西域の主7
宵も深けた時刻になって、クシュレアとエレガは宿と定めたトゥメルの別邸に戻ってきた。疲れ切った様子のエレガと、普段にもまして艶やかなクシュレアの二人に、カーナは不満をぶちまけた。
「お姉さま!? どうして、カーナを連れて行ってくれないのですぅ? 子供のお守りなんてまっぴらです」
二人からみればカーナとて充分幼いのだが、本人はそのことを言うと怒るのだ。容姿と口調から少女とみられがちだが、カーナは既に成人を終えている。北方の山々に住まう小柄な少数民族の血が彼女の身体には流れているのだ。
「別にぬけものにしようってわけじゃないさ」
エレガの言葉を受けて、クシュレアを睨むカーナ。頬を膨らませて怒る様子は、子供が拗ねているようにしか見えないが、本人は至って真面目であった。
「ちゃんと出番はあるよ」
膨らんだ頬をエレガに弄ばれ、音を立てて空気を吐き出す。
「本当に、本当ですか?」
苦笑して頷くクシュレアに彼女はにこやかな笑みを返した。
むっつりと、トゥメルは黙り込んで馬車から降りた。時刻はすでに夕暮れ。赤い斜光がトゥメルの顔に深い影を落とす。眉間に刻まれた皺は深く、固い。激しい怒りと屈辱に、瞳はぎらつき、今にでも手にした長剣で何か手頃なものを叩き斬りたいとすら考えていた。
理由は、先程まで聞かされていたガシュベルの弾劾である。
「一時の気まぐれで罪人を釈放するなど、しかも力づくでするなど法の守護者たる領主の資格はない!」
要約すればそういうことだった。今回は父も弟の味方をし、叱責を受ける有様だ。父のあの笑顔の中で恐ろしく冷たい瞳が、失望を浮かべて自身を見ていたことに、トゥメルは気がついていた。実の子をみるような温かい視線ではない。まるで商人がものの価値を見定めるような、無感動で冷徹な瞳。
思い出しただけで、ぎりりと歯ぎしりしてしまう。怒りにまかせて暴れ出しそうな感情を、喉元で自制して口をへの字に引き結ぶ。
当然その様子は家人達にも分かってしまう。機嫌が悪い主に、まるで腫れ物を触るかのごとく接する。その態度がまたトゥメルの機嫌を尚一層悪くした。
「酒だ!」
自身の部屋に戻り、乱暴に命じると、運ばれてきた蒸留酒を瓶ごとあおる。背もたれに体重を預け、机の上で足を組むと、空になった瓶を投げ捨て、次の強い酒をあおった。酩酊にでも逃げ込まねば、やりきれなかった。
何故だ、と朦朧とする意識の中で何度もトゥメルは繰り返した。次第に意識朦朧として、暗い闇が彼の思考を塗りつぶしていった。
トゥメルとガシュベルは母が違った。トゥメルの母は商人の娘だったのに対し、弟ガシュベルの母は西方でそれなりの地位にある貴族の娘であった。
最初父であるクレインが娶ったのは、トゥメルの母であった。実家の資産目当てに、トゥメルの母を娶ったクレインは、その財産を使い切ると、あっさり彼女を離縁した。
献身的にクレインに尽くした彼の母は、苦しい生活の中でトゥメルを育てる途中、無理が祟って病没する。
「良い? トゥメル、お父様の力になれる立派な騎士になるのですよ」
それが彼女の遺言であり、なぜ彼女がそこまで父に尽くしたのか、トゥメルには分からなかった。だが、わからぬなりにトゥメルは努力した。だが金はない。当面自分の面倒を自分で見なければならないと考えていたトゥメルに、転機が訪れたのは母が死んですぐのことだった。
「西方候主ネアス様のお呼びである」
救いの手を差し伸べたのは、父ではなく叔父であった。物心ついてから初めて父をみた感想は、疑問だった。幼い頃より母のもとで育てられたトゥメルには、目の前のクレインを目にしても実感が沸かなかったのだ。
まるで他人のような父に母を失った悲しみを埋められるわけもない。だが、クレインに引き取られて一つだけ良いことがあった。
本だ。経済から算術、英雄の生涯まで様々な本がそこにはあった。中でもトゥメルを熱狂させたのはメルギド・ラストゥーヌの伝記である。一騎士から武功を積み重ね、ついには大貴族の地位に手を届かせた王都の英雄。共感を覚えたのは、家族に恵まれない環境だった。時には涙ぐみながら必死で伝記を読破し、幼いトゥメルは心に決めたのだ。
強い騎士になろう、と。
トゥメルは耳に流れる心地良い歌に、うっすらと瞼を開けた。
「お目覚めになりましたか?」
頭蓋骨の中で暴れる痛みを、眉間にしわを寄せて耐えると声の主はすぐそこにいた。
「ナルニア殿か」
酒の飲み過ぎで粘つく口内だったが、ナルニアの名前を乗せた時だけ、涼やかなものがよぎる。
「ずっと歌っていてくれたのか?」
窓から差し込む光は既に黒鳥の羽に覆い隠されたように暗い。燭台に灯った蝋燭がナルニアの顔を照らした。やや俯いて頬を染めるナルニアが、頷く。
「他に取り柄もないですから」
「そなたの歌は、千金に値すると思うが」
トゥメルは半ば本気で言ったが、ナルニアは首を横に振るだけだった。
「それにしても、なぜここへ?」
「改めてお詫びに。私の願いを聞いてくださったばかりに辛いお立場なのだと……家宰さまに、お聞きました」
余計なことを、と内心トゥメルは舌打ちした。
「……トゥメル様、私達はそろそろ立ち去ろうかと思います。これ以上ご迷惑をおかけしてしまわぬように」
「何!?」
目をむいたのはトゥメルだった。二日酔いの痛みも忘れ立ち上がると、背を向けるナルニアを呆然と眺めやる。
「行く当てがあるのか?」
「いいえ、でも」
黙り込んでしまうナルニアの背のなんと頼り無いことか。トゥメルの豪腕で抱き締めれば、折れてしまいそうにトゥメルには思えた。
「ならば、ここに居れば良い。父の非難など恐れるに足りぬ」
決然と言い切るトゥメルに、ナルニアは頭を振る。
「それでは、私の気が済まないのです。お世話になった上に、その恩を仇で返してしまった。そして、私達がいるかぎり、トゥメル様のお立場は弱いままだと」
振り返ったナルニアの瞳には、涙があった。ダメだ、と思った。トゥメルがナルニアを抱きしめてしまおうと、一歩前にでようとして。
「だから」
その一歩はナルニアの言葉に阻まれた。
「お別れです」
涙を浮かべ、口元には必死に笑おうとするナルニアに、トゥメルの足は凍り付いたように前に進まない。
「……そうか」
胸が張り裂けるばかりの気持ちを押し殺し、なんとか紡ぎ出した言葉は、彼の力を根こそぎ奪い取った。力無く、椅子に座り込むと、肩を落として目をつむる。
「ありがとうございました。失礼します」
そう言って立ち去る彼女を止める力さえ、彼には残っていなかった。
「ほんとに出て行くの?」
不満というよりは、確認のための質問。問われたナルニアは少し戸惑ったように頷いた。
「座長が言うなら仕方ないけど」
なぜ? というエレガの途切れた言葉の続きを、ナルニアは沈黙をもって遮った。
荷造りを1日かけておこない、クシュレアとカーナには買い出しを頼んである。仲間の不満がナルニアには重かった。
ルカンドから頼まれた仕事――ベルガディの内情を探ることは、難しくなるかもしれない。探るのであれば、ベルガディだけでなく、他の小さな村々までも巡るべきだと、自分自身に言い訳し、黙々と荷物をまとめる。
「ナルニアお姉ちゃん……」
呼ばれた声に手を止めて振り返ると、不安な面差しのセリアと視線がぶつかる。とっさに視線をそらして、ナルニアは謝罪の言葉を口にした。
「ごめん、ね。力になってあげたかったんだけど……」
一緒に旅をしようと誘うのは簡単だが、この幼い少女がついて来れないのは火を見るより明らかだった。未だ歩くこともままならない兄の世話をしなければならない。
ナルニアが彼女達にしてあげられることといえば、僅かばかりのお金をその手に握らせることだけだった。
――卑怯だ。
ナルニアは自身の行いに吐き気すら催す。一度助けると言っておきながら、その手を途中で離す。それは、相手の希望を打ち砕くために、最初から助けないよりもたちが悪いのではないだろうか。
どんな罵声を浴びせられても、文句は言えない。ナルニアはそう考えて、目を閉じた。セリアの怒りをぶつけやすいように屈んで、彼女の視線の高さに合わせる。
しかし、予想に反してセリアからは何も言ってこない。代わりに小さくあたたかな温もりが、ナルニアを包み込んだ。
「お姉ちゃん……」
ぐすり、と洟をすすらりセリアはナルニアの首筋にその小さな手を回した。これまで大人といえば奪う側の人間ばかりだった。そんな中で現れた守ってくれる大人に、セリアは言葉にならない感情を全身を使って表していた。
「行かないで……」
すすり泣きの合間から聞こえたか細い声に、ナルニアは完膚無きまでに叩きのめされた。
「ごめん、ごめんね……」
謝るのは卑怯だと自分自身を罵りながら、ナルニアは涙を流しセリアを抱き締めた。
「ナルニアの気紛れにも困ったものです!」
ぷぅ、と頬を膨らませてカーナは憤った。
「あ、あっちの方が安いです!」
しかし品物を選ぶ目は、全くの別物。ナルニアに対する憤りとは関係なく、買い物を楽しむ。そんな様子の連れを、苦笑に近い笑みで見守りつつ、クシュレアは考えをまとめる。
クシュレアがルカンドから頼まれた仕事──ベルガディのロクサーヌへの謀叛を煽ること。それはナルニアに頼んだ仕事と微妙に食い違う。もちろんそれは、ナルニアには知らせていないし、知らせるつもりもない。
どちらが本命なのか、もさしたる問題ではない。ただ実行できるかどうか、がクシュレアにとっての問題だった。
ナルニアとトゥメルを接近させるのには、成功したが、事態が思わぬ方向へ動いてしまった。ナルニアが感情のままに、トゥメルから離れようとしているのだ。トゥメルを利用して、ロクサーヌへの叛乱の火を煽ろうと考えていたクシュレアにとって、ナルニアの行動は誤算だった。
「どうしたものか」
連れ合いのカーナにも聞こえないほど低く、呟いてクシュレアは考え込む。視線は常に自然と市場の風景を眺めながら、しかし脳内ではこれからの行動を組み立てるのに余念がない。
どうすれば、あの兄弟を憎み合わせることが出来る?
互いに軽蔑しあってはいる。しかし、それが武力での衝突となり、ロクサーヌへの謀叛となるには、まだ嵩が足りない。
あまり時間を取られては、あの魔女が動き出してしまう可能性すらある。
ルカンドが語った荒地の魔女の構想。ソレを聞いたとき、修羅場はくぐってきているはずのクシュレアでさえ、背筋に氷塊を突っ込まれたように身震いした。
ふと、視線に入ったのは衛士の姿。
足を止めたクシュレアに気づいたカーナが駆け寄ってくる。
「ふむ……」
考え込むクシュレアをカーナが不思議そうに見あげていた。
「カーナ?」
「はい」
眼を細めて、口元には僅かな笑み。
「出番だ。ただしよく考えてから、頼むよ。踊る相手は性根が腐ってるからね」
くるりとその場で回ってからカーナは嬉しそうに答えた。
「出番がないより、マシというものです」
返事を聞いたクシュレアは、一瞬悲しそうな目になったが、すぐ後には脚本を手がける裏子の顔で不敵に笑っていた。
「事故を、演出に変えてこそ一流ってね」
ベルガディでクシュレア達が暗躍している頃、王都で活動をしていたクルドバーツも一つの区切りを迎えようとしていた。
スカルディア家に仕える騎士の一人に、情報を流させスカルディア家の内情から、誰に頼めば効率良く王と目通りが適うのか、まで調べ上げることに成功していた。
その結果をもって、東都ガドリアまで早馬を飛ばす。
「ルカンド殿とサギリ殿に、届けておくれ」
クルドバーツ自ら使者にそう告げて、早馬を飛ばしたのだ。
「これで、まずは一仕事片付いたな」
やれやれと首筋をなでて、ロクサーヌの初夏の空を見上げた。
ガドリアと比べればなんと、優しい風が吹くのか。
だが、もう間もなくあの厳しい風を背に受けた双頭の蛇が、この王都を踏みにじる為に歩き出すだろう。
華やかなりし、王都ロクサーヌ。
その街が血に染まるのを想像して、クルドバーツは店の奥へ引っ込んだ。
「邪魔をする」
その日の午後、クルドバーツの経営する武器の店に一組の客があった。かけた声は低く、落ち着いたもの。顔に残る傷痕から、兵士か、あるいは後ろ暗い商売をしている者なのだろうとあたりをつける。
この店を任されているテイゼルが、そう感じたのはその男達の目だ。
非情の瞳とでもいうのか、人を殺したもの特有の冷たい視線をしていたのがテイゼルの気を引いた。十貴族同士の内乱から立ち直りつつあるロクサーヌで、こんな目をした者は珍しい。あるいは、旅の者なのかとも思ったが、旅装に汚れがない。
これから旅立つのだと考えれば、やはり珍しい客とするしかなかった。
その客が買い求めたのは、反りの浅い肉厚の剣。
人を斬りやすい剣だ。
視線を合わせたテイゼルが、ぞくりと背筋が冷たくなる。二人の男達は武器を物色すると無造作に選び出し、会計を済ませる。そのとき僅かに合った視線が、思わず冷やりとするほどに冷たい。まるで、これからテイゼル自身が殺されるんじゃないかと、考えてしまうほどに。
だが実際そんなことはなく、客の二人一組の男達は、会計を済ませてさっさと店を出て行った。
その二人が目指す先は、西都ベルガディ。
オウカの抱える暗殺団からの刺客だった。
いつも、ご覧くださっている方には感謝感謝です。
今年もう一度更新できるかどうか、といったところですが、よろしくお願いします。