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The Kingdom  作者: 春野隠者
ゴード暦528年 覇を統べる王5章
87/103

西域の主15



 月の明かりは木々に遮られ、その下には届かない。暗闇の中に沈み、息を潜める影が2つ。

 声を出すことなく2つの影は村を伺う。今朝2つの軍勢がその占有を争った村だ。

「――」

 交わす視線で、意志の疎通がはかられる。

 狙うのは、主将が首。シュセ・ノイスターという名前の少女の首だ。

 爛々と輝く瞳で、村を睨む初老の男。黒ずくめの服に、平坦な顔の口元には不敵な笑み。

 動きは獣のように早く、月がかげるのに合わせて林から這い出る。

「――」

 四つ足の獣のように地面を這い進む。獣除けの柵も、足場の悪い畑も彼らの速度を阻むものではなかった。

「――」

 その彼ら2人が急停止して目の前に立つ男を睨む。月がかげる中、鬼火のような赤い瞳が地面を這う彼らを捉えていた。不敵に歪む口許が、その男の自信を伺わせる。

 言葉はない。だが、その男が構える双剣が、言葉よりも雄弁に戦意を伝えていた。

 双方から放たれる殺気に、空気の質さえ変わる。夜の闇が、質量さえ伴って彼らを押しつぶそうとする。

「――」

 僅かに視線を交わし、目の前に立つ男に襲いかかった。

 低い姿勢から足下を狙って、四つ足のまま跳ぶ。もう一人は男の首筋を狙って走る。

 手の甲に装備した鈎爪が、畑の土を巻き上げながら振るわれる。足首にねらいを定めた一撃に、男が舌打ちと同時に双剣の左をぶつけてきた。

 首筋を狙った右からの攻撃に双剣の右を合わせる。左右からの攻撃に、難無く合わせてくる目の前の敵。一瞬で始末してしまうつもりだったが、これは予想以上の難敵だった。

 悪くすれば、援軍を呼ばれ折角の機会がふいになってしまう。

 小さいとは言え戦の後、疲れた兵士たちが寝静まるこの時は、これ以上ない程の機会であった。

「――」

 僅かな迷い。

 交わされた視線に、襲撃者の一人は目の前の敵に襲いかかった。

 限りなく地面に近い位置から、研ぎ澄まされた鈎爪が足をねらう。

 後ろに飛び退く敵に、鈎爪を再び振るう。下から上へ。左右連続して繰り返される流れるような攻撃に男の行動を封じ込め、もう1人は目的を果たすため走る。

 舌打ちと共に、男が双剣を振るう。

 鈎爪を防ぐため両手の双剣を振るう。闇夜に、火花が散る。そのたびに陰影が彼らの横顔を照らす。一瞬だけ闇に咲く火の花。

 その数が、10を数えた所で両者が距離をとる。

「惜しいな……実に」

 四つん這いの男から声がもれる。耳を騒がす雑音のような声。

 それに耳を傾けることなく、離れた距離を詰めていく。

「その若さにして、その技量」

 声音に余裕すら漂わせる。だがそれに構わず、赤い瞳の男は突っ込んだ。

 下に構えた左が、体ごと突っ込んでくると同時に振るわれる。

 正面から、獲物を狙う肉食獣のような動き。下から上に空間すら切り裂くような速さで、鈍色の刀身が走り抜ける。

 それを紙一重でかわし、鈎爪の男が両腕を翼のように広げ、飛び退く。着地とほぼ同時に地を蹴り、双剣を振るう間合いを殺す。

 驚きに目を見開く双剣の男に膝を叩き込む。膝には補強防具を仕込んでいる。それ越しにでもわかる骨を折った感触。

 肋骨を折った手応えに、口元が歪む。

 衝撃に九の字に曲がる双剣の男の背中に、肘で畳み掛ける。殺傷力なら鈎爪が上だが、相手を崩すなら連打がものを言う。

 肘から顔面に掌打、弾ける男に止めの鈎爪を叩き付けようとして――

 赤い瞳が値踏みするように、向けられているのに一瞬気を取られた。

 暗殺者としての勘が危険を告げる。踏み込んでいた足のつま先に全体中をかけて、後ろに引き戻す。

 瞬間、双剣の男を切り裂こうとしていた腕の肘から先が消えた。

 力なく後ろに倒れそうになっていたはずの男の腕が交差している。肘から先を失って飛び退くのと、双剣の男が赤い唾を吐き捨てながら、態勢を立て直すのは同時だった。

「ふざけた真似を……」

 苦々しく呟く声に、双剣の男は声もなく笑った。







 ふわりと、蝋燭の火が揺れた気配にシュセは振り向いた。

 目に映るのは揺らぐ天幕の裾野のみ。

 びりり、と首筋の後ろに痺れを感じた瞬間、彼女の手からはほとんど反射的に細剣が真上に向かって抜き放たれていた。

 天幕の天井、つかまるところさえないその空間に向かって振りぬかれた銀の細剣。切り裂くはずの天幕の布を裂くはずだけだった剣先に、ありえない衝撃が走る。

 鋼と鋼のぶつかりあう衝撃、驚愕とともに、見開いたシュセの瞳に移ったのは天井からぶら下がる黒い影。反射的に身を引くのと、その黒い影が落下してくるのはほとんど同時だった。

「くっ……」

 かみ締めた奥歯と同時に吐き出された息もつかの間、影の発する異様な殺気に、態勢を立て直す暇もなく細剣で突きを繰り出した。

 上下二段。

 瞬きの間に繰り出された二連撃。並みの者なら反応すらできないシュセの二段突きに、襲撃者は余裕すらもって鉄甲で払って見せた。

 払った鉄甲から延びる鉤爪が、蝋燭の明かりを受けて黒く光る。

 ──近づいては不利!

 そう判断したシュセは、距離をとろうと細剣を横薙ぎに払いつつ、後ろに下がる。だが襲撃者は元より逃がすつもりなどない。横薙ぎに振るわれた彼女の剣の下を、掻い潜るようにして彼女の間合いの内側へと入り込もうとする。

 横薙ぎに振るわれた細剣が、勢いを殺さぬまま彼女の手元に引き寄せられ、再び突きの態勢となる。

 “突き”とは本来死太刀と呼ばれる物だ。

 その技を放ってしまえば、隙を生じるのが当然の大技。であるから、当然放つからには一撃で決めなければならない。だが、シュセはその死太刀の隙を感じさせない連続した動きの中に、組み込んだ。彼女の非凡さは、目を見張るものがある。

 だが、この時点においては襲撃者の実力が上回った。

 再び突きを繰り出すシュセの剣先が、襲撃者の肩を掠める。

 その一撃に、内心シュセは(ほぞ)をかんだ。掠めると同時に、間合いの内側に侵入しようとし、それを防ごうと、シュセは再び突きを繰り出そうと細剣を手元に戻す。

 だがその途中、引き付ける途中の細剣を弾き飛ばされ、彼女自身も振るわれる鉤爪に二の腕を浅く切り裂かれる。尚もその距離から脱しようとするシュセに、襲撃者の足払い。

 倒れこむシュセののど元に、鉤爪が突きつけられた。

 睨み付ける彼女に、黒衣の衣装から顔だけ覗かせた襲撃者は見下ろす。

 落ちてきたのは、聞いてるシュセが不愉快になる嘲笑だった。

「クックック……」

 しわがれた声に、平坦な顔の初老の男。脂ぎって爛々と輝く瞳だけが、ひどく汚らわしかった。

「なるほど、見れば見るほどあのイシキアにそっくりじゃわ」

 イシキア──その名にシュセは突きつけられた鉤爪も忘れて目を見開いた。

「なぜ、貴様が母上の名を……」

 驚愕に歪むシュセの顔を、舌なめずりするように眺める襲撃者。

「クッカッカ、しらいでか。あのイシキアという女はなぁ、必要などなくとも誰にでも体を開く……そう淫売と呼ぶのも足りないほどの女であったぞ」

「うそだっ!」

 喉に鉤爪が食い込むのも忘れ、シュセが吠える。だが、襲撃者は彼女の怒りすらも嘲りの対象とするように頭をつかむと、地面にたたきつける。

「嘘なものか、当時の有力な貴族であるオウカ・ジェルノを始め、ヘェルキオス・ヘルシオ。果てはわしのような暗殺者や、おう……そうそうネアスの実の弟たるクレインにも存分に抱かれておったぞ」

「ふ、ふざけるな!」

 大の男の力で押さえつけられたシュセは、あまりの誹謗に反撃すら頭になくただ、語られる事実を否定する。

「クッカッカ、貴様がどう思おうと勝手だがな。お前はあの母の何を知っているというのだ? いや、母などという者ではないか。あれは徹頭徹尾ただの牝だった」

 滴る言葉が彼女の心を侵食していく。怒りと衝撃にわなわなと震える体に、さらに襲撃者が追い討ちをかける。

「貴様もその血を引いているのだろう? 男ならば誰でもよく銜え込み、クッカッカ。あの王都にいる小僧には、もう抱いてもらったのか?」

「貴様っ!」

 怒りに任せて腕を振りあげるが、大の男の力にかなうはずもない。

「クッカッカ、しかし貴様は本当にネアスの娘なのか? よく思い出してみろ、貴様の母親は誰といつあっていたんだ?」

「わ、わたくしは!」

「クッカッカ……まぁ、良い。貴様の狼狽ぶりもなかなか楽しめた。それにそんな心配もしなくて良くなろう。今すぐにな!」

 振り上げられた鉤爪。

 同時に天幕を切り裂く音がして、襲撃者はわずかに視線をむける。

「逃げるなよ。せっかくのお楽しみが台無しじゃねえか」

 口許に浮かぶのは、不吉の象徴である弦月のように歪む笑み。赤い瞳は闘志をみなぎらせて、襲撃者を捉え顔の半分は額からの出血で真っ赤に染まる。

 その傷と血の量さえも、全く問題にせず、不敵に笑う。

「疾っ!」

 瞬時にシュセを襲っていた男に向かって奔る。

 手にしたのは、双剣。幾多の命を奪ってきた鋼鉄の刀身が、再び血を啜らせろと叫ぶ声さえ聞こえる。

「くっ、手負いの小僧が!」

 シュセに突き付けていた鉤爪さえも防ぐことに、使いその場から飛びのく。

 熟練の暗殺者をして、驚愕させるほどにジンの技量はあがっていた。

 相手が下がるのを認めたとたんジンは休む間を与えず、追いすがる。左右双剣が竜巻のように、鉤爪を巻き込み、一度巻き込まれれば体勢を崩さざるを得ない。それほどまでに、鋭く強い一撃一撃。連続して叩き込まれるその攻撃に、襲撃者は焦りを覚える。

 交わし続けることは比較的容易だった。

 双剣の軌道自体は見切れないわけではない。時間をかければ、隙を作り出し初手の勢いのまま流れるこの攻防を有利に導くこともできるだろう。

 だが、しかし襲撃者はその性質上時間をかけるわけにはいかない。

 ここは敵地の真ん中、ロクサーヌ軍の只中にいるのだ。

 今は放心しているシュセが一声外に声をかければ、彼は幾多の敵に押し包まれ無残に嬲り殺される。ありありと思い浮かべるその結末が、襲撃者の心にほんのわずかに影を落とす。

 その影が、ジンの双剣を見切れているにも関わらず反撃に移れない理由だった。

 目の前のジンを倒し、シュセの首を取り、さらにはこの地を脱出せねばならないのだ。ゆえに、無傷。それで目の前のジンを倒さねばならない。

 振るわれる双剣は唸りを上げる風を思わせ、剣筋の鋭さは何十年も剣を頼りに生きてきたように迷いのない。

 双剣の切っ先が触れるたび、その天幕は無残に切り裂かれ、最初は余裕を持って見送っていた襲撃者の黒衣を切り裂くまでに接近する。

「おのれ……」

 低く舌打ちして襲撃者は背を向ける。

 置き土産とばかりに、飛礫が投げられる。

 激しく体を撃つ飛礫に、ジンの追撃が緩まる。その隙を見逃さず、襲撃者は天幕の外へ走り出た。

「ここまできてっ!」

 舌打ち混じりに吐き捨て後を追おうとするジンに、シュセの叫びが聞こえる。

「ジンさん! 待ってください」

 その声のあまりの悲痛さに、ジンが足を止め振り返る。

 鍵爪がわずかに肌に食い込んだのだろう。首筋から血を流し、震える体を抱きしめるシュセの姿。その姿にジンは驚いた。

 彼女が傷つくのに驚いたのではない。ジンが僅かに目を見開いて、驚いたのは彼女の顔。いつも強い意志が芯を通したような、凛とした表情などは微塵もない。

 以前ジンが戯れに殺そうと試みたときでさえ、こんな顔をしてはいなかった。

 琥珀色の瞳はジンを捉えているはずなのに、虚ろに空を彷徨い、口元には笑みを浮かべようとして失敗したとしか思えない笑みが浮かんでいる。

 怯えや恐怖などではない。それはジンにも理解できた。

「おい」

 あまりのことに、思わずジンの方から声をかける。一度や二度命の危機を感じたからとて、こんな表情を見せるような女ではなかったはずだ。

「はい……」

 小さく聞こえた声。

 眉根をひそめ、一瞬だけ襲撃者の去っていった方を振り返ると、双剣をしまう。

 もはや追いつけないだろう。

 ジンが気になっているのはシュセの方だ。あの襲撃者に何かされたのだろうか。

 歩み寄るジンに、シュセの体の震えは大きくなり、笑顔といえない笑顔を俯かせる。

「おい」

「はい……」

 目の前に来ても彼女はジンの顔すら見ようとしない。

「どうかしたか?」

 その言葉に、シュセはびくりと体を震わせた。自身を抱く腕に力を込めて、決壊しそうな感情を必死に抑える。

「いえ、呼び止めてすいません。なんでもありません」

 ぼそぼそと呟き背を向けようとするシュセに、獲物を逃がした不愉快さも相まってジンは苛立った。

「ふざけてるのか!」

 苛立ちのままにシュセの肩を掴んで振り向かせる。

「あっ」

 それはあまりにもか弱い悲鳴。騎士として普段振舞う彼女からは想像もできない声音だった。

「おまえ、なに……泣いてんだ?」

 振り向いたシュセの琥珀色の瞳から溢れる涙に、ジンの方が驚いて固まってしまう。怒りのままに掴んだ肩から手があっけなく外れる。

「泣いている?」

 自身そのことにすら気づいていなかったのか、シュセは自分の手で目元をぬぐうと、彼女にはまったく似つかわしくない嘲笑に似た笑い声をたてた。

 狂気すら漂わせるシュセに、ジンの方が戸惑う。

「さっきのアレに何かされたのか?」

「ふふふ……いえ、なんでもないのです。可笑しくて、仕方がないだけ」

 心と同じような引きつったような笑みで、涙を流しながら笑う彼女の顔が、なぜか城から助け出されたときのルカンドと重なり、いつも無理やり強気に振舞うサイシャと重なり、悲しいときほど笑っているケイフゥと重なった。

「ちっ……馬鹿が」

 罵ったのは、自身かシュセかそれとも両方か。ジンの腕が頭ひとつ低いシュセの頭を抱き寄せる。

「え? なにを?」

「泣きたきゃ泣け、我慢すると見てるこっちが痛々しい」

 見上げるシュセにぶっきら棒に言うと、ジンは視線をそらす。

「なんで、わたくし、が……あなたの胸で、泣かなければ……」

 じんわりと広がるその腕の中の暖かさに。

 嗚咽の中から、それだけ搾り出すと、シュセはジンの胸にすがった。

「……耳を、塞いでいて下さい。あと、ごめん、なさい」

 言われたとおりジンは耳を塞ぎ、目を閉じた。

 彼女が何に対して謝ったのか、わからないまま彼女の気が済むまで動かなかった。






 とんとん、とノックの音がする。

 誰だろうと思う。足音からして、トゥメルではないように思われた。窓の外に向けていた視線を、扉のほうに戻し、入室の許可を与える。

「失礼します」

 その声とともに入ってきたのは、いまだ少女と呼べる年齢の侍女だった。

「カチューシャと申します。これからナルニアさまの身の回りのお世話をさせていただきます」

 ぴょんと頭を下げる様子はとても愛らしく、丁寧な言葉遣いからは育ちのよさが伺えた。

「よろしく、お願いします」

 そう言ったきりナルニアは窓の外を眺める。そんな様子のナルニアに、頓着せずカチューシャは部屋の掃除を元気よく始めるのだった。

「あのっ!」

 あらかた掃除を終えて、少女が元気よくナルニアに話しかける。

「……はい?」

「お掃除終わりました!」

 気がつけばナルニアにあてがわれた部屋は随分きれいになっている。

「ありがとうございました」

 ぼんやりと、また窓の外を眺めるナルニアにカチューシャは根気よく話しかけた。

「ナルニア様は、トゥメル様のことお嫌いなのですか?」

 ナルニアは窓から視線をそらすことなく、悲しそうに呟いた。

「わからない、です。そんなの」

 その返事をどうとったのか、カチューシャはナルニアに一歩近づく。

「不躾だとは、思いますし。こんなことを言うもの失礼だとは思うのですが、トゥメル様のことお嫌いでなければ、せめてお手紙を書いてくださいませんか?」

「お手紙ですか?」

 窓に向けていた視線を始めてカチューシャに向ける。

 改めてみれば、カチューシャの挙動はかなり不信なものだった。

「あの、その侍女の先輩の方々が話してるのを、お聞きして、そのナルニア様は心に傷を負っているって……その」

 胸の前で手を合わせ、頬を染めてだが必死で思いを伝えようとナルニアに言葉をかけてくる。

「お、男の人がだめだって言うのも聞きました。お気持ちはわかります。でも、でも」

「あなたに、私の何がわかるの?」

 ナルニアの口から漏れた言葉は彼女が意図したものよりは随分と冷たく、胸の底で揺らぐ心は声と反比例するようにぐらぐらと揺れていた。

「わかります!」

 目じりにためた涙をぬぐいもせずに、ナルニアを見つめるカチューシャ。

「あなたに何がっ!」

 心の奥底から突き上げる感情が、制御できなくてナルニアは思わず怒鳴ってしまう。立ち上がり、カチューシャを追い払おうとした矢先。

「わかるんです……」

 泣き出したカチューシャが胸元を緩めて肌を露出させる。

 その姿にナルニアは絶句した。

 体中に未だ癒えぬ痣の後、中には明らかに拷問の後とかし思えない火傷の跡もある。

「つい先ごろまで、私はガシュベル、さまのお屋敷に奉公をしていました。そこで、その……」

 戸惑ったように少女の声は小さくなる。当然だろう自分のされていたことを、思い出したくなどあるはずがない。

「ガシュベル様に、飼われていました」

 泣きはらした目元からは相変わらず涙がこぼれている。だがこの瞳の強さはなんだろう。

「犬や猫みたいに、気に入らなければ折檻され、気まぐれに嬲られる。そんな生活をしていました」

 その絶望を、ナルニアは知っている。

 逃れられない苦痛も、無力も、悲鳴を上げるからだとそれを嘲笑う男たちと。

 気づけば彼女は両腕で体を抱きしめていた。凍えるように背筋に恐怖がよみがえる。腰が抜けたように椅子に倒れこみ、もうカチューシャの方を見ている余裕などない。

「でも、でも私は助けてもらえたんです」

 驚くほど近くから聞こえた声と、ナルニアをそっと抱きしめるぬくもり。

「私なんて助けても、トゥメル様には何も良いことなんてないのに。だから、だからナルニア様もきっと立ち直れるはずです」

「簡単に言わないで」

 震える声には既に嗚咽が混じっている。

「ごめんなさい。簡単に言ってますね。でも、ナルニア様には立ち直っていただきます」

「どうして、そんなに……」

「私トゥメル様が好きなんです」

 ぎゅ、とナルニアを抱きしめる小さなカチューシャの腕に力が入る。

「でも、トゥメル様が好きなのはナルニア様です」

「でも、でも、私は」

 子供が駄々をこねるようにナルニアは泣きじゃくる。その様子を愛おしそうに見つめてカチューシャは幼子をあやすようにナルニアの背をなで、続いて頭をなでた。

「私は我侭なんです。みんなに、幸せになってもらいたい。だから、ちょっとずつで良いんです。前に進みましょう?」

「わがまま、ね」

 にっこりと頷くカチューシャに、泣きはらしていたナルニアは少し笑った。

 その日から、カチューシャはトゥメルの部屋とナルニアの部屋を何度も行き来することになる。交わされる文章は徐々に二人の間に、絶たれたと思われていた絆を作り始めていた。

 それをカチューシャは嬉しそうに、見守った。






 折り重なる死体が広場に死臭を振りまく。

 村中から集められたその屍は広場に集積され、火をかけられるのを待つばかり。すでにそれは、人などではなくモノでしかない。

 藁葺きの屋根の小さな家々、いまやそれを占拠しているのはトゥメル軍でもなければロクサーヌ軍でもない。

 女の屍を四体重ね、それを椅子代わりにした男は苛立たしく周囲に怒鳴り声をあげた。

「まだ捕まらないのかっ!?」

 それはブライズと呼ばれた男の声。浴びた返り血が彼の顔に凄惨な様相を刻む。

 鉄製の鎧に、両手で振るわねばならない大剣を大地に突き刺し堂々と構えているのは一軍の将といっても通じる。

 彼率いる盗賊団は、先日からロクサーヌが進行しつつある西域の戦場地域を荒らしまわっていた。すでに食いつぶした村は3つめになる。

 未だガッチリとトゥメル歩兵軍が支配をしている西部よりもより仕事がし易かろうと、クシュレアに献策されたのが図にあたって、随分と手軽に村を襲うことができていた。

 村人の口さえ封じてしまえば、もしロクサーヌ軍と出会ってしまってもなんとでも言い訳できる。トゥメル歩兵軍はこの戦に消極的だし、西都まで引き込んで戦うつもりだというのをクシュレア経由で聞いてから、ブライズ率いる盗賊団はまさに無人の野を行くが如く、東部を荒らしまわっていた。

「あの、女ぁ」

 奥歯をかみ締めるブライズの様子に周囲を固める者らが恐怖する。

「てめえらもいって、探してきやがれ! なんとしても俺の前まで引きずってきやがれ!」

 あわてて返事をする部下たちに苛立ちを隠せない。

 彼が今必死になって行方を捜しているのは、クシュレアとその仲間2人だ。

 村を潰し血の臭いに酔っていた部下達も、やっと落ち着きを取り戻した時に彼女らは現れた。旅装に身を包んでたが、その魅力は失われることなく血に酔って、散々村の女どもを犯した男達ですら思わず舌なめずりするほどだった。

 彼女らを知らずに、ちょっかいをかけようとした新入りがあのエレガと名乗る長身の女に叩き伏せられる。思えば、ブライズ自身仕事を終えたばかりで気が立っていたのだろう。いつものように鷹揚に構える余裕がなくなっていた。

 ブライズ自身は否定するだろうが、元騎士である彼にとって無抵抗のものを殺すというのはやはり心がささくれたつものらしかった。

 だから、クシュレアの言葉にささくれた気持ちが一気に憎悪にまで高まるのに時間はかからなかった。

 いつもの交渉ごとが、上手くいかないのにクシュレアも内心は苛立っていた。彼女らは賊徒の跋扈するガドリアで雪華に所属していた。ゆえに人死にには慣れている。だが、村の様子は眉をひそめるほどの虐殺でしかない。

 嫌悪感しか沸かないその様子に、目の前のブライズたちにおいてさえ嫌悪の対象としか見えなかった。いつも以上に強気に出たのはそんな自分の心の動きを相手に知られたくなったからだ。

「そんなに、あたしらが気に入らないなら交渉はこれっきりさ」

 いつもなら駆け引きのはずの言葉が、ブライズには最後通牒に聞こえた。

「この状況で逃げられると思ってやがるのか」

 ブライズの言葉も、クシュレアには駆け引きに思えた。だからその次の言葉を聴いた時には驚愕に目を見開いた。

「てめえら、この女どもをやっちまえ!」

 ブライズの手下たちが武器を構えるのと、エレガとカーナが己の得物を構えるのは同時だった。

「クシュレア!」

 悲鳴に似たエレガの声に、瞬時に周囲を見渡しクシュレアは抜け道を探す。

「東だ、抜けるよ!」

 我に返ってからの彼女らの行動は早かった。クシュレアとカーナの投擲剣が、降り注ぐ横殴りの雨のように一斉に放たれ怯んだそこに、エレガが単身突き進み道を作る。

 焦ったのはブライズも同じ。

 彼女らが逃走を図っている方向には、ロクサーヌ軍がいる。もし合流されたなら、仕事がやりにくくなるばかりではなく討伐の対象として、狩られるのは目に見えている。

 クシュレアのことだから、なんと言ってロクサーヌの軍勢を篭絡するかわからない。

「逃がすんじゃねえぞ!」

 怒りと憎悪に胸を焦がしながら、一方で西に偵察を出すことも忘れない。今はおとなしいとはいえ、ベルガディからトゥメル歩兵軍がいつ出張ってくるかもわからないのだ。

「くそったれ!」

 どうしてこうなった、と悪態とも愚痴とも付かないものを吐き出してブライズは左右両方の勢力をにらんだ。




 トゥメルが自身の部屋で一心に、ナルニアからの手紙を読む。

 初めてその手紙を受け取った時の笑顔、驚き、今でも色あせないそれがカチューシャの喜びだった。思わずその大きな背中に、ニシシと笑みがもれる。

「ん? どうかしたか?」

 声が漏れてしまったのだろう。大きな背中を震わせてトゥメルが振り返った。

「いえ、なんでもありません」

 にっこりと笑うカチューシャに、そうかと言い置いてトゥメルは手紙の返事を書き始める。

 ナルニアのことになると、まるでトゥメルは初心な男の子のようだった。そのギャップがカチューシャにはたまらなく愛らしい。

「なんと書いてあるか聞いても?」

「あ、ああ。お健やかですかと、な。後は季節の花々のことなど」

 照れたように短く借り上げた髪を書くトゥメルに、カチューシャは笑いをこらえるのが精一杯だった。

「トゥメルさま!」

 荒々しい足音ともに乱暴に扉が開かれる。息切って走ってきたのは軍の伝令。

「何事か?」

 厳つい声は戦場で鳴り響く勇者の声音。

「グンメル様、敗北。自軍は総崩れにて」

「そうか……軍議を開く。幹部らを招集しろ」

 重々しく、眉間には深い皺が刻まれていた。

「トゥメルさま……」

「ああ、すまぬ。カチューシャ返事はまた後でだな」

「あの、負けないでください! きっとナルニア様もそういうと思います!」

 苦い笑みを浮かべると、やさしく彼女の頭をなで部屋を後にする。その苦しそうな様子に、カチューシャの心は締め付けられるようだった。

 トゥメル歩兵軍の主だった幹部達が集まったのを見計らって、トゥメルは口を開いた。

「先ほど、伝令から報せがきた。グンメルが敗れたそうだ」

 ざわつく幹部たちは目に見えて動揺する。

「伝令!」

 そのざわつきが収まりきらぬ中、次なる伝令が届いた。

「ヨストークの村が、全滅。同じくフィーシャの村も」

「全滅だと!?」

 目をむいたのはトゥメル。幹部の中には座っていた椅子から腰を浮かしかけているものもいる。

「まさかロクサーヌ軍か!?」

「わかりません。略奪の後は見られますが、村人は全員……」

 悲痛な面持ちの伝令兵に、下がるように指示すると会議は重苦しい雰囲気に包まれた。

「盗賊、ということも考えられるが……しかし全滅とは」

 盗賊がそこまで徹底して村人を殺すことなど、西域ではなかった。盗賊自体も村人が貧しいことは知っているためだ。徹底的な搾取は自分たちの明日をも奪う。

 だから彼らがその行為をロクサーヌのためだと考えても不思議ではない。なにせ西域では盗賊よりも領主軍のほうが性質が悪いとまで言われていたのだ。

「そこまでやるかロクサーヌ!」

 口々に交わされるのは、無為に村を全滅させてしまったという悔恨。

「トゥメルさま、出陣の許可を! このままではロクサーヌ軍に西域は滅ぼされてしまいます!」

 だが怒りに燃える眦を裂いてトゥメルは首を振る。

「ロクサーヌ軍は、ベルガディ近郊までひきつけて殲滅する」

 初めて方針を打ち出したトゥメルに、不安に互いの顔を見交わしていたものたちも、トゥメルに視線を集める。

「ですが、それでは村々が!」

「かまわぬ。一度ロクサーヌを打ち破ったならば、その勢いをかって王都まで攻め上ってくれる!」

 その覇気に、暗雲立ち込めるばかりであった会議の場に始めて幹部たちは明るいものを感じた。軍の都合を最優先させるゆえに、トゥメルは民に嫌われる。

 民に犠牲が出たとしても必ず勝てる方法をトゥメルは常に選ぶからだ。

 怒りに任せて拳を机に叩きつけるトゥメル。

「戦場の選択を急げ! 農民兵の収集はどうなっているか!? 西部の文官どもに東部の民の受け入れ体制を取らせろ!」

 トゥメルの怒声にも似た指示に、幹部達は不敵な笑みを浮かべ、各々うなずきあう。

 これだと、これこそがトゥメル歩兵軍のありようだ。

 西域最強の軍が、ゆっくりと動き出した。



西域の主編、そろそろ目処がついてきました。

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