牙を剥く黒蛇3
ジン達が、宿を決めてサギリと合流したのは日が暮れ、塔の鐘が鳴り響く時刻になってからだった。
「サギリ、話がある」
ルカンド達が眠りについた後、ジンはサギリに声をかけた。
「ああ、アタシもだ」
二人は部屋に入りテーブルを囲んで椅子に座る。
「で、話ってのは何なんだ、ジン?」
「今日アルトリウスの屋敷を見回ったら、つけられた」
眉間に皺を寄せるサギリを確認しつつも、ベットで三人一緒に眠るルカンド達に視線を向ける。サギリもそれを目にして、無言で先を促す。
「二人始末したところで、妙な男に邪魔されて一人残した」
「どんな奴だ?」
「刀を差した年かさの野郎」
ふと、白い指先を自分の細い顎に当てて、考えると知り合いの一人が思い浮かぶが、慌てて打ち消した。
「まぁそんなことはないか」
「知ってる奴か?」
ジンが怪訝そうに聞き返すが、苦笑して答えようとはしなかった。
「アトリウスの娘は確認できたのかい?」
頷くジンに、サギリは身を乗り出した。
「どんな女だった?」
「赤い髪の女で、歳はルカンドと同じぐらい」
「それだけ?」
頷くジンに、サギリは表情を顰める。
「まぁいいさ。次はヘェルキオスの息子の方だ」
「顔を確かめるだけか?」
「ああ、しっかり頼むよ」
黙って頷いたジンだったが、再びサギリの方を見る。
「気乗りがしないなら、今回の仕事は止めよう」
瞬間、サギリの手元から双剣の一本が引き抜かれ、ジンの喉元に突きつけられる。
「アタシに指図すんな、ジン」
揺るぎもしないジンの視線に、ため息をついてサギリは得物を引いた。
「別に、不満があるわけじゃない。アタシがやる気にならないのは仕事とは別の理由だ」
部屋に一つしかないランプの明かりは、椅子の上で片膝を抱えるサギリをぼんやりと映す。
「なぁジン。お前、もしアタシの所に居なかったら、何をしてた?」
明かりを受けて、表情を変える宝石のような輝くサギリの漆黒の瞳が揺れていた。
「死んでた」
その答えにサギリは苦笑する。
「じゃぁ、もし生まれ変わったら何がしたい?」
「今のままで、いい」
「そうか……」
そう言ったきり、サギリは黙った。ジンも黙っていた。
「もう、遅いな。ジン先に寝てろ、明日もある」
分かったと頷いて、席を立つジンを見送る。
ジンが去って一人になると、サギリは双剣を引き抜いて刃に映る自分を見つめた。
「アタシは、進むだけだ」
静かに呟いて、テーブルに突き立てた。
その日、街はヘェルキオスの私兵が溢れていた。正確には、ロクサーヌの北、貴族の邸宅が立ち並ぶ普段なら喧騒とは無縁のその場所に、兵士が慌しく行き交っている。未明から始まったその喧騒は、既に私兵同士の衝突という形で、戦の様相を呈していた。
花咲き乱れる庭園も、どんよりと曇る空に輝きを失っていた。
ルクがその知らせを受けたのは、泣き出しそうな空に辟易して室内で編み物をしていた時だった。
──ヘェルキオス・ヘルシオ、兵をもってアトリウス・ツラドを誅せんとす。
カルの父親が、ルクの父親を殺そうとしている。現実感の沸かない報せに、ルクは呆然とした。
「カルと殺し合うの? お父様は」
声に出してみて、その恐ろしさに身体を締め付けるように腕を抱いた。
「ご心中お察しいたします」
声をかけたのは、報せてくれた若い騎士だった。
「……それで、お父様は?」
「はっ、アトリウス様に置かれましては、奮戦しておられますものの、不意打ちにより形勢悪く、まもなくこちらにおいでになるものと思われます。付きましてはお願いの儀が」
そう言って騎士は一層頭を垂れる。
「ルク様に置かれましては、早々にこの邸宅より立ち退かれ何処かへ落ち延びて頂きます様」
一息に言い切ってから、騎士は膝をついて最上級の礼を示す。
「どうか」
ルクはその騎士の態度に、一度瞼を伏せた。
「それは父の命令ですか?」
言葉に詰まる騎士に、ルクは優しく微笑む。
「違うのでしょう? 貴方の優しさには感謝致します。ですが勝手な事をしては、貴方が叱られます」
何かに耐えるように騎士は、拳を握り締める。
「父は、私の事など何も言わなかったのではありませんか?」
窓から見える庭園、幸せの象徴であったはずの花の園が、色褪せて見えてしまう。
「そ、そんなことはありません!」
叫ぶように言ってしまってから、騎士は己の失態に気が付いた。
「恥じ入ることはないですよ。情の薄い方ですからね、お父様は」
「どうか、お願いです。お逃げになってください!」
「ありがとう。騎士様、良ければお名前を聞かせてくださいませんか?」
「ウィンベル、と申します」
にこり、と微笑むとルクは椅子から立ち上がる。
「ウィンベルさん、私はアトリウス・ツラドの娘なのです。逃げ場は、どこにもありません」
跪くウィンベルの傍まで行くと、膝を付いた。
「私を心に留めて置いて頂いて嬉しく思います」
驚きの余り頭を上げてしまうウィンベルに、ルクは胸の前で両手を組み合わせて祈りを捧げた。
「貴方に、幸運を」
立ち上がり部屋を去るルクを、ウィンベルは呆然と見つめていた。
ウィンベルが放心状態から戻ったのは、庭を駆け去る使用人たちの、慌しい声を聞いてからだった。
「これは……」
ルクが去った扉を開け、彼女の姿を捜し求める
。
やっと見つけ出した彼女には、侍女の幾人かですがり付いて泣いていた。彼女はその一人一人を説得して、立ち上がらせ僅かばかりの金貨を握らせると逃がしていた。ウィンベルはその光景を遠目から見て、ただ立ち尽くしていた。
アトリウスがルクの邸宅に追われるようにして入ったのは、それから間も無くの事だった。少ない手勢に守られて敗戦の将というべき有様。昨日まで、ロクサーヌを二分していた権力者の面影は既にない。屋敷を囲むように、私兵を配置し、館の中庭にも兵士を配置した。花になど構う余裕はなく、カルとルクの思い出の庭園は無残に踏み荒らされる事となった。
攻め寄せるヘルシオの兵達は、肉に群がる飢えた獣のように、執拗で容赦がなかった。衆を頼み押し寄せる。その様子をアトリウスは邸宅の二階から見下ろしていた。傍に控えるのはウィンベル。
「それで、娘は逃げなかったのか」
落胆ともいえるほど、その声は疲れていた。
「申し訳もございません。私の失態でございます」
ただ平伏するばかりのウィンベルに声をかける。
「仕事にかまけ、あれにはほとんど会う機会もなかった。情の薄い父と呼ばれても、言い訳できぬ」
白く染まった頭髪を、撫で付け黒い鎧姿も厳しいアトリウスは自嘲気味笑う。
「しかし、自身よりも侍従を逃がすとはな。わしには、過ぎた娘だ」
皺の刻まれた表情は、娘の顔を思うときだけ緩む。
「ウィンベル、娘を連れて逃げよ。逃げぬと駄々を捏ねる様なら、縄で縛ってでも連れて行け! 無事な兵を20ほど連れて行け……必ずだ。頼むぞ」
「20も連れ出しては、こちらの守りが!」
「良い、もはやままならぬ」
目を閉じるアトリウスに、意志の固い事を悟るとウィンベルは固く拳を握り締めた。
「必ずっ……」
ウィンベルが立ち去った後、アトリウスは迫るヘルシオ家の軍勢を見下ろした。
「クックック……ヘェルキオスめオウカなどに誑かされおって、次は己の番だと知れ!」
立てかけてあった戦斧を持つと、兵の戦う前線へ向かう為、アトリウスは邸宅を出た。
若き頃より、先々代の王の下で、先代兇王と呼ばれたヘェルキオスの兄の下でも、戦斧を振るってきた。前線に出ようとする彼を止めようとする部下は居ない。アトリウスが見渡せば、代々使えてくれた者達ばかりだった。
「雑兵どもに、武人の生き様を見せてやろうではないか!」
彼に続く騎士、私兵に声をかける。それだけで、部下の士気が跳ね上がり喚声が響く。
「代々ロクサーヌの武門を守ってきたツラド家の意地を、思い知れ!」
槍を持った敵を叩き伏せる。固い鎧でさえ、彼の戦斧の前では何の意味もなさない。
暴れる凶獣が如く、アトリウスは庭に侵入してきた敵をなぎ倒す。彼に続くのは百戦錬磨のツラドの兵士達、幾多の戦場で主と共に戦った彼らは、劣勢にも拘らず水を得た魚のように生き生きとしていた。