西域の主17
目を覚ませば、そこは見慣れた天井があった。重い頭と体を確かめながら、ゆっくりとカルは体を起こす。
「私は……」
頭痛に思わず眉をしかめ、それを振り払うかのように振る。
そう、確か暗殺者に襲われ──。
「気がついたかい?」
気安くかけられた声の主は、ソファーの背もたれに体を預けくつろいでいた。
「貴様、何者か」
瞬時に自身の槍を捜し求めるが、視線で気づかれたのだろう。黒髪の女が薄く笑う。
「アンタの得物は、捨ててきちまったよ。アンタ一人を運ぶのだって苦労したんだ。まさか文句は言わないよねぇ?」
くつくつと笑う女に、カルは視線を戻す。
その女はカルに強烈な印象を与えた。そらそうとした視線を釘付けにしてやまないほどの、強烈な印象。
一言で言えば、禍々しい。
黒鳥の濡れた羽を寄り合わせたような、長い黒髪。惜しげもなく晒された、すらりと伸びた四肢。白磁のように染み一つない白い肌には、細かな戦傷が残り、整った鼻梁から口元にかけては当代一の芸術家の作品を思わせる。
口元に浮かぶのは、不敵な笑み。切れ長の目とあいまって、その女の雰囲気を峻烈にしている。だがそれだけでカルは禍々しいとまでは思わなかっただろう。
彼女の印象を決定付けているのは、何よりもその深淵を思わせる漆黒の瞳だった。あらゆる感情を内包して空気さえ歪ませてしまうような、圧倒的な瞳。
あるもの全てを飲み込む黒が、カルをしてその女を禍々しいと感じさせていた。
「そんなことは聞いていない。貴様の名を名乗れ」
弱みを見せれば直ちに食い破られるような緊張感を持ちながら、カルはソファでくつろぐ女と対峙する。
「ハン! 助けてやったのにお礼もなしかい? まぁいいか。サギリってンだ、坊や」
カルの知識にはない名前に、無表情を装って詰問する。
「……助けてもらったことには礼を言う。だが、なぜだ」
慎重なことだと、哂いながらサギリは口の端をゆがめる。
「単刀直入に言おうじゃないか、商売相手を殺したくなかったのさ」
「商売?」
「ああ、そう。アタシは東都の双頭の蛇の首領だよ……そういえばわかるかい?」
東都にて前の領主が殺され、盗賊が占拠している。その情報はカルの元にも届いていた。そしてそれが双頭の蛇という名前だということも、
「商売をしようじゃないか。戦を肩代わりしてあげるよ」
「……傭兵ということか。代価は?」
「東都ガドリア」
ためらうことなく言い切ったサギリの言葉に、カルはわずかに目を見開いた。
「それを私が呑むと思うか?」
カルの視線は、氷の刃を思わせえるほど冷たく鋭い。
「駄目なら今ここでアンタを殺すって方法もあるからね」
冗談めかしてはいるが、彼女から感じられる殺気は、半ば本気であることをカルに悟らせた。
「商売の基本は信義だとは思わぬか」
寝台から立ち上がるカルに、おどけて肩をすくめて見せるサギリ。
「……代価と商品が釣り合わないな」
──乗ってきた。
サギリは内心ほくそえむ。
「東都の自治がほしいなら、同等のものを出すべきだ」
「アタシらの力は一都の力に匹敵すると思うがね」
「足りぬ。一都の価値は武力のみではない。その経済力、収益、生産力……諸々全てを含めて現在、そして将来のモノを見てこそ真価が見出せるのだ」
ほぅ、と顔には出さずにサギリは感心した。
ガドリアを布石として、ロアヌキアを手に入れたいサギリにとって、カルの語る都市の姿は自分とは違う思考を感じさせた。
目の前の顔が綺麗なだけだと思っていた少年の、モノを見る目。その角度に、興味を引かれる。
現在でなく、未来を。
兵ではなく、経済を語るカルの言葉は軽い驚きと共にサギリの殺気を多少なりとも減じた。
「それじゃぁ南都ジェノヴァを差し出してみようか」
「なに?」
あっさりと要求を引いたサギリが、代わりに提示したもの。
「馬鹿な……」
口に出してしまってカルは、瞬時に目の前の女の言葉に思い当たった。
「……まさか」
にやりと、口元をゆがませたまま頷くサギリ。
「オウカが消えれば、南都の支配権はアンタのものさ」
確かに、オウカが消えればジェルノ家には跡継ぎは幼い孫だけだ。親類たちについては、継承権をもつほとんどの者がオウカ自身によって消されている。
「信用できぬな」
目の前の女はどこまでその確執を知っているのか。
「おいおい、命を助けてやったろう?」
「そうではない。貴様らの腕をだ」
「疑り深い王様だねぇ」
苦笑を顔に張り付かせ、サギリが立ち上がる。
「良いよ。見せてやろうじゃないか、けどねぇ……もしオウカの首獲れた場合は、約束をしっかり守りなよ?」
カルの語る未来。収益、生産、経済……言葉の隅々から感じられるのは、南都ジェノヴァの存在。オウカ・ジェルノに流れ込む莫大な資金の源泉は、南陽の商業都市ジェノヴァに他ならない。
「良いだろう。もし、成功した際には、報奨の件考えよう」
とうとう、カルの口からオウカの名前が出ることはなかった。それを臆病と笑いながら、サギリはカルに背を向けた。
「じゃあね。お互いに良い商売になるといいね」
もし、約束を破ったならその刃はお前に向く。口の端をゆがめて不敵に哂うサギリの背中。小柄で華奢にすら見えるその背中は、雄弁にカルに語っていた。
「サギリ……双頭の蛇か」
一人になった寝室に、カルはサギリの幻影と対峙する。
「勝てるか? 私は」
禍々しさすら漂わせる圧倒的な存在感。並々ならぬ力量は、今のカルでは太刀打ちできないように感じさせられた。
だが、カルは負けるわけにはいかないのだ。
王となった日から、彼に安息と平穏は求められないものとなっていた。
森の中を駆ける3人がいた。
「しつこいっ」
苦々しげに吐き出される弱音。
「エレガ、カーナ……ここからまっすぐ東にカーティスの町がある。そこまで行くんだっ!」
木々の間から放たれる矢を、かろうじて避けながらクシュレア達は森の中を逃げていた。
彼らの止むことはない追撃は、すでに丸一日続いている。森の中では、聳え立つ木々やその葉が邪魔になってクシュレアとカーナの投擲剣は使い物にならない。
唯一の戦力となるはずのエレガでさえ、数に任せた攻撃に疲労の色が濃い。
「追え、追え! 逃がすんじゃねえ!」
熱狂的に追いかけてくる盗賊に、捕まった後のことなど想像もしたくない。
「囲むように追え!」
このあたりを根城にする彼らには、追うのもそう苦にならない。だが逃げている三人にとっては、道もわからない森の中を走らねばならないのだ。
「あと、もう少しなのです」
荒い息をつきながら、自分と仲間を必死に励ますカーナの声。
「いたぞ、こっちだー!」
その声に、一瞬だけ振り返り顔をしかめるエレガ。
「エレガ!?」
その悲鳴はクシュレアからもれたもの。
「行け!」
叫んだ直後にエレガは今来た道を戻る。立ち止まり呆然とその後姿を見つめるクシュレアの手をカーナが引っ張る。
「お姉さま!」
我に帰ったクシュレアは、東へ向かって走り出す。かみ締めた唇から、血がにじむ。
とても許してはおけない。
押し殺した悲鳴は、獣のうなり声に似ていた。
そしてすぐに街道にでる。整備された街道は、森の中に比べれば格段に走りやすかった。その道を必死に駆け抜ける。息が上がり、玉の汗は全身をぬらす。べたべたと肌に張り付く衣装も、かまってはいられなかった。
エレガが死んでしまう。
気を抜けば嗚咽が競りあがってくる。だがそんなものを許していられる時間はない。
今はただひたすら、町に急がなければ。
「いたぞ、女どもだ!」
後ろから聞こえた声に、理性が沸騰しそうになる。
エレガはどうなったのだ。沸騰しそうな頭の中で、歯軋りの音が聞こえる。
「カーナ! 走りな!」
我慢の限界だった。許せない。許せるものか!
怒りがその矛先をぶつける相手をみつけてしまった。一緒に走っていたカーナの腕をつかみ、悲鳴を上げる彼女に耳打ちする。
「お姉さま!?」
「いいかい、もしあたしが死んだらきっちり東都に伝えるんだ」
「いきな!」
カーナの背を押すと、街道を走ってくる盗賊たちに向き直る。
「なめんじゃ、ないよ!」
ぎりりとかみ締めた歯の奥から、しぼりだすように吐き出すと、手にした投擲剣を必殺の呪いを込めて放った。
百発百中とはいかないまでも、追っ手の数人に投擲剣が命中する。一瞬ひるんだ追っ手に、背を向けて再び走り出す。
距離を取らなければ負ける。
ゆだった頭でもその程度のことは理解できた。逆に距離を詰められるときこそ、クシュレアが自身の命を心配しなければならないときだった。
「てめえら、女一人に何手間取ってやがる!」
怒りの咆哮と共に、街道に走り出てきたのはブライズだった。革の鎧に片手の剣と、軽装の彼はどんどん彼女との距離をつめてくる。
「ブライズ!」
今や憎い敵でしかないその男の名前を、呪詛と共に吐き捨てて投擲剣を放つ。走りながら狙ったにしては正確すぎる投射。胸から首を狙った二本の投擲剣は、ブライズの持った片手の剣によって弾き飛ばされていた。流石に盗賊の首領を張るだけのことはある。その思いを、苦々しく思いながら再び投擲剣を握る。
足の止まったブライズと距離をとるべく、足を動かすクシュレアだったが。
「クシュレアァァ! 観念しろやァ! こいつがどうなってもいいのか!?」
憎しみに濁った瞳を怒らせ、ブライズが足元のエレガに剣を突きつけていた。引きずられた来たのだろう、エレガの衣服はボロ布のようになっていた。
思わず足を止めてしまったクシュレアに、ブライズは残酷に笑う。
「そうだ、それでいいんだよ」
生きているのか死んでいるのか、ぴくりとも動かないエレガを一つ足蹴にすると、周囲の手下に目配せする。エレガの喉もとに手下が刃を向ける野を確認すると、ブライズ自身はクシュレアに向って歩き出した。
ガツッ、と骨が砕けるような音を立ててブライズがクシュレアを殴り倒す。
「手間かけさせやがって!」
悪態をつくと倒れたままのクシュレアの髪を乱暴に掴み、引きずり起こした。
「てめえらみたいな女が!」
骨を軋ませる殴打の音。また殴られる。
「俺達に逆らうんじゃねえよ!」
激するブライズが、感情のままクシュレアを殴り、見る間に彼女の顔は痣と血に塗れる。妖艶な雰囲気を漂わせていた面影など、もうどこにもない。
「分かったか!?」
突き放して地面にごみを捨てるかのように、投げ捨てつばを吐く。
「あの小さいガキはどうした? まだ見つからねえのか?」
血と暴力によって据わったブライズの視線が部下の一人に向けられる。
「今、追っ手を出しているところで」
「てめえらも全員行け」
低く、次なる犠牲者を捜し求めるようなブライズの声音に部下は心底怖ろしくなった。
だまって頷くとカーナを追って走り始める。それを見送ってブライズは打ち捨てられたクシュレアを見下ろした。
「さぁて、邪魔者はいなくなった……これから自分がどうなるかぐらい想像はつくよなァ?」
吊り上がった口元は酷薄に笑みの形となる。
「下衆、野郎……」
動かないエレガを視線だけで確認し、再びクシュレアはブライズを見る。
クシュレアの口元から漏れた言葉にブライズは、笑みを深くした。
シュセへの暗殺未遂があった日から、ロクサーヌ軍の中では付近の偵察をすることは日課となっていた。班ごとに周囲の街道沿い、森の中、町中を半刻ごとに巡回し、安全を確認するのだ。
バッセールの長槍隊に所属する班長グリューエンは、その日街道沿いの巡回を行っていた。
班員24名を引きつれ、街道沿いの暗がりや、ついでに整備なども行う。行軍の進行に妨げになる岩や、倒木などを横にどけながら巡察をしていた。
いつの世でも男達が24名も集まると、話題になるのは女と飯のことだ。
ロクサーヌの酒場のあの子は可愛いだの、今度新しくクルドバーツ商会の手伝いの子は美人だの。取りとめもない話題が巡回中のグリューエン班をにぎわす。
「そういえば、班長ご結婚は?」
「俺の品をわかってくれるような、高貴な女が居なくてなぁ」
山賊すらはだしで逃げ出す強面。体つきも横にも縦にも並の男より一回り大きなグリューエンの言葉に、班員は爆笑する。
「しかし、遠征の飯ってのはどうしてこう、飽きるもんばかりなんですかね」
「馬鹿たれ、食えるだけマシだと思ってしっかり食っとくんだよ。いくらロアヌキアの中だってこんなに食料が豊富なのは、ねえんだからな」
今回の西都征伐が初めての若手の兵士が、飯に文句を言って先達の兵士にたしなめらる。
「それに関しちゃあ、うちの若い指揮官は立派だな。飯が食えなきゃ戦はできねえよ」
豪快に笑う先達の兵士に。
「当たり前みたいに思いますけど」
「いやいや、お前は知らんだろうが、前にグリューエン班長と十貴族の遠征に付き合わされたことがあってな。その時は酷かった。なんせ飯は自分ら持ちだ」
ひえ、と若手の兵士は悲鳴を上げる。いつ終わるか分からない遠征に自分達で食料を用意しなければならないとなれば、その出費は想像を絶する。
「あの時は、そこらへんの蛇とか草の葉っぱとか食って飢えを凌いでいたからなぁ」
目を細める先達の兵士に、露骨に顔をしかめる若手の兵士。
「ねえ、班長」
水を向けられたグリューエンは、その厳つい髭面でにやりと笑う。
「おう、今度お前にも、木の皮でだしをとったスープの作り方を伝授してやろう」
「具はなんになりますか?」
先達の兵士の合いの手。
「もちろん、そこら葉っぱだ。いや、雑草でもいいな。ネズミでも入れれば豪華になるだろう」
「勘弁してくださいよぉ」
若手兵士の悲鳴と、班員の爆笑が起こった。
「まぁ、まじめな話うちのお姫さまはよくやってる。あの人に死なれちゃ、俺達は路頭に迷うことになっちまうからな、精々しっかりと巡察を……ん?」
「どうかしました?」
どこかのほほんと若手の兵士がたずね。
「敵ですか?」
話を切ったグリューエンに、先達の兵士が剣を構える。陽気な声から一瞬にして、固い声に切り替わるのは経験の差であっただろう。
「全員、音を立てるな!」
しん、と衣擦れの音さえも立てないように、班員たちが硬直する。
耳を澄ませば前から、悲鳴と怒声がかすかに聞こえるのを確認し、グリューエンは剣を引き抜いた。
「野郎共! 抜剣!」
長槍隊といっても、それは戦のときの陣立てでそうなっているだけである。長さが人の背丈の二倍もあるような長槍を常時持ち歩くのは体力と労力の無駄である。普段の巡察時には、着用している剣のみだ。
「微速、前へ!」
ゆっくりと走り出すグリューエン班。彼らの前に、一人の追われる少女と追いかける男達の姿が見えてきた。
「どっちが敵、ですかね?」
先達の兵士の言葉に、にやりと山賊の首領でも通用するグリューエンが笑う。
「娘だな。男には品がなくていけねえ」
ぷっと吹き出す班員に、班長の檄が飛ぶ。
「少女を救え! 全速、用意」
少女は後ろを振り返りつつ、逃げているのだろうこちらに全く気がついていない。追いかける男達も少女を捕まえることに躍起になっている様子だった。
その距離が、50小里になったときグリューエンの怒声が響き渡った。
「全速前進! 蹴散らせェ!」
「うおおおお!」
自分自身を鼓舞するための喚声は、敵に恐怖を植えつける。
少女も、それを追いかける男達もハッとしてグリューエン班を凝視した。少女の脇をすり抜け、追っ手の男達に切りかかる。
元々、兵士として訓練を受けたグリューエン班の面々と盗賊では勝負にならなかった。たちまち蜘蛛の子を散らすように追い立てられ、討ち取られていく。
200小里も追い立ててからグリューエンは追撃を止めさせ、道の真ん中で呆然としている少女を保護した。
「おう、嬢ちゃん大丈夫かい?」
髭面に、返り血を浴びたグリューエンが少女に笑いかける。地獄の悪鬼すら逃げ出すようなその表情に、カーナは恐る恐る頷いた。
「俺達はロクサーヌのもんだ。俺達が保護を約束する。何で追われてたんだ?」
「あ、お姉さまがっ! クシュレアお姉さまを助けてくださいです」
泣き出しそうなカーナに、グリューエンの笑顔が変わる。
「おい、本隊に応援を頼め」
先達の兵士をカーティスの町に走らせると、他の班員に向って剛毅を絵に描いたような笑みで向き直る。
「もう一戦だ、いけるな野郎共!?」
「おおう!」
振り上げた剣に応えて、剣が頭上に突き上げられる。
「案内してくれるかい?」
「はいです!」
カーナに先導されて、グリューエン隊は走り出した。
四半刻もしないうちに、その光景が見えてきた。足元に二人の女を並べて踏みにじるブライズの姿。その後ろには先ほどのことも合って及び腰の、手下達の姿も見える。
「止まりやがれ!」
ブライズは口元に浮かんだ歪んだ笑みを隠すこともせず、血走った視線でグリューエン隊を睨み付ける。
「停止!」
落ち着き払ったグリューエンの声に、部下達が従う。
ブライズとグリューエンらは、50小里を隔てて向かい合った。
「お姉さま!」
カーナの悲痛な叫びにも、クシュレアとエレガは身動き一つしない。気を失っているだけか、あるいは二人とも既に息絶えているのかもしれない。
最悪の予想を脳裏に描きながら、グリューエンはブライズを睨み据える。
その横ではカーナが小剣を手に、ブライズを睨む。
「何が目的だ。盗賊め」
野太い声はブライズの後ろに控える手下達を震え上がらせたが、一人ブライズのみはその声に動じることもなく口元には酷薄な笑みを浮かべる。
「目的だと? そうだな……おい、そこのガキ」
名指しされたカーナは炎すら生ぬるいと感じるような怒りの視線で、ブライズを睨む。
「てめえの小剣で、そこの髭面の足を刺せ」
「なんでそんなことっ! お前に命令されなければならないのです!」
「あぁン?」
眉を八の字に歪め、ブライズはカーナを見下ろした。
「あぁ、別に従わなくても良いんだぜ。だが言うとおりにしねえとなりゃ、俺の軽い手がやんちゃをしちゃうかもしれねえな?」
片手に持った長剣を、クシュレアの首筋に当てるとグリューエンらを睨みながら舌なめずりする。嫌悪感すら誘うその様子に、カーナは愕然と身を震わせた。
「話を聞くところによると、そこのロクサーヌから来た熊どもが俺の可愛い手下をえらく可愛がってくれたらしいじゃねえか? フェアじゃねえだろう?」
口の端が引きつったように、笑みの形を取る。だがその笑顔の底にある感情は憎悪でしかない。
「だからよぉ、ちょっとお痛を謝ってもらおうかと思ってなァ」
軽薄すぎる笑み、真実の一欠けらもないよなその笑顔。その顔と自身の背後で黙ってブライズを睨むグリューエンの顔を見比べてしまった。
「どうした? やれよ」
下卑た笑いはブライズから盗賊たちへと伝播していく。
巌のように沈黙を守るロクサーヌの兵士達へ、嘲笑を投げかける。
「全員──」
低く押し殺した怒りを表すようなグリューエンの声が聞こえる。
「──待機だ!」
今彼らは、行けと命ぜられれば飛矢よりも早く敵に向って駆け出すであろう。真っ直ぐに敵陣に向って走り、その蛮勇を奮うはずだ。
ぎりりと噛み締めた歯軋りの音が、カーナにも聞こえた気がした。
そっと胸をなでおろすカーナを尻目に、ブライズはなおも要求を重ねる。
「さあ、くそガキ! てめえの投擲剣でその熊野郎を刺すんだ!」
「うぅ……」
振り返る先には、困っていた自分を助けてくれた恩人が厳しい視線で敵を睨み、ふとカーナに向ける視線には優しさが溢れていた。
「心配するな」
そう言ってもらえているその視線だけで、カーナの苦しみは深くなっていく。
ロクサーヌの人間というのは、カーナにとって客という印象しかなかった。人には言えない趣向をもってカーナを求める、軽蔑すべき人間だ。
だが、この人はどうだろう。
カーナの中のロクサーヌの人間というイメージはガラガラと崩れ、巌のように逞しい頼りがいのある男がその上に、塗り込められていく。
だが、だがそれでも、カーナにはクシュレアとエレガを見捨てるわけには行かなかった。どれほどこの“ロクサーヌの隊長さん”がいい人であったとしても、カーナの優先順位は決まっている。
後ろを振り返るカーナは、ブライズに背を見せたまま問いかけた。
「エレガお姉さまとクシュレアお姉さまは、生きているんですね?」
顔を伏せたカーナの言葉に、ロクサーヌの兵士はざわりと色めき、盗賊たちは口笛を鳴らす。
「ああ、もちろんだ」
「助けてくれるのですね?」
「まぁ、てめえらの態度しだいだな」
ブライズのにやつく笑みは有利な立場を確信してのもの。
「……わかりました」
上げたカーナの愛らしい顔には悲痛な決意がみなぎっている。それを見て取ったグリューエンは苦笑に顔をゆがめた。
「ごめんなさいです」
「班長!?」
「黙ってろ!」
グリューエンにだけ聞こえるような小さな声で呟いてカーナは手にした小剣を、突き出した。
「ぐっ」
髭の間から漏れた苦悶の声と、歪めた顔に、ブライズは笑い出す。カーナの背中越しにでも、刃を突き出したのが、ブライズには分かった。
「くははははは、ほんとにやっちまいやがった!」
膝から崩れ落ちるグリューエンと呆然と立ち尽くすカーナ。その姿を眺め、腹を抱えるブライズ。
「班長!」
悲鳴と共に駆け寄るロクサーヌの兵士達を、嘲りながら一瞥すると手下をけしかける。
「さあ、やっちまえ! ロクサーヌのくそ野郎共を打ち殺せ!」
相手が弱みを見せた途端、威勢を取り戻すのは盗賊特有の性だ。ブライズの声とともに、盗賊たちが走り出す。
「くははは──っ!?」
笑い声が途切れる。今まで嘲笑の声をあげていたはずのブライズの喉元に、風きり飛来した一矢が突き刺さる。
「はっ……ハァ!? な゛んだ……あァ?」
吹き出る血潮に、意識を混濁させながらもブライズは周囲を睨む。日の光を受け、林の中に光るものを見つけた途端、彼の身体に無数の矢が突き立った。
「ひぅ……あぁ」
ハリネズミのように矢を全身に突き立てられ、倒れるブライズ。だが彼の手下たちも、そんな彼のことを心配している余裕はなかった。
「待ち伏せだ!」
森の中から矢の雨が降る。横殴りの矢が、走り出した途端の盗賊たちを次々に射殺していく。
振り返った先には、血だまりに伏すブライズの姿。今まで信じていた優位など一瞬のうちに消し飛んで、盗賊たちは逃げだした。
「逃がすな、追え!」
さらに怒声を張り上げて盗賊たちを追う先頭に、さきほどカーナに刺されたはずのグリューエンの熊のような姿を見つけ、恐慌状態になって逃げ惑う。
盗賊たちを粗方捕らえるか、討ち取った後でグリューエンはカーナの居た場所まで戻ってきた。
「無事か?」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらカーナは頷く。
「大丈夫ですか?」
彼女が突き出した短剣は、グリューエンの掌で受け止められていた。
「たいしたことはない。それよりも、二人を運ばないとな」
カーナの頭を大きな手でくしゃりとなでると、エレガとクシュレアをひょいと抱え上げる。
半ば呆然と、カーナはその後姿を見守っていたが、思い出したように彼の後ろについていった。
「盗賊が跋扈している、と?」
「はい。兵士どもがいなくなってやりたい放題といったありさまで」
弓兵の素早い援護に感謝をし終わったグリューエンは、戦果の報告をしていた。
眉をひそめるシュセにグリューエンは肩を竦める。
「それで、カーナといいましたか。保護した方々は?」
「一命は取りとめたようですが、しばらくは絶対安静だそうで」
頷くとシュセは形の良い顎に手を当てて、しばらく瞑目する。彼女が考えるときの癖で、それを知っているグリューエンら他の将官は、彼女のその様子を黙って見守っていた。
「分かりました。明日、カーティスの町を出ます。そのままオシリスの砦へ向います。出発時刻は、昼」
細々とした指示をすると、何か言いたそうな将官らに断固とした決意を持て向き直る。
「決定は変えません」
「ならばせめて護衛の数を……」
「これ以上は必要ありません!」
しぶしぶながら引き下がる彼らを下がらせると、彼女は一つため息をついた。
翌日、イェンルら長剣隊が先頭となってオシリスの砦へ向って前進を開始する。時刻は中天に太陽が上る時刻。
馬上の人となったシュセが全軍へ進発の号令をかける。
彼女自身も町を出発しようとしたとき、カーティスの長老衆が追いすがってきた。
「シュセさま、どうぞこれをお持ちになってください!」
絹の包みを恭しく差し出す長老衆。
「開けてみても?」
「もちろんでごぜえます」
包みの中から現れたのは、緑の生地に蔦が円を描いている紋章旗。蔦の円は日輪を表し、豊穣の表す緑糸の生地に、白銀の日輪が翻る。
「父上の……」
そういったきりシュセは絶句した。それはかつてこの地に掲げられていたネアス・ノイスターの紋章。初代ネレイド・ノイスターの紋章旗──赤地の旗に、白き盾とそれを囲む蔦の王冠より、少しずつ変化を加えて作られた父の紋章旗だった。
今彼女が掲げるのは、カルの紋章旗である交差する蛇槍。未だ自身の紋章旗を持たない彼女にとって、それは父の形見に映った。
「ネアス様ァ身罷られてからこのかた……これァ、ずっとわしらの希望でした。ですが、それも今日で限りとします。今日からわしらの希望は過去ではなくて、現実にいらっしゃる」
涙さえ潤ませて、訴える彼らにシュセはただ父の偉大さを思った。
「ありがとう……」
言葉を詰まらせるシュセは、傍らに居た騎兵を呼ぶ。
「これを。お願いします」
言い含めると、騎兵の一人に旗を渡す。素早く槍の穂先に紋章旗をくくりつけると、騎兵はロクサーヌの行軍の横を走り抜けた。
「ノイスターに!」
掲げられる紋章旗。
そこまでは言い含めていないシュセは少し驚き、その騎兵の機転の効果を認めると、傍らの長老衆を見た。
「ノイスターに!!」
走り去った騎兵の後から、長剣隊、長槍隊と唱和の声が響く。
それを聞きつけて、屋外に出てきていた老人達がむせび泣いていた。
「おじいちゃんどうして泣いてるの?」
傍らに引き寄せた孫の声に、老人が声を詰まらせながら頷いた。
「ああ、よく見ておくんだよ。西域は救われる、あの旗がわしらを、導いてくださる」
風にはためくノイスターの紋章旗が、日輪の光を浴びていた。
設定が好きな方のために……。
赤地の旗に、白き盾とそれを囲む蔦の王冠──赤糸の生地は、情熱を。白き盾は守るべき民を、蔦の王冠には、それらを纏めるべき責務を誓ったネレイドの旗。
緑糸の生地に、白き盾、それを囲む蔦の王冠──二代目西方候主ネイルドの旗。
三代目がネアス。
四代目がシュセ(予定)
ちなみに本編には出てきませんが……
トゥメルの紋章旗は、赤糸の生地に一本の鉄槍
ガシュベルは、緑糸の生地に薔薇の円と中央には白馬
だったりします。