西域の主13
暗いまなざしは、外の喧騒とは無縁のもの。
外の熱狂が高まれば高まるほど、老人の皺くちゃな顔の奥から注がれる眼差しは、冷ややかになっていった。
「機会といえば、機会ではある」
敵の前では常に笑みを絶やさぬその顔は、今はすっかりと表情が抜け落ちてしまったようになっていた。ぽっかりと空いた深淵のような、暗い視線が、花舞う進軍の先頭を捉えていた。
「王の側近にして、唯一の将。かの者が敗れたとあらば、さて……あの小僧めはどうでるか?」
感情が抜け落ちたかのような無表情の、口元だけがゆがむ。
あるいはそれは、笑みだったのかもしれない。
手に持った呼び鈴を鳴らせば、立て付けの悪い扉は軋みを上げて開いた。
「お呼びで? 翁」
現れたのは、平坦な顔に瞳だけが爛々と輝いている初老の男。
「西だ」
「で、誰を?」
「あの淫売……イシキアの娘の首」
それだけで、通じるものがあったのだろう。初老の男は笑みとともに頭をたれる。
「御意のままに」
そのまま姿を消す初老の男から、オウカは視線をはずし、いまだ喧騒覚めやらぬ外を眺めた。
敷き詰められた毛の深い赤い絨毯。一段高くなったところに、玉座がある。この国唯一の王が座る場所。彼を守るように、近衛の騎士が鉄の鎧をまとい、一部の隙もなく、玉座の前に跪く者をにらんでいた。
跪いているのは、一人の老人。
その老人を挟むように、居並ぶ群臣。中にはあからさまに敵意を見せる者もいる。
「陛下、提案をさせていただきとうございます!」
あらかた議題の話し合いが終わった後、進み出た老人の姿。
硬い玉座に腰を下ろし、カルは目の前に平伏する老人を見下ろした。
縮こまり、小心を強調するかのようなその姿。弱者という立場を利用し、カルが害意を加えられないように仕向けているその姿に、カルは苦い思いを噛みしめる。
「陛下におかれましては……昨今の巷における犯罪の数々をご存知でいらっしゃいますか?」
「増えているそうだな」
平伏したままの姿から、発せられる声にカルは答える。
「シュセ殿が担っていらっしゃった治安に、最近かげりが見えます」
シュセが西域へ出発して十日が経っていた。彼女が率いた2000の兵士による穴は、カルが考える以上に大きなものだった。彼女の副官をしていたクラウゼとユイルイの二人に、治安の維持に当たらせているが、はかばかしい成果はあがっていない。
まるで誰かが裏で糸を引いてるような急激な治安の悪化。
それをオウカは指摘しに来ていたのだ。
「理由は、お分かりでしょうな?」
言わずもがなの確認をするオウカに、カルの内心は渋い。だがそれを表面には出さずに、カルはオウカに問いを投げた。
「何が言いたい? はばかりなく言えば良かろう」
「今のお二方では、シュセ殿の代役として不足、ではなかろうかと」
ざわり、と群臣の中から、ざわめきが伝わってくる。
名指しされたクラウゼは今にもオウカに飛び掛ろうとし、それをユイルイが抑える。しかし、そのユイルイにしても、燃え立つような憎悪の瞳をオウカに向けていた。
「確かに、シュセ様の代わりに、我らが役不足なのは、重々承知の上。だが、しかし! それはほかの何者にも変えられぬものでありましょう」
怒りに燃えながら、しかし十貴族への相応の礼儀をもって返す。若くしなやかな反発に、オウカは内心ほくそ笑み、だが表情だけは憮然として、顔を上げた。
「自身の未熟をあげつらい、可能ごとを不可能と言い切るなど、臣たるものの姿ではないと、存知あげますが」
視線をユイルイから、クラウゼへと移す。
その嘲弄の視線。
「貴様っ!」
ユイルイの静止を振り切り、一歩を踏み出そうとしたとき、玉座からの声がかかる。
「クラウゼ」
その声は静かに、だがその部屋全体に染み渡るように広がった。
「は、はっ!」
燃え滾る怒りに、冷水を浴びせかけられたクラウゼは、その場に膝をつく。
「そこまでだ」
裁定の声に、クラウゼは引き下がるしかない。
「オウカ老。そこまで言い切るなら、我がロクサーヌの治安。回復していただけるのでしょうな?」
「僭越ながら、この不肖の身の全力をもって」
群臣の中に下がるオウカを、見送ってカルは席を立った。
歯軋りするクラウゼと、それをなだめる役に回るユイルイ。彼らを一瞥すると、内心で謝りながら、執務室へ向かう。
オウカがその地位に課された責任を果たせばよい。
だが、もしその地位にふさわしい責任を果たし得ないのであれば……。
「過ぎた野心は、身を滅ぼす。それがわからぬオウカではあるまい」
だとしたら、勝算があるのだろう。その責任を果たせるだけの、自信が。
その手腕を見極めてみようと、カルは思い定めた。
「毒も時として、薬になる……」
取り込めるものは、貪欲に何でも飲み込もう、それこそが王の器というものだ。
内から囁く声に、カルは哂った。
オウカの衛士の長就任とクラウゼ、ユイルイとの確執。それは以前にクルドバーツが金を握らせた騎士経由で、逐次サギリの耳に入ってきていた。
「ずいぶんと楽しそうなことになってンだねぇ」
「楽しいだなんて! 私は店がいつ襲われるか心配で……」
腹の肉を揺らしながら嘆くクルドバーツ。だがサギリはそれに構わず、窓の外――暮れていく夕陽を眺めて口元を歪ませた。
「ユイルイってのとクラウゼってのはそんなに無能なのかい?」
「はぁ……お二人とも、百人程度の統率なら問題なくこなせる方々ですし……丸っきり無能というわけではないでしょうけれど」
「だとしたら」
悪戯を思いついた少女のように、くすりとサギリは微笑んだ。
「火をつけてるやつがいるンだろうさ」
「……オウカ・ジェルノですか?」
この状況で誰が利益を最も受けているか、商人の敏感な鼻が嗅ぎ取る。
「どうせなら、アタシらもそれに便乗してやろうじゃないか」
「こちらでは、まっとうな商人なのですが……」
呟いたクルドバーツの意見をサギリは一蹴する。
「まっとうな商人ってやつは、目の前の利益をみすみす逃すもんかい?」
「いえ。そういうわけではないですが……」
「足のつかないゴロツキと、隠れ家を一軒用意しな。今日の夜から仕事だよ」
嬉々として告げるサギリに、ため息交じりに彼は頷いた。
深い夜がロクサーヌを覆っていた。
草木さえも眠りにつく時刻、ロクサーヌの平民区にある廃屋。
集められた数は20に満たないが、悪人だと顔に書いてあるようなものたちばかり。シュセによる、無法地帯の取締りを逃れ、ロクサーヌに未だ巣食っている害虫に違いない。
それぞれが寡黙にして、立ち上る気配は触れれば切れる刃のよう。
「待たせたねぇ」
暗闇の中からかけられた声の主は、闇に溶けるような長い黒髪の女。
「……てめえが、呼びかけた野郎か」
短剣を弄んでいた一人が、立ち上がる。血濡れのターディといえば、ロクサーヌの裏社会では有名な部類に入る。強盗や殺人を生業とする、賊の一人だった。
聞くからに敵意に満ちた声と、短剣に負けないほど尖った雰囲気。
「ああ、これからアンタらのご主人様になるもンだよ」
嘲笑に満ちた言葉に、その場にいた全員が殺気立つ。
「ふざけろよ」
小さく呟かれた言葉とともに、緩やかな動きから、突如として男が短剣を振るう。サギリの目の前、ほんの指一本分だけ先を掠めた短剣の軌道。
サギリ以外の全員を代表して示された反抗の意思。
「次にふざけた事抜かしたら、その首掻っ捌くぞ!」
低く、ドスの聞いたターディの声は聞くものの背筋を震わせる。
「そりゃ、こっちの台詞だね」
まったく動じず、尚且つ蔑みすら漂わせるサギリの視線が男に理性を忘れさせた。
ぎり、と怒りのままに奥歯をかみ締めると、ほぼ同時、男の右手に握られた短剣が、サギリの白い喉に向かって振るわれる。
寸分の狂いなくサギリの喉を裂き、血の花を咲かせる筈だった、その短剣は天地が逆転した視界の中で空を切る。
肺から吐き出される空気と、共に後ろ手にねじ上げられる腕。
悲鳴すらも絞りだせないまま、頭の後ろから、恐ろしく楽しげな声が聞こえた。
「よく聞きな、ゴミ虫ども。アタシの言うことが聞けねえなら、今すぐここで……」
極められた腕が悲鳴を上げる。無理やり搾り出された声は、悲鳴ですらない空気の振動。息すらできず、赤黒く変色するターディの顔。
「全員殺す」
放たれた言葉に、その場を支配する威圧に、誰一人動けない。
「わかったかい?」
猫をなでるような優しげな声に、地面に擦り付けられた顔を何とか動かし、ターディは頷いた。
と、同時に開放される腕。
激しく空気をむさぼるターディは屈辱と恐怖に、戦慄いた。
「言うことさえ聞いておけば相応の甘い汁が吸わせてやるよ」
「ど、どういうことだ……!?」
やっとそれだけを搾り出すとターディはまた咽る。
「今夜、ハッシバルの屋敷に押し入る」
ハッシバル家は、オウカ派の貴族の一人だった。南都ジェノヴァとの交易により成り上がった富豪の家。
集まった荒くれ者たちが互いに視線を交わす。
「びびってンのかい?」
「へっ……無駄死にはごめんだぜ」
そう言って背を向け走り出そうとした男の一人に、容赦なく投擲剣が飛ぶ。
上がる悲鳴。
「くそ、……いてえ!」
足を突き刺されのた打ち回る男の元にサギリが悠然と歩く。彼女が近寄るにつれ、荒くれ者達が後ろへ下がる。
「お前らはなぁ……もう後戻りなンざ、できねえンだよ!」
放たれた言葉は、圧倒的な覇気を伴って男たちを震わせた。
倒れた男の傷口に突き立った投擲剣を、踏みしだく。
男の絶叫を彩りに、サギリは哂った。
「アタシに逆らって、今この場で死ぬか! 従って富を得るか!?」
誰もが息を呑む。
「や、やるぞ。俺は!」
最初に声をあげたのは、ターディ。
屈辱と泥にに塗れた口で、偽りの忠誠を口にする。
賛同の声に、深く頷きサギリは未だ悲鳴を上げる足元の男を見下ろした。
「その足じゃぁ痛くて、歩けねえなぁ」
しゃがみこむと、男の耳元でささやいた。
「た、助けてく──」
男の声は、サギリの一閃によって断ち切られる。
情けの一片すらない、その女にターディは憎悪を募らせる。
「で、どうやって忍び込むんだ?」
唇についた泥と嘘を払うように、指でぬぐいターディはサギリにぎらついた瞳をむけた。
「あン? 正面から堂々とさ」
自信に満ち溢れた笑みに、殺意すら忘れてターディは一瞬見惚れた。
その夜、ハッシバル家は炎と賊徒の狂宴の舞台となった。
館に居た者で生き残ったものは皆無だった。
西域全域を支配下に治めたトゥメルの元にその知らせが届いたのは、シュセがロクサーヌを出発してから二日後のこと。
西域と呼ばれるロクサーヌの西の地域は、西都ベルガディを中心に幾十の町と幾百の村からなる。その最初の村に差し掛かったころだった。
「ロクサーヌから、王都から軍が差し向けられた……だと!?」
トゥメルを囲む軍の幹部たちは、その知らせに愕然とする。西域を支配したとは言っても、その支配は酷く脆い。圧倒的な武力で押さえつけているに過ぎないのだ。
クレインのような老獪さも、ガシュベルのような狡知もないトゥメルは、当然のことながら政治には向いていなかった。
「数は!?」
罪のない伝令に放たれた怒号に、伝令は背を伸ばす。
「その数、およそ2000!」
その場に居る全員に、衝撃が走る。十貴族同士の争いにより、王都の兵力は減少しているはずだった。その中で2000もの兵を繰り出してくるということは、ロクサーヌで王を名乗る少年は本気なのだと思い知る。
「将は!?」
ごくりと、伝令のつばを飲み込む音が、静寂に響き渡った。
「シュセ……シュセ・ノイスターと……先代のネアス・ノイスター家の娘を名乗っております!」
ざわりと、全員が息を呑み。
「馬鹿な!!」
怒号が一人の幹部から噴出すのと、彼らが互いの視線を交差させるのは同時だった。
「シュセだと……ネアス叔父上の子が、生きていたと言うのか?」
「ありえませぬ! ロクサーヌ側の謀略でございましょう!」
ぼんやりと呟くトゥメルに、幹部の一人が真っ向から否定する。
「そう。そうだな……あの娘が死んだのは、もう10年近くも前になる。まさか、な」
もはや遠くに過ぎ去ってしまった幼い日。
無邪気に微笑む幼い従妹の姿が、閉じた目蓋の裏に映って消えた。
「ロクサーヌの欺瞞、許すまじ!」
湧き上がる幹部達の声に、トゥメルはただ悲しく口元をゆがませた。
いつもなら、ここでトゥメルが率先して怒りを顕にし、先頭切って戦うのだが、彼は動かない。
「トゥメル様!」
呼びかけられて初めて、気乗りしないように頷く。
その様子に、幹部達に盛り上がった気炎も、徐々にしぼんでいく。
「トゥメル様が気乗りしないのであれば……ここは、一旦敵を西域の深くまで敵を引き込み、それから撃破するというのは、いかがでしょう?」
彼の心情を慮って、発言する一人の幹部。
「……そう、だな」
やはり頷くだけの彼に、周囲に居る彼らは一様に不安な視線を交し合った。
会議も終わり、トゥメルはナルニアに与えた部屋に向かった。
トゥメルの屋敷の中喧騒とは無縁の、離れにナルニアに与えられた部屋があった。
その部屋の前、トゥメルは部屋の中に向かって声をかけてもいいものか、迷う。まるで幼子が母親に拒絶されるのを恐れるかのような、その様子は戦場での彼を知っているものならば、目を疑うに違いない。
「……ナルニア」
か細く呟いて、扉をノックしようと手を上げ、彫像のように固まる。
幾ばくかの逡巡のあと、力なくその手を下ろして肩を落とし、トゥメルは部屋の前から立ち去った。
部屋の中で、息を詰めていたナルニアは、彼の気配が扉の前から立ち去ったことでそっと、深い息を吐き出した。
トゥメルの足音が聞こえてきたと同時に、身を硬くするナルニアに、クシュレアは彼女を安心させるように微笑む。
その髪をなで、まるで幼子にするようにその背をさする。
「大丈夫、何も心配することはないさ。ナルニア」
目に涙すら浮かべて頷く彼女に、クシュレアの背筋をぞくりと快感がなぞる。
軽い二つの足音が部屋の外から聞こえてくる。
「クシュレア」
「お姉さま!」
エレガとカーナの呼びかけに、クシュレアはナルニアに注いでいた艶のある視線を上げた。
「時間だよ。ブライズ達のところに行くんだろう?」
見れば二人は旅装を調えている。
「そんな時間か、それじゃナルニア。あたしらは少し出てくるよ」
「あ、はい……」
頼りなさを通り越して、いっそ不憫にすら思えてくるナルニアの様子に、エレガは複雑な視線を向ける。
「すぐに戻るさ」
エレガの言葉に、素直に頷く。
「お世話は、カチューシャがしてくれるはずですぅ」
かつてガシュベルの屋敷で、召使いとしてガシュベルに虐待を受けていた彼女は、ガシュベルの屋敷がトゥメルに攻め落とされると同時に、彼に保護されていた。
それはカーナも同様で、それ以来カチューシャはトゥメルの屋敷で働いていた。
「うん」
「それじゃ、行って来るよ」
クシュレアがそう言って扉を閉めると、ナルニアは部屋で一人になった。
「ナルニアを、一人にしちまっていいのか?」
「トゥメルのやつは、何もできはしないさ。あの腰抜けじゃあね」
鼻で笑うクシュレアに、エレガは渋い顔をする。
「それに、ブライズ達が最近動きが怪しいからね……カーナ、わかってるだろうね?」
「はいです!」
「頼むよ。エレガ」
「ああ、それは良いけど」
歯切れの悪いエレガに、笑みを返し、クシュレアは悠然と歩き出した。
トゥメル自身の消極さもあって、シュセ率いるロクサーヌ軍は快進撃を続ける。
ほとんど抵抗らしい抵抗もなく、西域中部の重要な拠点であるティンラーという町にいたる。ティンラーの重要さは王都からの距離があげられる。馬を飛ばせば一日でロクサーヌに着ける限界の距離が、このティンラーという町にあたる。
さらに、緑水のベルガディと呼ばれる西域の、本格的な支配地域がティンラーの西に広がっている。豊かな水量を糧として、生い茂る深緑の木々。西方の森林を切り開いてできた、開拓地域ならではの細い道と複雑な地形。
ここを占領したシュセは、周辺の状況を探らせるために斥候を放ち、自らは天幕の中でその知らせを待っていた。
ほどなくして、斥候が持ち帰った情報により、前方の状況が明らかになる。
騎馬の単騎で半日の距離に、村がある。
そこにいたる道筋は細く、周囲は鬱蒼とした森林に囲まれている等々、いよいよ西域に来たのだという実感が、シュセと彼女を取り巻く将官達を包んだ。
「出発は明日。日の出と共に、出発します」
短くそれだけを告げると、彼女は部下達を下がらせる。
「帰って来た」
目蓋を閉じた彼女は、銀の細剣を一度手探る。
何をするために、と問いかける声は自身の内から。
「カル様。父上……」
思い浮かび、消えていく過去の記憶。
夜が明け、空が白み始める。
ロクサーヌの方角から、陽が昇る。
「出発!」
颯爽と騎馬に乗り、琥珀色の瞳は遥かベルガディをのぞむ。
淡い緑の髪が、風に揺れた。
引き抜いた銀の細剣。陽光の光を受けて煌めいたそれは、取り戻すべき故郷に向けられる。
「反逆の徒に、王の裁きを!」
凛としたシュセの声に、彼女に従う2000名の兵士は奮い立った。
「西都の解放を!」
先頭を進む白亜の騎士の姿は一枚の絵のようで。
「西都の解放を!!」
槍を掲げて叫ぶ兵士達の喚声は、明け始めた空に響いた。
地震の影響で次の更新は未定に。