獣道6
「ジン!!」
叫ぶサギリの声は、喚声と悲鳴にかき消される。
「くそっ!」
苛立ちをそのままに、サギリは吐き捨てた。
このままジンを追えない事は、誰よりもサギリが知っていた。文字通り血の道を作って切り開いたディード殲滅の機会。見逃せばこちらが全滅する。
反転包囲。
ガドリアの本隊が中央を突破し、別働隊として動いていたサイシャ、ケイフゥと合流する。
今まで拮抗していた力の天秤が、一気に傾く。
左右から切り込んでいたサイシャ、ケイフゥがサギリと合流し、蛇の進路を一気に右に傾ける。蛇が獲物を締め上げるように。ディード個々の力がいかに凄まじかろうと、集団での戦いとなれば一人一人は非力であるはずの、ガドリア軍に軍配があがった。
急速に締め上げる蛇の胴体を率いるのはシロキア。獰猛が獲物に喰らい付くような激しさをもってディードを血祭りにあげていく。
あるいはディードすら凌ぐほどの暴力。一塊になって切り込むシロキア配下の博徒達。加えて城兵の長槍が遠距離からディードを串刺しにしていく。
蛇の尾には、ジルの手を離れた雪華のゴロツキ達。あるいはこの尾がもっとも狂気に奔っているといえるかもしれない。当主であるジルを怪我で欠き、そのジルは荒地の魔女の手の中。彼らがジルに会うことをサギリは許さなかった。
もっとも荒地の魔女を恐れるがゆえに、彼らは目の前の敵に死に物狂いで喰らい付く。断ち切った左側のディードを抑えつつ、右のディードの包囲を緩めない。
「ちっ……」
戦況は圧倒的に優位に立った。両脇に、“毒蛇”と“大剣”を従え、食人鬼の群れを駆逐しつつあるサギリは、だが不機嫌そうに舌打ちする。
気になっているのは、先ほどその手をすり抜けていった“狼”のこと。
確かに、戦況は優位に傾いた。だが、油断をすればまた押し返されるかもしれない。それほどまでに薄いその優位性。その不安が、サギリを戦場にとどめていた。
本当なら今すぐに──。
「サー姐」
毒を塗られた短剣で、ディードを射抜きながらサイシャが声をかける。
「なんだい!? このクソ忙しいときに!」
振りかぶられるディードの斧をすり抜け、喉首を掻き切るサギリ。
「いきなよ」
その言葉の意図するところを察してサギリは、眉間にしわを寄せる。
「知った風な口を──」
立ちふさがるディードに対応しようとして。
「行ったほうがいいと思うぅ~」
頭上から振り降りた身の丈はある大剣が、ディードの頭を叩き割る。気の抜けた言葉とは裏腹に、その斬撃は重く鋭い。
「ガキども!」
目の前のディードの眼球をえぐり、同時に首筋に刃を突き立てる。
瞬きの合間だけ視線を伏せて。
「任せるっ!」
言うと同時に、ジンの後を追うサギリ。包囲の列から弾ける様に飛び出し、蛇の頭とは逆方向に駆ける。
「うん」
変わらぬ毒蛇の仮面の隙間。わずかに口元に笑みを漂わせサイシャは頷く。
「にひ」
いつもと変わらず、ふにゃりとケイフゥが笑う。
「ケイフゥ……いける?」
じゃらりと、黒服の下から覗かせるのは、幾十にも及ぶ投擲剣の群れ。
「うん! ケイフゥ、絶好調!」
ぶるん、と風を断ち切る大剣の音。
「サー姐の邪魔はさせない」
静かに、だが美しく毒蛇が笑った。
指呼の間に握るのは、無数の投擲剣。一本一本に猛毒を塗りこめた呪詛の塊が、横殴りの雨となってディードの群れに突き刺さる。
「苦しんで、死ね!」
撒き散らされる呪いの群れが、喰人鬼を侵蝕する。 血を吐き、喉を掻き毟り、崩れ行く人喰鬼の群れ。
その群れを大剣を背に負った小柄なケイフゥが、鋭い斬撃とともになぎ払う。四肢を断ち斬り、頭をつぶし、得物ごと押しつぶす暴風にも似たケイフゥの剣技。振りぬくたびに血飛沫が舞い、ディードの腕が、足が、頭が、刎ね飛んで行く。
微笑すら浮かべて彼らを刈り取るケイフゥとサイシャ。彼らに率いられ、蛇はディードを絞め殺さんとしていた。
刃の群れを越えて、体はすでに傷がない場所のほうが稀だった。
降りかかる悪意の群れに、押しつぶされそうな圧力に。
だが、まだ燃えている。
腹の奥底で、溶岩のようにゆっくりと蠢く憎悪の塊。
荒く吐いた息すら燃えているような錯覚を覚えて、ジンは眼前の敵を見据えた。
赤く光る瞳は、吐き気がするほどの憎悪の証。奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、足は地面を蹴り付ける。
「るぉぉおおおお!」
「オォォ!」
「オォォオオ」
剣を合わせる様は、噛み合う獣を連想させた。ディードの隊長格に率いられた四匹の群れ。その向こうにいる白髪の老人に向けてジンは疾走を繰り返す。双剣が地を這い、跳ね上がると同時、叩きつけられる長剣をはじき返す。受け止めた衝撃に、ジンの傷から血が噴出す。
「く、おぉぉおお!」
傷の痛みと全身から抜けていく力の感覚に、ジンは必死で抗った。
老人まであと十歩。
数秒とかからないはずの、その距離が絶対の防壁となってジンの前に立ちふさがる。横なぎに振るわれる槍。射程の長いそれを避けようとして、果たせずジンは槍に殴りつけられ後方へ吹き飛んだ。肺から零れ落ちていく空気と力。
「ユリィ……」
つぶやく声に、応えるものはもういない。
吐き出される血と言霊に、応えてくれるものはいなかったのだ。
怒りとその陰に隠れた悲しみに気が付いたとき、ジンの体には力が入らなくなっていた。
だがそれでも震える足と手で立ち上がろうとして、痙攣する四肢を動かす。その姿は地面を這いずる赤子のようにか弱く、羽をもがれた鳥のように無様だった。
動かないジンに止めを刺そうと、ディードの足音が迫ってくる。
手足は無様に痙攣し、体を起こす力もない。
──若いのに、良い腕じゃないか。
ふと、怒りと悲しみに染め上げられていたジンの脳裏に、わずかなりと理性が戻る。
昔、同じようなことがあったと。
「最近の餓鬼は、だらしがないねぇ」
月を背にし、刻まれる陰影。風にゆれる黒き髪は不吉の象徴のように靡き──。
ジンは、声の主を振り返る。
風が雲を洗い流し、薄ら蒼い月光に照らされる彼女は、美しかった。
整った鼻筋に、小ぶりな唇。何よりも印象的なのは、周囲を覆う夜の闇よりも、更に濃い漆黒の瞳。
あの夜と同じように。
「サギリっ……」
息を呑むジンを、愉しげに眺め、サギリは口元をゆがめる。
違いがあるとすれば、お互いに少し背が伸びて、どちらも傷だらけなことだけだろう。
「なんでっ……」
サギリは来ない、いや来れないと思っていたジンは敢えてこのタイミングを狙って、仇を討ちに行った。
「もう立てないか? お前を支える復讐の炎は、こんなところで死ぬのを許してくれるのか?」
倒れたジンの横、足元に這いつくばって立てずにいるジンに、サギリは言葉をかける。
「俺、は」
「なら、思い出せ。お前は何者で、アタシの何なのか」
握り締められた双剣を地面につきたて、体を支える。
立たなくてはならない、と理性が本能が告げていた。
「目蓋の裏にいる亡霊がお前を支えられないのなら、アタシの声に応えろ」
サギリは腕を組み、迫りくるディードに対して構えすら見せない。
「お前の名前は何だ。応えろ!」
食いしばった歯の合間から。
「俺は、ジンだ!」
咆哮がほとばしる。足に負った傷口から吹き出す血も、省みずジンは双剣を構える。水平に構えた腕からも、滴り落ちる赤黒い血のしずく。
「よし」
この世の全てに牙を剥くような不敵な笑みを浮かべて、サギリは笑った。
「お前は、アレを狙え。ほかには何も考えるな。一直線だ」
足元はすでにおぼつかない。揺れる視界に、まどろむ思考。だがその隙間にに侵蝕する主の声。
「雑魚はアタシが片してやるよ」
肩をすくめて哂うサギリが、短剣を構える。
「行け、アタシの狼!」
その声に背を押されるようにジンの足は地面を蹴りつける。眼前に迫るディードの脅威。振りかぶられる武器、狂猛な獣の咆哮全てを無視し、ただひたすらに前傾姿勢のまま駆け抜ける。
「アタシのモノに、触るんじゃねえよ」
振り下ろされる武器とジンの合間に、サギリが舞い込み、三方から迫る斧、槍、拳を瞬きの間にいなす。残るは長剣を持った隊長格のディード。
ひらりと、舞い降りるようにディードの間を縫い、最後の障壁に向かうジンとサギリ。駆けるジンの横をサギリが追い抜く。
もはやジンの足は、それほどまでに衰えていた。ほとんど目も見えていない。
僅かに残る視界の隅に、残る怨敵の姿を捉え、ジンはひたすらに足を動かした。
ジンの道を開くため、サギリは長剣を持つディードと渡り合う。だが剣を合わせた瞬間、サギリはその敵の難易さを把握することになる。
剣の捌きはケイフゥにやや劣る程度か。その敵がサギリの前に立ちふさがる。追い越したとはいえ、ジンが追いつくのはすぐ。ほんのわずかの間に、この敵を倒すのはおそらくサギリの技量をしても無理だった。
ジンが追いつくまで後8歩。
我武者羅に突っ込んでくるジンを、隊長格のディードが見逃すはずはない。サギリとの戦いの最中にあろうと、確実に殺されてしまうだろう。
ジンが追いつくまで後6歩。
横薙ぎの一撃がサギリを襲う。それを受け流して懐に入り込み。
「くっ」
戻ってくる圧倒的な剣に引くことを余儀なくされた。
後4歩。
「邪魔──」
ジンの前、盾になろうというのかサギリはジンの前に短剣を、交差させて隊長格に突っ込んだ。
再び襲い掛かる横薙ぎの一撃。それを交差した短剣で滑らせ懐を狙う。
だが、今度はディードの方が上手だった。サギリのその攻撃を読んでいたのか、間髪いれずに手元に剣を引き戻し更なる一撃を加える。
後2歩。
避けきれないその一撃。ディードの力を持ってすればサギリの小柄な体など、吹き飛ばすのに容易い。予想される一撃に、サギリは歯を食いしばって長剣に、短剣をあわせた。
吹き飛ぶサギリ。黒い髪が流れ、小柄な体が宙を舞う。
「──なんだよ」
だが。
にやり、と吹き飛ばされたサギリの口元がゆがむ。
振り切ったディードの一撃の下。可能な限り前傾を保ったジンが、サギリの陰に隠れていたジンが隊長格のディードの振るった剣の下を通り抜けていた。
「オオオォォオオオ!」
怒りに似た咆哮をあげるディード。ジンを追おうとしたその矢先。太ももに刺さる違和感に視線を向ける。突き立った投擲剣の鈍い光に、“荒地の魔女”の声が重なる。
「つれないじゃないか? アンタの相手はアタシだよ。化け物」
口元に貼り付いたのは弦月に歪む凶悪な笑み。一瞬だけ後ろから迫る三匹のディードにも視線を向け、それでも同じように哂う。
「かかっておいで、ぶち殺してやる」
ディードが言葉を理解したかどうかはわからない。
だが、敵としてサギリを認識したのは確かだ。
獣の咆哮を上げて、4匹のディードはサギリを取り囲んだ。
荒れ狂う嵐のような心に、サギリの声だけがはっきりと響く。
あれほど腹の底から湧き上がってきていた憎悪が、今はそのなりを潜めていた。憎悪ではない。悲しみだけでもない。いろいろな感情がぐちゃぐちゃに交じり合い、混沌と爆発しそうな感情だけが、張り裂けそうだった。
「は、ハァ、は──」
息をするのも苦痛にしからならない。ぼやける視界。
何のために走っているのか、流した血の多さに考えることすら体が放棄する。
だが、それでも足は前に出ることをやめはしない。
サギリがいけと、言ったのだ。
ならジンは走らねばならない。理由などない。
それが生きる理由であるかのように、ジンはひたすらに走る。
手にした双剣は何のために、張り裂けそうな心臓を動かすのは何のために、血を流すことをやめない傷は何のために──。
「う、ぅ」
その答えが、ぼやける視界の果てに見えていた。
「うるぅあぁあぁああアア!!」
腹の底から湧き上がるその声は。
走ることをやめないその足は。
相手を貫くためだけに、上げられたその腕は。
「アアァァア、アァア!!」
今まさに、この時のために。
肉に食い込む刃の感触に、何も考えず双剣を穿ち、抉り、引き裂く。
四肢を噛み、首筋に牙を突き立てる双剣の軌道が、そのまま飛び散る血潮となる。
驚いたような老人の眼球を、瞬きをするまもなく切り裂き、悲鳴を上げるために開かれた口を双剣が貫いた。振りぬいた刃から、滴る血のしずく。
「は、ハァ──、は、ハァ」
気が付けば、一言も発せず怨敵はジンの眼下で躯と化していた。
「ユリィ……」
血の海に沈む躯を見下ろして、ジンは二歩三歩、意識せず後退する。
「俺を──」
見上げる頭上には、青くさめざめとした月が輝く。
力が抜けたジンはそのまま、背中から倒れ落ちそうになり。
「おもてえ!」
何かに当たってしりもちをついた。
「サギリ、か」
がらん、と音を立てて双剣が地面に落ちる。自身の重さに耐え切れず、ジンは背中から倒れこんだ。
「っおい!」
だが、予想された地面の硬さはなく、首筋の後ろに感じるのは、柔らかな感触。
目を見開けば、サギリの黒い瞳が目の前にあった。
サギリのあぐらをかいた太ももの上に、ジンの頭が乗っている。その状況を把握するまでに、しばしの時間がかかった。
「ち、敵討ちなんかに思い入れすぎなんだよ」
やがてジンを覗き込んでいたサギリがそっぽを向くと、吐き捨てる。
「そう、かな」
「ああ。そうなんだよ」
頬杖をついて、そっぽを向くサギリ。
「ディードは……」
「てめえが心配するようなことなんざ、何もねえさ。本体はサイシャとケイフゥが上手くやってな。アタシの獲物まで取る始末だ」
不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、どこか嬉しげなサギリ。その表情にジンの口元もわずかに緩む。
「そうか……強くなったんだな」
「ああ」
息をするのも辛そうに、だがジンは苦しい呼吸の中から言葉を続ける。
「ユリィは、赦してくれるかな?」
「……さあな」
許しを求める声に、優しい言葉をかけることをサギリはしなかった。
「答えはもうちっと生きて、てめえで見つけな。こんな所で死んだら、それこそ赦しちゃくれないだろうし、アタシも許さねえよ」
「……見つかるのかな?」
疑問に対して、答えを求める無垢な子供のような問いに。
「アタシもまだ、見つけてないよ」
「そうか、じゃあ一緒に探せるな」
どこか安心したような声でジンはつぶやき、目を閉じた。
「何が、一緒に探そうかだよ……恥ずかしいことを平気で言いやがって、アンタはアタシの大事な手ごまだろうが!」
ジンの寝息を確認すると、サギリは悪態をついた。その頬がほんのりと赤くなっていたのは、見間違いだったかもしれない。
そんな二人の様子を遠巻きに、ケイフゥとサイシャが見守る。
今にも飛び出していきそうなケイフゥを、サイシャが無理矢理押さえつけていた。
「ジンにぃ、いいな~いいな~」
「うるさい! 見つかるだろ!」
災厄と破壊を撒き散らす“毒蛇”と“大剣”とは一変して、年頃の少女のように、片や好奇心に目を輝かせ、片や未だ母親に甘え足りない子供のように拗ねる。
「むぎゅ~ってするのかな? サー姐も!」
「しないよ、するわけないだろ!」
「ええぇ~」
「いや、しないとは言い切れないけど……」
自信なさ気に考え込み、だがやっぱり気になると見えて再び岩陰から二人の様子を伺う。
「ケイフゥも、ケイフゥもむぎゅ~って!」
「馬鹿! お前が出て行ったら台無しだろうが!」
岩陰で先ほどにも勝る暗闘が繰り返される中、背後から空気の読めないシロキアの大声が聞こえた。
「ちっ、やっぱり男ってのは……」
舌打ちするサイシャと、ルクが呼んでると言う言葉に脱兎のごとく駆け出すケイフゥ。
「なんだ、お嬢ちゃん。こんなところで」
「馬鹿、死ね、屑」
考え付く限りの罵倒を静かに吐き捨てると、二人の邪魔をしないようにシロキアを引っ張ってガドリアの本隊の方へ向かう。
「面倒ごとは全部お前の仕事だ。なんとかしろ」
無理難題を、博徒の頭に押し付けようと、サイシャは睨む。
「ジンにぃもサー姐も、今忙しい」
「へぇ~」
にやりと、笑うシロキアを、背筋の凍るような視線でサイシャが射抜く。
「今、考えたことを、今すぐ忘れろ。出なければ強制的にお前の記憶は消える」
構えた短剣に、毒々しい液体をたらすサイシャ。首筋に当てられたソレに、百戦錬磨のシロキアの背筋が凍る。
「わかったわかった。姐さんは忙しいんだろ。カシラの大事な時間を作るのも、手下の役目だもんなぁ」
「シ~ロ~キ~ア~」
言葉が続くにつれて、段々とシロキアの顔が緩む。逆にいっそう鬼のような表情になるサイシャ。
「いや~、初心だねぇ」
それに対して投げられたのは、毒の塗られた短剣。
「うぉ、っと!」
寸でのところでそれをかわし、一目散に逃げ出すシロキア。
「消す!」
その後を追ってサイシャが走り出していった。
ゴード暦528年、雨季。
荒地の魔女に率いられた東都ガドリアの軍勢は、荒れ地を跋扈する食人鬼の駆逐に成功する。
それによって、ガドリアとロクサーヌの間を隔てるものは、境界の山脈と呼ばれる大山脈だけとなった。
遅くなって大変申し訳ありません。すでに休みは終わり、通常通りの更新速度となっております。
私の忙しさはあの人ぐらいしか救ってくれそうにありません。
声を大にして。
Help me ANDERSOOOON!!!!