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The Kingdom  作者: 春野隠者
ゴード暦527年 覇を統べる王4章
62/103

謀略の使徒25

 火蓋を切ったのはポーレの若き将が率いる部隊だった。

「目前の敵を打ち破り、歴史に名を残せ! 全軍渡河!」

 血気に逸るその部隊を横目で眺めながら、エルシドは醒めた視線で戦場を見渡していた。

「こりゃ、全滅もあるかな」

 傭兵特有の軽装に、片手には斧槍を軽々と扱う。

「ローフーから伝令だぞ、私たちも進めって」

 苦虫を噛み潰したような苦い表情で告げるアンネリー。その言葉にエルシドは、眉をひそめた。

「死んで来いってか? お前行きたい?」

「誰が、素人の私にだってわかる。河を渡った先に待ってるのは──」

「一方的な虐殺だろうよ」

「でも命令だろうが!」

「あん? ああ、じゃその伝令手を連れて来い」

 エルシドの意図が読めないままに、彼の前に伝令手を連れてくるアンネリー。

「よぉし、てめえら休憩だ! 今のうちに飯でも食っとけ!」

 部下に向かって声を張り上げると、

「っ!……これは、どういうことか、エルシド殿!」

 武器を下ろし、完全に停止しているエルシドの軍を見た伝令は、怒りで顔を赤くする。

「どういうって、見た通りに休憩中さ」

「伝令は伝えたはず! ローフー殿よりの命令です。全軍でルプレを渡りロアヌキア軍を殲滅せよと!」

「ああ、その命令だがな……傭兵隊長エルシドが席をはずしてて実行できずだ」

「なにをふざけている! お前は目の前にっ!」

「本人が居ないといっているんだ。これ以上確かなこともあるまい?」

「な、なにを! これは明らかな反抗罪だぞ!」

「分かっちゃもらえんか……」

 ため息をつきつつ、伝令の傍によると。

 片手に持った斧槍を一閃する。長大な斧槍の重さを感じさせない軽やかな動きで、その石突が伝令の後頭部に叩き込まれる。

「おい!」

「あー、勤勉な伝令手は不幸な事故により命令伝達不可能になった……ま、そういうことだ」

 何か言いたげなアンネリーにひらひらと手を振って、エルシドは背を向ける。

「介抱してやれ。ただし、この戦が終わるまで逃がすなよ」

「やっぱりお前悪人だな!」

「そんなに褒めるなよ」

 近くの傭兵を呼んで伝令兵を運ぶアンネリー。一方エルシドは、渡河を実行しようとするポーレの軍団を見据えていた。

「さて、カル・スカルディア……ちっとは戦が上手くなったかい?」

 獰猛な笑みは、猛々しく燃える彼の内面を映すようだった。




 ポーレのエルシドを除く3000の兵力は、船を繋げて橋として渡河を開始した。本来ならば全員を船に乗せたいところだったが、それだけの船を確保することが難しかった為に船同士を繋げるという行為にでたのだ。

 敵から飛んでくる矢を大盾で防ぎながら、一人が船のすぐ傍に杭を打ち込む。その杭でもって船を固定し、そして更にその前に船がでて同じ作業を繰り返す。固定した橋に人が渡れるだけの板を渡して即席の橋とするこの時代では一般的なものだった。作業に文字通り命がけの作業となる。

 東側から丸見えの作業に、当然妨害は入って然るべき。

 だが、ロアヌキア側から入って当然のその妨害が一切なかった。予想された障害もなく順調に進みすぎる作業。だがそれに注意を払うべきポーレの指揮官は、そこまで考えなかった。

「これこそ神の恩寵! この機を逃すな、一気に橋を完成させよ!」

 西岸から東岸に向けて無数の橋が造営されていく。

亀のように固まり、音もないロクサーヌの軍勢。それどころか、川岸から遠くに離れる始末。移動するロクサーヌの兵士の数を見れば、大盾の影に見える人影の少なさに、渡河中の兵士たちが活気付く。

「今しかない! 急げ」

 そこかしこで聞こえる声に、一心不乱に渡河作業を進めるポーレの兵士たち。

 ロクサーヌの軍勢は少数であり、ポーレの軍勢に恐れをなして逃げ腰なのだ。楽観論に過ぎるその考えに大多数の兵士が靡き、先を争って渡河を進める。

 そんな中、東岸ロクサーヌの軍勢から豪華な鎧を纏った一騎が軍勢を割って飛び出してくる。旗持ちがニ騎その後を追って、走り出す。紋章旗に描かれたのは、交差する蛇槍。スカルディア、敵の総大将を象徴する紋章に軽いどよめきが、ポーレの軍勢の中から起きた。

 敢えて顔をさらし、豪華な金髪を靡かせた少年が渡河作業中の兵士に向かって大音声を張り上げる。

「降伏せよ、さすれば命までは取らぬ!」

 勝利は目の前、そう考えていたポーレの兵士にとって、それは冗談かあるいは基地外の妄言でしかない。途端に、大爆笑が起きる。

「お前が、ひいひい泣いて俺の下にうずくまってくれたらな!」

「よぉし、待ってろよ可愛子ちゃん」

 下品な罵りの言葉を受け、少年は立ち尽くしているように見えた。





「ははは、この期に及んで降伏勧告とはな」

 川の西岸、東岸近くに立つカルの言葉にエルシドもまた笑っていた。

「何が可笑しいのかわかんねーけど、私達はこのままで良いのか?」

 隣で少しも笑わないアンネリーが、冷たい言葉で質問する。

「何もする必要は無さそうだぜ。まぁ敢えて言うなら逃げ支度だな」

「ポーレから、か?」

 幾分声を低めて、問いかける彼女にエルシドは厭らしく笑う。

「いやいや、この戦場からさ」

「……カル様、危なくないのか?」

 対岸に立つカルに視線を向けるアンネリーは、年相応の少女のようだった。

「平気だろ」

「なんで!? 大分兵の数も少ないらしいし……」

「ちょっとそこ、見てみな」

 指さしたのは、川縁。くっきりと水の跡が残る程に大河ポルレの水位は下がっていた。

「これがどうかしたのか?」

「この時期ポルレ上流のヒルダナ連峰は、雪解けの時期を迎えてな水位は上がりこそすれ、下がるなんてまずねえのさ」

 眉をひそめるアンネリーに、エルシドは見るからに悪人のような笑みを浮かべた。

「けど、――」

「下がるはずのない水位が下がるってことはだ、つまり、誰かが上流でせき止めているってことだろ?」

「誰かって……まさか!」

 アンネリーはエルシドに向けていた視線を対岸に立つカルに向ける。西岸から東岸に向かう橋は数を増していた。今やほとんどのポーレの軍勢が、カル目掛けて川の中にいた。気の早いものは矢を構え、カル目掛けて射ている。

 静かに佇むカルが、すっと手を挙げると、ロクサーヌの軍勢の中から狼煙が上がる。

 大河ポルレを揺るがす地鳴りが、全てを飲み干す瀑布を伴って押し寄せたのは、それから間もなくくのことだった。

 阿鼻叫喚。

 押し寄せる津波のごとき濁流にポーレの軍勢は崩れた。階級も出自も関係ない。力の弱いものを押しのけ、仲のよかった友を川へ突き落とし、一歩でも早く西岸へ上がろうとありの群のように殺到する。

 後ろから迫る濁流は、勢いを留めることなく上流にいた部隊を飲み込み、貪欲に次の部隊をさらっていく。あまりにも早い死神の波は、呆然と佇む者、必死に逃げるもの、一か八か川に飛び込む者、すべてを飲み込み下流へ流れていった。

 後に残るは、無残に濁流に食い散らされた船の残骸と屍の群れだった。生きている者が稀なその場に無慈悲な声が響く。

「構え!」

 見れば表情一つ変えず、水の地獄を見守っていたカルが、右手を挙げている。いつの間にかその背後には、ロクサーヌの軍勢が控え、半死半生で生き残った水中のポーレの軍勢に弓を構えていた。

「た、助け――」

「放て!」

 助けを求める声を掻き消す号令に、一斉に矢が放たれる。屍にも、まだ息があるものにも平等に、降り注ぐ死の雨。

 もはや動くものがなくなったのを確認して、カルは己が軍勢に気勢をあげさせた。




「さぁて、撤退だな」

 カルの指揮ぶりを目にしたエルシドは、満足そうにきびすを返す。

「エルシド殿!」

 その彼に伝令が飛び込む。

「何をしておられるか! いやそれよりも、なぜ動かれないのか!」

「いやいや、これはだな」

 のらりくらりと、伝令の叱責をかわすエルシド。カルの余りにも苛烈な戦ぶりに、アンネリーは茫然としていたが、時折寄せられるエルシドからの視線に、舌打ちした。悪人の司令官に、悪人の副官だな、と心の中で吐き捨てて馬を引き寄せる。

 馬に乗ると、部下に撤退の命令を伝えに走る。

「撤退だ! 荷物をまとめろ!」

 部下から湧く歓喜の声に、背を押されアンネリーは未だ問答を続けるエルシドの下へ向かった。

「わかったわかった、ローフー殿には俺から言っておくから」

「いや、しかし……」

 強引に話をまとめるエルシドと、なお渋る伝令。そのやりとりの中に、アンネリーが割り込んだ。

「撤退準備終わったよ」

 酷く恨みのこもった伝令の視線を受け流し、アンネリーはエルシドに報告を続ける。

「ロクサーヌも帰り支度してるみたいだよ。今回の戦は終いだね」

 アンネリーからの報告を満足そうに聞き終わると、伝令に向き直る。

「と言うことですから、ローフー殿の所には後で俺が行きますよ」

「くっ」

 撤退を始めるポーレ唯一の戦力を、指をくわえて見ていなければならない屈辱。それを噛み下し伝令は身を翻した。

「さて、撤退だ」

 アンネリーに笑いかけてから、エルシドは対岸を見やる。引き揚げていくロクサーヌの軍勢に、満足そうに視線を送りながら、戦場に背を向けた。





「何だと!?」

 豪華な机に拳を叩き付け、額に青筋を浮かべたバトゥはその報告に、わめき散らした。

 平民出身の衛士達のストライキ。ロクサーヌの中央広場で行われるそれに、衛士の大多数が参加し衛士の長の解任を求めて、気勢をあげているのだ。

「おのれ、無知蒙昧な愚民共めが!」

 ケミリオ家からの使者は、ティザルから“迅速な処置を求める”との伝言を数度にわたり矢継ぎ早に伝える。

「俺の実力のほどを疑っているのか!」

 バトゥの苛立ちは、最高潮に達しようとしていた。先日家宰を解雇し、押さえるものの居なくなったバトゥは、配下の衛士全員に召集をかけた。

 既にカルはポルレで大勝を収め、ロクサーヌへ向い帰還の徒についている。それが伝われば、また平民たちが勢いづく。

 バトゥにとって伝統ある貴族が上に立ってこそのロクサーヌ。それが秩序であり、それを乱すものはすべからく秩序を乱す者でしかなかった。

「愚民どもめ!」

 バトゥは貴族出身の衛士全員を率い、中央広場へ向う。

 平民のストライキ一つ鎮められないと思っているティザルの鼻をあかすいい機会だと、バトゥは考えていも居た。最近ティザルといえば、十貴族首座の地位をやたらと強調し、鼻持ちなら無いこと甚だしかった。

 誰のおかげでその地位に就いているのか。忘れたと言わせるつもりは無い。今回の平民のストライキを一挙に鎮め、バトゥの手腕を見せ付ければティザルもバトゥを、ラストゥーヌ家を重く用いざるを得ないだろう。

「見ておれよ!」

 猛々しく吼えると、部下を一喝して速度を上げる。

 広場に集まる野次馬を搔き分け、平民達を包囲する。

「貴様ら、このようなことをしてただで済むと思うか!?」

 従えた衛士は完全武装、対して広場に集まっているのは武器もろくにもたない者達。

 だが、その歴戦としてある力の差に平民達はおびえることすらしない。少なくともバトゥの眼にはそう映った。泣いて許しを請えば良いものを、バトゥに反論すらしてみせる。

「お前こそ、衛士の長の地位を利用してどこまで汚職を重ねるのだ!」

「我ら正義と徒であるはずの衛士の長に、貴様は相応しくない!」

「今すぐ職を辞せ! そんなことだから家宰にも愛想を尽かされるのだ!」

 飛び交う罵声。

「な、き、貴様らあぁ!」

 その罵声を聞き流せるほどにバトゥは余裕など無い。平民など、脅せばすぐに膝を屈するだけの存在のはずだった。暴力でもって締め上げてしまえば泣いて命乞いをする。

 それがバトゥの見てきた平民である。

 では、目の前の奴らは何なのか? 武器も持たず、圧倒的に弱いはずの奴らが命令に従わない。それどころか抵抗すらしている。

 こんなはずではない。

 バトゥの脳裏を占めるのは、その言葉だけになっていた。

 ──そうか、脅しがたりないのか。

「ラストゥーヌ家を侮辱するか!」

 手にした鞭を振り上げ、手近に居た平民を打ち据える。

「やめろ、貴様!」

「抑えろ!」

 騒ぐ平民を衛士に抑えさせ、平民を徹底的に打ち据えた。

 だが、打ち据えたはずの平民が見返す瞳は。

「バトゥ……」

 怒りさえ含んだその声に、その瞳に先日のカルが重なる。

「くっ……おのれ、貴様らっ! ここまできてもまだ従わぬか!」

「もう俺達はお前なんかには従わない!」

「うわあああ!」

 再びバトゥが鞭を振り上げたとき、衛士の隙間を縫って、一人の平民がバトゥに体当たりをする。

 尻餅を付いて鞭を取り落とすバトゥ。一方平民は仲間を助け起こすと、仲間の下に向おうとする。

「許さぬ。許さぬぞ! 一人残らずひっとらえよ! 抵抗するなら殺しても構わぬ! 叛徒を捕らえるのだ!」

 響き渡る怒声に、平民達ももう黙っては居なかった。仲間を助ける為に衛士達に立ち向かう。

 その場は一瞬にして大混乱に陥った。

「仲間を救え!」

 元々、包囲されている平民出身の衛士達の方が数は少ない。だが、野次馬を含めれば平民の数は衛士の数を軽く圧倒する。

 いかに完全武装の衛士といえども、その数には手を焼いた。

 暴徒と化した平民相手に、死傷者を出しながらバトゥを連れてその場から撤退するのが精一杯。

 ともすれば命の危険すら覚えつつ、バトゥは衛士の宿舎まで撤退せざるを得なかった。





 遠く平民区から立ち上る黒煙に、にんまりと笑みを浮かべる。

「バトゥは予想通りにしくじったか」

 ティザルが声をかけたのは傍らに居るウェンディ。

「ええ、これでラストゥーヌの名は失墜ですね」

「バトゥから援軍を求める書状が来たが、さてどうしたものか」

 書状を握りつぶしながら、冷たく笑うティザル。

「助けてあげても良いのではなくて? あのような男でも使い道はあるでしょう?」

「ふむ」

 もしラストゥーヌの武門を支えていたあの家宰が、未だバトゥと繋がっているのなら助けておいて損はない。バトゥ個人は引退させ、その縁者に家門を継がせれば良い。財を握るケミリオ家において武門を担う人材が不足していた。

 バトゥと二人でオウカに反旗を翻したときですら、自身の家からは人を出さず傭兵を雇ったに過ぎないのは、何も計算してのことではない。そうせざるを得なかった家の事情と言うものが大きい。

「バトゥ個人はどうでもいいが、あの家の武力は馬鹿にはできぬ」

 カルとの戦いを経て、ティザルは今まで侮っていた武門の力を再認識していた。ロクサーヌを統べ、ロアヌキアを治めていくなら必ずそれは必要になってくる力だ。

 熟練した戦人が簡単に手に入るとはティザルも考えていなかった。傭兵は信用ならないし、一から将を育てる余裕などありはしない。目下最大の敵は、大河ルプレで大勝を収め、帰還の途についているあの男だ。

 故に、暇の掛からぬ方法で補強をせねばならない。ケミリオ家がロクサーヌの主になる為に。

 その結論が、他家の人材を貰い受ければよい。というものだった。

「ラストゥーヌ家から離散した私兵の居所が必要だな」

「ヘリオンならば知っていそうですわね」

「なかなか便利な男ではないか、流石に君が推薦するだけのことはある」

 邪悪な笑いをかみ殺し、ティザルはウェンディを見る。

「でもお気を付けになって、信用なさってはダメよ」

「当然だ。スカルディア家を亡き者とした後には、かの男も始末する」

「ふふ、怖いこと」

「さて、暴徒を止めてやらねばな」

 外に控える侍従を呼びつけ、十貴族の召集を図る。





 大河ポルレからの帰還の途上、カルがその報告を受けたのはロクサーヌまで後2日といった距離だった。

「ロクサーヌ中央広場で行われていた集会にバトゥ率いる衛士が乱入! 死傷者多数を出しながら平民達は暴徒化しております!」

 愕然とその報告を受け止めたカルは、右手で顔を覆い歯を砕けるほど噛み締めた。

「愚か者が!」

 地獄の獄炎すら生温いと感じるほど濃密な怒りの炎が、口から漏れ出る。

「奴らは何も見えていないし、考えてもいない!」

「殿下!」

「何事だ!?」

 入ってきた伝令に燃えたぎる怒りのまま答えてしまい、瞬時に後悔する。

「いや、すまぬ。気が高ぶっていたようだ」

 怯えたように立ち竦んだ伝令は、気を取り直して頭を垂れる。

「お喜び下さい。シュセ様無事ご帰還にございます」

「……っ、そうか。通してくれ。他の者は下がってよい」

 今すぐに自分から会いに行きたい思いをこらえて、カルは努めて無表情を通した。

 しばらくして現れたシュセは、天幕に入るなり直ぐに頭を下げる。

「申し訳ありません。カル様の戦に間に合いませんでした」

 間に合わないのが当然の速度。だが、それを罪であるかのように白亜の騎士は懺悔する。

「シュセ」

 かけられた言葉に騎士が顔をあげることはない。その気高き騎士に、カルは椅子から立ち上がると歩み寄る。

「よく戻ってくれた」

 暖かな抱擁と、降ってきた言葉にシュセは唇を噛み締めた。

「……はっ!」

 僅かに震える主の言葉、それに応える騎士の返事もまた震えていた。

 いつまでも、彼女を抱き締めていたいと言う欲求を、神経を剥がす覚悟を持ってなんとか抑え込むと、カルは彼女に言葉をかける。

「今日の夜にはここを発ってロクサーヌへ全力で引き返さねばならなくなった。今のうちに休め」

「御意」

 シュセが退出すると同時に、カルの思考はロクサーヌへ向いていた。

「バトゥ、ティザル……」

 倒さねばならない。彼らを始めとしたこの体制を、この国のために。戦火に燃えるロクサーヌを瞼の裏に見ながら、カルは拳を握りしめた。





「……それで、あなたは私にケミリオ家の当主に仕えよ、と申されますのか」

 古びてはいるが、よく手入れの行き届いた邸宅。客間にはティザルの使いとしてヘリオンが、元ラストゥーヌの家宰と対面していた。

「私自身としては、ティザル殿の意志を伝えたのみ。応えるか否かはあなた自身の問題でしょう?」

 静かに笑って、ヘリオンは椅子の背もたれに寄りかかった。ただその視線だけは、相手を推し量るかのように鋭いまま。

「しばらく、考える時間を頂きたいものですな。この老骨には、いささか荷が重いことにて」

 ヘリオンの視線を温和な表情で遮りながら、重々しく答える。

「あまり時間はありませんが……そうですね、本日の日没まででしょう」

「それは、また」

「只今、バトゥ殿の、いえラストゥーヌ家の処遇を決める会議がケミリオ家で開かれています」

「それまでに答えを出せ、と?」

「そうせねば、手遅れとなりましょう」

 二人の間に降りる沈黙は、あるいは剣士同士の鍔迫り合いに似ていた。

「私は――」

「ラクシュ様! 行ってはだめです」

「そうだよ! やっと自由になれたのに」

「行っちゃヤダ!」

 二人だけの部屋に飛び込んできたのは、年端もいかない子供達。

「ベルナンド、クセリュク、ナシリア……向こうへ行っていなさい」

 優しくも、断固として言い切るラストゥーヌの元家宰。子供達はそれぞれに俯き拳をふるわせ、またはヘリオンを睨み付け、あるいは泣きながら立ち去らねばならなかった。

「今の子供達は?」

「お恥ずかしい限りです。家宰などしていながら、子供の躾すらままならない」

 苦笑に首を振り、気恥ずかしそうな表情で彼らが閉めた扉を見る。

「私の子供らです。血はつながっていませんがね」

「なるほど」

 頷いてヘリオンは、少し考え込む。次いで鋭利な剃刀を思わせる鈍色の瞳が、ラクシュを再び捉える。

「時に、あなたは今の政治をどうお思いか」

「これは、一介の武辺者には難しい問いですな」

 はぐらかす為のラクシュの返答に、ヘリオンは沈黙でもって答えた。深く澄んだ瞳に、相手を推し量る色は最早ない。真摯に答えを求める研究者のように、ただラクシュを見つめる。

 その視線に、深くため息をつくとラクシュは少しだけ身を乗り出した。

「私は、敗北したのです。敗者は語る舌を持ちません」

「敗者といえども守らねばならぬものがあるのでは?」

 チラリと、先ほど子供らが出て行った扉を見る。

「そうです。ですから――」

「私は、こう思うのです」

 元家宰の言葉を切ってヘリオンが語る。

「もし、今のまま十貴族主導の政治が続くならこの国は早晩滅び自由都市群に踏み荒らされるのではないかと」

「それでは、あなたは」

「私はロアヌキアは王政で行くべきだと考えています」

「再び王を……」

 震えるラクシュの声、彼の視線は、今は亡き王を見ていた。

「そしてその王は、ケミリオやラストゥーヌ、そしてヘルシオなどではない!」

「あの少年を王に?」

「かつて、北方を征したヴェルは若干十五にして王位を受け継ぎました。早いということはない」

 冷徹な表情の下に、これほどの情熱を隠していたのかとラクシュはヘリオンを驚きの視線で見ていた。

 そしてヴェルの名前。かつて、共に語り合った戦友達にヘリオンが重なる。夢を見ていた、自身。そして戦友たち。

「一度だけ、あなたの力を借りたい。そして後は見守って頂きたい。カル・スカルディアが国を制し、この国に安寧をもたらすことを」

 願いが危機届けられないならば、ラクシュを殺しかねない鬼気迫るヘリオン。

 考えるのは、守らねばならないもののこと。

「あなたは、卑怯だな。最初から断る道を絶って本当のことを話す」

 もし、ラクシュが断れば子供たちはどうなるか、なりふり構わない今のヘリオンなら人質にすることを厭いはしないだろう。今もしヘリオンを殺してしまったとて、やはり子供らは守れない。彼の後ろには、スカルディア、ケミリオ家がついているのだ。

「一度だけです」

 温和な家宰から武人の顔になったラクシュが頷く。

「ありがとうございます」

 深々とヘリオンは頭を下げた。




 ケミリオ家の屋敷。高い尖塔に、十貴族の家々が集まっていた。カルの代理としてヘリオンが出席し、ミザーク家の代表として出席するはずだったテクニアは、遅刻していた。

 首座にケミリオ家。次席の位置にヘルシオ家の家宰、それに続いてほかの十貴族の家々が並ぶ。そして本来ならカルの居る末席には、ラストゥーヌの当主であるバトゥが、苦虫を噛み潰したような憮然とした表情で座っていた。

「今日は、ウェンディ様は来られないので?」

「遅れて来られるそうだ、そう言えばミザークの若当主も……」

 ひそひそと話しあう声に、ティザルは一つ咳ばらいをした。

 それだけで今までのざわめきが嘘の様に収まり、その場に静寂が訪れる。

「本日の議題のひとつ目は、暴徒と化した平民の処遇についてだ。これは先ほど皆様のお力添えもあり無事鎮圧することができた。が、しかしこの原因を作ったバトゥ殿には責任を取って頂かねばならぬと思う」

 ティザルの提案に、賛成の声が続く。

「極刑が相応しいと思うが、いかがか?」

 ざわりと、周囲がざわめく。このままではバトゥが処刑されるなか、ヘリオンが席を立って発言する。

「その件で、元ラストゥーヌ家宰ラクシュ・ラスティア殿より助命嘆願の願いがありました。先の戦では多大なるお働き、前回は恩賞を与える前に解雇なされてしまいましたが」

 チラリと、バトゥを見て言葉を続ける。

「この願いを聞き届け、恩賞とするのは如何でしょう?」

「確かに」

 弁舌爽やかなヘリオンの言葉に、賛成の声も大きい。それを見とって、ティザルが判断をくだした。

「本来ならば極刑をもって当たる処、先の戦で功のあった家宰の願いもあり引退という形にするがよろしいか?」

 提案の形を取った命令に、賛成の声は続く。今はこの場にバトゥを庇う者は居らず、ティザルに逆らう者もまたいなかった。

 その決定にバトゥは俯き唇を噛みしめるしかない。

「次は、先日ポルレで大勝を収めたカル殿のことだ。祖国を守った彼に何かしら報いねばならないと思うが、何が良かろうか?」

 次の議題に十貴族の当主らは皆難しい顔になる。通例で言えば、彼らの中の席次をあげることになるのだが、だれしも自分の地位を下げたくはない。

「それに関しては、席次を一つ上げていただければ望外のこと」

 発言したのはヘリオンだった。スカルディア家の代表がそう言うならと、納得した十貴族達。内心ではティザルとバトゥ以外の全員がほっとしていた。

「その代わりと言ってはなんですが、舞踏会を開いて頂きたい」

 ヘリオンの提案に今度は全員が驚いた。喜ぶか訝しむかの差はあるにしても。

「……良かろう」

 慎重に答えるティザルの視線は、ヘリオンの考えを推し量るように冷たく鋭い。

「我が主も喜ぶことでしょう」

 慇懃に頭を下げるヘリオンの顔に漂うのは、氷のような冷徹さだった。



25話で終わらせるといいながら、終わらなかった……。

申し訳ありません。あと1話で終わらせま。

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