獣道7
長い間お待たせして申し訳ありません。
やっと滞っていた更新ができそうです。
サギリ達のディード討伐が決着を迎えていた頃、東都ガドリアでは一つの悲報が飛び交っていた。
炎の運び手の当主にして、今はガドリアの領主モルトの死である。
荒れ地の盗賊から、鍛冶屋へ。そして領主へと成り上がった激動の人生の終末は、ハンナに看取られての穏やかな死だった。
臨終の際にまで、献身的に看病を続けるハンナを気遣い、ルカンド達若人の行く末を心配していた。あるいはロクサーヌに生まれたならば、盗賊などという因果な商売に手を出すこともなく、平々凡々とした人生を送っていたかもしれない。
それほどまでに、盗賊の中では穏健派の代表格であった。
ガドリアの施政をルカンドに任せる旨、遺言して逝った。
モルトの亡くなった日から、山城の尖塔には黒の弔旗が掲げられた。通常領主の死となれば、その領地全域をあげての葬儀となる。だが遺言により葬儀は、親しい者だけの質素なものになり、城の裏、荒海の見える共同墓地にその遺体は葬られた。
ひっそりとした葬儀の後、ルカンドは一人モルトの墓の前に立っていた。夜の闇は海の姿を覆い隠し、波の音だけが、まるで時代の流れのように押し寄せてくる。
「モルトさん……」
思えば父代わりだったモルト。優しく大らかにルカンドを包み込んでくれるその存在が、今までどれほどルカンドを助けてくれただろう。だが、もはや彼はいない。
「今まで、ありがとうございました」
打ち付ける波の音にともすればかき消されるような、静かな声音。だがその思いは、いくら激しい波の音にも負けないほどに深く。
サイシャをサギリの元へ送り出してから、彼は一つの計画を進めていた。
ロクサーヌとガドリアの友好関係の樹立。もちろん、普通であれば力ずくで領主の地位を奪った“双頭の蛇”が相手にされることなどない。だが今なら……共和制から王政へと移り変わった直後の、今なら可能性はあるとルカンドは考えていた。
燻ぶる共和制回帰への火種。未だ蠢動をやめない自由都市郡ポーレの動向。そして、ルカンドの元へ届けられた最新の情報によれば、西都が王都に反旗を翻そうとしているらしい。北方、西方に敵を抱える今の状況でさらに東部までを敵に回す愚は起こさない。
少なくても、ルカンドならそうはしない。たとえ一時の和平でもガドリアを味方につけて、西と北の敵に全力を注ぐ。
おそらくサギリなら、この隙に乗じて王都へ攻め上る道を選ぶのだろう。そのための地ならしが、今回のディードの討伐だ。“荒れ地の魔女”の挑発的につりあがる口元と、全てを呑み込む漆黒の瞳の色が、ルカンドの脳裏を駆け巡る。それを頭を振って追い出すと、ルカンドはモルトの墓に花を供えて背を向ける。
「僕は、誰よりも強くなって見せます」
義足となった足が力強く地面を踏みしめる。
「お帰りですか?」
いつからそこに控えていたのか。少女が一人墓地から立ち去るルカンドを追う。
「ナルニア? なぜここが」
雪華でジルの側に仕えていた少女だった。
花の咲くような笑みを見せて、ナルニアは答える。
「殿方の心がわからなくて、娼妓が務まるわけないでしょう?」
「参ったな」
苦笑するルカンドに、ナルニアは首を振る。
「殿方の弱さも含めて、その方の魅力だと思いますよ」
「そう言ってもらえると、少しは救われる」
大人びた物言いの少女に苦笑してルカンドは頭をかいた。
「お疲れになったら、どうぞ艶花に来てくださいね。たっぷりサービスさせて頂きます」
「仕事熱心だね」
「ええ、女将さんが遊び回っていると、下がしっかりしなきゃならなくなるんです」
くすりと、笑いルカンドに並んで歩く。
「君たちには……辛いことを頼まなきゃいけない」
「王都を揺さぶるのですね」
王都ロクサーヌと和平を結ぶため、前々からルカンドが考えていた策は事前にナルニア達に伝えてある。
「今の僕には、こんな策しか思いつかない……」
「ルカンド」
熱心に杖をつきながら歩くルカンドの肩を、ナルニアが掴む。そのままナルニアの豊満な胸に、ルカンドは抱き寄せられた。
「私達の生き方に、あなたが心を痛める必要はないのです」
母のような優しさで、ルカンドを抱きしめるナルニア。
「卑怯者の僕を、許してくれ」
「必ず生きて帰ります」
優しく告げると、ルカンドを抱きしめていた腕を解く。涙を目にためるルカンドの側から、ナルニアは小鹿のように軽やかな足取りで駆け去る。
一度振り向いて、くすりと笑う。
「それに、あんまりルカンドと仲良くしてるとサイシャが嫉妬するからね!」
ニッ、と乾らりと笑うと今度こそ駆け去る。
「無事で帰ってくれ」
祈るようにその背中に向けて、ルカンドは呟いた。
翌日、ナルニア達女ばかりの一行は赤き道の行商隊に混じってガドリアを出発した。
サギリ達ディードの討伐軍がガドリアに戻ったのは、ナルニア達が出発してから十日も経った頃だった。ディードを追う必要もなく、怪我人を引き連れてのゆっくりとした帰還だった。
北にある未踏の荒れ地をでるまでは、双頭の蛇が先頭を切って歩いていたが南の比較的安全な地域に出てからは城兵達が先頭を切るようになっていた。その城兵の先頭が、荒涼たる大地の向こうにそびえるガドリアの山城を見つけて歓声をあげる。
彼らにしてみれば文字通り地獄からの生還だった。
“荒れ地の魔女”に率いられ、長年ガドリアを脅かしてきた化け物を討ち平らげた。仲間に聞かせるには刺激に強すぎる話題だろうか。約束された恩賞と、暖かい寝床。家族が待っているものは家族の顔を思い浮かべ、 恋人のことを思い出すものもいただろう。
先頭の城兵が上げた歓声が、雪華に、博徒達に伝播していくのをサギリは苦笑してみていた。隊列も何もあったものではない。先頭の城兵が駆け出すと、釣られるように雪華、博徒達も走り出す。
「良いんですかい?」
やれやれと、眉をひそめながらシロキアがサギリに尋ねるが、サギリは肩をすくめただけだった。
「多少は大目に見るさ。アンタも行ってやンな」
口の端を釣り上げて笑うサギリに。
「ま、姐さんがそういうなら」
シロキアは、はしゃぐ手下達を引き止めるのを断念する。
「せっかくの凱旋だってのに格好がつかねぇなぁ」
ぼやくと手下を追って走り出す。
「サイシャ、アンタも先に行きな」
「え、でも」
サギリの横で、思い思いに走り出すガドリア軍をイライラしながら睨んでいたサイシャに、サギリは声をかける。
「ルカの奴に、宴会の準備をしとけって伝えておくれ」
「うん!」
そういうことなら、と走っていくサイシャの後姿にサギリは、苦笑した。
「どうも、甘くなっちまったかね」
長い黒髪をくしゃりとなでで、ルクとケイフゥに視線を向ける。
「アンタらも、ご苦労だったね」
「ケイフゥがんばった!」
「いえ、お力になれなくって……」
ほがらかに笑うケイフゥと、救えなかった命のことを思うルク。対照的な二人にサギリは笑いかける。
「ケイフゥ、しばらくお嬢ちゃんの手伝いをしてやンな」
「うん!」
「お嬢ちゃん、人手がほしかったらケイフゥに言いつけな。なるべくそっちにまわしてあげるよ」
「ありがとうございます……でも」
「あン?」
怪訝な顔をするサギリに。
「私には、ルクという名前があります!」
ルクは決然と言い切った。ガドリアでもっとも恐ろしい“荒れ地の魔女”にここまではっきりとモノをいうのは、あるいは彼女だけかもしれない。その度胸に、周囲にいた者は瞠目する。
「クックック、そいつは悪かった」
上機嫌なサギリに、ほっと胸をなでおろす周りを知ってか知らずか、ルクは一礼するとサギリに背を向けて怪我人の馬車に向かう。
「嫌われちゃったかねぇ」
なおも笑うサギリと、ルクを交互に見比べていたケイフゥは。
「行っといで」
というサギリの一言で鎖を解かれた隼のような勢いでルクの後を追っていった。
先ほど見たときには、豆粒ほどにしか見えなかったガドリアが、すでに全容を見渡せるまでになっていた。
「あン?」
山城に翻る黒の弔旗。
「死んだのか……クソジジイ」
先ほどまでの笑顔は、すっかり鳴りを潜め一瞬だけ悔しそうな表情を覗かせる。だが、それも束の間口の端を釣り上げると不敵に笑う。
「ルカ……さぁ、アタシを出し抜いてみな」
小さく呟いて手に入れた故郷の街を見る。
「さもなきゃ……王都と戦だよ」
狂気に彩られた魔女の言葉は、凱旋の歓声にかき消された。
外は三日三晩続く大宴会の真っ最中だった。食人鬼の討伐の成功は、すなわちガドリアの約束された繁栄に違いない。シロキアの屋敷では、庭先にまでかがり火を焚き、博徒、ゴロツキ連中、果ては流れ者から、城兵まで招いての大宴会を催している。
赤き道の商人達は、店の前に無料の酒樽を置き、路上に長机を並ばせ、その上には所狭しと豪快なガドリアの料理が並ぶ。路上が宴会の会場となったような有様に、ガドリアは沸騰していた。
城でも祝宴会が開かれている。
年老いた城兵の長老格が主体となり、小さな舞踏会場をぶち抜き、所狭しと料理を並べ酒を並べる。いつもなら城になど来れないはずの、博徒やゴロツキまでもが城兵達と一緒に酒を酌み交わし、くだを巻く。
女達は男達の無事の帰還を喜び、帰らなかった者達への哀悼を捧げる為、大いに騒ぎ送るのがサギリのやり方だった。
だがその浮かれた空気の中でも、シンと静まり返っている一角がある。艶花が仕切る色町一帯は火の消えたような静けさだった。常なら率先して遊女達を送り出し、ここぞとばかりに商売に精を出すはずのジルが、傷の為に動けないこと。先代ハンナは、モルトの喪に静かに服したいということで、店には顔を見せず、ジルの手足となって店を仕切っていたナルニアが不在にしているためだ。
中心として動いている三人が抜けた艶花は、個々の店ごとに稼ぎを競ってはいるが、やはりそこには勢いが感じられない。
外の喧騒がうそのように、ジルのいる部屋は静かだった。
その部屋に来訪者がある。
木製の扉をノックすれば、入室を許可する声に来訪者──ルカンドは扉を開けた。
「みっともない格好で失礼するよ」
包帯の上から寝間着を羽織っただけのジルが、ベットの上で上半身を起こしながら言った。
「楽にしていてください」
怪我を負った直後に比べれば幾分顔色は良い。だがルカンドには、当時を知らないだけにその痛々しい姿に、眉をひそめた。
「すいません……こんなときに」
「なぁに、別に構わないさ。ルクとサイシャにきつく念を押されててね、暇だったんだ」
煙草が吸えないのが、少し堪えるけどね。と、茶目っ気に笑うと、ジルはルカンドから視線を外す。外した視線の先には、窓の外に煌々と欠けた月が輝いていた。
「ナルニアさんは……」
「無理に言わなくても、構わないよ」
ルカンドはジルの言葉に唇を噛み締め、強く拳を握り締める。ともすれば、その優しさに逃げてしまいそうになる自分がルカンドには、許せなかった。
「西都へ向かっていただきました」
「そうかい」
罵りの言葉もなく、疑問も投げつけられない。ただ返ってくるのは、受け入れる言葉だけだった。
「僕は、ナルニアさんに――」
「ねえ、ルカンド」
それでも言わなければならない、と絞り出す思いで、口を開いたルカンドの言葉をジルが遮る。
「あの子は笑ってただろ?」
「っ!」
まるで見てきたように微笑むジルに、ルカンドは息をのむ。
「どうして――」
「気に病む必要なんてないよ。あの子はお前に賭けたんだ」
「賭ですか?」
「そう、お前のしようとしてることがより良い未来をガドリアにもたらしてくれる。そう信じてね」
返す言葉を持たず立ち尽くすルカンドに、ジルは微笑んだ。
「行きなよ、ルカンド。ここはあんたの来る場所じゃない。あんたにはすることがあって、いるべき場所がある。そうだろう?」
「はい」
力強くうなづくと、ルカンドは失礼しましたと言って部屋を出て行く。
「……より良いガドリアの未来ね。はは、モルトの小父さんの小言がうつっちまったかね」
苦笑していまだ痛む傷に、そっと触れる。
「許してくださいよ。小父さん、あたしは艶花なんだ。利用できるもんは、なんでも利用させてもらいます。ルカンドも、ナルニアも、ね」
昔まだジルが幼かったころ、モルトに頭をなでられた遠い記憶が蘇る。モルトとハンナが仲たがいをする前は、父親のように慕った時もあった。
触れた傷の更に奥から響く痛みに、ジルは苦笑した。
「……なりきれないもんだね。悪人ってやつにはさ」
月光差し込む部屋の中。
「なんで死んじまってんのさ。小父さん……」
暗い闇夜で一人ジルは、涙を流した。
「何の話をしていたんだ?」
ジルの部屋を辞したルカンドにかかる声は、暗闇の中から聞こえた。
「サイシャかい?」
黒一色の服は闇に解けて輪郭をぼやけさせる。
「サー姐が話があるってさ」
不機嫌そうに、鼻を鳴らすとルカンドの隣まで歩いてくる。
「うん。僕もだ」
ルカンドの灰色の瞳に不吉な色を感じ取ったサイシャは、わずかな躊躇いの後、思い切って口を開いた。
「ルカ。あのさ」
「うん」
コツコツとルカンドの突く杖の音が、静寂を保つ周囲に響く。
「サー姐をあんまり困らせるなよ」
こんな子供っぽい言葉でしか、自分の心を語れないことをサイシャは恥ずかしく思っていた。ルカンドのほうに視線を向けずに、返事を待つ。
「大丈夫だと思う」
ちらりと見たルカンドの顔は、人を安心させるあの笑みを浮かべていた。
「お前はいつもそうだ」
人を安心させるような笑顔を見せて、一番危険なことをしようとする。
「気をつけろよ」
「ありがとう、サイシャ」
街に輝く宴の明かりに向かって、いまだ小さな二人は肩を並べて歩いていた。
ガドリアの夜は冷える。
月夜とはいえ、吹き付ける風は凍えるほどの冷たさを持って肌を刺す。今はただ暗闇がその視界を閉ざし、昼間なら見えるはずの境界の山脈は闇の中に沈んでいた。ガドリアの山城の尖塔。そのテラスに腰掛け、街の主は眼下の篝火を見下ろしていた。
口元に浮かぶのは微笑。いくらか嘲笑の成分を含んだそれは、彼女の強気と相まってその漆黒の瞳を輝かせる。時折聞こえる歓声に、舌を潤す酒精に、サギリは上機嫌だった。
「こういう酒なら、悪くはないか」
惜しむらくは、酒を酌み交わすはずだった友を亡くしたこと。罵詈雑言を遠慮なく言える相手がいないというのは、寂しいものだった。だがそれを臆面にも出さず、流れる雲に煙る月に視線を向けた。
「アタシなりの、弔意だぜクソジジイ」
モルトが夢見た子供を捨てなくて良いガドリア。街が富めば、飢える者は確実に減る。食人鬼の討伐成功を、本来ならもっとも喜ぶべき当人がいない。
「しまらねえ話だがな」
舌打ちして、また手に持った酒を舌で転がすように飲む。
「恩は返したぜ。これから先は、アタシの好きにやらせてもらう」
荒地からガドリアへ双頭の蛇が進出する際、炎の運び手にはかなりの骨を折らせた。わずか1年前のことだが、今となってははるかに昔のことに思える。
「てめえの、息子も返してもらうしな」
月に向かって口の端を歪める。
コンコンと、ドアをたたく音がする。
「入りな」
故人と語り合う時間は去った。
今は、ガドリアの未来を決める話し合いの刻。
「失礼します」
灰色の目に強い力を灯した義足のルカンド。寄り添うようように、サイシャもいる。
「悪いね、祭りの晩に」
「いえ、僕もお話したいことがありましたので」
「座りな」
失礼します、と断ってルカンドは椅子に腰掛ける。
「サイシャも聞いていくかい? なに、ただのつまらない話だけだがね」
一瞬、ルカンドとサギリを見比べるとサイシャは首を振る。
「私は外で待ってる」
「そうかい。まぁ、そんなに長くはかからないだろうさ」
上機嫌で笑うサギリに、幾分かサイシャは安心して部屋を出て行く。
「それでお話というのは?」
「大したことじゃないさ。アタシのはね。まぁお前の用件から聞こうか」
「王都との和平を」
「なるほどなるほど」
笑う声は既に、残酷で邪悪な魔女のもの。
「アタシの用件てえのはね、ジルを殺すってことさ」
「……理由は何でしょう?」
無視のできない話題に、驚きのさざなみをわずかの間にしまいこみ、理由を聞く。
「強いて言うなら、群のアタマはアタシ一人で充分なんだ。邪魔なやつは消す」
「……指揮をする人間が自身一人で問題ないと?」
「違うね。アタシに従わない指揮者が邪魔なんだ」
楽しそうに笑いながら、手元のグラスを弄ぶ。赤い液体がグラスの中で渦を巻くようにゆれていた。
「雪華の勢力を全てほしい、ということでしょうか」
「ああ。アタマはいらないんだけどね」
首を切る動作に、笑わない漆黒の瞳がルカンドの方を向く。口元を彩るのは、邪悪にゆがむ笑み。ルカンドの背筋を凍らせ、捕らえて離さない呪縛の瞳。
「今のままでも、充分従順に雪華は従います」
「ああ、ジルが動けない間はね」
だんだんとルカンドの心に焦りが浮かび上がる。サギリはやるといえば、本当にやる。
「この度の雪華の働きは、不足だったと……」
「いやいや、アタシはむしろ見直したぐらいさ。だからほしくなったンだ。お前にも見せてやりたかったねぇ。化け物どもと戦う奴らの姿……」
「だからといって!」
思わず立ち上がるルカンドに、サギリは氷のようにつめたい言葉を浴びせる。
「ルカ。掟を忘れたんじゃないだろうね? 双頭の蛇は、どこまで行っても変わったりはしないよ。ほしいものは奪え、だ」
力で、知略で、金で。全てを駆使してほしいものを奪い取る。一切の妥協なく、一切の温情もかけない。
力なくば、死ぬ。
地獄のような荒地で培われた双頭の蛇の掟。自身の原点を、改めて振り返させられ、ルカンドは言葉に詰まる。彼とて盗賊の端くれだ。商隊を襲い荷を奪ったことなど、数えてもきりがない。
今更どの口でガドリアの和平など説くのか。
暗にサギリはそう指摘していた。
「僕に何をしろと?」
苦々しいものを噛みながらルカンドは口を開く。
「ジルの首、取ってきな」
「っ!……できません」
すとん、とサギリは腰掛けていたテラスから降り立つ。
「できないじゃ、ないんだけどねぇ」
テーブルの上にコトリとグラスを置いて、ルカンドの正面に立つ。既に身長は、サギリを追い越しルカンドの方が頭ひとつ高い。俯くルカンドの顔を、小首をかしげながらサギリは見上げる。
「少しお前を甘やかしすぎたねぇ? ルカ。お前のカシラはアタシだ。忘れたわけじゃないだろう?」
ゾッとするほど冷たいサギリの手が、ルカンドの頬をなでて無理やりサギリの瞳を見させられる。灰色の瞳を射竦める漆黒の宝玉に似た魔女の瞳。
「お前は頭がいい。だから、ジルから雪華を取り上げる方法ぐらいすぐに思いつくんじゃないのかい?」
「……買いかぶりです」
「嘘はいけないよ。それがどんなに汚く、酷い手段だろうとお前はしっかり考えている」
雪華とジルの分離の策。ジルを殺せと言われた時から、ジルを殺さずに済む方法を考えていた。その中のもっとも穏便な形として、ジルの命と引き換えに兵を差し出させる。ジルは命を永らえ、雪華はサギリの手元に収まる。その策を考えてはいた。
それを見通されたようで、サギリの瞳から視線をそらす。
「ジルさんの命と交換なら……」
「駄目に決まってるじゃないか。ジルは殺す。雪華はアタシのものにする。そういう策を言いな」
「そんな……」
「ルカ。よくお聞き」
嫣然と表現していいほど、サギリの顔には一種独特の色香があった。花にたとえるなら狂気の熱に浮かされたような、徒花ではあったが。
「つまらねえ平和なんざ、クソ食らえだ!」
一瞬にして、頬を撫でるサギリの手に力が篭り、あふれ出す覇気がルカンドを打ちのめす。手下を震え上がらせる盗賊のカシラの声に、ルカンドは腹の底がぐらぐらと揺れる思いだった。
「ロクサーヌにのさばるクソどもを一人残らず殺し尽くし、奴らの全てを奪いつくすんだ! その為にはさぁ、足りないんだよ全っ然足りなんだ。今のままじゃぁねぇ」
ごくりと、息を呑むルカンド。
「もっともっともっと、力がいるんだ。誰よりも何よりも強く強く! 奴らを皆殺しに出来るだけの、力がいるんだよ!」
サギリの漆黒の瞳の奥。わずかに覗く深淵から、溢れ出す狂気の熱。長年一緒にいるはずのルカンドでさえ感じたことのないサギリの中に潜む狂気の一旦。
「……選べ。ルカンド」
狂気の熱はなりを潜め、次にサギリの形の良い唇から漏れ出したのは、静かに鳴らされる彼岸の鐘の音。
「ジルの命か、それともガドリア平和か」
二つに一つ、文字通り喉元に突きつけられた選択肢は、剣の鋭さを持っていた。