾品の数々。それでも庶民から見れば目玉の飛び出る価格はするのであろうが、ジンは無造作に長椅子に腰掛けて部屋の中を見渡していた。

 先ほど使用人らしき女が持ってきた紅茶が、甘い匂いを部屋に満たしていた。

「遅くなりました」

 部屋のドアから柔らかい声とともに、シュセが姿を現す。

 近衛の正装を解いていない彼女の装いは、男装の麗人のようだ。

 ジンの対面に、長椅子を隔てて腰掛けると彼女自身で紅茶をいれる。

 肩の辺りで切りそろえた若葉色の髪が揺れる。琥珀色の瞳は、懐かしさと好意でジンを包み込むように優しい。

「ああ」

 その視線に戸惑いながら、ジンは頷いた。

「それで今日はどのような?」

「用がなければ来ちゃだめなのか?」

 ぶっきらぼうな言い草に、シュセは軽く目を見開き、一人納得したように頷いた。

「あの女主人の方と痴話喧嘩でも──」

 ドン、と机をたたく。紅茶のティーカップが音をたて、わずかに中身がこぼれた。

「違う!」

「残念ですね。わたくしのものになってくださると思ったのに」

 少しも残念そうに見えない口調と表情で、優雅に紅茶を一口飲むと、シュセはにっこりと笑う。

「美味しいですよ」

「……お前、いい性格してるな」

「ふふ、お褒めにあずかり光栄の至り」

 紅茶に手を伸ばすジンに満足そうに微笑む。

 そんな二人の様子を、扉をわずかに開けた隙間から、ユイルイとクラウゼの二人は食い入るように覗いていた。大の大人が二人で身を寄せ合って部屋の中を覗き込む様子は、さぞ奇怪に見えたことだろう。

 しかもそれをしているのが、近衛をまとめる二人だというのだから注意をするものもいない。

「シュセ様……」

「……お姫さん」

 くつろぐシュセの表情に、会話の内容までは聞こえないが彼女が楽しんでいるのだということはわかる。しかも相手は目つきに多少険があるものの、なかなか精悍な男だ。

「クラウゼ、あれは」

「悪い虫だ。純情なお姫さんを弄びやがって」

「いや、まだなんとも言い切れ──」

「ぶっころす!」

 一言言い置いてクラウゼは身を翻す。

「待てクラウゼ、早まるな」

「俺にはわかる、あれは悪党だ」

「だからといって!」

「お姫さんが傷ついてもいいのか! ユイルイ!?」

「いや、それは望むところではないが……」

 早足に歩むクラウゼにユイルイが追いすがるようにして二人は、彼女の私室から遠ざかって行った。






 執務室で政務に励むカルの元に、一通の書状が届けられたのは、夕方も遅くなってからだ。

 すでに季節は夏を終え、秋から冬の支度をしようかと言う季節。

 木々の葉は色を買え、風に吹かれて色づいた葉が宙を舞う。肌に感じる風の冷たさは、家路を急がせる。

「陛下。失礼いたします」

 入ってきたベルモンドの表情を見て、カルは決済をしていた書類に署名をし終える。

 気弱な表情に、困惑の要素まで加えてベルモンドは少年王の前に立っていた。

「先ほど、オウカ・ジェルノ様より書状が届きまして」

 差し出される書状は、高価な紙を使ったものだ。

「オウカ様がご引退なさると」

 書状のないようにわずかにカルの柳眉が跳ねるが、表情の変化はそれだけだった。

「家の相続は8歳の孫か」

 カルの質問に、頷くとベルモントはいかがいたしましょうと、困惑した表情でカルの意見を待つ。

「本人が望むものを無理にとはいくまい。受理すると伝えよ」

「仰せのままに」

 ベルモンドが退出して、一人になると一人額を押さえてオウカの動きを考える。

「兜を脱いで引退……などと、あの老人に限ってありえまい。私を引きずり降ろす算段がついたのか。あるいはもっと別の何か……」

 突然の申し出は、カルの警戒心を引き上げた。






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