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The Kingdom  作者: 春野隠者
ゴード暦528年 覇を統べる王5章
88/103

西域の主16




 王都にシュセからの初戦勝利の報がもたらされたのは、彼女らの勝利から三日後だった。すぐさまそれは王都に知れ渡り、各地でささやかな宴が催された。

 王が主催する宴にオウカ・ジェルノは不機嫌さを胸の奥底に隠し参加していた。穏やかな好々爺の仮面をかぶり彼女らの勝利を讃える。

「このたびの、緒戦の勝利。さすがは白き戦乙女!」

 持て囃された彼女の話に、相槌をうちつつ、オウカはここ最近の襲撃のことを考えていた。

 クトゥザーラに命じて襲撃者たちを襲わせたものの、成果は芳しくない。それどころか、クトゥザーラを撃退して退けるほどの腕が立つ。

 黒い髪の女。

 東都を統べる、双頭の蛇。その首領が確か似たような容姿だったはずだ。ならば、本格的に東都が王都に手を伸ばしてきたということだろう。

 だが、未だ証拠もない。

 衛士の長として、治安を取り仕切る身分となってから雑事は多い。彼女を捕まえることができるなら、東都を奪い返すまたとない機会とはなる。

 だが、クトゥザーラで手に負えないとするといかなるものをぶつけるか。

「ふむ」

 遠目に貴族たちから賛辞の言葉をかけられる王の姿を見る。そして、その周囲。宴の席であろうとも、鎧を外すことのない近衛の姿。

 あるいは王とぶつけてみるのが良いかもしれない。

 毒見には厳重な監視の目が光り、兵を起こすにはいまだ兵力差は大きい。なによりも、シュセ率いる討伐軍の勝利のおかげで、ロクサーヌ中が王に喝采を送っているこの時期だ。兵を起こしても不利であることはいなめない。

 王自身に責めるべき失政がないのなら、その部下はどうか。

 シュセ・ノイスターなる女の騎士は今討伐軍の将となり、王都にはいない。さらにいえば、先日届いた戦勝報告によって今勢いがあると見ていい。

 徒に手を出して、逆に叱責を被るのは損であろう。ならばほかの者……例えば、クラウゼとユイルイ今回の討伐軍には参加していなかったが、軍においてはあのカル、シュセについでの実力者といっていい。

 例えば、文官の筆頭格フィフィ・オルグやベルモンド。彼ら自身がいくら、潔癖であろうと、その親族全てが後ろ暗いことがないなどということはありえない。

 人がいればその数だけ、欲望があるのだから。

 だが、しかし……。

 手に持ったグラスに視線を落とせば、皺枯れた自身の手が目に入る。老いさらばえた自身の身体。健康に気をつけてはいるが、からめ手から攻めて果たしてあの生意気な小僧を追い落とす所まで持つのだろうか。

 一抹の不安。

 誰にも平等に襲い掛かる時間という魔物が、オウカには殊更憎く感じた。

「迂遠なことじゃ」

 口の中で呟いた言葉を、手に持った高級な葡萄酒と一緒に飲み干す。

 カルの治世を覆す決定的な一手。

 自身が権力の至高の座へと至るべき、一手。

 こうなってくると、有力な貴族たちが悉く先の動乱で死に絶えてしまったのが悔やまれる。オウカ一人がカルに反旗を翻したとて、軍の信望厚きカルを追い詰めることは難しいだろう。十貴族の半数でも生き残っていれば、まだやりようはあった。

 武力を持っての蜂起を牽制以上の効果として使うこともできたであろう。

 しかし、十貴族の悉くは死に絶え今わずかに残るのは、あの小僧をのぞけばミザークとジェルノ家のみだ。

 カルの小僧を襲い、謀殺しその罪を東都の賊に。

 酒を舐めることで口の端が吊り上るのを隠す。

 逆らいし者に懲罰を、不遜なる野心に鉄槌を。

 大貴族たる野心を胸にオウカ・ジェルノは酒を飲み干した。





「ガドリアからの道筋はどうだった?」

 クルドバーツが用意した隠れ家の一つでサギリは、笑みを浮かべた。

 未だ時刻は夜の明けぬ時刻。

「お気遣いありがとうございます」

 丁寧に返事をするのは、杖を突く少年。見れば彼の片足は作り物だった。

「現場を見るというのは大切ですね」

 照れたように穏やかな笑みを浮かべると、薦められて椅子に腰掛ける。

「東都は大丈夫なンだろうね、ルカ?」

「ご心配なく。シロキアさんにお願いしていますので、現状維持なら十分だと思います。サイシャとケイフゥには増員した分を含めて、兵の指揮の練習をさせています」

 ふん、と鼻を鳴らして笑うサギリにルカンドは自信を持って頷いた。

「連れて来たのは」

「双頭の蛇の若手を20名」

「まぁまぁだね」

 満足そうに頷くサギリ。

「サギリさん、ひとつお願いがあります」

 その表情を確かめて、ルカンドは表情を改める。

「できるだけ人は殺すな、かい?」

 笑みはそのままだが、サギリの瞳は笑っていない。冷気さえ感じさせる漆黒の瞳は、ルカンドを品定めするように見つめている。

「はい」

 姿勢をただし正面から、サギリの瞳を見返す。そこに恐れはなく、自身の意志を押し通そうとする決意だけがみなぎっていた。

「心配しなくても今回は少なめさ。何せ“正義の味方”ってやつだからねぇ」

 可笑しそうに口の端を歪めるサギリを尚も、じっと見つめていたルカンドだったが、やがて息を吐き出すと頭を下げた。

「お願いします」

 真摯なルカンドの態度に、サギリは苦手な料理でも見るように眉間に皺を寄せ柳眉を潜める。

「アンタ段々嫌な性格になってきたね」

 頭をあげたルカンドに向かってサギリが言うと、ルカンドは苦笑で答えた。

「日頃の薫陶の成果だと思いますよ」

「ハン、言ってな!」

 軽口を言うと席を立ち、去ろうとするルカンドの背中に向けてサギリは声をかける。

「この後は商売かい?」

「ええ、クルドバーツさんと……何か?」

「輸入品目の中に、キレーヌの苗木を入れておきな」

「キレーヌですか? 乾燥に強い木ですけど……なぜ?」

「いいかい、ルカ。人を生かすンなら、先々のことを考えな……説教は終わりだ。行きな」

 一度頭を下げるとルカンドは退出した。

「これで手駒は揃ったね」

 一人呟くとサギリは視線を西向きの窓の外に向けた。

「……フン。アタシもヤキが回ったかね」

 ガシガシと頭をかくと苦笑を口元に張り付かせる。





 昼からの政務を終わらせカルが自身の定めている槍の稽古の時間を得たのは、すでに日の沈みきった時刻だった。昨日からの宴で、午前中いっぱいまでは仕事にならなかった。

 積載された書類と格闘を午後から始め、区切りをつけたのは夕食時。それから更にかかり、先ほどあがった複数の案件に結論を出したところだった。

 訴訟から、経済、商人らの品物にかける税の金額。ある程度までは彼の優秀な文官集団である推官に任せてしまっているが、最終的な判断はカル自身がしなければならない。

 よってそれらに対する知識がどうしても必要となってしまう。ゆえに、一つ一つの案件に時間がかかり、結果として彼の仕事の時間は長くなってしまっていた。

 スカルディアの庭園。かつてシュセが、奴隷の商人によって追われて迷い込んだ場所に、今は一人カルが槍を構えている。

 上半身には薄い肌着を纏うだけ。豪奢な黄金の髪を今は邪魔にならないようにまとめてあった。

 風のない夜に、月が煌々と槍を振るう姿を照らす。

 まるでそこに敵がいるかのように、一突き、一薙ぎに力が入る。時に相手からの攻撃を受け流すように、槍の石突で弾き穂先で貫く。それを徹底して繰り返す。10回繰り返したならば、さらにその二倍の数を淡々と、しかしいささかも惰性に流れることなく。

 そのうちカルの上半身を覆う肌着は汗にぬれ、額には玉の汗が浮かぶ。都合100回、彼は槍の“型”を繰り返して槍を下ろす。

 吐き出した息は、燃えるように熱い。

 月光の下で体を休めるその姿は、美の女神が嫉妬するほど絵になる姿だった。引き締まった身体は無駄な肉の一片すらなく、長身は同年代の少年の間でもひとつ飛びぬけたもの。白磁を思わせる肌は、同年代の少女たちの羨望と嫉妬を買うこと間違いない。

 凍るような湖水の色をした瞳は、熱狂とは無縁の涼やかさを目元に漂わせ、当代一の彫刻師が彫ったのかと思わせる整いすぎた鼻梁。朱をさしたような口元は、美姫すら酔わすように熱い息を吐き出していた。

 槍を引き抜くその動作すら優雅さを感じさせるのは、彼自身が練り上げた気品か。流れるような動きに、呼吸を整えたカルが再び構えを取った。

「誰だ?」

 簡潔にして圧力すら伴ったその声に、月光をさえぎる木陰から黒装束のものたちが這い出る。その数5つ。

「偽称の王に死を」

「暗殺者か」

 くぐもった声が影の中から聞こえると同時に、彼らが同時に走り始めた。左右散り散りに走り出す暗殺者を認めながらカルの動作はいっそ優雅と言って良いほど緩やかだった。

 下段に構えた槍の穂先が、ゆっくりと鎌首をもたげる。

 カルを包囲される。後ろに二人。前に三人。

「やれ」

 正面影から声が聞こえた。

 声が聞こえるか聞こえないか。一瞬の間を侵蝕するように一歩踏み込む。長い槍の間合いの射程範囲を生かし、正面の男に向かって突き進む。

 一斉にかかる敵を肌で感じながら、正面に向けて突き出す槍。先ほど“型”で行っていたのより、数段速度をあげた必殺の速度をもって正面の敵を突き殺す。

 だが敵もただ突き殺されるわけはない。虚を衝かれたとはいえ未だ数の上での有利が覆されたわけではない。死ぬのが遅いか、早いか。その程度の差でしかないのだ。

 突き殺そうと突き出された槍先を、体をひねってさける。腕に掠った後から血が流れ出るが、それにかまう余裕はない。

 体ごと前に出たカルが、勢いをとめないまま、槍の石突で崩れた体勢の暗殺者を弾き飛ばしたのだ。

「が、はっ!?」

 くぐもった声を確認してさらに、右にいた敵を薙ぐ。

 突進から急停止、一瞬にしての方向転換。戦いにおいて有利を占める地の利。それは確かにカルが握っていた。片手で槍を握りなおし、さらに一撃。

 なぎ払われた敵と逆方向から迫っていた敵に足払いを決める。

 一瞬たりとも止まらないカルの槍捌き。手元に戻った槍が、瞬く間に繰り出されいつの間にか手元に戻っている。

 カルの槍捌きが尋常ではないと悟った襲撃者達は、手に投擲用の小剣を握る。

 瞬きの間に放たれたそれは、四方からカルへと迫る。それを槍を振るう風圧のみで弾き飛ばす。

 だがそのうちのひとつ。後方から放った投擲剣がカルの肌着を裂いて、かすり傷を負わせる。

「……っ!?」

 かみ殺した悲鳴はカルのもの。敵にこちらの動揺を悟らせないよう、無表情を装う。

 目がくらみ、体がしびれる。

 ──毒。

 意思の力を総動員して、一歩踏み出す。

 体は刻一刻と自由をなくしていく。底なし沼に沈んでいくような、体の痺れ。

 動きが止まったカルを確かめるように、賊の一人が止めを差そう近寄ってくる。

「死ね!」

 叫んだ声とともに、振りかぶられた敵の刃。それが振ってくるのにあわせて渾身の力で槍でなぎ払う。

「くっあ!?」

 悲鳴すら上げる余裕もなく吹き飛ばされる賊。

 警戒を緩めていた賊が再び緊張を取り戻し、投擲剣を握る。再び放たれた投擲剣を、カルは地面に倒れこむようにして避けた。

 普段ならたやすく起き上がれるはずの体。自身の体でないように、すでに自由はない。

「死んで、なるものかっ!」

 倒れたカルを殺そうと、集まってくる賊徒を、湖水色の瞳に炎の様な激情を宿してカルは睨み付ける。

 約束がある。

 友と、最愛の人と、従う家臣に誓った約束が。

 再び振るわれる槍。

 二人をなぎ倒したその槍に、襲撃者たちの方が恐れをなす。

 カルはそれを杖にして立ち上がるも、もはや自分から仕掛ける力は残っていなかった。

 再び距離をとった賊たちは、再び投擲剣を投げる。

 苦痛の声とともに体をひねるが、足と肩にそれぞれ一刀ずつ受けてしまう。

 だが、カルはまだ諦めてはいなかった。

 カルの執拗な抵抗で、残る賊徒は2人。

 後一撃。

 朦朧とする意識の中だが、近寄りさえすればカルにもまだ勝機はある。ぐっと、奥歯をかみ締めて意識を保つ。

 戦闘で乱れた呼吸を浅く、膝を突く。毒が回るのが早いのは血液に乗って全身に行き渡ってしまうからだ。運動を繰り返せば毒は早く回り、それだけ動けなくなるのが早くなる。

 ならば──。

 カルはその場に膝を突き、ぐっと目の前の敵だけを見据えた。投擲剣を投げられても致命傷となる者以外は気にする必要はない。先ほど受けた感じだが、血を流して動けなくなる程の威力はない。せいぜいがかすり傷を負う程度。

 投擲剣による攻撃は甘んじて受けよう。その後、やつらは近づいて来ざるを得なくなる。その時こそがカルのほとんど唯一の勝機だった。

 再び構えられる投擲剣。

 それが投げられる寸前に。

「よぉ、お困りかい、坊や」

 嘲笑に似た笑みを顔に張り付かせ、夜の闇からその女は現れた。

 それが味方かどうかはわからない。だがその女はカルの傍らに立ち、暗殺者達を睥睨する。

「失せな」

 その女の声一つで、今まで執拗にカルを狙っていた暗殺者達が下がる。じりっと、軽いうめき声をもらしながら、暗殺者たちが下がっていく。

 そして彼らは負傷した仲間を連れ、夜の闇の中へと消えて行った。

「ずいぶんと、手ひどくやられたね」

 女が上から笑いかけてくるが、それに対してカルはまともに返事を返すことができなかった。体をめぐる毒が、急速に彼の意識を奪って行ったからだ。

「……おま、えは……?」

 やっとそれだけ紡ぎだしたカルに振ってきた声は、ひどく冷めたものだった。

「……魔女さ」

 そしてカルの意識は完全に闇に閉ざされた。





 怪我の養生と、周辺地域への斥候の派遣にシュセら討伐軍は四日の時を要した。

 暗殺者の襲撃に、一旦は気丈な振る舞いすらできなくなったシュセだったが、ジンに慰められている自身を恥じてか、一刻もすれば自身の気持ちに折り合いをつけていた。

 泣くだけ泣いた後に、くすりと微笑んで。

「今のは内緒にしてくださいね」

 と言っている様子などは、年相応の少女にしか見えなかった。

 暗殺者の襲撃に最も動揺が激しかったのは、むしろ彼女よりも周囲の方であった。その報せを受けたときには全員が愕然とし、次いで怒髪天を突くが如く怒り狂った。

「今すぐ四週に斥候放ちその襲撃者とやらを見つけ出さねば!」

「この闇では捜索とてままならぬだろう!」

「ならば森に火を放て、隠れる場所もなくなってちょうどいいだろうが!」

 気が狂わんばかりに叫び、暴発寸前の彼らを嗜めるのは、彼女をしても一苦労だった。

 結果として、彼女の通常の護衛の人数は三倍に増えた。彼女の周囲の者からすれば妥協に妥協を重ねてその数字になっているのだが、シュセからすれば懇願に懇願を重ねて極力減らしてもらったのだ。

 彼女自身はすぐにでも軍を前進させることを考えていたのだが、周囲の火山の噴火ような熱気に押し切られ渋々怪我の治療に専念することになった。

「良いですか、シュセ様はそもそもが無用心すぎるのです! いかに腕が立つとは言いましても、嫁入り前の身体。何かあってからでは遅いのですぞ!」

 そういって真剣に忠告してくるのが、家族などほとんど構うことがない父親達なのだから奇妙なものだとシュセは首をかしげた。だがあるいはそれは当然なのかもしれない。

 中年の働き盛りの男たちにしてみれば、シュセに対して恐れ多くも、とは思いつつも、自身の娘のような親近感を抱いているのだ。

 そのような彼らからしてみれば、今回の暗殺騒ぎは愛娘が乱暴をされそうになったと同意義か、それ以上であろう。概して父親というものは娘には甘いものなのだ。

 当然怒りの量は、火山の噴火の如く。しかも小規模なものではなく、大噴火だ。

 事、シュセの身辺警護に関する限り、シュセ自身の意見はほとんど取り入れられなくなったのは言うまでもない。

 シュセが半ば無理やり“絶対安静”を言い渡されている間に、父親達は周辺の捜索を徹底して行った。

 結果として周辺の村々からは、トゥメルの勢力を駆逐することに成功する。あるいはトゥメル側からの散発的な騎馬での妨害行為も、ほとんど全て退けたといっていい。

 周辺からトゥメルの勢力を駆逐し、村々を解放する。それを名目に掲げたシュセ率いるロクサーヌの軍は村々に対する暴行と略奪の一切を禁止した。

 これが可能であったのは、シュセが率いてきたのが、農民出身の兵士ではなく戦を専門とする専業の兵士だったからだ。加えて彼女の威令がよく全軍に行き届いていた。

 彼女が元々率いていた近衛からなる騎馬隊の将兵と、カルが再建をしていた国軍ともいうべきロアヌキア軍の将兵が共に彼女を慕っていたのが大きかった。

 白き戦乙女は、自分たちを勝利の栄光に導いてくれる。

 隊長クラスになればそういって兵たちの士気を挙げたし、兵士達に近い班長や伍長にいたっては、生きて故郷に帰してくれる、といって兵士達を励ました。

 実際彼女の出す指示は、目的が明確でわかりやすかった。そのうえ、戦となれば常にその身を最前線に晒し、兵士達はその姿を見るたびに死の恐怖を押し込めて、戦場で戦った。

 ケイウッドの村で四日間周囲の斥候を放ったシュセは次の目標を、西方第一の都市ベルガディから二日の距離にあるカーティスという町に定めた。

 カーティスという村は、森林地帯が広がる西域においては珍しい、農耕地に適した平地が広がっている。西域第一の都市ベルガディの胃袋を養う、小麦はカーティスで生産されるのが常だ。ここを占拠してしまえばベルガディに至る整備された街道を手に入れることになる。

 収穫前の小麦畑が広がり、小麦の畑の中に町を囲む低い城壁が町をぐるりと囲んでいる。近くには、小さいながらも湖があり、平和なときには西方候主の避暑地として知られた町だった。

 西域地域の要衝であり、それは敵もわかっているはず。

 シュセは警戒をしつつカーティスの町へと兵を進めた。

 だが、予想された敵の反抗は全くと言って良いほどなく奇妙なほどの静寂が彼女たちを迎えることになる。

「ずいぶんと、静かですな」

 将兵の一人に話しかけられ、シュセは無言で頷く。

「油断をしないように、町に兵を入れなさい」

 シュセの命令の下、長剣隊を先頭にして町への侵入を果たす。町を巡る城壁に付けられた門は開け放たれ、町の中はまるで無人のごとく静まり返っていた。

「妙な……」

 長剣隊を率いるイェンルは、町の中央へと進むにつれてその静けさに舌打ちした。今年で43になる彼は、カルやシュセらが生まれてくる前から軍歴を重ねたラストゥーヌの元私兵だった。主家が没落したのを切欠にロアヌキア軍へと志願したのだが、冷遇を覚悟した彼の覚悟とは裏腹にシュセはその実力を認め、一つの(ユーセル)を任せるまでに厚遇してくれた。

 彼の脳裏を様々な可能性がよぎる。伏兵の存在、罠の存在。後ろ向きになりがちなその思考を声を張り上げることによって振り払う。

「各班異常はないな!?」

 それぞれの班から、異常なしの報告にイェンルはさらに前進をする。

 イェンルの長剣隊が町の中央、広場になっている場所に差し掛かったとき、先頭を進んでいたイェンルは、老人を認めて隊の全身を止めた。

「何者か!?」

 誰何の声は幾多の戦場越えて銅鑼金のように、響く。

「この町の長老衆でございます。この町は一切ロクサーヌの方々に抵抗することはございません。どうか御慈悲を」

 降伏するということなのだろう。イェンルは頷くと、後方に待機させておいた伝令をシュセの元に走らせる。

「それはありがたい。われらとて無用な流血は避けたいところだ。しかしご老人。この町はずいぶん静まり返っているが……何か訳でもあるのか?」

「若いもんは、徴兵に取られてしまいましてな……男は兵士に、女は人質としてベルガディに」

 悲しげに話す声音には、疲労の色があった。

 ざわりと後方が騒がしくなったのを聞いてイェンルは振り返ると、馬上の人となっているシュセの姿があった。

「シュセ様!」

 簡易の礼をしてシュセを迎えるイェンルが彼女に事情の説明をする。

「そうですか」

 静かにうなずいた後彼女は、町の長老たちに向き直った。

「事情はわかりました。できる限り貴方がたのご子息が戻ってこれるよう尽力致します」

 まさかそんな言葉が一方の将軍から聞けるとは思っていなかった長老衆は、半信半疑で彼女を見守っていた。

「あんの……」

 その長老衆の中から一人の老人が進み出る。迷いながらも、シュセに対して声をかけた。

「もしかして、貴方様は……ネアス様の、ご息女様では?」

 ざわりと、長老衆全てがその老人の言葉に瞠目する。

「ネアス・ノイスターはわたくしの父にあたります」

 僅かに俯いたシュセ。その前では彼女に質問をした老人が皺深い顔をくしゃくしゃにして泣き崩れていた。

「帰ってきただか。……ノイスターさまは、帰ってきた、だかぁ」

 地面に頭をこすり付けるように、顔を覆って泣き崩れる老人。その姿にイェンル達は呆然とするしかない。

「そんな、だんがお嬢様は行方不明って……」

「だけんど、あの緑水の髪は確かに……」

 ざわりと揺れる長老衆に、シュセは目を伏せる。自身の悔しさも、押し殺して言葉をつなぐ。

「お父様が亡くなってから、私はクレインの叔父様……いえ、クレイン・ノイシュタットによって亡き者にされそうになったのです。着の身着のままで逃げ出したわたくしは、途中奴隷商人に捕まってしまい……そこで陛下のお母上様に」

 老人達に理解が広がっていく。

「こ、これを覚えておいでですか?」

 一人の老人が懐から出したのは、細工の施された小刀だった。

 柄に描かれた紋章には、日輪を囲む鳥兜の葉。鞘には小粒の花柄の意匠が施されていた。

「日輪に鳥兜は、ノイスターの紋章。鞘の方は、白波花は感謝の印……父からの贈り物ですね」

 刻まれた意匠を優しく読むとくように、寛恕は小刀の鞘と柄をなでる。

「おおぉぉ……」

 それで、もう疑うものはいなくなった。ノイスター家は、贈り物の際に、花言葉を多用していたのだ。幼いころからシュセ自身も父親に習って花言葉は一生懸命覚えさせられた。

 特に白波花は、西方にしか咲かない独特の花だった。

 長老衆は全員泣き崩れ、ロクサーヌ軍は抵抗どころか、歓迎されてカーティスの町を占拠するにいたった。





 カーティスの町から以西の町村では、戦える男と村の若い女は軒並みベルガディへと避難させられていた。男は兵士に、女は人質にするためだ。西域の者がロクサーヌの者たちに、何をされるか心配したトゥメルの気配りもあった。

 最もロクサーヌ側ではシュセの威令によってそのようなことは、ほとんど行われず、また行われたとしても厳格に処分を下していたのだから、トゥメルの心配は杞憂に終わる。

「オシリスの砦まで、引き込んで合戦に臨む。異存はあるか?」

 このところ精彩を取り戻しつつあるトゥメルは、ぎょろりと幹部を見渡した。短く刈り上げた髪に、筋肉の鎧をまとったような体躯から、ほとばしる覇気が会議の場に緊張感をもたらしていた。

 トゥメル率いる西域軍の全軍は、今現在ベルガディに参集しているだけでも、3000を超える。西部からの騎馬隊に加えて、雑兵(ぞうひょう)と呼ばれる農民兵を文字通りかり集めて膨れ上がっているからだ。

 間もなく西部からの雑兵も到着すればその総数は4000を越えることになる。オウカがカルの前で披露した数とほとんど違わない。

 その見通しの確かさは、さすがに謀略を持ってロクサーヌを支配した老人のものだった。

「イアーソン、ウェイネ。貴様らは騎馬隊と合流し、引き続き奴等の後方を撹乱を続けろ。ただし、被害が出る前に引き上げろよ」

 小気味良い、返事が若手の幹部の中からあがる。

「ユネック、ティター、ギンメル。貴様らは砦の防備と修繕だ。ギンメル、グンメル殿の仇が討ちたかろうが今は抑えよ。必ず機会は俺が作ってやるからな!」

 名前を呼ばれた者は背筋を伸ばし、トゥメルの命令に返事をする。特にギンメルなどは、涙を流さんばかりに、トゥメルの指示を聞いていた。

「ボーランデ。お前は集まってくる兵の編成だ。せめて雑兵が銅鑼の音を判別できる程度には、訓練せねばならんからな」

 ボーランデと呼ばれた古参の幹部は、すっかり白くなった頭を掻いて頷いた。顔には深いしわとともに、トゥメルに対する信頼と押し付けられた仕事に対する苦笑が浮かぶ。

「良いか。オシリスの砦を奪われたなら、ベルガディは目と鼻の先だ。今まで俺たちの故郷を奴らに踏みにじらせておいたのは、この一戦で王都のやつらを殺すためだ。良いか、ぬかるなよ!」

 トゥメルの檄に、全員が頭を下げ各々の仕事に駆けていく。

 ロクサーヌの軍勢はすでに、オシリスの砦から二日の距離、カーティスの村を占拠しているとの報告が入っていた。だがそこから動かない。

 何を狙っているのかが不透明だったが、トゥメルはあせる気持ちをぐっと押さえ込んだ。

「負けはせぬ」

 彼らが動かなければ、こちらも万全の準備を整えて迎え撃てるのだ。

 獰猛な笑みとともに戦の仕度を始めた。

 シュセ率いるロクサーヌの軍勢が動き出したのは、さらに4日後だった。





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