西域の主2
カルの施した貧民救済のための案は実にシンプルなものだった。
金がないなら、つぎ込めばよい。
家がないなら、作ればよい。
乱暴な方法と取れなくもないが、カルにはヘリオンの命と引き換えに併合したラストゥーヌ・ケミリオ・ヘルシオの財産と、主の意思を政策として実現する優秀な集団が存在した。
『飛翔の舞台は整った』
彼の残したその言葉は、決して大げさではない。
ヘリオンの残した推官達に加えてケミリオ・ヘルシオ家の推官を無傷で取り込んだカルの元には、一国を運営していくだけの推官が集っていたと言っても過言ではない。
特に経済を牛耳っていた、ケミリオ家の推官達を取り込めたのは大きい。
シュセやポーレにいるエルシドらを武官とするなら、今回取り込めたのは主に文官たちだ。成長著しいスカルディア生え抜きの文官達と、今回取り込んだ十貴族の推官達。スカルディア家の家臣団は急速な膨張を見せていた。
そんな彼らが、カルのロクサーヌ復興の意志を受けて提案したのが、戸籍の整理と一時の貸付だった。それの同時並行作業……おそらく一家でやろうとすれば推官が過労死するであろうその作業を、カルの名の下に、スカルディア家の推官。更には、ミザーク、ジェルノら残った十貴族らにも号令をかけて一気に実施した。
その提案にミザーク家は逆らうはずもない。ジェルノ家に関しては、オウカの代理としてその孫を立てる形で賛成の意を表明した。
浮浪者には、貴族の敷地内に設置した仮宿舎を提供し仕事を斡旋する。主な仕事は、公共施設や家屋らの建築。家を失った人々に、家を建てさせる。その対価として、ほとんど金利をゼロの状態でスカルディア家から給与が支払われる。
返済は100年単位としたのだから、ほとんどスカルディアの財力で補ったといえなくもない。
同時に、今までは貴族のものでしかなかった戸籍の制度を平民まで広げていく。ある一定の資産を持つもの達……カルの場合は家を持つ者を、戸籍に登録していく。税の適切な徴税と、兵力確保の一環としてだったが、激減した衛士の穴を埋めるという意味もあった。
十貴族出身の衛士は、ほとんど先の騒乱で死ぬか、不法を咎められ処罰されるかしている。生き残っているのは以前の約半数だった。彼らの量的損失を、文官達は情報で補おうとした。事件が起こったなら、すぐに駆けつけられるようにしたのだ。どこの誰が事件に巻き込まれたとわかれば、その捜査もやりやすい。今までは、そこに誰が住んでいるのかさえわからない状態から、捜査をしなければならなかった衛士にしてみれば、それは大いなる前進であった。
同時に治安維持を目的とした彼らの範囲は、ロクサーヌ北側の貴族区から平民区まで含まれることになり、大規模な募集も行われることになった。
ヘルシオ、ケミリオ、ラストゥーヌを併合したカルだからこそここまでの出資に耐えられた。他の何人もここまでの大規模な、ロクサーヌの復興は望み得なかっただろう。
いや復興というよりも、ロクサーヌはカルの下で生まれ変わろうとしていたのだ。
ロクサーヌの街の中、スカルディアの保有する領地の一片に、孤児達の宿舎がある。ぐるりと、高い煉瓦に囲まれたその敷地は、まるで雛を抱く親鳥のようにみえた。敷地の中の庭園では、大樹が降り注ぐ日差しを遮り、涼風は鎚の音が復興の歌を歌う街中を通り過ぎる。
鬼ごっこだろうか、庭園の中を走りまわる子供らは楽しげだった。
淡い緑の髪。短く整えられたその髪が、街を渡る風にふわりと揺れる。鎧姿ではなく、庶民が着るような動きやすさを重視した男物の服装。腰に差すのは銀細工も見事な細剣。確かな足取りにはこの街を、カルを支えるのだという強い意志がこもっているようだ。
とりたてて美しいということもないが、意志の強そうな琥珀の瞳に、清楚で凛とした雰囲気は彼女の魅力を際立たせていた。
「あ、シュセ様だ!」
庭園で遊んでいた子供の一人が、彼女に気づいて歓声をあげる。その声が伝染するように、庭園で遊んでいた子供らが次々と歓声を上げる。
「シュセさま~」
呼びかけられる声に、形の良い唇を緩ませて彼女は笑いかけた。
「みなさんお元気でした?」
柔らかい彼女の口調に、孤児らが一斉に彼女の足元に縋りつく。
「元気だったよー!」
「クレゼブがイジメるのー!」
「遊んでただけだろ!」
子供たちの喧々囂々とした言い合いに、目を細めると嬉しそうに彼女は微笑んだ。
「仲良くしてくださいね。これからのロクサーヌは、きっと皆さんの力が必要になってきます。みんなで、仲良く、ね?」
頭をなでられると、喧嘩をしていた男の子達は顔を赤らめ、黙って頷く。
「ガジィ照れてやんのー!」
「うるせー!」
またも始まる言い合い。
ここは、シュセがカルに特別に乞うて設立した孤児院だった。親を失い、働くにはまだ早過ぎる子供達を集めて設立した孤児院。名前を、ヘルシーラ孤児院と言う。元ヘルシオ家の所有していた別邸を改築したものだった。
「シュセ様、いらっしゃっていたのですか! 一声かけていただければ、お出迎えいたしましたものを!」
子供たちの歓声に、奥から出てきたのは元ラストゥーヌの使用人達だった。館の全焼から生き残った彼らに職を与え、孤児院の管理を大胆にも任せたのは、シュセの考えだった。
人は食のみに生きるにあらず。
その手に仕事がなければ、生かされているだけになってしまう。その共同体への参加しているという意識こそが、誇りを産み、社会の中で生きるということになるのだ。
「いえ、私など……」
謙遜するシュセに、元ラストゥーヌの住人達は頭を垂れる。
「いえ、とんでもございません。我らはかつての主であるバトゥの所業により、ロクサーヌ中から恨みを買っています。その私たちを救ってくださったシュセ様には、感謝をしてもしきれません」
子供たちは既に、遠くでまた遊びに興じている。
ロクサーヌを焼いたバトゥへの恨みは、本人が死んだ事も含めて、ラストゥーヌ家全体にのしかかっていた。放っておけば、平民に殺されかねない彼らを保護したのが、シュセであった。武人、使用人含めてシュセの元に預かりを申し出たのだ。
武官を望む者には、近々創設されたシュセを筆頭とする近衛軍に組み込まれ、望まぬ者にはロクサーヌの復興の、辛く忍耐強くしなければならない作業を命じた。
「何度感謝しても、したりないぐらいです」
涙さえ浮かべて感謝する使用人達に、シュセは頭をふる。
「わたくしは自分が正しいと、思ったことをしただけです。もし、わたくしに感謝をしてくださるなら……」
ふいに、視線を子供たちに向ける。
「あの子達の、親になってあげてください」
「……必ず、お約束いたします」
力強く頷く彼らに、シュセは満足そうに頷いた。
「陛下」
呼びかける声は最近、頭角を現し始めた文官のもの。
書類に埋もれるようにして決済を下していたカルは、書類の山から顔を上げた。
「フィフィか、何用だ?」
フィフィ・オルグ。ケミリオ家に仕えていた、その文官は珍しい女の推官だった。どっしりとした横幅に、ずんぐりとした体型は平民区にいる肝の据わった母親そのものだ。事実、三人の子供を持つ母親ではあるのだが。
いや、それがねぇ……などと言いながら井戸端で会議をしていても全く違和感のない容姿に、藍色の瞳には慈愛の色がある。茶色の髪は後ろで一つにまとめ、化粧の気がなく専業主婦に見紛う格好をしているが、その経済に関する知識は、カルも舌を巻くものであった。
「本日の戸籍の進み具合と、今月かかった仮宿の出費の合計です。細目は、二枚目に」
やることに無駄がなく、まるで料理を作るように、てきぱきと仕事を片付ける様子は厨房に立つ母親を思わせる。
「順調、だな」
「それはまぁ、あれだけ人と金をつけてもらったのならねぇ」
世間話をするような、呑気な口調。主を敬わないということで、ケミリオ家では冷遇されていたらしいが、スカルディア家に来て彼女は存分に羽を伸ばしているようだった。
「スカルディアの住み心地はどうだ?」
「かわいい坊やがたくさんいるから、私としては全く至れり尽くせりだわ」
豪快に笑う彼女に、カルも微苦笑を漏らす。
「それよりも、早くジェノヴァとの関税をとっぱらってもらいたいもんだねえ。さすがにいつまでも、あの額じゃ財政が厳しいよ」
まるで主婦が物価の上昇を嘆くような声で、愚痴をいう。
「善処しよう」
「ほんとに、頼んだよ陛下」
気安い声に、カルは薄く笑って答えた。
トゥメルの屋敷で開かれた歓迎の宴が終わり、ナルニア達は与えられたひとつの部屋に集まっていた。
「悪くないもてなしだったね」
エレガがベットの上で足を組み替えながら、宴の料理の品評をする。
「んー。噂ではひどい領主だって話だったんですが」
ナルニアも意外なトゥメルのもてなしに、首を傾げる。
「どちらにしても、やることは変わらないさ」
クシュレアの濡れた視線は、窓の外の夜を見据える。
「きっと、クシュレアお姉さまの色気に親切になったのですよー」
舌足らずな喋り方そのままに、愛らしく首を傾げるカーナにクシュレアがくすりと笑った。
「そうだといいけど。まぁ、そんな柄じゃァなかったわね。どちらかと言えばナルニアに、好意をもってるみたいに思えたけど?」
ふふふ、と笑う口元からはいっそ毒々しいほどの笑が伺える。
「そうでした? あまり手応えは感じませんでしたけど」
首をかしがるナルニアを、面白そうに見やってエレガが口を開いた。
「ふ~ん、最有力はナルニアか。じゃ私は弟の方を狙ってみるかな?」
エレガのつり上がった目の奥には、からかいの色。
「噂じゃ、弟のガシュベルってのは、相当の色情魔だって言うらしいじゃないか」
「私も面白い話を聞いたな、ガシュベルは幼い少女しか愛せない……変態だって」
クシュレアの笑みが、カーナに向く。
「へ、変態なのですか!?」
ナルニアの後ろに隠れようとするカーナをエレガが捕まえる。
「何されちゃうんだろうねぇ……あんなことやこんなこと……」
カーナの体を捕まえたエレガの指先が、ツツっとカーナの肌を這い回る。
「あうあうー」
じゃれ合う二人を微笑ましく見ながら、ナルニアは結論をまとめる。
「もう少し、情報が必要みたいですね。幸い領主の信用は得たみたいですし、しばらくベルガディで、活動をしましょう」
三人の頷くのを確かめると、ナルニアも力強く頷いた。
「戸籍のほうは、軌道に乗りつつあるようだな」
「はい、陛下」
続々と届けられる戸籍の名簿に、カルは目を通していた。
「貸付の件はどうだ?」
「まずまず、と言ったところでしょうか」
カルの質問に答えるのは、未だ若い推官の一人。フィフィがケミリオの推官の代表格とするなら、彼はスカルディア生え抜きの推官の代表だった。名をベルモンドという。ひょろりとした長身に、人のよさそうな、だがどこか気弱げな顔が乗っていた。
「まずまず?」
カルの凍て付くような湖水色の視線に、ベルモンドはよく耐えた。背中を流れる大量の冷や汗を無視しながら言葉を続ける。
「貸付をそのままに、逃亡を図ろうとする者が散見されます。対処をしようにも、絶対的に衛士の数が足りません」
「なにゆえ、そのようなことを……ほかの者の手前もある。許すわけにはいかぬな」
口内に広がる苦味にも似た感情。
「戦は、人のあらゆる物を奪います。命、財宝、真面目に生きる意志さえも、時に奪い去るものではないでしょうか。どうか彼らを責めないでください」
悲しげに告げるベルモンドはまぶたを伏せる。
「たとえ、戦乱がすべてを奪い去ろうとも、そこから這い上がって見せるのが、人の意志というものだろう? 間違いを犯したものを許しては、法の意味がない」
どちらが間違いというわけではない。だが、主の意志は絶対である。ベルモンドは、黙って頭をたれた。
この人は強い人だ。ベルモンドの胸中に広がるのは、絶望にも似た感情だった。
強き者は、得てして弱い者を理解しようとしない。ヘリオンに見出されるまで、大貴族の間を泳ぎまわる小魚のような貴族の家に生まれたベルモンドには、カルがかつての大貴族と同じに見えた。
不幸のそこから這い上がる。それがどのような辛きことなのか、若く、そしてロクサーヌ中が羨むあの大貴族の少年は本当に理解をしているのだろうか。
その考えが胸の奥につかえた小骨のように、ベルモンドの脳裏の片隅にこびり付いて離れない。カルの前を辞去し、自分の仕事場に戻ってからも彼の懊悩は続いた。
そのためだろうか。
「あっ」
だからだろうか、小柄なその影にぶつかったのは完全に彼の不注意だった。
「も、もうしわけありません! 考え事をしていたものですから!」
彼は元来気弱である。それが元で、ヘリオンに見出されるまで推官の下で働く、一人の書生に過ぎなかったのだが。バネ仕掛けの人形のように、その場で深く謝罪をする。
「いえ、平気ですから」
思いのほか、下げた頭の上から降ってくる声は軽やか。まるで女性のような、声にふとベルモンドはわずか視線をあげた。
「シュ、シュセさま!」
見上げた先には、男物の軽易な服装に、唯一腰には銀細工も見事な細剣をつるす、王の幼少から傍近くに仕える白亜の騎士。女だてらに戦場を駆け回る戦乙女。スカルディアの権勢を武の力で支える女の騎士に、ベルモンドは萎縮した。
「あなたは……確か」
首をかしげてまじまじとベルモンドの顔を眺めるシュセ。その視線ひとつに、ベルモンドは戦々恐々としていた。今すぐにでもこの首が、彼女の腰に吊るされている細剣で飛ばされてしまうのではないか。そんな突拍子もない考えを、大真面目に考えてしまうほどに。
嫌な汗が背中を伝う。
カルの前で、大量の冷や汗をかいた後だからだろうか、なんだか目の前までぐらぐらしてた。
「ベルモンドさん……きゃ!」
シュセが彼の名前を言ったとほぼ同時、彼の目の前は真っ白に染め上げられ、すぐに暗転した。
まぶたの裏から差し込む、西日の赤。鼻につくのは、気持ちを安らかにしてくれる紅茶の香り。
「ん……」
背中に感じるのは、柔らかなベットの感触。そこまで思考が回転したと同時、ベルモンドは文字通り跳ね起きた。
「ここはっ!」
「そんな急に起きては、体に毒ですよ。倒れられたのですから」
やわらかく微笑むシュセが、紅茶を飲んでいた。椅子に腰掛け、優雅に紅茶を楽しむ様子は、戦乙女などよりも、深窓にたたずむ令嬢を思わせる。
「どうかしました?」
ぼんやりと、シュセを眺めていたベルモンドはその声で我に返る。
「……あの、私はどうして?」
聞くのも恐ろしい。だが聞かなくても尚、恐ろしい。ごくりと、ひとつ唾を飲み込んで、ベルモンドはあるかなしかの勇気を振り絞った。
「大変でしたよ。わたくしの目の前でいきなり、倒れられてしまうのですから。そんなにわたくしが恐ろしかったのですか?」
「い、いえ滅相もない!」
大仰に首を振り、ついでに手振りまでつけるベルモンドに、シュセは噴出した。
「冗談です。本気にしないでください」
「は、はぁ……」
曖昧に頷くベルモンドに、シュセは立ち上がって自ら紅茶を煎れる。
「どうぞ」
柔らかい笑顔で微笑まれ、差し出される紅茶を自然に受け取ってから、彼はそれがいかに大それたことなのかを思い出した。
だが、立ち上る紅茶の香りは、魔性の香りのようにベルモンドを誘う。一口、口をつけてみた琥珀色の液体は、ほのかに甘く。彼の緊張の糸を、あっさりと断ち切った。
「仄かなるリメ、西域の紅茶ですね」
呟いたに等しいその声に、シュセが驚いたように反応した。
「お詳しいのですね」
「いえ、唯一の趣味でして……同僚からはよく馬鹿にされますが」
頭をかくベルモンドに、シュセが花の咲いたような笑顔を向ける。
「嬉しい。こちらでは紅茶の味がわかる人がいなくて、困っていましたから」
「は、はい」
年相応の少女の笑みに、ベルモンドは心の臓を掴まれた錯覚に陥った。
「それで」
騎士達だけでなく、推官の中でさえ彼女に崇拝に近い感情を向ける者が多数いるというのに、納得してしまった。
「何かお悩みだったのでしょう?」
「はい、実は──」
気づけばベルモンドは、カルとの意見の相違から、自身の生い立ち、感想まで洗いざらい話してしまっていた。
「そう、ですか」
西日を眺めるシュセの表情は、穏やかに瞳には悲しみの色があった。
「シュセさまはいかが、思いますか?」
興奮のままに問いかけてから、ベルモンドは自身の愚を悟った。彼女は幼少から、王を見守ってきた言わばカルを育てたのは彼女自身。その彼女に向かって、今の彼を否定するようなことを口にしてしまった。
「カル様が、そんなことを……」
呟く様な言葉に、ベルモンドは身を縮める。
「わたくしは、あの方が強いとは決して思いません」
「そう、でしょうか?」
てっきり怒声が落ちてくるものとばかり、覚悟していたベルモンドは、恐る恐る問い返す。
「ただ、強くあらねばならない。だから強くあろうと、しているのだと思います。きっと……」
深い悲しみをたたえたシュセの瞳に、ベルモンドは胸を締め付けられるようだった。