西域の主18
「動いたか!」
──ロクサーヌ軍カーティスの町より、前進を開始!
待ちわびたその報告に、トゥメルは思わず拳を机にたたきつけた。
「ユネック、ティター、ギンメルらには俺が行くまで待てと伝えろ!」
ボーランデ、と初老の幹部を呼ぶと待ちきれないとばかりにトゥメルは声を張り上げた。
「雑兵どもの様子は?」
部屋を震わせる声に、ボーランデは頭を垂れる。
「手抜かりなく……」
だが、その僅かな間がトゥメルには気になった。
「どうした。何か心配事か?」
覇気を体中に漲らせ、問いかけるトゥメルに、ボーランデが苦笑した。
「いや、あるいは私の勘違いかもしれませぬが」
「いい、言ってみろ」
鷹揚に頷くとトゥメルは床几に腰掛ける。腕を組み目を瞑る様子はまるで修行僧のように。だが真剣に部下の声に耳を傾けようとしている姿に、ボーランデは決して不満ではなかった。
「雑兵どもの動きがなにやらおかしい、と感じます」
「なにか、とは?」
眉間に皺が刻まれるが、それを押し殺してトゥメルは問いかける。
「さて、そこまでは……あるいは謀反か、サボタージュか。確たる証拠はございませんし、私の気のせいかとも思いますが」
言葉を切ったボーランデ自身、言ってしまってから首を捻る。たとえ叛乱を起こしたとて、目の前に迫っているロクサーヌがそれを受け入れるとは限らないのだ。叛乱分子諸共打ち滅ぼされルカも知れない可能性のほうが高いのではないか。
「あるいは、ネズミが入り込んだのか」
「ロクサーヌに通じるものがいると?」
トゥメルの言葉に、ボーランデの声が沈む。
重々しく頷くトゥメルに、だが不安を感じているボーランデの方が質問をぶつける。
「ですが、どうやって……カーティス以西の地域にはロクサーヌの攻略の手はほとんど伝わっていないはず」
「わからん……が、打てる手は打っておくべきだな。折角の戦だ、水を差されては叶わぬ」
トゥメルにしてみれば、戦さえあればと願い続けた半生だったのだ。その気持ちを知っているからこそ、ボーランデも静かに頷く。
「御意。では、信頼できる兵士にそれとなく探らせて見ましょうか?」
「出来るだけ口の堅いものでなければならん。それとネズミがいたとして、それに気づかれぬ程度の話術も必要だ。そのようなものがいるか?」
「……難しい注文ですな。ですが、何名か心当たりがおります。多くはないのが残念ではありますが」
「わかった。委細任せる」
「若。いよいよですな」
「若はよせ」
苦笑するトゥメルに、ボーランデは黙って退出した。
「戦、ですか?」
その声に、真昼に幽霊でも見たかのようにトゥメルは振り返った。
「ナ、ナルニア!?」
大仰に驚く彼が思わず叫ぶ。びくりと震えた彼女は、ナルニアを支えるようにして側に居たカチューシャの肩をぎゅっと握った。
「トゥメル様、大きな声を出されては!」
カチューシャの愛らしい声に、トゥメルは自身の失態を悟る。
「す、すまぬ。あまりに驚いてしまって。つい」
その慌て振りに、思わずナルニアがくすりと微笑む。
「……笑ってくれるか」
「あ、いえ……申し訳ありません」
首を振るトゥメルは、慈愛に満ちた視線をナルニアに注ぐ。
「いいのだ。まさかまた再びそなたの笑顔を見れるとは思わなかった」
優しい声音に、ナルニアの緊張が和らぐ。
「あの……一つお願いが、ございます」
「どうした、改まって」
「私の旅の、仲間の消息を何か聞いてはおられないでしょうか?」
「いや、そういえば姿が見えないようだが……」
「そう、ですか」
意気消沈するナルニアに、トゥメルは心が痛んだ。
「分かった。これから俺も砦に向かうことになるだろう。そのときナルニアの仲間を見かけたという話があれば、知らせよう」
「あ、いえ……そこまでしていただかなくても」
「俺がそうしたいと思っているのだ。お前が気に病む必要はない」
「……はい」
俯くナルニアに、少しだけ悲しげな視線を向けたトゥメルだったが、すぐに満足そうに頷く。
「ありがとうございます」
蚊の鳴くような小さな声で、お礼を言うナルニアに、トゥメルは驚いた。
「ああ……っ! ナルニア、俺からも頼みがある。聞いてくれるだろうか?」
「なんでしょう? 私でできることなら」
「俺の為に武運を祈ってくれ」
待ち焦がれた舞台へ立つトゥメル。高揚感に満ちた彼は、舞台から降りたナルニアには眩しかった。
「御武運を、お祈りしております」
「ありがとう、ナルニア」
トゥメルはナルニア偽を向けて歩き出す。彼女に背けたその顔には既に優しさは消えうせ、武人としての猛々しい笑みが浮かんでいた。
左右には深い森が広がり、土を固めただけの道が延々と続く。なるべく使用者の便を図ろうと平坦にならされた街道は、馬車が一台通れるだけの幅があった。人が並ぶなら3人ほどになる。
ロクサーヌから繋がり、カーティスを経由したその街道を進んでいたロクサーヌの軍勢は、街道の果てに巨大な砦を目にすることとなった。
街道がを囲む森がいきなり開けたと思えば眼前に広がるのは、小高い丘それ自体が砦と化したオシリスの砦だった。森を抜けたとたんに下り坂になる街道。下り坂から僅かに先に小高い丘があり、その丘そのものを柵や、矢避けの盾で囲んだ砦となっていた。
獣避けの柵など比べ物にならない。馬を防ぎとめられるように設えられた背の高い馬防柵。天然の地形を利用して作られたのだろう。空堀と呼ぶには巨大に過ぎる谷。昔は川が流れていたのだろう。干上がった川をそのまま利用したかのような谷は、ぐるりと砦の全域を囲む。
元々小さな砦だったのだろう、未だ所々に防備の調わない箇所が遠めにも見受けられたが、力攻めをして落とせるような砦ではないと、それを目にした全員が感じた。
「森を切り開いて宿営地を設けます。イェンル隊は警戒を、長槍隊は作業に掛かりなさい」
目の前の圧倒的な砦を目にしても、シュセの表情には微塵の動揺も見られなかった。ただ圧倒されていただけの、隊長や班長らは、彼女の指示を聞いて部下達に檄を飛ばす。
まだ日の高いうちだったが、日が沈み始めてからでは敵に夜襲をされる恐れもある。経験的にそれを知っている彼らは、シュセの判断に敬服していた。
ロクサーヌの軍勢が、宿営地を作ったのは、谷と呼ぶに相応しい空堀の手前。未だ森の領域を切り開いて街道を塞ぐ形で宿営地を作りだす。
「警戒を怠らないように」
出来あった宿営地。それだけ言うとシュセは自身の天幕の中へ入ってしまった。
「流石にシュセ様も参ってるな」
不機嫌にそういうイェンルに、長槍隊長のバッセールは頷いた。
「全くだ。あの砦、一筋縄じゃ落ちんだろう……ある程度の犠牲を覚悟しなきゃならんのかもな」
グリューエンの上司に当たるバッセールは、40を越えた働き盛りの男だった。遥か十数年前には、兇王と呼ばれたヴェル・シフォンに従って遠くバルドギアまでも遠征したことがある古参の兵だった。
といっても、彼自身は王の剣と呼ばれたヴェルの親衛隊に加わっていたわけでもなく、純粋なロクサーヌ軍として参加していたにすぎない。烈風に削られた岩のような顔と、背は低くともがっちりとしたからだ。鋭い視線は一睨みしただけで、新米の兵士を震え上がらせるのに十分だった。
「正面からまともに行ってだめなら」
「奇襲か」
どちらともなく視線が交わる。お互いに歴戦と呼ぶに相応しい経験を積んできた者たちだ。兵法の常道として、敵の油断に付けこめれば砦のひとつや二つ落とせぬことはない。
「献策の余地はあるな」
眉間に皺を寄せ考え込むバッセール。
「幸いにも俺の部隊は警戒だ。見回ってみようと思うが、付き合うか?」
「お願いしよう」
お互いに頷くと、二人の歴戦の兵士は宿営地からでていった。
「夜襲に対する警戒を怠るな。篝火を堀沿いに焚くんだ」
敵を目の前にして逸る気持ちをギンメルは、部下に矢継ぎ早に指示を出すことによってなんとか抑えていた。尊敬すべき父は、今や敵の虜であるという。
一刻も早く救い出さねばならない。名誉ある父が虜囚の辱めになど、耐えられるはずもない。
「いいか、トゥメル様が来るまで決して敵に後れを取るな!」
彼の周りを固めるのは、自身の領地から連れてきた家臣達。忠実な護衛としての役割も果たす彼らは、十人を数えた。ギンメルに仕える彼らは、いわば主人と一心同体。ギンメルの栄誉栄達が、彼ら自身の栄誉栄達にも繋がってくるのだ。
ゆえに、雑兵と呼ばれる集められた兵士とは全くといって良いほど立場も身なりも違う。
「そこ、しっかり働かないかっ!」
ギンメルの叱咤に、周囲の兵士が手に持った鞭で雑兵を打つ。
打たれた雑兵は悲鳴を上げて手にした薪を取り落とす。
その様子をあたりで働く他の雑兵たちが遠巻きに見守っていた。
「あれでよかったのか?」
ギンメルに与えられた私室にて、部屋の主たるギンメルと不気味な男が向き合っていた。
「ええ、閣下。雑兵などというものは厳しく獣と同じ、厳しく躾けてこそしっかりとした働きができる生き物なのです」
昼間だというのにその男は黒衣を頭からすっぽりとかぶっていた。見るからに怪しげな雰囲気を漂わせるその男は、つい先日盗賊に襲われそうになったギンメルを助けた功績で、彼のそば近くにある。
「ふむ。そのようなものか」
若いギンメルは、彼に素直に感謝し、彼を客人としてそば近くにおいていた。
黒いローブに覆われた彼の顔をシュセが見たら、驚愕に目を見開いて一閃の下にその首を叩き落していたかもしれない。その男は、シュセの命を奪い損ねた男だったのだから。
「堅く守りて、打って出なければ自ずと勝利は舞い込みましょう。トゥメル閣下にも、その辺はご理解していただいているはず」
「だが、父上は……」
「お父上のことに心動かされては、戦は勝てませぬぞ」
「わかっている……」
不安と焦燥がギンメルの心根を揺さぶる。
「お父上とて、それをこそ望んでおられるはず。では、失礼します」
オシリスの砦とロクサーヌの築いた宿営地の間には、煌々たる篝火が夜の闇を照らし、双方の警戒の兵士達が遠巻きにそれぞれ渇いた川の両岸に対峙していた。
等間隔をもって砦に近づく闇を駆逐する炎の列。それが小高い砦の周囲を囲む様子は、天上から俯瞰すればまるで火の輪のように見えた。
バッセールとイェンルは、二日前の昼時に彼らが相談しあった奇襲の具体策をつめるため、一つの天幕の中で額を付き合わせていた。
「いかんな、どうも」
愚痴にもにた小言は、イェンルの口から漏れる。
「厄介なのは、やはり地形か」
天然の谷底のような、空堀に昼夜を問わず監視の目がある。少しでも近づこうとするなら、雨のごとくに矢が降り注いで来るのだ。坂道を下って谷底が広く、小高い丘の上からでは、絶好の矢の的になってしまう。
それが砦の後背、僅かに一本の道を残すのみ存在する入り口を除けば、四周を覆うのだ。矢盾や馬防柵の位置を見回っても、なるほど確かに粗が目立つ。だが、必要と思われるところには、過分なく備え付けてあるのだ。
「この縄張りは、達者なものだ」
不満げに相手に賛辞を示すと、二人の間にある地図に目を落とした。
城の配置、防護施設、更には道の幅に至るまで細心の注意を払って計算された設計に、イェンルは思わずうなる。
「迂回は許されず、奇策を施すにも相手は篭って出てこないとは……厄介な」
バッセールも眉間の皺を一層深くして、ため息をつく。
やはり犠牲を覚悟で力押ししかないか。
二人の間に、そんな共通の認識が出来つつあった。
「報告っ!」
天幕の外から聞こえた声に、二人は地図を睨んでいた顔を同時に上げる。
「どうした!」
天幕の主であるバッセールのだみ声に、外から伝令の硬い声が要件を告げる。
「シュセ様が、至急の召集にて」
「承知したと伝えろ!」
応えてから、バッセールは首をかしげた。
「この時刻になんの御用だろうか?」
「あるいは城攻めのご指示かもしれん」
イェンルは、立ち上がると外してあった剣を腰に佩く。
「どちらにせよ、至急とならば行かねばなるまい」
バッセールも身なりを整えると二人揃って天幕を出た。
天幕をでて、将であるシュセの天幕へ向う途中、二人はシュセの天幕に近づくに連れて、周囲の兵士がざわついているのに気がついた。
動揺をしているという雰囲気ではない。長年の戦場経験で、それが不安の類ではないということは感じられたが、目配せするにとどまった。二人にとってはシュセの天幕に近づくに連れてというのが、そのざわめきの正体を究明するよりも急務に思われたからだ。
どちらともなく早足になり、シュセの天幕に付く頃には半ば駆けていた二人が、彼女の天幕を守る護衛の敬礼をおざなりに受けて飛び込むように彼女の天幕へ入る。
「シュセ様!」
普段ならこの程度で息を切らすはずもない二人だが、不安に急かされたため息が上がっていた。
「……至急とは言いましたが、息を切らすまで急がなくて良かったのですよ」
少しばかり二人の剣幕に面食らいながら、シュセはまずは二人を落ち着かせるべく口を開く。わざとゆっくりとした口調で話す彼女に、バッセールとイェンルは自分達が相当な剣幕だったのに気が付いた。
ごほん、とわざとらしく咳払いをするバッセール。小さく深呼吸をするイェンルに、シュセは柔らかい微笑を向けた。
「で、ご用件とは?」
イェンルが切り出した言葉に、バッセールも身を乗り出す。
「ええ……ですが、とりあえず全員が揃ってからにしましょう」
バッセールとイェンルが見渡せば、彼女の天幕には彼らのほかに、将校級の人材はいなかった。
「……焦りすぎだ」
ごほんと、咳払いをするバッセールが小さくイェンルに言う。
「お前が言うな」
返事は言葉と、軽い肘打ちだった。
「内応の使者ですか……?」
シュセの天幕に集った彼女の幕僚らは、彼女の話した言葉に互いに顔を見合わせた。
「そうです。先ほど、ベルゼイと名乗る者から書状が届きました」
上質とはいい難い羊紙を、見せる。
「それが事実ならよき案ですが」
言いよどむバッセ-ルの言葉は、全員の意見を代弁していた。
「都合が良すぎるのでは? 我等が到着してその日のうちに、このような書状……まるで図ったかのようなタイミング。敵の姦計ではありますまいか?」
「たとえそうだとしても、あの砦を落とすのに他に方策はありません」
首を振るシュセに、バッセール以下誰も反論ができなかった。
「それで、どういう仕儀に?」
ひとつため息を吐き出すと、イェンルが問いかける。
「明日の夜、砦をつなぐ唯一の扉が開きます。私たちはそこから砦の中に進入し、これを叩きます」
全員の中央に置かれた砦の見取り図。その一点を指し示すシュセに、全員が聞き入った。
「これが罠であろうと、正面から突破します」
砦の中まではその見取り図には描かれていない。内部がどうなっているのか、それは入ってみるまでわからないのだ。そこが行き止まりで地獄の入り口かもしれない……だがそれでも突破をすると彼女が言うのなら。
「ロクサーヌの為に」
彼女の部下たちに、迷いはなかった。
「くそっ!」
馬上で鉄の大槍を構えるトゥメルは、眼前に広がる光景に舌打ちした。
ロクサーヌが目と鼻の先にまで来ているこのときに、ベルガディの周囲で盗賊が跋扈している。西方候主であるその責が彼をして、その盗賊たちを放置することを許さなかった。
あるいは、その盗賊たちを取り逃がしたが為にベルガディが襲われるなどということになれば、彼の最愛の人が被害をこうむるかもしれない。その僅かばかりの杞憂が、彼を縛る。
「大盾を前に! 混成隊は左右に展開! 盗賊どもを狩り尽くせ!」
ベルガディに今やほとんどまともな戦力は残っていない。新たにガシュベルの領地から徴募した者達は混成隊として今彼の指揮下にある。
シュセ率いるロクサーヌの軍勢と違い、トゥメル率いる西域軍はその主力をトゥメル歩兵団と農民兵に置いている。数ならば圧倒的にトゥメル側が優位に立つが、質となればその有利は見事に逆転をするであろう。
普段は鍬をもって畑を耕し、斧を持って森林を開拓する者たちに槍を持たせているのだ。普段から戦うための心構えと技を練っているロクサーヌ側とは差ができて当然だった。
トゥメル自身その弱点を知っている。ゆえに、編成にひとつの工夫を施した。雑兵二人に、古参のトゥメル歩兵軍の兵士をひとりつける。古参の一人には長剣を扱う者をつけ、雑兵は槍を使わせる。こうするとことによって、混成隊と呼ばれる約1,000人を彼の直接指揮下に置いた。他に長槍隊として編成した者は、ボーランデに任せ、騎馬隊はイアーソンとウィンネに任せる。
そして彼の構想の元に設立された混成隊は、その真価を盗賊狩りの場面ではあるが、発揮していた。森林の中、不規則に並ぶ木々の間を縫って、3人1組の混成隊は、分化して進んでいく。指揮官の目の届かない局地戦において、古参の兵士が指示を出しながら、各組が盗賊たちを追いたて、狩り、駆逐していく。
農民出身の雑兵らを戦力とするための工夫は、驚くほど順調に実を結んでいた。街道を埋め尽くす大盾の列が、静々と進み、左右の森林は小さく分化した混成隊が、盗賊を狩りたてる。
「なかなかよい仕上がりですな」
馬上のトゥメルに話しかけるのは、長槍隊を指揮するボーランデ。
「お前のおかげだ。よくぞここまで仕上げてくれた」
盗賊の出現自体には罵声すら浴びせたいトゥメルだったが、この兵の仕上がりは上々で、彼の機嫌を直すのには十分だった。
「私は、指示されたとおりにやったまで」
初老の域に達したボーランデは静かに首を振る。
「だが、ここで余計な道草を食ってはギンメル達が苦しくなろう」
「ベルガディの守りに500を残しましたからな」
「なるべく早急に賊どもを片付けて、砦に向かわねばならん」
「では、速度をあげますか」
駒を長槍隊の中央まで進めると、ボーランデは声をはりあげた。
「良いか、この地を掠める盗人を許すな! 正義は我らにこそある! 進めぇい!」
喚声がボーランデの声に続く。
「本当に、これで俺たちは解放されるんだろうな?」
「ああ、間違いない。ロクサーヌは占領した村に、一切手を出していない。我らがシュセ様は寛大なお方ゆえにな」
オシリスの砦の暗がりの中、ボロボロの作業服を着た男が、黒衣に身を包んだ男に問いただす。
「怖気づいたか?」
黒衣の男の瞳が、迷う男の反応を面白そうに眺めていた。
「ふざけるなっ! いやっ、すまない……そうではなくて」
「お前の気持ちわからぬでもない。昨日今日であった得体の知れぬ者の言うことを信じて良いのか、判断がつかないのは当然だ」
内心で、今更だなと思いながら黒衣の男は続ける。
「だが、犀は投げられたのだ。お前の名を記した書状は確かにロクサーヌ側に渡り、おそらくロクサーヌはそれを元にて攻撃をするだろう」
「なぜそういいきれる!?」
「この砦は僅か2000の兵力で落とせる代物ではないからよ」
黙りこむベルゼイを視界に納めながら、黒衣の男はなおも続ける。
「ゆえにここで内応して、我らの勝利に貢献すれば、お前たちの待遇は天と地ほどの差ができる……わかるな? 戦い終わってから降伏するのと、戦っている前から協力するのでは、もらえる恩賞が違って当然よ」
クカカカ、と笑いながら黒衣の男は努めて陽気に笑い飛ばす。
「……わかった。それじゃ俺は仲間の説得に行ってくる」
「そうだ。自身のなすべきことをするべきだな」
ベルゼイが立ち去ると、黒衣の男は静かに笑う。
「さあ、やって来い。シュセ・ノイスター……貴様の首は必ず、このわしが挙げてやろう程に」
ロクサーヌからの暗殺者は、暗い笑みを浮かべた。
夜は新月の闇を落とし、鎧が擦れ合う音にすら気を使いながら、ロクサーヌの軍勢は夜の闇の中を進んでいた。
敵の目を欺くために、宿営地には煌々と松明を燃やし、逆に進軍は手探りに近い状態だった。前を進む者の背中を触りながら、進む彼らを天上から見下ろせば一匹の大蛇に見えたことだろう。堀を避けて門にたどり着くために、いまだ切り開かれない森の中を大きく迂回して砦へ迫る。
夜通し歩き続けて、夜明け前、やっと彼らは砦の見える位置にまでたどり着いた。
「……だいぶ遅れてしまいましたが、大丈夫でしょうか?」
未開の森を進むというのがこれほどの困難を伴うことだと、イェンルは改めて認識させられていた。縦横に張り巡らされた蔦と、不規則にゆがむ地面。ともすれば、倒木や落とし穴のごとく生い茂る草木に隠された深い溝。しかも森を抜ける困難はそれだけではない。猛毒を持つ蛇や、虫達、縄張りを浸食されたと怒り狂う肉食獣。さらには、けたたましく泣き叫ぶ怪鳥の声がシュセ率いるロクサーヌ軍に一瞬たりとも緊張を解かせなかった。
毒蛇に咬まれても、悲鳴を上げずにいた兵士。深い溝に落ちて切り傷を作ったまま、無言のうちに歩き続ける兵士。そんな彼らの様子を一度だけ振り返って、シュセは砦に目を向ける。
「行きましょう。合図を」
苦痛に耐えるのも、叫びだしたい悲鳴をこらえたのも、押し潰されそうな闇の不安を耐えたのも、全ては勝利のために。その思いを深く胸に刻み込み、長剣隊を先頭に砦の城門へ息を殺し、近づいていった。
「先に行く」
シュセの身辺に張り付いていた兵士の一人が、彼女を追い越し際にそっと囁く。その影を見送ると、彼女は誰にも気づかれることなく、口の中で囁いた。
「お気をつけて」
キッと見据える先に、砦は闇の中に小揺るぎもせずそびえていた。
「来おったか」
夜明け前の闇の中、森の中から這い出す一群の人影。それを城壁の上から見下ろして、暗殺者は音を立てずに笑う。
今しも城門を守る雑兵の姿は、ベルゼイの手の者が固めている。森の中で、松明の火がともる。それが二つ。円を描くように振られると同時、這い出してきた一群と、城門の兵士が接触した。
声を潜めたやり取りだったが、暗殺者として修練を積んだ彼の耳にはそれが明瞭に聞こえる。
「声を低く」
一群を率いる男が、城門の兵士に話しかける。
長剣を抜かずに近寄るのは、相手に無意味な緊張を与えないためか。
「ベルゼイの手の者か?」
「俺がその、ベルゼイだ」
「よし。では手はずを確認するぞ」
「まってくれ。俺達の安全の保証を」
「当然だ。シュセ様にいたっては無辜の民に危害を加えるような方ではない」
低く力強くうなずく男に、ベルゼイが安心した口調となる。その露骨さ加減が、暗殺者にはおかしかった。
「門を開いたら、一気に首脳部を占領する。道案内はお前がするのだな?」
「あ、ああ」
「よし。では早速行こう」
ベルゼイの合図で、城門の閂がはずされる。
「仲間はみんな、頭に白い布を巻いている。それで判断してくれ」
「よし。本隊に合図を」
言うや否や、開いた城門の中へ入り込む。
両刃の長剣を抜き放つと、無言のうちに続く部下達へ目配せする。統率された動きで、城門を占拠する兵士の姿。
城門の外では、待機していたロクサーヌの本隊が、森を抜け出してきている。
「頃合じゃの」
ギンメルに報せるべく、城壁を伝って砦の中へヤモリの様に移動する。
ロクサーヌからの暗殺者である彼が、ここまで手の込んだことをしているのには、それ相応のわけがあった。トゥメルが心血を注いで構築したこの砦は、ロクサーヌ──いずれはカルを追い落とし、国の主の座に返り咲くであろうオウカにとって、邪魔である。と暗殺者は考えた。
シュセを始末するだけなら、ギンメルにことの次第を話し、ロクサーヌ軍を抹殺すればよい。だが、シュセには消えてもらう。同時に、この砦にも消えてもらう必要が、暗殺者にはあったのだ。
このような堅固な砦が残ったのでは、西域の主に治まっているトゥメルが中央からの指示に従わなくなるのではないか。
そこまで判断してこの熟練の暗殺者は、手の込んだ芝居を打った。
もしこの処置をオウカが不服とするなら、彼はオウカの手で処断されるのだろう。だが、長年オウカに仕える彼は常にこの種の判断を自身の首で負ってきた。
「このたびの処置も、翁は是といわれるであろう」
その自信が彼にはあった。
あるいはそのわずかな気の緩みに、付け込まれたか。
音もなく追いすがる影に、気がつけなかった。
不寝番が松明をともしてその一角を守っている。将校専用の区画。明かりの中に、音もなく暗殺者が降り立つ。
「何者だ!?」
思わず槍を構える不寝番の兵士達に。
「敵襲ぞ!」
「なに!? 貴様はっ!?」
「我はギンメル殿配下──ええい、急がれよ!」
声を荒げる暗殺者。事情を知らないものが見えれば、忠節ゆえの粗暴さと映っただろう。そこまで計算した暗殺者の演技に、不寝番の兵士は疑いを残しつつも、控え室に走って返す。
「よいか、敵は既に門を開いて侵入しておる! このことを一刻も早くギンメル殿に知らせよ! 我はこれから他の兵士どもを起こしてくる!」
言うやいなやその身を翻す。闇の中に駆け去る暗殺者は、自身の芝居に思わず口の端を歪める。
「ふっ──」
「──疾っ!」
長年命を的に働いてきたものの勘が、暗殺者にその一撃を避けさせた。完全な死角から放たれた、双剣の一撃。首筋を狙って放たれた弧を描く死神の鎌が髪の毛一本分届くより早く、暗殺者は転ぶように避けた。
「……いつぞやの!」
「命をもらいにきた」
己の半分も生きていないような死神が、双剣を構えてそこにたっていた。
お休みの日だけでいい、一日が48時間ぐらいにならないでしょうか。
砦の形状については、前方後円墳をご想像してください。